1、抗争
平成13年(2001) 東京都 稲川会大前田一家vs住吉会向後睦会・幸平一家
2、四ツ木斎場襲撃事件(稲川会→住吉会)
(1)、事件
・平成13年(2001)8月18日、東京都葛飾区にある四ツ木斎場での住吉会向後睦会幹部の通夜において、列席していた向後睦会会長・熊川邦男が稲川会大前田一家小田組幹部・吉川一三と小田総業幹部・村上善男に射殺された。さらに、熊川の近くにいた住吉会滝野川一家総長・遠藤浩司と住吉会向後睦会松井組幹部・西村俊英にも命中し、遠藤は死亡、西村も重傷を負った。ヒットマンの吉川一三と村上善男は取り押さえられ、警視庁の説得に応じて住吉会側から警視庁に引き渡された。原因は、さまざま言われているが不明である。
(2)、手打ち
・稲川会はすぐに大前田一家七代目総長・小田建夫を絶縁、大前田一家は名跡抹消の上で解散(後継組織は前橋一家)、さらに、稲川会総本部長・岸本卓也が責任をとる形で引退をした。この稲川会のすばやい対応と住吉会の自制によって報復行動は抑えられたように思われたが抑え込むことはできず、おもに住吉会幸平一家が報復を担った。
3、住吉会幸平一家の報復(住吉会→元稲川会)
(1)、日医大射殺事件
①、前史
・平成14年(2002)2月21日、大前田一家元総長宅近くに、住吉会幸平一家矢野睦会幹部・石塚隆が銃弾を撃ち込んだ。同年2月24日、石塚は路上で脇腹を撃たれて、日本医科大学付属病院へ搬送された。
②、日医大射殺事件
・平成14年(2002)2月25日、日本医科大学付属病院の高度救命救急センター集中治療室のベッドで寝ていた石塚を、住吉会矢野睦会幹部・辰力正雄と同会関係者・新居久三雄が射殺した。石塚が抗争から逃げ出そうとしたことに対する口封じとして、住吉会幸平一家矢野睦会会長・矢野治が指示したものであった。
(2)、大前田一家元総長宅襲撃事件
・平成14年(2002)3月、矢野に指示された男数人が、大前田一家元総長宅に火炎瓶を投げ込み、さらにガソリン噴射機で放火しようとした。関係者に発見され未然に防がれた。
(3)、前橋スナック乱射事件
①、事件
・平成15年(2003)1月25日、四ツ木斎場事件の時に見届人であったという噂の大前田一家元本部長・後藤邦雄が、前橋市にあるスナック加津で襲撃された。襲撃した住吉会幸平一家矢野睦会幹部・小日向将人と同幹部・山田健一郎は無差別乱射を行い、以前から命を狙われていた後藤は机の下に潜んで助かったが、なんの関係もない市民3人と後藤のボディーガードをしていた男性1人の計4人が射殺され、1人が重傷を負った。
②、逮捕
・襲撃後すぐに小日向と山田は偽造パスポートでフィリピンへ高飛びしたが、当局に不法滞在で身柄を拘束されて日本に送り返された。結局、小日向と山田、そして射殺を命じた首謀者として矢野が逮捕された。その後、この三名には死刑判決が下された。
(4)、刑務所内での襲撃事件
・平成18年(2006)、四ツ木斎場襲撃事件の実行犯であった吉川一三が熊本刑務所内で、住吉会幸平一家加藤連合の組員によってキリで十数カ所を刺されて重傷を負った。また、村上善男も徳島刑務所内の風呂場でリンチをうけ、その後自殺をした。
4、東京拘置所内での自殺
(1)、矢野の告白
・平成26年(2014)、矢野の死刑が確定した。その後矢野は、平成9年(1997)に、小田急線伊勢原駅前の再開発を巡り、土地の地上げのトラブルから地主の男性の殺害を住吉会系組織の幹部から依頼され、さらに矢野が他の組長に殺人をあっせんをした事件と、平成10年(1998)に、住吉会の企業舎弟であった斎藤衛(稼業名は龍一成)を金銭トラブルから矢野が絞殺した事件の警察が把握してない2件の殺人事件への関与を告白した。
(2)、無罪判決
・警察の捜査により、矢野の証言通りに2人の遺体が発見され、矢野は平成29年(2017)に殺人容疑で逮捕された。しかし、公判で矢野は無罪を主張し、平成30年(2018)、東京地裁は「死刑執行を引き延ばすためにうその告白をする動機が十分にあり、信用できない」として無罪を言い渡した。
(3)、矢野の自殺
・令和2年(2020)1月26日、矢野は東京拘置所で死亡しているのが発見された。自殺したとみられている。理由は、無罪判決により死刑引き延ばしの道が断たれたからとも、逆に告白を死刑執行の引き延ばしに利用しているという批判への抗議の意志からとも、また令和元年(2019)12月に中国人強盗殺人犯の死刑が執行されたことに動揺していたからとも言う。
cf.懲役太郎さんが、なぜ矢野が自殺を選んだのか考察されています。
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
「拘置所で自殺したとされる死刑囚 雑誌への「告白」の背景に黒幕の存在か」(『週刊新潮』2020年2月6日号)
平成13年(2001) 東京都 稲川会大前田一家vs住吉会向後睦会・幸平一家
2、四ツ木斎場襲撃事件(稲川会→住吉会)
(1)、事件
・平成13年(2001)8月18日、東京都葛飾区にある四ツ木斎場での住吉会向後睦会幹部の通夜において、列席していた向後睦会会長・熊川邦男が稲川会大前田一家小田組幹部・吉川一三と小田総業幹部・村上善男に射殺された。さらに、熊川の近くにいた住吉会滝野川一家総長・遠藤浩司と住吉会向後睦会松井組幹部・西村俊英にも命中し、遠藤は死亡、西村も重傷を負った。ヒットマンの吉川一三と村上善男は取り押さえられ、警視庁の説得に応じて住吉会側から警視庁に引き渡された。原因は、さまざま言われているが不明である。
(2)、手打ち
・稲川会はすぐに大前田一家七代目総長・小田建夫を絶縁、大前田一家は名跡抹消の上で解散(後継組織は前橋一家)、さらに、稲川会総本部長・岸本卓也が責任をとる形で引退をした。この稲川会のすばやい対応と住吉会の自制によって報復行動は抑えられたように思われたが抑え込むことはできず、おもに住吉会幸平一家が報復を担った。
3、住吉会幸平一家の報復(住吉会→元稲川会)
(1)、日医大射殺事件
①、前史
・平成14年(2002)2月21日、大前田一家元総長宅近くに、住吉会幸平一家矢野睦会幹部・石塚隆が銃弾を撃ち込んだ。同年2月24日、石塚は路上で脇腹を撃たれて、日本医科大学付属病院へ搬送された。
②、日医大射殺事件
・平成14年(2002)2月25日、日本医科大学付属病院の高度救命救急センター集中治療室のベッドで寝ていた石塚を、住吉会矢野睦会幹部・辰力正雄と同会関係者・新居久三雄が射殺した。石塚が抗争から逃げ出そうとしたことに対する口封じとして、住吉会幸平一家矢野睦会会長・矢野治が指示したものであった。
(2)、大前田一家元総長宅襲撃事件
・平成14年(2002)3月、矢野に指示された男数人が、大前田一家元総長宅に火炎瓶を投げ込み、さらにガソリン噴射機で放火しようとした。関係者に発見され未然に防がれた。
(3)、前橋スナック乱射事件
①、事件
・平成15年(2003)1月25日、四ツ木斎場事件の時に見届人であったという噂の大前田一家元本部長・後藤邦雄が、前橋市にあるスナック加津で襲撃された。襲撃した住吉会幸平一家矢野睦会幹部・小日向将人と同幹部・山田健一郎は無差別乱射を行い、以前から命を狙われていた後藤は机の下に潜んで助かったが、なんの関係もない市民3人と後藤のボディーガードをしていた男性1人の計4人が射殺され、1人が重傷を負った。
②、逮捕
・襲撃後すぐに小日向と山田は偽造パスポートでフィリピンへ高飛びしたが、当局に不法滞在で身柄を拘束されて日本に送り返された。結局、小日向と山田、そして射殺を命じた首謀者として矢野が逮捕された。その後、この三名には死刑判決が下された。
(4)、刑務所内での襲撃事件
・平成18年(2006)、四ツ木斎場襲撃事件の実行犯であった吉川一三が熊本刑務所内で、住吉会幸平一家加藤連合の組員によってキリで十数カ所を刺されて重傷を負った。また、村上善男も徳島刑務所内の風呂場でリンチをうけ、その後自殺をした。
4、東京拘置所内での自殺
(1)、矢野の告白
・平成26年(2014)、矢野の死刑が確定した。その後矢野は、平成9年(1997)に、小田急線伊勢原駅前の再開発を巡り、土地の地上げのトラブルから地主の男性の殺害を住吉会系組織の幹部から依頼され、さらに矢野が他の組長に殺人をあっせんをした事件と、平成10年(1998)に、住吉会の企業舎弟であった斎藤衛(稼業名は龍一成)を金銭トラブルから矢野が絞殺した事件の警察が把握してない2件の殺人事件への関与を告白した。
(2)、無罪判決
・警察の捜査により、矢野の証言通りに2人の遺体が発見され、矢野は平成29年(2017)に殺人容疑で逮捕された。しかし、公判で矢野は無罪を主張し、平成30年(2018)、東京地裁は「死刑執行を引き延ばすためにうその告白をする動機が十分にあり、信用できない」として無罪を言い渡した。
(3)、矢野の自殺
・令和2年(2020)1月26日、矢野は東京拘置所で死亡しているのが発見された。自殺したとみられている。理由は、無罪判決により死刑引き延ばしの道が断たれたからとも、逆に告白を死刑執行の引き延ばしに利用しているという批判への抗議の意志からとも、また令和元年(2019)12月に中国人強盗殺人犯の死刑が執行されたことに動揺していたからとも言う。
cf.懲役太郎さんが、なぜ矢野が自殺を選んだのか考察されています。
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
「拘置所で自殺したとされる死刑囚 雑誌への「告白」の背景に黒幕の存在か」(『週刊新潮』2020年2月6日号)