1、意義

 ・北朝鮮は1967年以後、韓国に対して武力強行路線をとる。これに対応して、朝鮮総連も金炳植が責任者となって、北朝鮮政府の指示に従って左傾化路線をとった。しかし、東西冷戦におけるデタントから、韓国と北朝鮮は融和路線に転じ、北朝鮮の政策も変わってしまう。結局、朝鮮総連では左傾化路線の責任はすべて金炳植が負い、彼が失脚することで終わった。

2、北朝鮮の韓国に対する人民解放路線

 (1)、意見対立

  ①、意見対立

   ・1965年、日韓基本条約が締結されて、韓国は日本からの経済支援により経済発展をなしとげた。これに対して、1967年に入って北朝鮮では、韓国に対してどのように対処すべきかを巡って意見対立があった。

  ②、強硬派

   ・軍部を中心として、武力を行使してでも朝鮮半島の統一を促進しようとする立場。

  ③、経済再建派

   ・朴金喆(パククムチョル)政治委員会常務委員などを中心として、経済競争で韓国を凌駕して統一問題を有利に進めようとする立場。

 (2)、強硬派の勝利

  ①、強硬派の勝利

   ・1967年5月、金日成は強硬派を支持する旨を表明した。経済再建派の朴らは粛清されたと言われている。

  ②、韓国に対するテロの続発

   ・1968年1月21日、北朝鮮の武装ゲリラ31名が、朴正煕韓国大統領暗殺の目的で大統領官邸近くまで侵入し、韓国軍と銃撃戦を起こした。

   ・1968年1月23日、北朝鮮はアメリカの情報収集艦プエブロ号を元山近くで拿捕した。

3、朝鮮総連の対韓国政治工作

 (1)、意義

  ・北朝鮮の武力強行路線は朝鮮総連にも伝えられ、①総連組織を金日成の命令に無条件に服する体制を構築すること、②戦争が勃発した時に備えて総連内にも非公然組織を作り非常時に対処できるようにしておくこと、などの指令がなされた。そして、この指示の遂行をしたのが筆頭副議長であった金炳植(キムビョンシク)であった。そして、この体制を構築していく過程で、金炳植は総連内における絶対的な権勢を獲得してゆく。

 (2)、思想統制

  ・金炳植は、金日成絶対服従の体制を築くために、金日成の政策に不信を抱く者、金日成の権威を軽視する者、自由主義的傾向がある者を、学習組を通して徹底した自己批判をさせることを行った。ただし、実質的に自己批判の対象者となった者は、旧民対派の流れをくむものや、金炳植に批判的なものであった。

 (3)、「フクロウ部隊」

  ・金炳植を代表者として、総連内に組織防衛と韓国革命遂行のための非公然組織「フクロウ部隊」が作られた。しかし、フクロウ部隊が実質的に行ったことは、革命という大義名分のもとで、金炳植に反対するものを監視、尾行、脅迫する金炳植の私兵のような役割であった。

 (4)、対韓国政治工作

  ①、意義

   ・朝鮮総連は、韓国で北朝鮮の指示に従い革命を行う人材を養成、または獲得して北朝鮮の工作機関へ引き渡す役割を担った。そのために、総連政治局は、民団系の青年学生を対象として、彼らの朴正煕独裁政権に対する反感を利用して北朝鮮のシンパに育成し、密航船で北朝鮮に送り出した。送り出された者は北朝鮮で教育を受けた上で日本に送り返し、日本から韓国に留学生として送り込んで韓国内部で体制崩壊の運動を行わせた。

  ②、文世光事件

   ・1974年8月15日、光復節の記念式典で、文世光が大韓民国大統領朴正煕を暗殺しようとして銃撃し、陸英修夫人が射殺された事件。「7・4共同声明」や金炳植が失脚した後でも朝鮮総連は、対韓国政治工作を続けていた。文世光は民団系の青年団体である在日韓国青年同盟に所蔵していたが、民団に不満を持っており、朝鮮総連の幹部に扇動されて北朝鮮の工作員となり犯行に及んだものであった。

  ③、日本人拉致問題

   ・この対韓国政治工作の延長線上に、1970年代後半の日本人拉致が行われた。

4、北朝鮮の対韓国和平路線への転換

 (1)、米ソデタント

  ・1969年頃から、ベトナム戦争で厭戦気分が蔓延したアメリカと、中ソ国境での中国人民解放軍との大規模な武力衝突を機にアメリカとことを構えることを避けたいソ連との間で、冷戦の緊張緩和の動きが出始めた。この動きは朝鮮半島にも影響を及ぼし、アメリカは韓国の朴正煕大統領を説得し、ソ連はポドゴルヌイソ連最高会議幹部会議長を北朝鮮に派遣して説得をした。

 (2)、「7・4共同声明」

  ・韓国と北朝鮮は赤十字社を使って秘密交渉を続け、1972年7月に「7・4共同声明」が南北両政府から発表され、朝鮮統一の3大原則が示された。

5、金炳植の失脚

 (1)、金炳植の困惑

  ・今まで北朝鮮の指示によって対韓国政治工作を行ってきた金炳植は、北朝鮮の対韓国和平路線の転換に困惑する。さらに、金炳植の総連左傾化路線に対する不満から在日同胞は総連離れが進んでいた。よって、総連内では韓徳銖や金炳植の責任を問う声がおこるようになった。

 (2)、金炳植の巻き返し

  ・金炳植は、金日成の還暦に大々的な贈り物をしようという「150日間革新運動」を始める。これによって、今までの左傾化路線を緩和し、総連の北朝鮮に対する忠誠心を固め、さらには自らが責任者となって金日成に贈り物をすることで、自らの忠誠心も金日成に示そうという作戦であった。

 (3)、金炳植の野望

  ・1972年2月、札幌オリンピックで来日した北朝鮮代表団が「第一副議長(金炳植のこと)に反対する者は、これを信任している韓徳銖議長ひいては金日成首相に反対することを意味する」という「教示」を持参した。金炳植は「150日間革新運動」の贈り物のおかげか、金日成の信任を得ることに成功する。さらには、韓徳銖の議長職にまで野望を持つようになった。

 (4)、金炳植の失脚

  ・金炳植の議長職に対する野望に対して、韓徳銖議長も反撃に出る。最終的には、1972年9月に、金炳植が北朝鮮を訪問している留守を狙って、緊急の幹部講習会を開催し、この席上で韓徳銖は金炳植を批判した。さらに、2001年に韓徳銖の後任として朝鮮総連の議長となった徐萬述(ソマンスル)もこれに続いて批判をした。この後、金炳植は第2回の南北赤十字会談に朝鮮総連から送り出され、金炳植が日本にいると朝鮮総連が混乱するという北朝鮮当局の判断から北朝鮮にとどめ置かれ、二度と日本に帰ってくることはなかった。

 (5)、責任をすべてかぶった金炳植

  ・朝鮮総連は、総連の左翼急進路線はすべて金炳植の個人的な野望と反革命的な行動に原因があると総括をしてしまい、北朝鮮による指示があったことは巧みに隠した。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)