1、抗争
平成2年(1990) 東京都 五代目山口組宅見組vs二率会
2、経過
(1)、きっかけ
・平成2年(1990)2月14日、東京都八王子市内のスナックで五代目山口組宅見組幸田組幹部と地元二率会八王子一家西山組幹部が口論となった。その場はいったん収まったが、五代目山口組宅見組幸田組幹部は翌日に二率会八王子一家西山組事務所へ押しかけた。ここで喧嘩となり、二率会八王子一家西山組幹部は五代目山口組宅見組幸田組幹部を刺殺した。
(2)、五代目山口組宅見組の返し
①、宅見組幹部の葬儀
・平成2年(1990)2月17日に殺害された五代目山口組宅見組幸田組幹部の葬儀が行われた。これには、五代目山口組若頭・宅見勝をはじめ最高幹部が続々と参列した。山口組関係者は葬儀終了後粛々と引き揚げていった。
②、宅見組の本格的な報復攻撃
・葬儀終了後、宅見組は本格的な二率会への報復攻撃を開始した。二率会系事務所や幹部宅に銃撃が相次ぎ、一般市民への発砲事件も発生したことから警視庁は二率会の事務所や幹部宅を警備した。しかし、宅見組の報復は激化してゆき、二率会系事務所にダンプカーを突っ込ませたり、二トントラックを突っ込ませたりという事件が立て続けに発生した。八王子市議会は、警察署へ早急に事態収拾を図る請願書を提出するまでにいたる。
(3)、抗争終結への動き
①、きっかけ
・東京都世田谷区のアパート一階に拳銃が撃ち込まれる事件が起こった。このアパートの二階には二率会系の組幹部が入居していたことからの誤射事件であった。この誤射事件により、関東二十日会が抗争終結に動いた。
②、抗争終結
・関東二十日会所属の東亜友愛事業組合理事長・沖田守弘と双愛会会長・石井義雄と二率会系関係者が山口組総本部を訪問して、事態終結の話し合いを持った。最終的には、平成2年(1990)2月25日に、山口組総本部で抗争当事者の宅見勝と二率会会長・宮本高三が話し合い、抗争終結の合意に至った。
3、神奈川抗争
(1)、不協和音
・山口組との抗争終結の合意後、二率会は一本独鈷でやっていくのは無理と判断して住吉会入りを希望した。しかし、これに稲川会が反対をした。稲川会山川一家は、二率会小金井一家から川崎市のシマを貸しシマしていた。二率会が住吉会入りしてしまうと住吉会から借りることとなり、これを嫌がった。
(2)、抗争
・二率会、その応援に回った住吉会と稲川会との間で抗争が起こった。
(3)、抗争終結
・抗争拡大を危惧した住吉会と稲川会が話し合いを行い、八王子一家、親之助一家、その他神奈川県下の組織は稲川会入りし、その他東京都下の二率会傘下の組織は住吉会入りし、二率会は解散することで話がまとまった。
4、影響
・これまで山口組の関東進出はタブーとされていたが、八王子抗争以後、山口組系の組織が連絡事務所や関連企業の形で都内への進出を活発化させていった。例えば、八王子市に本拠を置くテキヤの寄居系の組織であった竹東五代目一家組長・古橋勝利が、五代目山口組後藤組組長・後藤忠政と兄弟盃を交わして後藤組入りをした。竹東五代目一家はその後、正東会と名称を変えている。
5、映像
・関東極道連合会 第三章
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『世界を操るヤクザ・裏社会』(新人物往来社、2003)
『歌舞伎町アウトロー伝説』(溝口敦、宝島社、2014)
平成2年(1990) 東京都 五代目山口組宅見組vs二率会
2、経過
(1)、きっかけ
・平成2年(1990)2月14日、東京都八王子市内のスナックで五代目山口組宅見組幸田組幹部と地元二率会八王子一家西山組幹部が口論となった。その場はいったん収まったが、五代目山口組宅見組幸田組幹部は翌日に二率会八王子一家西山組事務所へ押しかけた。ここで喧嘩となり、二率会八王子一家西山組幹部は五代目山口組宅見組幸田組幹部を刺殺した。
(2)、五代目山口組宅見組の返し
①、宅見組幹部の葬儀
・平成2年(1990)2月17日に殺害された五代目山口組宅見組幸田組幹部の葬儀が行われた。これには、五代目山口組若頭・宅見勝をはじめ最高幹部が続々と参列した。山口組関係者は葬儀終了後粛々と引き揚げていった。
②、宅見組の本格的な報復攻撃
・葬儀終了後、宅見組は本格的な二率会への報復攻撃を開始した。二率会系事務所や幹部宅に銃撃が相次ぎ、一般市民への発砲事件も発生したことから警視庁は二率会の事務所や幹部宅を警備した。しかし、宅見組の報復は激化してゆき、二率会系事務所にダンプカーを突っ込ませたり、二トントラックを突っ込ませたりという事件が立て続けに発生した。八王子市議会は、警察署へ早急に事態収拾を図る請願書を提出するまでにいたる。
(3)、抗争終結への動き
①、きっかけ
・東京都世田谷区のアパート一階に拳銃が撃ち込まれる事件が起こった。このアパートの二階には二率会系の組幹部が入居していたことからの誤射事件であった。この誤射事件により、関東二十日会が抗争終結に動いた。
②、抗争終結
・関東二十日会所属の東亜友愛事業組合理事長・沖田守弘と双愛会会長・石井義雄と二率会系関係者が山口組総本部を訪問して、事態終結の話し合いを持った。最終的には、平成2年(1990)2月25日に、山口組総本部で抗争当事者の宅見勝と二率会会長・宮本高三が話し合い、抗争終結の合意に至った。
3、神奈川抗争
(1)、不協和音
・山口組との抗争終結の合意後、二率会は一本独鈷でやっていくのは無理と判断して住吉会入りを希望した。しかし、これに稲川会が反対をした。稲川会山川一家は、二率会小金井一家から川崎市のシマを貸しシマしていた。二率会が住吉会入りしてしまうと住吉会から借りることとなり、これを嫌がった。
(2)、抗争
・二率会、その応援に回った住吉会と稲川会との間で抗争が起こった。
(3)、抗争終結
・抗争拡大を危惧した住吉会と稲川会が話し合いを行い、八王子一家、親之助一家、その他神奈川県下の組織は稲川会入りし、その他東京都下の二率会傘下の組織は住吉会入りし、二率会は解散することで話がまとまった。
4、影響
・これまで山口組の関東進出はタブーとされていたが、八王子抗争以後、山口組系の組織が連絡事務所や関連企業の形で都内への進出を活発化させていった。例えば、八王子市に本拠を置くテキヤの寄居系の組織であった竹東五代目一家組長・古橋勝利が、五代目山口組後藤組組長・後藤忠政と兄弟盃を交わして後藤組入りをした。竹東五代目一家はその後、正東会と名称を変えている。
5、映像
・関東極道連合会 第三章
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『世界を操るヤクザ・裏社会』(新人物往来社、2003)
『歌舞伎町アウトロー伝説』(溝口敦、宝島社、2014)