1、在日コリアンの貧困

 ・1950年代の在日コリアンは民族差別により失業率8割という生活苦に喘いでいた。親たちはその暮らし、子ども達は学校を出ても就職することができなかった。こうした状況から1958年、生活苦に喘ぐ在日コリアンの中から共和国の建国と戦後復興に希望を抱く人が現れて、それが全国的に北朝鮮への帰国運動へと広がっていった。

2、祖国帰還運動の思惑

 (1)、北朝鮮の思惑

  ①、労働力不足

   ・朝鮮戦争の犠牲者や、北朝鮮の体制に疑問をもって韓国へ逃走した人々の影響から、北朝鮮では戦後復興を担う労働力が不足していた。よって、中国、ソ連、日本にいる海外同胞を北朝鮮に呼び戻そうとしたが、北朝鮮の実情を知る中国やソ連の同胞は帰国しなかった。よって、日本にいる同胞を呼び戻したかった。

  ②、国際社会に対する宣伝

   ・朝鮮半島が南北分断後、国際政治の舞台では北朝鮮と韓国のどちらが朝鮮人民に支持されているのかが注目されていた。よって、日本から北朝鮮に帰還する人が多ければ多いほど、北朝鮮の声望の証とされた。

 (2)、日本政府の思惑
  
  ①、朝鮮人は朝鮮半島へ

   ・在日コリアンの北朝鮮帰還は、当然韓国政府は猛反対であった。日本も反共同盟の立場から韓国政府に同調しなければならなかったが、日本政府は戦後一貫して、在日コリアンはなるべく朝鮮半島に帰って欲しかった。

  ②、日韓会談を有利に進める

   ・北朝鮮との帰還協定では、北朝鮮側は在日朝鮮人に対する「賠償」は要求せず、さらに帰還にかかる経費も北朝鮮が負担するとされた。他方、韓国との日韓会談では、韓国側は在日コリアンに対する「賠償」を要求し、それに反発する日本政府ともめていた。よって、北朝鮮との帰還事業を行うことによって、日本政府は日韓会談を有利に進めようとしていた。

3、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還

 (1)、赤十字社を前面に押し立てる

  ・韓国政府が在日コリアンの北朝鮮への帰還に強く反発していたことから、日本政府が表立って北朝鮮と交渉はできなかった。よって、人道主義を掲げて赤十字社を前面に押し立てることになった。1959年2月に、日本政府は赤十字国際委員会の主導で手続きを行うことに同意し、1959年12月にはインドのカルカッタで北朝鮮帰還協定が調印された。

 (2)、帰還第1船

  ・韓国政府や在日本大韓民国居留民団(民団)が新潟市の日赤帰還センターの爆破を計画するなど不穏な動きはあったが、1959年12月、日本赤十字社は新潟港に帰還第1船を迎え入れ、第一次帰国船が975名をのせて北朝鮮へと船出した。この後、1984年までに9万3000人あまりの在日コリアンが北朝鮮に帰還していた。

4、北朝鮮への帰還者の現実

 ・在日コリアンも、そして彼らを迎え入れた北朝鮮の人々も、お互いの実態をよく知らない状態で帰還事業は行われた。確かに、最初の帰還者は北朝鮮政府に特別優遇されが、だんだん北朝鮮社会の貧困、不平等、非民主的体制が在日社会に知られていくにつれて、帰還者は激減していった。さらに、帰還した在日コリアンも、未だに日本との自由往来はできていない。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)