1、抗争
平成19年(2009) 東京都 山口組国粋会vs住吉会
2、国粋会の山口組入り
(1)、名門・国粋会
①、名門・国粋会
・戦前は「大日本国粋会」、戦後も昭和33年(1958)に結成された「日本国粋会」には生井一家、幸平一家、田甫一家、小金井一家、佃政一家、落合一家、信州斉藤一家、金町一家など関東甲信越にまたがる主要博徒団体が加入するなど、国粋会は長い歴史を持つ名門組織であった。よって、浅草、銀座、渋谷、六本木など都内のお金になりそうな繁華街のほとんどは、国粋会のメンバーである生井一家や落合一家のシマ(縄張り)であった。
②、貸しジマ
・国粋会は自らが持つ広大なシマ内で営業する権利を、住吉会などに貸し付け、毎年決まった額の「地代」を取っていた。住吉会などは、借りたシマ内の飲食店や風俗店からみかじめ料や用心棒代を集め、この一部を国粋会へ提供した。例えば、小林会は銀座や六本木を国粋会から借りて、仕切っていた。
(2)、国粋会の内紛
①、日本国粋会四代目・工藤和義
・平成3年(1991)、金町一家七代目総長・工藤和義が日本国粋会四代目に就任した。この時、「日本国粋会」から「国粋会」と改称している。
②、工藤会長の改革
・平成13年(2001)、工藤はそれまで連合体であった組織体制を、自分と幹部が「親と子」もしくは「兄と弟」の盃を交わして、ピラミッド型の組織に変えようとした。しかし、生井一家十二代目総長・柴崎雄二朗、佃繁会会長・尾関裕計、落合一家八代目総長・瀧口政利の三人がこの案に反発した。
③、抗争へ
・工藤は柴崎ら三組長を絶縁処分とし、彼らが持っていた縄張りを国粋会預かりとするという強硬策に出た。これに、生井一家系列の組長達が続々と会長はへ寝返っていくことから、柴崎ら三組長はこの処分は無効だと宣言して、抗争に突入した。両派は、銀座や新橋などの繁華街で乱闘や発砲繰り返した。
参考)、宅建太郎さんが抗争過程について紹介されています。
④、山口組の仲裁
・工藤は三代目稲川会会長・稲川裕紘と五厘下がりの兄弟盃を交わしており、他方柴崎ら三組長はシマの関係上住吉会と親しかった。よって、稲川会も住吉会も第三者的な立場で仲裁することが困難であった。そこで仲裁に入ったのが山口組であった。平成15年(2003)、三組長は引退をし、代目継承した上で残存勢力は国粋会に戻ることとなった。
(3)、国粋会の山口組入り
①、山口組入り
・仲裁をしてくれた山口組と工藤はいい関係となった。工藤は、関東二十日会の加盟団体へ一方的に脱退を通知し、平成17年(2005)9月7日、山口組が六代目体制発足直後に、工藤は六代目組長・司忍の舎弟盃を受けて執行部会への出席がない山口組最高顧問となった。
②、国粋会の山口組入りの意味
・国粋会は浅草、銀座、渋谷、六本木など広大なシマを持ち、住吉会などに貸しジマをしていた。しかし、国粋会が山口組入りしたことによって、山口組の力を背景に貸しジマを返せと言われたら、今まで貸しジマでシノギをしてきた関東の組織はシノギが立ち行かなくなってしまう。国粋会の山口組入りは、山口組と他の関東組織との間で緊張を生み出した。
3、西麻布抗争
(1)、杉浦幹部射殺事件
・平成19年(2007)2月5日、住吉会系小林会三代目会長・小林忠紘は、小林会系武州前川八代目の義理事へ出かけるので、小林の秘書役である小林会直井組組長代行・杉浦良一が迎えに行った。この時、犯人たちは、東京港区西麻布の路上に停めた車の後部座席に座っていた杉浦を、小林と勘違いをして射殺してしまった。
(2)、犯人不明のままでの住吉会の返し
①、山口組太田会事務所へ
・住吉会の返しは早かった。事件から1時間後に、麻布十番のマンションにある山口組太田会山崎総業の事務所に銃弾が撃ち込まれた。なぜ太田会が狙われたのかというと、麻布十番は小林会のシマであったが、ここに太田会が事務所を構えたことにより、緊張が高まっていた。杉浦が射殺される前日にも、杉浦が同席して、太田会と小林会との間で話し合いがもたれていた。よって、この解決案に不満を持った太田会側が杉浦を射殺したのではないかと思ったからである。
②、山口組国粋会事務所へ
・同年2月6日、住吉会は、以前山口組国粋会系組織の事務所があった、渋谷区道玄坂のマンションにカチコミをした。なぜ国粋会が狙われたのかというと、国粋会系組織の中には、国粋会の山口組加入後、今までシマを貸してきた関東系の組織に対して、強硬な態度に出て、地代の値上げを要求するようなところもあった。よって、これでトラブルが発生して、この要求を最も強硬にはねつけていた杉浦が射殺されたのではないかと思ったからである。
(3)、犯人不明のままでの和解
①、山口組最高幹部達との交渉
・同年2月7日、犯人不明のまま、山口組若頭補佐・瀧澤孝、総本部長・入江禎、若頭補佐・橋本弘文が上京し、住吉会会長代行・関功、総本部長・太田健真と話し合いに入った。この話し合いは、単に杉浦幹部射殺事件についてだけではなくて、国粋会と住吉会との間の貸しジマ・借りジマの新しいルール作りも行った。
②、和解の内容
ア)、国粋会の縄張りと住吉会に対するその賃借関係は現状維持とする。縄張り内に新しい利権が生まれた場合は、その扱いは両者協議の上で決める。
イ)、山口組が弔慰金を支払う。
・平成16年(2004)10月24日、浅草ビューホテル近くの住吉会系中村会事務所に、山口組系貴広会組員50人が押しかけてた。その後、浅草ビューホテル一階の喫茶室で改めて話し合いに入ったときに、中村会幹部が貴広会組員に向けて発砲し、2人死亡、2人重傷を与えた。この事件で山口組側は返しも金銭的な補償も求めなかったので、杉浦幹部射殺事件と浅草ビューホテル事件を相殺して、山口組から住吉会へ支払われた弔慰金は安かったという。
参考)、ヤクザ抗争史 浅草発砲事件
ウ)、事件の責任をとって国粋会会長・工藤和義は引退する。
4、工藤会長の自殺
(1)、工藤会長の自殺
①、意義
・平成19年(2007)2月15日、山口組と住吉会の和解が成立してから10日後に、工藤は自宅で自殺した。
②、なぜ工藤会長は自殺したのか?
ア)、西麻布抗争の犯人が国粋会の者であったから
・工藤は、西麻布事件の犯人が国粋会の者であるという報告を受けていた可能性がある。そこで、山口組に迷惑をかけたことから精神的に追い詰められて自殺をした可能性がある。
イ)、国粋会の山口組入りで多くの者に迷惑をかけたから
・関東二十日会を脱退して名門国粋会を山口組に入れたが、山口組は国粋会を山口組色に作り替えようとしている。その事で、他の関東の組織にも国粋会の構成員にも迷惑をかけたので自殺をした。
ウ)、出頭しなくてよいと言って送り出したヒットマン達について山口組から出頭させるように命じられたから
・宅建太郎さんが新しい説を紹介されています。
(2)、国粋会五代目会長・藤井英治
・工藤会長の跡目は、国粋会理事長・藤井英治が継承し、六代目山口組の直系若衆となった。藤井は長野県諏訪市にある信州斉藤一家総長であり、場所柄弘道会会長・髙山清司とは気脈を通じた仲であった。
5、杉浦幹部射殺犯逮捕
・平成21年(2009)12月、山口組国粋会系幹部・宮下貴行と岩佐茂雄が、殺人と銃刀法違反容疑で逮捕された。その後裁判で、宮下は無期懲役、岩佐は懲役30年の刑を宣告した。かつて、ヤクザがヤクザを殺害しても懲役15年ほどで、刑務所から出てきたら組の幹部として迎えられるといったことが行われていたが、今はヤクザがヤクザを殺害しても無期やかなりの懲役を強いられる時代となり、抗争で「男を売る」時代は終わったと言える。
6、映像
・関東極道連合会 第五章
・盃外交
・東京やくざ抗争
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
『世界を操るヤクザ・裏社会』(新人物往来社、2003)
平成19年(2009) 東京都 山口組国粋会vs住吉会
2、国粋会の山口組入り
(1)、名門・国粋会
①、名門・国粋会
・戦前は「大日本国粋会」、戦後も昭和33年(1958)に結成された「日本国粋会」には生井一家、幸平一家、田甫一家、小金井一家、佃政一家、落合一家、信州斉藤一家、金町一家など関東甲信越にまたがる主要博徒団体が加入するなど、国粋会は長い歴史を持つ名門組織であった。よって、浅草、銀座、渋谷、六本木など都内のお金になりそうな繁華街のほとんどは、国粋会のメンバーである生井一家や落合一家のシマ(縄張り)であった。
②、貸しジマ
・国粋会は自らが持つ広大なシマ内で営業する権利を、住吉会などに貸し付け、毎年決まった額の「地代」を取っていた。住吉会などは、借りたシマ内の飲食店や風俗店からみかじめ料や用心棒代を集め、この一部を国粋会へ提供した。例えば、小林会は銀座や六本木を国粋会から借りて、仕切っていた。
(2)、国粋会の内紛
①、日本国粋会四代目・工藤和義
・平成3年(1991)、金町一家七代目総長・工藤和義が日本国粋会四代目に就任した。この時、「日本国粋会」から「国粋会」と改称している。
②、工藤会長の改革
・平成13年(2001)、工藤はそれまで連合体であった組織体制を、自分と幹部が「親と子」もしくは「兄と弟」の盃を交わして、ピラミッド型の組織に変えようとした。しかし、生井一家十二代目総長・柴崎雄二朗、佃繁会会長・尾関裕計、落合一家八代目総長・瀧口政利の三人がこの案に反発した。
③、抗争へ
・工藤は柴崎ら三組長を絶縁処分とし、彼らが持っていた縄張りを国粋会預かりとするという強硬策に出た。これに、生井一家系列の組長達が続々と会長はへ寝返っていくことから、柴崎ら三組長はこの処分は無効だと宣言して、抗争に突入した。両派は、銀座や新橋などの繁華街で乱闘や発砲繰り返した。
参考)、宅建太郎さんが抗争過程について紹介されています。
④、山口組の仲裁
・工藤は三代目稲川会会長・稲川裕紘と五厘下がりの兄弟盃を交わしており、他方柴崎ら三組長はシマの関係上住吉会と親しかった。よって、稲川会も住吉会も第三者的な立場で仲裁することが困難であった。そこで仲裁に入ったのが山口組であった。平成15年(2003)、三組長は引退をし、代目継承した上で残存勢力は国粋会に戻ることとなった。
(3)、国粋会の山口組入り
①、山口組入り
・仲裁をしてくれた山口組と工藤はいい関係となった。工藤は、関東二十日会の加盟団体へ一方的に脱退を通知し、平成17年(2005)9月7日、山口組が六代目体制発足直後に、工藤は六代目組長・司忍の舎弟盃を受けて執行部会への出席がない山口組最高顧問となった。
②、国粋会の山口組入りの意味
・国粋会は浅草、銀座、渋谷、六本木など広大なシマを持ち、住吉会などに貸しジマをしていた。しかし、国粋会が山口組入りしたことによって、山口組の力を背景に貸しジマを返せと言われたら、今まで貸しジマでシノギをしてきた関東の組織はシノギが立ち行かなくなってしまう。国粋会の山口組入りは、山口組と他の関東組織との間で緊張を生み出した。
3、西麻布抗争
(1)、杉浦幹部射殺事件
・平成19年(2007)2月5日、住吉会系小林会三代目会長・小林忠紘は、小林会系武州前川八代目の義理事へ出かけるので、小林の秘書役である小林会直井組組長代行・杉浦良一が迎えに行った。この時、犯人たちは、東京港区西麻布の路上に停めた車の後部座席に座っていた杉浦を、小林と勘違いをして射殺してしまった。
(2)、犯人不明のままでの住吉会の返し
①、山口組太田会事務所へ
・住吉会の返しは早かった。事件から1時間後に、麻布十番のマンションにある山口組太田会山崎総業の事務所に銃弾が撃ち込まれた。なぜ太田会が狙われたのかというと、麻布十番は小林会のシマであったが、ここに太田会が事務所を構えたことにより、緊張が高まっていた。杉浦が射殺される前日にも、杉浦が同席して、太田会と小林会との間で話し合いがもたれていた。よって、この解決案に不満を持った太田会側が杉浦を射殺したのではないかと思ったからである。
②、山口組国粋会事務所へ
・同年2月6日、住吉会は、以前山口組国粋会系組織の事務所があった、渋谷区道玄坂のマンションにカチコミをした。なぜ国粋会が狙われたのかというと、国粋会系組織の中には、国粋会の山口組加入後、今までシマを貸してきた関東系の組織に対して、強硬な態度に出て、地代の値上げを要求するようなところもあった。よって、これでトラブルが発生して、この要求を最も強硬にはねつけていた杉浦が射殺されたのではないかと思ったからである。
(3)、犯人不明のままでの和解
①、山口組最高幹部達との交渉
・同年2月7日、犯人不明のまま、山口組若頭補佐・瀧澤孝、総本部長・入江禎、若頭補佐・橋本弘文が上京し、住吉会会長代行・関功、総本部長・太田健真と話し合いに入った。この話し合いは、単に杉浦幹部射殺事件についてだけではなくて、国粋会と住吉会との間の貸しジマ・借りジマの新しいルール作りも行った。
②、和解の内容
ア)、国粋会の縄張りと住吉会に対するその賃借関係は現状維持とする。縄張り内に新しい利権が生まれた場合は、その扱いは両者協議の上で決める。
イ)、山口組が弔慰金を支払う。
・平成16年(2004)10月24日、浅草ビューホテル近くの住吉会系中村会事務所に、山口組系貴広会組員50人が押しかけてた。その後、浅草ビューホテル一階の喫茶室で改めて話し合いに入ったときに、中村会幹部が貴広会組員に向けて発砲し、2人死亡、2人重傷を与えた。この事件で山口組側は返しも金銭的な補償も求めなかったので、杉浦幹部射殺事件と浅草ビューホテル事件を相殺して、山口組から住吉会へ支払われた弔慰金は安かったという。
参考)、ヤクザ抗争史 浅草発砲事件
ウ)、事件の責任をとって国粋会会長・工藤和義は引退する。
4、工藤会長の自殺
(1)、工藤会長の自殺
①、意義
・平成19年(2007)2月15日、山口組と住吉会の和解が成立してから10日後に、工藤は自宅で自殺した。
②、なぜ工藤会長は自殺したのか?
ア)、西麻布抗争の犯人が国粋会の者であったから
・工藤は、西麻布事件の犯人が国粋会の者であるという報告を受けていた可能性がある。そこで、山口組に迷惑をかけたことから精神的に追い詰められて自殺をした可能性がある。
イ)、国粋会の山口組入りで多くの者に迷惑をかけたから
・関東二十日会を脱退して名門国粋会を山口組に入れたが、山口組は国粋会を山口組色に作り替えようとしている。その事で、他の関東の組織にも国粋会の構成員にも迷惑をかけたので自殺をした。
ウ)、出頭しなくてよいと言って送り出したヒットマン達について山口組から出頭させるように命じられたから
・宅建太郎さんが新しい説を紹介されています。
(2)、国粋会五代目会長・藤井英治
・工藤会長の跡目は、国粋会理事長・藤井英治が継承し、六代目山口組の直系若衆となった。藤井は長野県諏訪市にある信州斉藤一家総長であり、場所柄弘道会会長・髙山清司とは気脈を通じた仲であった。
5、杉浦幹部射殺犯逮捕
・平成21年(2009)12月、山口組国粋会系幹部・宮下貴行と岩佐茂雄が、殺人と銃刀法違反容疑で逮捕された。その後裁判で、宮下は無期懲役、岩佐は懲役30年の刑を宣告した。かつて、ヤクザがヤクザを殺害しても懲役15年ほどで、刑務所から出てきたら組の幹部として迎えられるといったことが行われていたが、今はヤクザがヤクザを殺害しても無期やかなりの懲役を強いられる時代となり、抗争で「男を売る」時代は終わったと言える。
6、映像
・関東極道連合会 第五章
・盃外交
・東京やくざ抗争
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
『世界を操るヤクザ・裏社会』(新人物往来社、2003)
小林会襲撃も全て高山の指示
工藤が六代目に入ったのも高山の誘いに
まんまと乗せられ、最後は高山に落とし前を迫られた。関東の奴らからは工藤はただの馬鹿者扱いになってる。