1、抗争

 平成8年(1996) 京都府 山口組中野会vs会津小鉄会

2、原因

 (1)、京都不可侵の約定

  ・会津小鉄会は京都を地盤とした伝統的な組織である。しかし、山口組系の組織がたびたび進出を図ったことによりトラブルが起こり、三代目山口組の時代に山口組が京都へ進出しないという「京都不可侵」の約定を締結していた。

 (2)、スージータウン構想とヤクザ

  ・五代目山口組発足後、バブル経済の時期に、京都駅前の崇仁地区の再開発計画が持ち上がる。この時、武富士が資金を出して崇仁協議会が地上げを行った。その後、武富士と崇仁協議会は対立するようになり、武富士は山健組を使って崇仁協議会へ攻撃を行った。さらにここに、京都を地盤とする会津小鉄会も入り、また後には山健組に代わって中野会が動くようになった。ここに、中野会対会津小鉄会の抗争が起こる。この過程で起きたのが、中野会会長・中野太郎の襲撃事件である。

 (3)、中野会対会津小鉄会の経過

   ・平成4年(1992)4月、中野会系の不動産業者が会津小鉄会の組員に刺殺された。

   ・平成5年(1993)10月、山口組系の組員が会津小鉄会系の組員を刺殺した。

   ・平成7年(1995)6月、中野会と会津小鉄会の間で13件の発砲事件が起こった。

   ・平成7年(1995)6月、崇仁協議会元会長・高谷泰三宅に銃弾が撃ち込まれ、放火された。

   ・平成7年(1995)7月、中野の自宅に銃弾が撃ち込まれた。

   ・平成7年(1995)7月、崇仁協議会委員長・藤井鉄雄宅が襲撃され、役員が銃撃されて重傷を負った。

   ・平成7年(1995)8月、崇仁協議会の幹部である建設会社社長・井尻修平が、中野会組員に射殺された。

   ・平成7年(1995)8月、山口組藤和会と会津小鉄会山浩組との間で抗争が相次ぎ、藤和会の組員が会津小鉄会の組員と間違えて警官を射殺した。この事件は渡辺五代目も使用者責任が問われた。

   ・平成8年(1996)2月、五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉、会津小鉄会若頭・図越利次、共政会会長・沖本勲の三者で兄弟盃を結んだ。

3、八幡事件の経過

 (1)、中野会長襲撃事件

  ・平成8年(1996)7月20日、京都府八幡市の理容店で散髪中の中野が、会津小鉄系の組員に銃撃された。中野は無事であったが、中野のボディーガード役であった中野会系高山組組長・高山博武が会津小鉄会中島会傘下の小若会と七誠会の組員の2人を射殺した。

 (2)、会津小鉄系組員の逮捕

  ・京都府警は逃走したヒットマンのうち、会津小鉄系中島会幹部3人を殺人未遂で逮捕した。さらに、山口組と会津小鉄会の抗争拡大を警戒して、警官1500人を動員して厳戒態勢を敷いた。

 (3)、和解の成立

  ・山口組の最高幹部が襲撃されたことによって、山口組と会津小鉄会の全面抗争となることが懸念されたが、事件当日の深夜に会津小鉄会若頭・図越利次ら最高幹部数人が神戸の山口組総本部を訪れて、図越は断指の上で、五代目山口組若頭・宅見勝ら山口組最高幹部に謝罪をして和解を申し入れ、山口組側もこれを受け入れた。

 (4)、中野会の不満

  ・会津小鉄会と山口組の間では和解が成立したが、会長を襲撃されながらなんの返しもできない中野会側には不満が残った。さらに、中野は警察の事情聴衆を受けていた間に和解が成立してしまったために、直接和解の話を聞いておらず、また、会津小鉄会からの謝罪の3億円が一銭も中野に入ってこなかったことから、中野も不満の募らせた。

4、事件の背景

 (1)、宅見勝黒幕説

  ①、五代目山口組の執行部

   ・五代目山口組組長・渡辺芳則は、宅見、総本部長・岸本才三、副本部長・野上哲男らの力で擁立された。この時宅見らは渡辺と、組運営の権限を5年間執行部に任せるという約束をしたという。よって、太田興業組長・太田守正は、五代目山口組の組織運営を「天皇機関説的」と指摘するが、若頭の宅見と7人の若頭補佐(英組組長・英五郎、倉本組組長・倉本広文、弘道会会長・司忍、芳菱会総長・瀧澤孝、三代目山健組組長・桑田兼吉、中野会会長・中野太郎、古川組組長・古川雅章)、総本部長・岸本、副本部長・野上らによって物事は決定し、組長の渡辺はそれを追認するだけであった。特に若頭の宅見の力は強く、渡辺の回答が否や保留と出ても、若頭の宅見が「ええやろ。わしから頭に後で話しとくわ」と承諾すれば、そのまま渡辺も納得する局面が多々あったという。

  ②、渡辺の不満

   ・渡辺は、5年たっても若頭を下りない宅見に不満を持っていた。また、若頭補佐となった中野も、山口組を牛耳っているのは宅見であると見て取り、「宅見は五代目の親分をないがしろにして自分が実権を握り、山口組をええようにしている」と常々思っていた。

  ③、宅見のクーデター

   ア)、渡辺への不満

    ・宅見は、渡辺を担ぎやすい神輿として五代目組長に擁立してみたものの、渡辺に取り巻きができてやりにくさを感じていた。また、直参たちも、「山健組に非ざれば山口組に非ず」といわれるほどの山健組びいきと、直参から金をとりまくり自分に金を運んでくる直参をかわいがる渡辺に不満を持っていた。

   イ)、宅見のクーデター

    ・宅見は渡辺外しのクーデターを計画したという。そのメンバーは若頭補佐の古川、司、そして渡辺の身内である桑田であった。宅見は中野にも声をかけたが、中野は宅見の誘いを断った。そこで、宅見はこのまま放置をしておくと、中野から渡辺に計画が漏れてしまうことを危惧した。

  ④、八幡事件

   ・クーデター計画を中野に知られた宅見が、渡辺に計画が漏れる前に中野を殺害しようと考え、京都に進出してきた中野会に手を焼いていた会津小鉄会に、図越と兄弟関係にあった桑田兼吉を通して依頼し、中野を狙わせた。

  ⑤、宅見若頭射殺事件

   ・中野を襲撃したことについて、会津小鉄会の側が謝罪をしてきた。中野は、この八幡事件の処理において、自分の同意を得ないままに和解を進めてた宅見に不満をもった。中野会では宅見の襲撃計画が立てられ、吉野和利が総指揮者となって宅見を新神戸オリエンタルホテルで射殺した。

 (2)、司忍黒幕説

  ①、意義

   ・平成26年(2014)9月、六代目山口組組長・司忍と、若頭・高山清司を批判する怪文書が流れた。その中で、八幡事件について司忍(当時は若頭補佐)黒幕説が流布された。なお、太田守正は「六代目に恨みを感じている者が、勝手気ままに推論と妄想を重ねた代物」と評価する(『血別 山口組百年の孤独』(太田守正、サイゾー、2015)。

  ②、八幡事件

   ・大分生まれの司忍は、集団就職後の大阪での履歴をすべて中野に把握されており、頭が上がらない目の上のたんこぶ的な存在であった。また、当時の若頭の宅見と若頭補佐の古川雅章、桑田兼吉、瀧澤孝等の山口組幹部は、中野の先鋭的な言動に苦々しく、また恐怖を感じていた。よって、司忍が、宅見、古川、桑田に殺害をけしかけた。

   ・当時、会津小鉄会の図越は、中野に多額の金銭を無心されており、さらに中野が京都に引っ越してて中野会が本格的に京都に進出してきたこともあって、恐怖を感じていた。山口組が直接襲撃するのではなく、会津小鉄会が襲撃することとなったが、会津小鉄会の襲撃は失敗に終わった。

  ③、宅見若頭暗殺事件

   ・中野暗殺失敗後、会津小鉄会の謝罪が宅見の根回しによって簡単に受け入れられた。さらに、中野は以前、渡辺の処遇について宅見からトラップ一杯の現金を届けるから自分に一任してくれと申出がなされことがあり、中野は宅見に不信を深めていった。中野は、渡辺の同意を得た後に宅見を射殺した。宅見若頭射殺事件の後、執行部が渡辺を責め立て、中野は絶縁処分となった。

<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『血別 山口組百年の孤独』(太田守正、サイゾー、2015)
 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、講談社、2013)