1、抗争
昭和39年 愛媛県 三代目山口組矢嶋組vs本多会郷田会
2、郷田会と矢嶋組
(1)、郷田会
①、戦後の松山市のヤクザ情勢
・戦後の松山では、黒田組、中西組、大西組が勢力を持っていた。やがて、新興勢力が台頭し、抗争が絶えなくなった。
②、郷田昇の台頭
・昭和30年代になると、地元の博徒組織大野一家出身の郷田昇が台頭し、一大勢力を築いた。さらに、昭和38年には、子分達を枝別れさせ、清水真武率いる清水組、岡本雅博率いる岡本組、兵藤卓也率いる兵藤組を自分の周囲にめぐらせて、強固な防衛体制を築いていた。
③、昭和30年代の松山市のヤクザ情勢
・昭和30年代の松山市は、この本多会郷田会と三代目山口組中西会の間で均衡関係が保たれていた。三代目山口組中西会は、松山で土建業を営む中西組を中心に愛媛県下9団体が集まった組織であった。
(2)、矢嶋組
①、出生
・矢嶋組の創始者矢嶋長次は、昭和11年に兵庫県明石市で博徒矢嶋清の子として生まれた。中学の頃から地元の賭場に出入りして小遣いを稼ぎ、昭和30年代になると父とともに各地の賭場を渡り歩く博奕旅をしていた。
②、森川組に草鞋を脱ぐ
・博奕旅をしていた矢嶋は、昭和34年に愛媛県今治市の博徒森川鹿次率いる森川組に草鞋を脱いだ。森川は矢嶋をたいそう気に入り、自らの娘を矢嶋と結婚させた。矢嶋も今治での永住を決意し、森川組の幹部として義父を支えた。
③、矢嶋組の結成
・昭和35年、矢嶋は三代目山口組若頭・地道行雄の推薦で三代目山口組組長・田岡一雄から盃を受けて若衆となった。さらに、昭和38年には森川の了解を得たうえで、矢嶋組を設立した。
④、矢嶋組の松山進出
・矢嶋は山口組の四国制圧に貢献するためには、まずは豊富な資金源が必要だと考え、従来のテラ銭に限らず野球賭博や神戸芸能社の荷受け興行など、新しい分野にどんどん進出していった。さらに、田岡の「ヤクザも正業を持て」という方針も相まって、矢嶋組は松山市で電気通信関係の下請工事にも参入しようとした。ここに松山は、既存の郷田会、中西会と新しく松山に進出してきた矢嶋組との間で、緊張関係が生じることとなった。
3、中西会vs矢嶋組
(1)、仙波貞雄刺殺事件(矢嶋組→中西会)
・矢嶋組の松山市進出で、最初にトラブルが起こったのは、同じ山口組内の中西会とであった。昭和38年8月、三代目山口組中西会今治支部の若衆・仙波貞雄らが、酒の上のトラブルで矢嶋組事務所を訪れてわめき立てた。これに矢嶋組の若衆が激昂し、仙波ら2人を刺殺した。
(2)、矢嶋組事務所銃撃事件(中西会→矢嶋組)
・中西会は若頭の樋野悟が矢嶋組事務所を銃撃して、すぐに返しを行った。
(3)、抗争激化の回避
・矢嶋組と中西会は一触即発の危機であったが、中西会側が非を認めることによって、抗争の激化は避けられた。
4、郷田会vs矢嶋組
(1)、協同電設株式会社の設立
・矢嶋組は田岡から事業資金の援助を受けて、昭和39年に松山駅前の一等地に「協同電設株式会社」を設立した。しかし、営業許可が下りなかったことから、後に同市通町の東雲ビルに移った。この東雲ビルで、後に郷田会との銃撃戦が起こる。
(2)、末崎康雄組員の移籍問題
・末崎はもともと森川組の客分であったが、後に郷田会清水組に移り、清水組にありながら郷田会兵頭組の世話になっていた。しかし、よそ者扱いに不満を持ち、末崎は清水組を脱退し、元清水組組員・門田晃とともに矢嶋組に移籍し、矢嶋組幹部・片岡正市の舎弟となった。
(3)、末崎康雄組員暴行事件(郷田会→矢嶋組)
①、事件
・郷田会は末崎の行動に、森川組、郷田会、矢嶋組を組織間をウロウロするコウモリ野郎だと激怒した。そこで昭和39年6月5日、郷田の妻が経営するバーで末崎と門田が飲んでいたところを、郷田会清水組組員が暴行した。
②、交渉決裂
・矢嶋組幹部・片岡正市は、矢嶋の代紋をつけた自分の舎弟が暴行されたことに激怒し、郷田会に謝罪か暴行した犯人の引き渡しを要求した。しかし、郷田会はこの要求をはね付けた。
(4)、松山市街戦(郷田会⇔矢嶋組)
①、郷田会組員の拉致
・昭和39年6月7日、旅行帰りで事情の知らない郷田会岡本組組員が、東雲ビル前にタクシーから降りたった。これを奇貨とした矢嶋組組員が、この組員を拉致して東雲ビルに連行した。
②、矢嶋組の挑発
・矢嶋組幹部・片岡正市は、郷田会へ拉致した組員を引き取りにくるように挑発した。
③、松山市街戦
・郷田会岡本組組員は、乗用車に分乗して、人質に取られた組員の奪還に東雲ビルへ向かった。ここで、東雲ビルにいる矢嶋組組員と奪還に来た郷田会岡本組組員との間で銃撃戦が起こった。愛媛県警は武装警官250人を動員し、またテレビ放送が始まったころでテレビでも放送されたことから、4000人ほどの市民が見物をしに集まった。
④、検挙
・東雲ビルに籠城した矢嶋組組員に対して、警察は投降するように促した。矢嶋組側のリーダー片岡正市は、人質の郷田会岡本組組員と、怪我を負った矢嶋組組員は投降させたが、残る者は籠城をし続けた。よって、警察が東雲ビルへ強行突破し、片岡ら籠城していた矢嶋組組員全員を逮捕した。10数名の負傷者を出した。その後警察は、郷田会41人、矢嶋組は全組員の20人を検挙した。
(5)、組員の大量動員
・事件から4日後、三代目山口組は矢嶋組を支援するために14団体101人を、本多会も郷田会を支援するために6団体44人を松山市へ送ろうとしたが、愛媛県警の警戒により愛媛県内に入ることすらできなかった。
5、影響
(1)、抗争の処理
①、拘置所内での手打ちの成立
・松山刑務所の拘置所に愛媛の博徒の大親分・黒田新太郎がおり、この黒田が仲裁をして矢嶋と郷田は五分で手打ちをした。
②、矢嶋組
・矢嶋は、殺人未遂で懲役7年の刑を受けた。昭和47年に福島刑務所から出所し、その翌年に森川鹿次が森川組と矢嶋組を一本化させて矢嶋が二代目森川組組長となった。その後、平成元年の山口組五代目跡目問題の際に、矢嶋は竹中武らと行動を共にして山口組を引退し、ヤクザ渡世から引退をした。
③、郷田会
ア)、解散
・郷田は実業家へ転身をするため、郷田会を解散させた。郷田会傘下では、昭和45年に兵藤組と岡本組が再建された。
イ)、岡本雅博
・岡本は出所後に岡本組を再建し、三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄の舎弟となった。後に、松山会を結成し初代会長となった。
(2)、三代目山口組の全国進出の終焉
・三代目山口組は全国へ進出していく過程で派手な抗争事件を起こしてきた。しかし、この第一次松山抗争を契機にそのような抗争は終焉した。
(3)、松山刑務所事件
・第一次松山抗争の結果、大量に暴力団関係者が松山刑務所へ服役した。この者達が刑務官を買収し、刑務所内が無法地帯化して、飲酒、賭博、強姦などが行われた事件が起こった。
<参考文献>
『山口組三代目 田岡一雄自伝』(田岡一雄、徳間書店、2006)
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)
「実録プロジェクト893xx 四国ヤクザ 戦場の主役たち2」
昭和39年 愛媛県 三代目山口組矢嶋組vs本多会郷田会
2、郷田会と矢嶋組
(1)、郷田会
①、戦後の松山市のヤクザ情勢
・戦後の松山では、黒田組、中西組、大西組が勢力を持っていた。やがて、新興勢力が台頭し、抗争が絶えなくなった。
②、郷田昇の台頭
・昭和30年代になると、地元の博徒組織大野一家出身の郷田昇が台頭し、一大勢力を築いた。さらに、昭和38年には、子分達を枝別れさせ、清水真武率いる清水組、岡本雅博率いる岡本組、兵藤卓也率いる兵藤組を自分の周囲にめぐらせて、強固な防衛体制を築いていた。
③、昭和30年代の松山市のヤクザ情勢
・昭和30年代の松山市は、この本多会郷田会と三代目山口組中西会の間で均衡関係が保たれていた。三代目山口組中西会は、松山で土建業を営む中西組を中心に愛媛県下9団体が集まった組織であった。
(2)、矢嶋組
①、出生
・矢嶋組の創始者矢嶋長次は、昭和11年に兵庫県明石市で博徒矢嶋清の子として生まれた。中学の頃から地元の賭場に出入りして小遣いを稼ぎ、昭和30年代になると父とともに各地の賭場を渡り歩く博奕旅をしていた。
②、森川組に草鞋を脱ぐ
・博奕旅をしていた矢嶋は、昭和34年に愛媛県今治市の博徒森川鹿次率いる森川組に草鞋を脱いだ。森川は矢嶋をたいそう気に入り、自らの娘を矢嶋と結婚させた。矢嶋も今治での永住を決意し、森川組の幹部として義父を支えた。
③、矢嶋組の結成
・昭和35年、矢嶋は三代目山口組若頭・地道行雄の推薦で三代目山口組組長・田岡一雄から盃を受けて若衆となった。さらに、昭和38年には森川の了解を得たうえで、矢嶋組を設立した。
④、矢嶋組の松山進出
・矢嶋は山口組の四国制圧に貢献するためには、まずは豊富な資金源が必要だと考え、従来のテラ銭に限らず野球賭博や神戸芸能社の荷受け興行など、新しい分野にどんどん進出していった。さらに、田岡の「ヤクザも正業を持て」という方針も相まって、矢嶋組は松山市で電気通信関係の下請工事にも参入しようとした。ここに松山は、既存の郷田会、中西会と新しく松山に進出してきた矢嶋組との間で、緊張関係が生じることとなった。
3、中西会vs矢嶋組
(1)、仙波貞雄刺殺事件(矢嶋組→中西会)
・矢嶋組の松山市進出で、最初にトラブルが起こったのは、同じ山口組内の中西会とであった。昭和38年8月、三代目山口組中西会今治支部の若衆・仙波貞雄らが、酒の上のトラブルで矢嶋組事務所を訪れてわめき立てた。これに矢嶋組の若衆が激昂し、仙波ら2人を刺殺した。
(2)、矢嶋組事務所銃撃事件(中西会→矢嶋組)
・中西会は若頭の樋野悟が矢嶋組事務所を銃撃して、すぐに返しを行った。
(3)、抗争激化の回避
・矢嶋組と中西会は一触即発の危機であったが、中西会側が非を認めることによって、抗争の激化は避けられた。
4、郷田会vs矢嶋組
(1)、協同電設株式会社の設立
・矢嶋組は田岡から事業資金の援助を受けて、昭和39年に松山駅前の一等地に「協同電設株式会社」を設立した。しかし、営業許可が下りなかったことから、後に同市通町の東雲ビルに移った。この東雲ビルで、後に郷田会との銃撃戦が起こる。
(2)、末崎康雄組員の移籍問題
・末崎はもともと森川組の客分であったが、後に郷田会清水組に移り、清水組にありながら郷田会兵頭組の世話になっていた。しかし、よそ者扱いに不満を持ち、末崎は清水組を脱退し、元清水組組員・門田晃とともに矢嶋組に移籍し、矢嶋組幹部・片岡正市の舎弟となった。
(3)、末崎康雄組員暴行事件(郷田会→矢嶋組)
①、事件
・郷田会は末崎の行動に、森川組、郷田会、矢嶋組を組織間をウロウロするコウモリ野郎だと激怒した。そこで昭和39年6月5日、郷田の妻が経営するバーで末崎と門田が飲んでいたところを、郷田会清水組組員が暴行した。
②、交渉決裂
・矢嶋組幹部・片岡正市は、矢嶋の代紋をつけた自分の舎弟が暴行されたことに激怒し、郷田会に謝罪か暴行した犯人の引き渡しを要求した。しかし、郷田会はこの要求をはね付けた。
(4)、松山市街戦(郷田会⇔矢嶋組)
①、郷田会組員の拉致
・昭和39年6月7日、旅行帰りで事情の知らない郷田会岡本組組員が、東雲ビル前にタクシーから降りたった。これを奇貨とした矢嶋組組員が、この組員を拉致して東雲ビルに連行した。
②、矢嶋組の挑発
・矢嶋組幹部・片岡正市は、郷田会へ拉致した組員を引き取りにくるように挑発した。
③、松山市街戦
・郷田会岡本組組員は、乗用車に分乗して、人質に取られた組員の奪還に東雲ビルへ向かった。ここで、東雲ビルにいる矢嶋組組員と奪還に来た郷田会岡本組組員との間で銃撃戦が起こった。愛媛県警は武装警官250人を動員し、またテレビ放送が始まったころでテレビでも放送されたことから、4000人ほどの市民が見物をしに集まった。
④、検挙
・東雲ビルに籠城した矢嶋組組員に対して、警察は投降するように促した。矢嶋組側のリーダー片岡正市は、人質の郷田会岡本組組員と、怪我を負った矢嶋組組員は投降させたが、残る者は籠城をし続けた。よって、警察が東雲ビルへ強行突破し、片岡ら籠城していた矢嶋組組員全員を逮捕した。10数名の負傷者を出した。その後警察は、郷田会41人、矢嶋組は全組員の20人を検挙した。
(5)、組員の大量動員
・事件から4日後、三代目山口組は矢嶋組を支援するために14団体101人を、本多会も郷田会を支援するために6団体44人を松山市へ送ろうとしたが、愛媛県警の警戒により愛媛県内に入ることすらできなかった。
5、影響
(1)、抗争の処理
①、拘置所内での手打ちの成立
・松山刑務所の拘置所に愛媛の博徒の大親分・黒田新太郎がおり、この黒田が仲裁をして矢嶋と郷田は五分で手打ちをした。
②、矢嶋組
・矢嶋は、殺人未遂で懲役7年の刑を受けた。昭和47年に福島刑務所から出所し、その翌年に森川鹿次が森川組と矢嶋組を一本化させて矢嶋が二代目森川組組長となった。その後、平成元年の山口組五代目跡目問題の際に、矢嶋は竹中武らと行動を共にして山口組を引退し、ヤクザ渡世から引退をした。
③、郷田会
ア)、解散
・郷田は実業家へ転身をするため、郷田会を解散させた。郷田会傘下では、昭和45年に兵藤組と岡本組が再建された。
イ)、岡本雅博
・岡本は出所後に岡本組を再建し、三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄の舎弟となった。後に、松山会を結成し初代会長となった。
(2)、三代目山口組の全国進出の終焉
・三代目山口組は全国へ進出していく過程で派手な抗争事件を起こしてきた。しかし、この第一次松山抗争を契機にそのような抗争は終焉した。
(3)、松山刑務所事件
・第一次松山抗争の結果、大量に暴力団関係者が松山刑務所へ服役した。この者達が刑務官を買収し、刑務所内が無法地帯化して、飲酒、賭博、強姦などが行われた事件が起こった。
<参考文献>
『山口組三代目 田岡一雄自伝』(田岡一雄、徳間書店、2006)
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)
「実録プロジェクト893xx 四国ヤクザ 戦場の主役たち2」