1、抗争

 平成5年(1993) 五代目山口組三代目山健組vs極東会眞誠会

2、背景

 (1)、あいまいになる博徒とテキヤの境界線

  ・かつては博徒とテキヤは区別されていたが、シノギの多様化により両者の区別はあいまいとなっていった。特に極東会は都市型の利権をシノギにしている者が多く、博徒系組織とシノギでバッティングする可能性は高かった。抗争のきっかけは賭けマージャンでの貸し借りのもつれであるが、その背後には組織的なシノギの対立があったと思われる。

 (2)、三代目山健組と眞誠会の武闘性

  ①、三代目山建組

   ・山極抗争当時、山口組は山健組出身の渡邊芳則が五代目山口組の時代であり、「山健にあらずんば山口にあらず」と言われるほどの山健組の全盛期であった。全国に7000人ほどの組員を抱えると言われ、山口組一の武闘派と目されていた。

  ②、眞誠会

   ・眞誠会が連なる関口一家はもともと庭場がなく、シノギの中心は地方における商売(バイ)であった。よって、シノギも博徒系に近く、他組織ともよく抗争を引き起こしていた。テキヤにしては武闘性の高い組織であり、第一次頂上作戦の時に「極東愛桜連合会」はテキヤ系として唯一警察庁から「広域暴力団」に指定された過去を持つ。

3、経過

 (1)、きっかけ

  ・平成5年(1993)7月17日、北海道札幌で賭けマージャンのトラブルから、極東会眞誠会鈴木組組長・鈴木紀彦が、五代目山口組三代目山健組北竜会小室興業組長・小室雅彦を刺殺した。

 (2)、事件同日の山口組の返し

  ①、北海道での返し

   ・山口組の返しは早かった。事件から9時間後北海道帯広市で、五代目山口組三代目山健組北竜会不動会の組長らが、極東会筧一家の組事務所を襲撃し、極東会系組員が死亡した。これを皮切りにして全国各地で山口組の極東会系への報復攻撃が激化していった。

  ②、東京での返し

   ・事件発生と同日に、早くも東京西池袋で極東会系組員が山口組系組員に銃撃され、重傷を負う事件、極東会と親しい露天商が銃撃されて重傷を負う事件、板橋区の極東会丹羽興業事務所に銃弾5発が撃ち込まれる事件が発生した。

  ③、東北での返し

   ・事件発生と同日に、青森市の極東会山田組長宅に銃弾6発が撃ち込まれた。

 (3)、事件翌日の極東会の返し

  ・事件発生の翌日である7月18日、以前山健組系の組員が住んでいた板橋区の民家が銃撃された。

 (4)、その後の抗争

  ・北海道帯広市で極東会石川二代目天野会事務所を山口組系組員が銃撃した。

  ・新宿歌舞伎町の極東会桜成会事務所に山口組系組員が銃撃した。

  ・池袋にある山口組系の事務所に極東会系組員が銃撃した。

  ・岐阜県大垣市の極東会系事務所に山口組系組員が銃撃した。

  ・山形県酒田市の極東会阿曽根組の幹部宅に山口組系組員が銃撃した。

  ・静岡県三島市の山口組東海連合の幹部宅に極東会系組員が銃撃した。

  ・渋谷にある山健組事務所に極東会系組員が銃撃した。なお、山健組事務所はマンションの2階であったが3階に銃弾は撃ち込まれていた。

  ・大阪から上京して品川区のホテルに潜伏していた山口組系組員4人が逮捕された。

  ・埼玉県川口市の極東会仲根組事務所で露天商の男性が山口組系組員に銃撃されて重傷を負った。

  ・東京都町田市の極東会金原組事務所前で、山口組系組員に襲撃され、金原組の笹野組員が死亡、同組員ひとりが重傷を負った。

  ・新宿で極東会の関係者が山口組系組員に襲撃されて重傷を負った。

 (5)、警察の対応

  ・東京を中心に北海道から岐阜にかけて発砲事件が20件以上起こったことから、警視庁は「山口組対極東会対策抗争取締本部」を結成した。

 (6)、さらに続く抗争

  ・同年7月19日、極東会系の報復隊が神戸花隈にある山健組本部を襲撃した。事務所に組員8人がいたが怪我はなかった。

  ・同年7月20日、山健組の賃貸物件を管理する不動産会社が入居していた赤坂の雑居ビルを極東会系組員が銃撃した。

  ・同年7月20日、埼玉県蕨市の元山健組組長の塗装業者宅に極東会系組員が銃撃した。

  ・同年7月20日、山口県防府市の極東会山本睦会の幹部宅に山口組系組員が銃撃した。

  ・同年7月20日、岐阜県大垣市の極東会吉田興行事務所に山口組系組員が銃撃した。

  ・同年7月20日、愛知県安城市の極東桜井総家連合会系組長宅に山口組系組員が銃撃した。

  ・同年7月20日、静岡県静岡市の極東会系関係者宅に山口組系組員が銃撃した。

  ・同年7月20日、千葉県千葉市の極東会系元組長の倉庫を山口組系組員が銃撃した。

  ・同年7月20日、茨城県勝田市の極東会二代目岡崎組幹部宅を山口組系組員が銃撃した。さらに、茨城県那珂湊市で極東会二代目岡崎組の組長の男性が銃撃を受けた。

  ・同年7月20日にはさらに、東京都中野区、荒川区、新宿区、神奈川県相模原市、静岡県熱海市でも銃撃事件が起こった。

 (7)、関東二十日会の動き

  ・首都圏に本部を置く博徒系8団体で構成されたのが関東二十日会である。抗争が起きた場合はその月の当番となっている組織が抗争終結の仲介をすることになっていた。しかし、極東会は的屋系なので関東二十日会には所属しておらず、山口組はそもそも総本部は神戸である。この関東二十日会と極東会の幹部が会合を持った。 

 (8)、極東会の「指定暴力団」認定

  ①、意義

   ・平成4年(1992)に暴対法が施行された。山口組は「指定暴力団」に指定されていたが、極東会は指定されていなかった。よって警察は、平成5年(1993)7月21日に極東会を暴対法に基づいて「指定暴力団」に指定した。

  ②、背景

   ・警察当局の狙いは、暴対法15条の適用で「抗争時の組事務所の使用制限命令」を出すことであった。しかし、この命令を出すには双方が指定暴力団でなければならないので、極東会も指定暴力団に認定したのである。これにより、抗争は下火に向かった。

 (9)、和解へ

  ・平成5年(1993)7月21日、山口組と親戚関係にある稲川会と、関東二十日会の当番であった住吉会が和解交渉に尽力して、和解が成立した。山極抗争は、5日間に12都道県で41件の発砲事件で、死者3人、重傷者6人を出して終結した。

<参考文献>

 『極東会大解剖』(実話時代編集部、三和出版、2003)
 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『山口組抗争史激突山口組VS極東会』(土井泰昭、高橋晴雅、竹書房、2009)