1、意義
・1970年代は、日本生まれの二世が70%を超えて世代交代が進んだ。このような二世たちにとって大きな不安が、学校を卒業した後どのような職業に就くことができるのかということであった。一般企業は在日コリアンの採用を差し控えたり、司法修習生、教師、公務員などには国籍条項があって就くことができなかったからである。民主主義や人権を学んだ二世たちは、このような就職差別撤廃のための運動を行うようになった。
2、日立就職差別事件
(1)、経緯
・在日コリアン二世の朴鐘碩(パクチョンソク)は、日本人の学校を卒業して地元企業に勤めた後に、日立製作所の採用試験を受けた。この時、履歴書には「朴」ではなく日本の通名である「新井」と名乗った。試験に合格した後に会社から戸籍謄本の提出を求められたが、在日コリアンには戸籍がないので、外国人登録証明書を提出しようとしたところ、「外国人は雇えない」として、一方的に採用の取消を通告した。
(2)、裁判
・昭和45年(1970)12月8日、日立製作所を相手に朴鐘碩は、就職差別撤回の訴訟を横浜地裁に起こした。日立製作所は履歴書に通名という虚偽の記載をしたので採用を取消したと主張したが、昭和49年(1974)6月19日に判決が下り、朴が勝訴し、解雇は無効とされた。朴は日立製作所に入社して、定年まで勤めあげた。
(3)、影響
・朴の裁判以後、在日コリアン達が民族差別と闘う組織や運動体をたくさん作っていった。これにより、公営住宅の入居差別、児童手当の支給につけられた国籍条項の撤廃運動、在日コリアンの国民年金の適用等を求める運動が展開されるようになった。その結果、昭和50年(1975)に大阪府と大阪市は在日コリアンの公営住宅への入居資格を認め、全国的には昭和55年(1980)に公営・公団住宅への入居、住宅金融公庫・国民金融公庫の利用が次々と認められていった。
3、司法修習生に対する国籍条項の撤廃運動
・当時、司法試験合格後に司法修習生になるには、日本への帰化が条件づけられていた。昭和51年(1976)に司法試験二次試験に合格した金敬得(キムギョンドゥク)は帰化を拒み、6回に亙って最高裁判所任用課に意見書を提出した結果、昭和52年(1977)に要求が認められ、韓国籍のままで司法修習生となった。その後金は弁護士としても、指紋押捺拒否事件や慰安婦戦後補償問題など朝鮮人の人権に関わる裁判で活躍した。
4、公務員への採用
(1)、意義
・国家公務員法や地方自治法には、外国人が公務員になれないという規定は一切存在しない。昭和28年(1953)に内閣法制局が提出した「公務員に関する当然の法理」という通達による、「公権力の行使または公の意思形成に参画する公務員になるには、日本国籍が必要である」という法解釈をもとに、国や自治体における公務員の採用にあたっては、国籍条項の厳しい制限をつけてきた。
(2)、国公立大学の教員
・昭和49年(1974)に、関西の大学に勤めていた在日コリアンの教員有志が、国公立大学における外国人教授任用運動を始める。この運動がやがて全国的な運動となり、、昭和52年(1977)に、現行法令下でも外国籍者を国公立大学の教授に任用できるという公式声明が出され、昭和57年(1982)に国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法(現・公立の大学等における外国人教員の任用等に関する特別措置法)が成立し、外国人でも国公立大学の教壇に立つことができるようになった。
(3)、小中高の公立校の教員
・昭和57年(1982)に国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法が成立したと同時に、文部省の人事担当課長会議で小中高の教諭には日本国籍を有する者のみがなれるとする決定がされて、全国の教育委員会へ通達がなされた。このような中、昭和59年(1984)に長野県の教員採用試験に合格した在日コリアンの梁弘子(ヤンホンジャ)は、外国籍という理由で採用が取消される事件が起こった。これに対して抗議が殺到し、昭和60年(1985)に世論と文部省の板挟みとなった長野県は、梁を教諭ではなく常勤講師として採用するという妥協案を発表した。
(4)、電電公社社員
・昭和50年(1975)に、在日コリアンの高校生が電電公社(現NTTグループ)を受験しようとしたが、電電公社は彼らが外国籍ということで認めなかった。大韓キリスト教会や部落解放同盟など14の団体が抗議を行い、昭和52年(1977)には国会においても日本社会党がこの問題を取り上げた。このような運動によって、昭和52年(1977)9月に電電公社は受験資格に国籍条項の撤廃を発表し、昭和53年(1978)には電電公社で働く在日外国人が誕生した。
(5)、地方公務員一般職
①、一般市
・昭和53年(1978)に、大阪府八尾市で民団を中心に、公務員の一般行政職の受験資格における国籍条項撤廃を求める運動が行われた。この結果、昭和54年(1979)に八尾市は全国の地方自治体で初めて、市職員の国籍条項を撤廃した。この動きは、全国の地方自治体へと広がっていった。
②、政令指定都市
・平成2年(1990)に、文公輝(ムンゴンフィ)が政令指定都市である大阪市の職員になるために願書を提出しようとしたが、国籍条項から受験ができなかった。この後に文は、大阪民闘連(民族差別と闘う連絡協議会)の呼びかけにより、自治労や部落解放同盟などの支援をうけて抗議活動を行い、平成5年(1993)に大阪市は、一般職に国籍条項をはずした「国際」と「経営情報」という専門職を作って対処をした。
・平成8年(1996)に、川崎市の高橋清市長が、地方自治体の3500以上ある職種のうち公権力性が薄い3327の職種について外国人の採用を可能とし、政令指定都市においてはじめて一般事務職における在日外国人の受験資格を認めた。
<参考文献>
『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006)
・1970年代は、日本生まれの二世が70%を超えて世代交代が進んだ。このような二世たちにとって大きな不安が、学校を卒業した後どのような職業に就くことができるのかということであった。一般企業は在日コリアンの採用を差し控えたり、司法修習生、教師、公務員などには国籍条項があって就くことができなかったからである。民主主義や人権を学んだ二世たちは、このような就職差別撤廃のための運動を行うようになった。
2、日立就職差別事件
(1)、経緯
・在日コリアン二世の朴鐘碩(パクチョンソク)は、日本人の学校を卒業して地元企業に勤めた後に、日立製作所の採用試験を受けた。この時、履歴書には「朴」ではなく日本の通名である「新井」と名乗った。試験に合格した後に会社から戸籍謄本の提出を求められたが、在日コリアンには戸籍がないので、外国人登録証明書を提出しようとしたところ、「外国人は雇えない」として、一方的に採用の取消を通告した。
(2)、裁判
・昭和45年(1970)12月8日、日立製作所を相手に朴鐘碩は、就職差別撤回の訴訟を横浜地裁に起こした。日立製作所は履歴書に通名という虚偽の記載をしたので採用を取消したと主張したが、昭和49年(1974)6月19日に判決が下り、朴が勝訴し、解雇は無効とされた。朴は日立製作所に入社して、定年まで勤めあげた。
(3)、影響
・朴の裁判以後、在日コリアン達が民族差別と闘う組織や運動体をたくさん作っていった。これにより、公営住宅の入居差別、児童手当の支給につけられた国籍条項の撤廃運動、在日コリアンの国民年金の適用等を求める運動が展開されるようになった。その結果、昭和50年(1975)に大阪府と大阪市は在日コリアンの公営住宅への入居資格を認め、全国的には昭和55年(1980)に公営・公団住宅への入居、住宅金融公庫・国民金融公庫の利用が次々と認められていった。
3、司法修習生に対する国籍条項の撤廃運動
・当時、司法試験合格後に司法修習生になるには、日本への帰化が条件づけられていた。昭和51年(1976)に司法試験二次試験に合格した金敬得(キムギョンドゥク)は帰化を拒み、6回に亙って最高裁判所任用課に意見書を提出した結果、昭和52年(1977)に要求が認められ、韓国籍のままで司法修習生となった。その後金は弁護士としても、指紋押捺拒否事件や慰安婦戦後補償問題など朝鮮人の人権に関わる裁判で活躍した。
4、公務員への採用
(1)、意義
・国家公務員法や地方自治法には、外国人が公務員になれないという規定は一切存在しない。昭和28年(1953)に内閣法制局が提出した「公務員に関する当然の法理」という通達による、「公権力の行使または公の意思形成に参画する公務員になるには、日本国籍が必要である」という法解釈をもとに、国や自治体における公務員の採用にあたっては、国籍条項の厳しい制限をつけてきた。
(2)、国公立大学の教員
・昭和49年(1974)に、関西の大学に勤めていた在日コリアンの教員有志が、国公立大学における外国人教授任用運動を始める。この運動がやがて全国的な運動となり、、昭和52年(1977)に、現行法令下でも外国籍者を国公立大学の教授に任用できるという公式声明が出され、昭和57年(1982)に国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法(現・公立の大学等における外国人教員の任用等に関する特別措置法)が成立し、外国人でも国公立大学の教壇に立つことができるようになった。
(3)、小中高の公立校の教員
・昭和57年(1982)に国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法が成立したと同時に、文部省の人事担当課長会議で小中高の教諭には日本国籍を有する者のみがなれるとする決定がされて、全国の教育委員会へ通達がなされた。このような中、昭和59年(1984)に長野県の教員採用試験に合格した在日コリアンの梁弘子(ヤンホンジャ)は、外国籍という理由で採用が取消される事件が起こった。これに対して抗議が殺到し、昭和60年(1985)に世論と文部省の板挟みとなった長野県は、梁を教諭ではなく常勤講師として採用するという妥協案を発表した。
(4)、電電公社社員
・昭和50年(1975)に、在日コリアンの高校生が電電公社(現NTTグループ)を受験しようとしたが、電電公社は彼らが外国籍ということで認めなかった。大韓キリスト教会や部落解放同盟など14の団体が抗議を行い、昭和52年(1977)には国会においても日本社会党がこの問題を取り上げた。このような運動によって、昭和52年(1977)9月に電電公社は受験資格に国籍条項の撤廃を発表し、昭和53年(1978)には電電公社で働く在日外国人が誕生した。
(5)、地方公務員一般職
①、一般市
・昭和53年(1978)に、大阪府八尾市で民団を中心に、公務員の一般行政職の受験資格における国籍条項撤廃を求める運動が行われた。この結果、昭和54年(1979)に八尾市は全国の地方自治体で初めて、市職員の国籍条項を撤廃した。この動きは、全国の地方自治体へと広がっていった。
②、政令指定都市
・平成2年(1990)に、文公輝(ムンゴンフィ)が政令指定都市である大阪市の職員になるために願書を提出しようとしたが、国籍条項から受験ができなかった。この後に文は、大阪民闘連(民族差別と闘う連絡協議会)の呼びかけにより、自治労や部落解放同盟などの支援をうけて抗議活動を行い、平成5年(1993)に大阪市は、一般職に国籍条項をはずした「国際」と「経営情報」という専門職を作って対処をした。
・平成8年(1996)に、川崎市の高橋清市長が、地方自治体の3500以上ある職種のうち公権力性が薄い3327の職種について外国人の採用を可能とし、政令指定都市においてはじめて一般事務職における在日外国人の受験資格を認めた。
<参考文献>
『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006)