1、北朝鮮の資金不足
(1)、北朝鮮の焦り
・日韓基本条約後、韓国が飛躍的に発展していくのを目の当たりにして、経済成長で韓国を凌駕して北朝鮮主導で朝鮮統一を目指した北朝鮮指導部は焦った。
(2)、北朝鮮の資金不足
・1973年から1974年にかけて大規模工事基地建設計画をたて、基本建設事業へ集中投資を採用して、必要な機械類を日本や欧州から買い入れようとしたが、そのためには外貨が必要であった。しかし、1973年にはじまった世界的なオイルショックによって、北朝鮮内の豊富に埋蔵されている亜鉛や鉛などの鉱物資源は暴落しており、資金不足に陥った。1976年には日本と欧州に対して支払いの繰り延べが要請され、日本に対しては、1979年と1983年に支払いの繰り延べが合意され、その代わりに300億の遅延利息と100億の元本の支払いが合意された。
2、献金事業
(1)、意義
・資金不足に陥った北朝鮮が資金確保の手段として力を入れたのが、さまざまな手段で在日朝鮮人に対して献金を募ることであった。この献金は、朝鮮総連を通して北朝鮮へと届けられた。
(2)、慶事の贈り物作戦
・1972年、金日成の還暦に大々的な贈り物をしようという「150日間革新運動」が朝鮮総連で、当時権力を握っていた金炳植によって始められる。これが献金事業のはじまりであり、この時は50億円ほどが北朝鮮に送金された。これ以後、金日成の誕生日、金正日の誕生日、建国記念日など北朝鮮でお祝いがある度に、朝鮮総連は在日朝鮮人達に献金を求めるようになる。
(3)、「短期祖国訪問団」を利用した献金作戦
①、「短期祖国訪問団」
・1979年、日本政府は日本から北朝鮮に帰った人たちと在日朝鮮人が面会することを目的とする「短期祖国訪問団」を認める。北朝鮮と朝鮮総連は、これを利用して在日朝鮮人から献金を募ろうとした。
②、「短期祖国訪問団」を利用した献金作戦
・朝鮮総連は、短期祖国訪問団に参加するためには総連に相当の寄付をしなければならないとして、帰国を希望する資産家に献金を求めた。1回の訪問団で2億から3億の金が集まり、その訪問団が年間15~20回あるのだから、年間で30億~60億ほど集金されていた。
③、行き詰まり
・やがて在日朝鮮人の中で巨額の寄付までして北朝鮮に訪問をしようとする人々はいなくなり、訪問団を組織しようとしても金が集まらなくなった。
(4)、お手紙作戦
・北朝鮮は、北朝鮮にいる帰国者に日本にいる家族へ寄付を募る手紙を書かせ、その寄付の額によって北朝鮮にいる帰国者に様々な特権を与えるという、お手紙作戦をはじめた。
(5)、金剛山歌劇団作戦
①、金剛山(くんがんさん)歌劇団とは?
・金剛山歌劇団は、在日の芸術家を保護し、民族的な歌や踊りを在日に普及する目的で設立されたものである。しかし、1960年代後半になると、金日成の偉大さを歌劇や舞踏で宣伝する団体になってしまった。
②、金剛山歌劇団作戦
・1970年後半、金剛山歌劇団はピョンヤンで訓練をして、新宿コマ劇場や厚生年金会館で公演を行うことになった。このとき、朝鮮総連の韓徳銖議長が自ら在日朝鮮人に対して招待状を送った。劇場に行ってみると、総連の幹部から彼らに直接献金の要請が行われ、一回の公演で100億円(朝鮮総連財政局にいた韓光煕談)が集まったと言われている。
③、行き詰まり
・やがて二回、三回と公演を重ねていくにしたがって、総連が招待状を送っても有力な在日朝鮮人達は参加しなくなり金も集まらなくなった。
(6)、朝銀信用組合を使った献金作戦
①、従業員のボーナスから献金作戦
・朝銀信用組合の従業員のボーナスなどから天引きして、朝鮮総連に献金をさせた。
②、融資をする代わりに献金作戦
・1980年代後半になると、日本の金融機関が敬遠するような投資計画に対して、総連幹部の紹介があれば、融資額の10%から20%を北朝鮮に献金することを条件に融資をするという、金融機関として邪道の融資を行うようになった。
③、行き詰まり
・バブル崩壊後の朝銀信用組合の相次ぐ破たんでこれもできなくなった。
(7)、在日朝鮮人の商工人ヨイショ作戦
①、商工人を見下した総連幹部
・総連幹部は商工人を革命活動での落伍者と見る意識が強く、どこか見下していた。例えば、モランボングループの創業者の全演植(ジョンヨンシク)は、在日商工連合会会長の要職につき朝鮮総連副議長に就任していても、「学習組」には入れず、総連の重要な決定をするような場には蚊帳の外であった。
②、『凍土の共和国』事件
・1984年3月に、北朝鮮に帰国した在日朝鮮人の内情を生々しく描いた『凍土の共和国』が出版される。「地上の楽園」への帰還と自画自賛をしていた朝鮮総連は大きな衝撃をうけた。執筆者は北朝鮮を短期間訪問した在日朝鮮人の商工人であり、これは明らかに商工人の反乱の兆行であった。
③、「4・24教示」
・1985年4月24日、「(在日朝鮮商工人は)在日同胞の中で基本群集の地位にあり、在日朝鮮人運動の基本動力である」とする「教示」を、金日成が北朝鮮を訪問した在日朝鮮商工人の代表団に与える。これは、献金ばかりを求められて離反・反感を持っていた在日朝鮮商工人に対する懐柔であった。
④、在日朝鮮人商工人を総連幹部にする
・1985年5月24日、朝鮮総連結成30周年記念式典の会場における祝電で、金日成は在日朝鮮商工人を重視する姿勢を鮮明にし、1986年9月に行われた総連第14会全体大会で、モランボングループ総帥の全演植と神戸の実業家文東建が副議長に選任される人事があった。これは多額の献金に対するお礼の意味でもあった。
<参考文献>
『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)
(1)、北朝鮮の焦り
・日韓基本条約後、韓国が飛躍的に発展していくのを目の当たりにして、経済成長で韓国を凌駕して北朝鮮主導で朝鮮統一を目指した北朝鮮指導部は焦った。
(2)、北朝鮮の資金不足
・1973年から1974年にかけて大規模工事基地建設計画をたて、基本建設事業へ集中投資を採用して、必要な機械類を日本や欧州から買い入れようとしたが、そのためには外貨が必要であった。しかし、1973年にはじまった世界的なオイルショックによって、北朝鮮内の豊富に埋蔵されている亜鉛や鉛などの鉱物資源は暴落しており、資金不足に陥った。1976年には日本と欧州に対して支払いの繰り延べが要請され、日本に対しては、1979年と1983年に支払いの繰り延べが合意され、その代わりに300億の遅延利息と100億の元本の支払いが合意された。
2、献金事業
(1)、意義
・資金不足に陥った北朝鮮が資金確保の手段として力を入れたのが、さまざまな手段で在日朝鮮人に対して献金を募ることであった。この献金は、朝鮮総連を通して北朝鮮へと届けられた。
(2)、慶事の贈り物作戦
・1972年、金日成の還暦に大々的な贈り物をしようという「150日間革新運動」が朝鮮総連で、当時権力を握っていた金炳植によって始められる。これが献金事業のはじまりであり、この時は50億円ほどが北朝鮮に送金された。これ以後、金日成の誕生日、金正日の誕生日、建国記念日など北朝鮮でお祝いがある度に、朝鮮総連は在日朝鮮人達に献金を求めるようになる。
(3)、「短期祖国訪問団」を利用した献金作戦
①、「短期祖国訪問団」
・1979年、日本政府は日本から北朝鮮に帰った人たちと在日朝鮮人が面会することを目的とする「短期祖国訪問団」を認める。北朝鮮と朝鮮総連は、これを利用して在日朝鮮人から献金を募ろうとした。
②、「短期祖国訪問団」を利用した献金作戦
・朝鮮総連は、短期祖国訪問団に参加するためには総連に相当の寄付をしなければならないとして、帰国を希望する資産家に献金を求めた。1回の訪問団で2億から3億の金が集まり、その訪問団が年間15~20回あるのだから、年間で30億~60億ほど集金されていた。
③、行き詰まり
・やがて在日朝鮮人の中で巨額の寄付までして北朝鮮に訪問をしようとする人々はいなくなり、訪問団を組織しようとしても金が集まらなくなった。
(4)、お手紙作戦
・北朝鮮は、北朝鮮にいる帰国者に日本にいる家族へ寄付を募る手紙を書かせ、その寄付の額によって北朝鮮にいる帰国者に様々な特権を与えるという、お手紙作戦をはじめた。
(5)、金剛山歌劇団作戦
①、金剛山(くんがんさん)歌劇団とは?
・金剛山歌劇団は、在日の芸術家を保護し、民族的な歌や踊りを在日に普及する目的で設立されたものである。しかし、1960年代後半になると、金日成の偉大さを歌劇や舞踏で宣伝する団体になってしまった。
②、金剛山歌劇団作戦
・1970年後半、金剛山歌劇団はピョンヤンで訓練をして、新宿コマ劇場や厚生年金会館で公演を行うことになった。このとき、朝鮮総連の韓徳銖議長が自ら在日朝鮮人に対して招待状を送った。劇場に行ってみると、総連の幹部から彼らに直接献金の要請が行われ、一回の公演で100億円(朝鮮総連財政局にいた韓光煕談)が集まったと言われている。
③、行き詰まり
・やがて二回、三回と公演を重ねていくにしたがって、総連が招待状を送っても有力な在日朝鮮人達は参加しなくなり金も集まらなくなった。
(6)、朝銀信用組合を使った献金作戦
①、従業員のボーナスから献金作戦
・朝銀信用組合の従業員のボーナスなどから天引きして、朝鮮総連に献金をさせた。
②、融資をする代わりに献金作戦
・1980年代後半になると、日本の金融機関が敬遠するような投資計画に対して、総連幹部の紹介があれば、融資額の10%から20%を北朝鮮に献金することを条件に融資をするという、金融機関として邪道の融資を行うようになった。
③、行き詰まり
・バブル崩壊後の朝銀信用組合の相次ぐ破たんでこれもできなくなった。
(7)、在日朝鮮人の商工人ヨイショ作戦
①、商工人を見下した総連幹部
・総連幹部は商工人を革命活動での落伍者と見る意識が強く、どこか見下していた。例えば、モランボングループの創業者の全演植(ジョンヨンシク)は、在日商工連合会会長の要職につき朝鮮総連副議長に就任していても、「学習組」には入れず、総連の重要な決定をするような場には蚊帳の外であった。
②、『凍土の共和国』事件
・1984年3月に、北朝鮮に帰国した在日朝鮮人の内情を生々しく描いた『凍土の共和国』が出版される。「地上の楽園」への帰還と自画自賛をしていた朝鮮総連は大きな衝撃をうけた。執筆者は北朝鮮を短期間訪問した在日朝鮮人の商工人であり、これは明らかに商工人の反乱の兆行であった。
③、「4・24教示」
・1985年4月24日、「(在日朝鮮商工人は)在日同胞の中で基本群集の地位にあり、在日朝鮮人運動の基本動力である」とする「教示」を、金日成が北朝鮮を訪問した在日朝鮮商工人の代表団に与える。これは、献金ばかりを求められて離反・反感を持っていた在日朝鮮商工人に対する懐柔であった。
④、在日朝鮮人商工人を総連幹部にする
・1985年5月24日、朝鮮総連結成30周年記念式典の会場における祝電で、金日成は在日朝鮮商工人を重視する姿勢を鮮明にし、1986年9月に行われた総連第14会全体大会で、モランボングループ総帥の全演植と神戸の実業家文東建が副議長に選任される人事があった。これは多額の献金に対するお礼の意味でもあった。
<参考文献>
『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)