1、抗争
昭和50~53年 大阪府 山口組vs松田組
2、松田組とは
・松田組は、昭和20年(1945)に松田雪重が大阪市西成区で結成した博徒組織である。昭和44年(1969)に松田が死亡すると、二代目は樫忠義が継承した。反山口組の関西二十日会に所属する、勢力300人ほどの組織であった。他方、大阪戦争が始まる頃の山口組は、1万人ほどの組員を抱えていた。
3、経過
(1)、第一期 ジュテーム事件
①、原因
・松田組溝口組の賭場に山口組佐々木組徳元組幹部が賭場荒らしをしたので、松田組溝口組は賭場の出入りを禁止した。これに対して、昭和50年(1975)7月26日、メンツがある山口組佐々木組徳元組は、松田組溝口組2人を連れて、豊中の喫茶店ジュテームで話し合いをした。これを拉致されたと勘違いした松田組溝口組の組員たちは、喫茶店に乗用車二台で乗り付けてピストルを乱射し、山口組佐々木組徳元組組員3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。松田組溝口組は賭場が生命線なので、この賭場を守るために必死であった。
②、山口組の報復
・当初、山口組は報復には乗り気でなかった。抗争の非は山口組側にあった事、山口組の三、四次団体の抗争である事、抗争をしても出費がかさみ経済的でない事などがその理由である。よって、山口組側の返しは、ジュテーム事件があった日の一か月後の昭和50年(1975)8月23日に、大阪市にある松田組村田組村田岩三組長宅に拳銃を打ち込むのみであった。
③、松田組の返し
・山口組の報復に対して、松田組の返しは早かった。村田組長宅に拳銃が撃ち込まれた日の翌日に、松田組村田組の過激派である大日本正義団幹部・平沢勇吉が山口組本部事務所に拳銃を打ち込み逃走した。さすがに抗争に乗り気でなかった山口組も、本部事務所に銃撃されたことで、若頭の山本健一をはじめ主戦論が強くなっていった。
④、山口組の報復
・松田組系手束組が取り仕切っていた大阪府松原市の盆踊り会場で、山口組系の組員が拳銃で発砲して集まっていた市民を混乱に陥れた。さらに、山口組系佐々木組の組員が松田組系瀬田会会長代行宅を襲撃して組員に一人を怪我を負わせ、さらに山口組系中西組組員・羽根恒美も、パトカーの張り付け警備を押して、松田組樫忠義組長宅に拳銃を打ち込んだ。
⑤、中西組組員射殺事件から第三次頂上作戦へ
・泥沼化した抗争の中で、複数の関係筋が和解を働きかけて一時は和解への道筋が見えたが、昭和50年(1975)9月3日、山口組側の和解話の窓口となっていた中西一男組長の中西組事務所に、松田組村田組大日本正義団の組員が乗用車で突入し運転席から拳銃を撃ち込み、中にいた中西組員一人を射殺した。警察庁は中西組組員射殺事件の翌々日に、タイミングをはかったかのように第三次頂上作戦を開始し、山口組と松田組の抗争は小康状態となった。
⑥、和解の動き
・当時、山口組は若頭が山本健一で、若頭補佐に菅谷政雄がいた。菅谷は昭和34年(1959)に山口組入りした新参者ではあったが、その勢力は14府県、60下部団体、1200人の構成員を抱えた一大勢力であった。若頭の山本健一にとってみれば、自分よりも勢力を持ちながら、自分よりも役職が下である菅谷は、恐怖でありある種の嫉妬の対象でもあった。この菅谷が勝手に松田組と和解交渉をすすめたとして、菅谷は昭和50年(1975)10月の定例幹部会で謹慎処分となり、若頭補佐の地位は凍結となった。この謹慎は昭和51年(1976)4月に解かれたが、若頭補佐から筆頭若衆に降格となった。この後、菅谷は昭和52年(1977)1月に起こした三国事件によって、山口組を絶縁となる。
(2)、第二期 日本橋事件
①、吉田芳弘会長射殺事件
・昭和51年(1976)10月3日、大阪日本橋で松田組村田組大日本正義団の吉田芳弘会長が、山口組佐々木組片岡組組員・與則和らによって射殺された。山口組から当事者であることから決着をつけるように圧力をかけられていた佐々木組が、巨額の費用と数か月にわたる準備をして決行した暗殺であった。なお、この吉田芳弘会長の運転手をしていたのが、鳴海清であった。
②、佐々木道雄組長襲撃計画
・会長を射殺された大日本正義団の組員は吉田会長の仇討ちを誓い、山口組佐々木組の佐々木道雄組長宅の近くにアジトを構えて佐々木組長をうかがった。しかし、このアジトは兵庫県警に発覚して16人もの組員が逮捕されて、襲撃計画は未遂に終わる。
(3)、第三期 ベラミ事件
①、田岡一雄組長襲撃事件
・昭和53年(1978)7月11日、田岡一雄は京都太秦の東映撮影所の火事見舞いに訪れて、その帰りにナイトクラブ「ベラミ」に立ち寄った。警護役は細田利明、仲田喜志登、そして羽根悪美であった。田岡はベラミでショーが終わった後、松田組村田組大日本正義団幹部である鳴海清に銃撃され、全治三週間の怪我を負った。
②、鳴海組員からの挑戦状
・山口組はトップが襲撃されたことに激怒して、警察よりも先に鳴海を見つけ出そうと必死に行方を追った。他方鳴海は、昭和53年(1978)8月11日、新大阪新聞社に田岡を挑発する「挑戦状」を送りつけた。この挑戦状により鳴海が西成にいるとして警察と山口組がローラー作戦で行方を追うが発見できなかった。鳴海はこの頃、関西二十日会加盟の忠成会の世話で、加古川や三木市を点々としていた。
③、山口組の報復
ア)、意義
・鳴海の挑戦状が新聞に載って以後、山口組の報復の火蓋が切って落とされた。山口組は松田組組長・樫忠義や、松田組村田組大日本正義団会長・吉田芳幸の命を取ろうとしたが、樫は自宅にこもって一歩も出ず、吉田は逃げ回っていた消息がつかめなかった。この時の様子を吉田芳幸は動画で語っている。
イ)、松田組村田組の潮見義男若頭補佐射殺事件
・昭和53年(1978)8月17日、大阪市にある公衆浴場で松田組村田組の潮見義男若頭補佐が射殺された。この事件の首謀者として、当時は山健組の若頭補佐であった盛力健児が逮捕され、懲役16年の刑に服した。盛力はこの時の様子を『鎮魂 ~さらば、愛しの山口組』(宝島社、2013)の中が詳しく述べている。
ウ)、松田組西口組の西口善夫組長宅襲撃事件
・昭和53年(1978)9月2日、和歌山市で合法企業を多数営み松田組随一の金持ち組織であった松田組西口組の西口善夫組長宅に、山口組山健組健竜会の組員が侵入し拳銃を乱射した。西口組長はゴルフで外に出ていたが、警戒中であった西口組の組員2人が射殺された。この事件の首謀者として、当時山口組山健組健竜会で若頭補佐を務めていた、現神戸山口組組長・井上邦雄が逮捕され、懲役17年の刑に服した。この功績で健竜会会長・渡辺芳則は山健組の二代目になれ、山口組の若頭まで登れたことから、渡辺は井上に感謝し、出所後も井上を引き立てた。
④、鳴海が腐乱死体で発見される
ア)、意義
・昭和53年(1978)9月17日、兵庫県六甲山中で鳴海の死体が発見された。腐乱が激しく、背中の刺青から鳴海であると判明された。
イ)、誰が鳴海を殺害したのか
・昭和53年(1978)10月7日、関西二十日会に連なる団体の幹部5人が、兵庫県警に出頭し、県警は犯人隠匿容疑で逮捕した。彼らは鳴海の殺害については否認していたが、約一か月後にそのうちの2人が幹部の命令で殺害した旨を自供した。起訴状によると彼らが鳴海を殺害した理由は、鳴海が無断で西成に戻ろうとしたりして鳴海を持て余していた点と、鳴海を同団体が組織ぐるみで隠匿していた事実が発覚することを恐れたからとされた。最高裁は、「自白調書が信用しがたい」として大阪高裁に審議のやり直しを命じ、大阪高裁で同団体幹部らは無実が確定し冤罪であったことが明らかとなった。鳴海を誰が殺害したのかは、いまだに不明である。
(4)、止まない山口組の攻撃
①、意義
・鳴海の死は山口組が手を下したものではなかったので、鳴海の死で松田組をよしとするわけにもいかなかった。よって、鳴海の死が明らかになった後も、しばらく返しが行われた。
②、杉田組長射殺事件
・昭和53年(1978)9月24日、和歌山市内の松田組福田組事務所を訪れた福田組杉田組組長を、待ち伏せをしていた山口組宅見組の組員が銃撃した。杉田組長は翌日に亡くなった。
③、宅見組による樫組長宅空爆計画
・松田組の樫組長は、自宅にこもっていたので、山口組は全く手が出せない状態であった。そこで山口組宅見組は樫組長宅の近くに前線基地を設営し、ダイナマイトを積んだラジコンのヘリコプターを飛ばして樫組長宅を空爆する計画を立てた。この計画は実験段階で露見し、宅見組の組員が殺人予備と銃刀法違反容疑で逮捕された。
④、吉田芳幸会長収監
・松田組村田組大日本正義団会長・吉田芳幸は、ベラミ事件後80日間の逃走生活を送ったが、山口組の報復におびえる生活に疲れ、大阪府警に連絡を入れて収監された。吉田は昭和52年(1977)に佐々木道雄暗殺計画で銃刀法違反に問われて保釈の身であったが、無断で姿をくらましたために、大阪地裁が収監命令を出していたのである。
cf.この後、大日本正義団は石川明が昭和57年(1982)に三代目をついで復興させ、波谷組へと移籍した。山一抗争時は山口組とも一和会とも友誼関係を結んでいる。平成2年(1990)に解散した。
⑤、村田組若頭襲撃事件
・昭和53年(1978)10月4日、山口組山健組健心会は大阪市内のスナックで松田組村田組若頭・木村誠治を狙撃し、江口健治ら幹部6人が逮捕された。
⑥、石井組長襲撃事件
・昭和53年(1978)10月、尼崎市で松田組瀬田組石井組組長を、山口組藤原会と玉地組による混成チームが襲撃した。石井組長は事務所に逃げたが、逃げ遅れた組員1人が射殺された。
⑦、柴田組長射殺事件
・昭和53年(1978)10月24日、大阪市西成区のアパートで、大日本正義団の舎弟・柴田勝が、山口組溝橋組勝野組の副組長・松崎喜代美によって射殺された。大阪戦争が終わりかけていた時期、勝野組組長・勝野重信が手柄を上げようと焦っていた所、副組長の松崎が自ら名乗り出てヒットマン役を引き受けたものであった。射殺された柴田とヒットマンの松崎は博奕仲間であった。
(5)、抗争終結
・昭和53年(1978)11月1日、山口組はマスコミを前に若頭・山本健一、若頭補佐兼本部長・小田秀臣、若頭補佐・山本広が大阪戦争の終結宣言を読み上げた。松田組と手打ちをすることもなく、一方的に山口組側が終結としてしまったのである。
3、映像
・実録 絶縁状
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)
昭和50~53年 大阪府 山口組vs松田組
2、松田組とは
・松田組は、昭和20年(1945)に松田雪重が大阪市西成区で結成した博徒組織である。昭和44年(1969)に松田が死亡すると、二代目は樫忠義が継承した。反山口組の関西二十日会に所属する、勢力300人ほどの組織であった。他方、大阪戦争が始まる頃の山口組は、1万人ほどの組員を抱えていた。
3、経過
(1)、第一期 ジュテーム事件
①、原因
・松田組溝口組の賭場に山口組佐々木組徳元組幹部が賭場荒らしをしたので、松田組溝口組は賭場の出入りを禁止した。これに対して、昭和50年(1975)7月26日、メンツがある山口組佐々木組徳元組は、松田組溝口組2人を連れて、豊中の喫茶店ジュテームで話し合いをした。これを拉致されたと勘違いした松田組溝口組の組員たちは、喫茶店に乗用車二台で乗り付けてピストルを乱射し、山口組佐々木組徳元組組員3人を射殺し、1人に重傷を負わせた。松田組溝口組は賭場が生命線なので、この賭場を守るために必死であった。
②、山口組の報復
・当初、山口組は報復には乗り気でなかった。抗争の非は山口組側にあった事、山口組の三、四次団体の抗争である事、抗争をしても出費がかさみ経済的でない事などがその理由である。よって、山口組側の返しは、ジュテーム事件があった日の一か月後の昭和50年(1975)8月23日に、大阪市にある松田組村田組村田岩三組長宅に拳銃を打ち込むのみであった。
③、松田組の返し
・山口組の報復に対して、松田組の返しは早かった。村田組長宅に拳銃が撃ち込まれた日の翌日に、松田組村田組の過激派である大日本正義団幹部・平沢勇吉が山口組本部事務所に拳銃を打ち込み逃走した。さすがに抗争に乗り気でなかった山口組も、本部事務所に銃撃されたことで、若頭の山本健一をはじめ主戦論が強くなっていった。
④、山口組の報復
・松田組系手束組が取り仕切っていた大阪府松原市の盆踊り会場で、山口組系の組員が拳銃で発砲して集まっていた市民を混乱に陥れた。さらに、山口組系佐々木組の組員が松田組系瀬田会会長代行宅を襲撃して組員に一人を怪我を負わせ、さらに山口組系中西組組員・羽根恒美も、パトカーの張り付け警備を押して、松田組樫忠義組長宅に拳銃を打ち込んだ。
⑤、中西組組員射殺事件から第三次頂上作戦へ
・泥沼化した抗争の中で、複数の関係筋が和解を働きかけて一時は和解への道筋が見えたが、昭和50年(1975)9月3日、山口組側の和解話の窓口となっていた中西一男組長の中西組事務所に、松田組村田組大日本正義団の組員が乗用車で突入し運転席から拳銃を撃ち込み、中にいた中西組員一人を射殺した。警察庁は中西組組員射殺事件の翌々日に、タイミングをはかったかのように第三次頂上作戦を開始し、山口組と松田組の抗争は小康状態となった。
⑥、和解の動き
・当時、山口組は若頭が山本健一で、若頭補佐に菅谷政雄がいた。菅谷は昭和34年(1959)に山口組入りした新参者ではあったが、その勢力は14府県、60下部団体、1200人の構成員を抱えた一大勢力であった。若頭の山本健一にとってみれば、自分よりも勢力を持ちながら、自分よりも役職が下である菅谷は、恐怖でありある種の嫉妬の対象でもあった。この菅谷が勝手に松田組と和解交渉をすすめたとして、菅谷は昭和50年(1975)10月の定例幹部会で謹慎処分となり、若頭補佐の地位は凍結となった。この謹慎は昭和51年(1976)4月に解かれたが、若頭補佐から筆頭若衆に降格となった。この後、菅谷は昭和52年(1977)1月に起こした三国事件によって、山口組を絶縁となる。
(2)、第二期 日本橋事件
①、吉田芳弘会長射殺事件
・昭和51年(1976)10月3日、大阪日本橋で松田組村田組大日本正義団の吉田芳弘会長が、山口組佐々木組片岡組組員・與則和らによって射殺された。山口組から当事者であることから決着をつけるように圧力をかけられていた佐々木組が、巨額の費用と数か月にわたる準備をして決行した暗殺であった。なお、この吉田芳弘会長の運転手をしていたのが、鳴海清であった。
②、佐々木道雄組長襲撃計画
・会長を射殺された大日本正義団の組員は吉田会長の仇討ちを誓い、山口組佐々木組の佐々木道雄組長宅の近くにアジトを構えて佐々木組長をうかがった。しかし、このアジトは兵庫県警に発覚して16人もの組員が逮捕されて、襲撃計画は未遂に終わる。
(3)、第三期 ベラミ事件
①、田岡一雄組長襲撃事件
・昭和53年(1978)7月11日、田岡一雄は京都太秦の東映撮影所の火事見舞いに訪れて、その帰りにナイトクラブ「ベラミ」に立ち寄った。警護役は細田利明、仲田喜志登、そして羽根悪美であった。田岡はベラミでショーが終わった後、松田組村田組大日本正義団幹部である鳴海清に銃撃され、全治三週間の怪我を負った。
②、鳴海組員からの挑戦状
・山口組はトップが襲撃されたことに激怒して、警察よりも先に鳴海を見つけ出そうと必死に行方を追った。他方鳴海は、昭和53年(1978)8月11日、新大阪新聞社に田岡を挑発する「挑戦状」を送りつけた。この挑戦状により鳴海が西成にいるとして警察と山口組がローラー作戦で行方を追うが発見できなかった。鳴海はこの頃、関西二十日会加盟の忠成会の世話で、加古川や三木市を点々としていた。
③、山口組の報復
ア)、意義
・鳴海の挑戦状が新聞に載って以後、山口組の報復の火蓋が切って落とされた。山口組は松田組組長・樫忠義や、松田組村田組大日本正義団会長・吉田芳幸の命を取ろうとしたが、樫は自宅にこもって一歩も出ず、吉田は逃げ回っていた消息がつかめなかった。この時の様子を吉田芳幸は動画で語っている。
イ)、松田組村田組の潮見義男若頭補佐射殺事件
・昭和53年(1978)8月17日、大阪市にある公衆浴場で松田組村田組の潮見義男若頭補佐が射殺された。この事件の首謀者として、当時は山健組の若頭補佐であった盛力健児が逮捕され、懲役16年の刑に服した。盛力はこの時の様子を『鎮魂 ~さらば、愛しの山口組』(宝島社、2013)の中が詳しく述べている。
ウ)、松田組西口組の西口善夫組長宅襲撃事件
・昭和53年(1978)9月2日、和歌山市で合法企業を多数営み松田組随一の金持ち組織であった松田組西口組の西口善夫組長宅に、山口組山健組健竜会の組員が侵入し拳銃を乱射した。西口組長はゴルフで外に出ていたが、警戒中であった西口組の組員2人が射殺された。この事件の首謀者として、当時山口組山健組健竜会で若頭補佐を務めていた、現神戸山口組組長・井上邦雄が逮捕され、懲役17年の刑に服した。この功績で健竜会会長・渡辺芳則は山健組の二代目になれ、山口組の若頭まで登れたことから、渡辺は井上に感謝し、出所後も井上を引き立てた。
④、鳴海が腐乱死体で発見される
ア)、意義
・昭和53年(1978)9月17日、兵庫県六甲山中で鳴海の死体が発見された。腐乱が激しく、背中の刺青から鳴海であると判明された。
イ)、誰が鳴海を殺害したのか
・昭和53年(1978)10月7日、関西二十日会に連なる団体の幹部5人が、兵庫県警に出頭し、県警は犯人隠匿容疑で逮捕した。彼らは鳴海の殺害については否認していたが、約一か月後にそのうちの2人が幹部の命令で殺害した旨を自供した。起訴状によると彼らが鳴海を殺害した理由は、鳴海が無断で西成に戻ろうとしたりして鳴海を持て余していた点と、鳴海を同団体が組織ぐるみで隠匿していた事実が発覚することを恐れたからとされた。最高裁は、「自白調書が信用しがたい」として大阪高裁に審議のやり直しを命じ、大阪高裁で同団体幹部らは無実が確定し冤罪であったことが明らかとなった。鳴海を誰が殺害したのかは、いまだに不明である。
(4)、止まない山口組の攻撃
①、意義
・鳴海の死は山口組が手を下したものではなかったので、鳴海の死で松田組をよしとするわけにもいかなかった。よって、鳴海の死が明らかになった後も、しばらく返しが行われた。
②、杉田組長射殺事件
・昭和53年(1978)9月24日、和歌山市内の松田組福田組事務所を訪れた福田組杉田組組長を、待ち伏せをしていた山口組宅見組の組員が銃撃した。杉田組長は翌日に亡くなった。
③、宅見組による樫組長宅空爆計画
・松田組の樫組長は、自宅にこもっていたので、山口組は全く手が出せない状態であった。そこで山口組宅見組は樫組長宅の近くに前線基地を設営し、ダイナマイトを積んだラジコンのヘリコプターを飛ばして樫組長宅を空爆する計画を立てた。この計画は実験段階で露見し、宅見組の組員が殺人予備と銃刀法違反容疑で逮捕された。
④、吉田芳幸会長収監
・松田組村田組大日本正義団会長・吉田芳幸は、ベラミ事件後80日間の逃走生活を送ったが、山口組の報復におびえる生活に疲れ、大阪府警に連絡を入れて収監された。吉田は昭和52年(1977)に佐々木道雄暗殺計画で銃刀法違反に問われて保釈の身であったが、無断で姿をくらましたために、大阪地裁が収監命令を出していたのである。
cf.この後、大日本正義団は石川明が昭和57年(1982)に三代目をついで復興させ、波谷組へと移籍した。山一抗争時は山口組とも一和会とも友誼関係を結んでいる。平成2年(1990)に解散した。
⑤、村田組若頭襲撃事件
・昭和53年(1978)10月4日、山口組山健組健心会は大阪市内のスナックで松田組村田組若頭・木村誠治を狙撃し、江口健治ら幹部6人が逮捕された。
⑥、石井組長襲撃事件
・昭和53年(1978)10月、尼崎市で松田組瀬田組石井組組長を、山口組藤原会と玉地組による混成チームが襲撃した。石井組長は事務所に逃げたが、逃げ遅れた組員1人が射殺された。
⑦、柴田組長射殺事件
・昭和53年(1978)10月24日、大阪市西成区のアパートで、大日本正義団の舎弟・柴田勝が、山口組溝橋組勝野組の副組長・松崎喜代美によって射殺された。大阪戦争が終わりかけていた時期、勝野組組長・勝野重信が手柄を上げようと焦っていた所、副組長の松崎が自ら名乗り出てヒットマン役を引き受けたものであった。射殺された柴田とヒットマンの松崎は博奕仲間であった。
(5)、抗争終結
・昭和53年(1978)11月1日、山口組はマスコミを前に若頭・山本健一、若頭補佐兼本部長・小田秀臣、若頭補佐・山本広が大阪戦争の終結宣言を読み上げた。松田組と手打ちをすることもなく、一方的に山口組側が終結としてしまったのである。
3、映像
・実録 絶縁状
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)