1、事件
・昭和38年(1963)に、埼玉県狭山市で高校一年生の少女に対する強盗強姦殺人事件が起こった。被差別部落出身の貧農・石川一雄が別件逮捕の上、捜査官の誘導によって自白する。第一審で死刑判決が出た後、控訴審において石川は犯行を否認した。東京高裁は死刑判決を破棄して無期懲役を宣告し、最高裁判所も上告を棄却したことから、昭和52年(1977)に判決が確定する。その後、再審請求や特別抗告が行われたが、それらはすべて棄却された。
2、司法闘争
(1)、冤罪疑惑
①、警察の焦り
・事件の一ヶ月前に起こった村越吉展ちゃん事件で、警察は犯人を取り逃がすという失態を演じており、信用回復のために犯人逮捕に焦っていた。よって、別件逮捕により捜査がはじめられ、「自白すれば10年で出してやる」と石川を誘惑して自白を引き出し、その自白に基づいて裁判が行われた。さらに、被害者の所持品であった万年筆が石川の家で何度も行われた家宅捜索でも見つからなかったのに、後の家宅捜索で比較的目につきやすい場所から発見されるという不自然な事を起こった。
②、被差別部落は犯罪の温床という認識
・当時は、被差別部落は犯罪の温床であるという偏見があった。よって、被差別部落の人間が犯人として疑われた。
(2)、運動
①、運動の盛り上がり
・昭和40年(1965)に同和対策審議会の答申が出され、昭和44年(1969)に同和対策事業特別措置法が制定されと、この頃は部落解放運動の高揚期であった。よって、部落解放運動に参加する入り口が狭山闘争となり、運動が盛り上がった。部落解放同盟は、昭和44年(1969)の第24回全国大会以後、「権力側の、部落に対する差別と偏見によって、集中的に部落に攻撃をかけ、世間にある差別意識のうえにたって行われたもの」であるとして、本格的に運動を始めた。
②、左翼過激派が加わる
・狭山闘争には、中核派や革命的労働者協会(革労協)が加わり、中核派が浦和地裁に火炎瓶を投げ込んだり、革労協が東京高裁で有罪判決を下した裁判官をバットで襲撃したり、過激な事件が起こった。これを嫌って、共産党が狭山闘争から離れた。
3、影響
(1)、狭山同盟休校
・部落解放同盟の政治的活動が学校教育に持ち込まれるようになった。事件が最高裁に係属した昭和51年(1976)には、石川の無罪を訴えて、解放同盟員の子どもを一斉に学校を休ませる「狭山同盟休校」が、全国数万人規模で行われた。また、道徳や同和教育の中で、「石川一雄さんは無罪だ」と教えたり、子どもたちに「狭山差別裁判糾弾」などと書かれたゼッケンを付けて登校させるなどが行われた。
(2)、「部落民宣言」へ
・狭山同盟休校によって、誰が部落民の子なのかが学校に知れ渡ってしまった。これ以後、部落解放同盟の強い影響を受けた地域においては、部落の児童・生徒がクラス全員の前で自分の住んでいる場所は部落であるという宣言する「部落民宣言」あるいは「立場宣言」と呼ばれる教育が行われるようになった。
<参考文献>
『近代部落史』(黒川みどり、平凡社、2011)
『部落問題入門』(全国部落解放協議会、示現舎、2020)
・昭和38年(1963)に、埼玉県狭山市で高校一年生の少女に対する強盗強姦殺人事件が起こった。被差別部落出身の貧農・石川一雄が別件逮捕の上、捜査官の誘導によって自白する。第一審で死刑判決が出た後、控訴審において石川は犯行を否認した。東京高裁は死刑判決を破棄して無期懲役を宣告し、最高裁判所も上告を棄却したことから、昭和52年(1977)に判決が確定する。その後、再審請求や特別抗告が行われたが、それらはすべて棄却された。
2、司法闘争
(1)、冤罪疑惑
①、警察の焦り
・事件の一ヶ月前に起こった村越吉展ちゃん事件で、警察は犯人を取り逃がすという失態を演じており、信用回復のために犯人逮捕に焦っていた。よって、別件逮捕により捜査がはじめられ、「自白すれば10年で出してやる」と石川を誘惑して自白を引き出し、その自白に基づいて裁判が行われた。さらに、被害者の所持品であった万年筆が石川の家で何度も行われた家宅捜索でも見つからなかったのに、後の家宅捜索で比較的目につきやすい場所から発見されるという不自然な事を起こった。
②、被差別部落は犯罪の温床という認識
・当時は、被差別部落は犯罪の温床であるという偏見があった。よって、被差別部落の人間が犯人として疑われた。
(2)、運動
①、運動の盛り上がり
・昭和40年(1965)に同和対策審議会の答申が出され、昭和44年(1969)に同和対策事業特別措置法が制定されと、この頃は部落解放運動の高揚期であった。よって、部落解放運動に参加する入り口が狭山闘争となり、運動が盛り上がった。部落解放同盟は、昭和44年(1969)の第24回全国大会以後、「権力側の、部落に対する差別と偏見によって、集中的に部落に攻撃をかけ、世間にある差別意識のうえにたって行われたもの」であるとして、本格的に運動を始めた。
②、左翼過激派が加わる
・狭山闘争には、中核派や革命的労働者協会(革労協)が加わり、中核派が浦和地裁に火炎瓶を投げ込んだり、革労協が東京高裁で有罪判決を下した裁判官をバットで襲撃したり、過激な事件が起こった。これを嫌って、共産党が狭山闘争から離れた。
3、影響
(1)、狭山同盟休校
・部落解放同盟の政治的活動が学校教育に持ち込まれるようになった。事件が最高裁に係属した昭和51年(1976)には、石川の無罪を訴えて、解放同盟員の子どもを一斉に学校を休ませる「狭山同盟休校」が、全国数万人規模で行われた。また、道徳や同和教育の中で、「石川一雄さんは無罪だ」と教えたり、子どもたちに「狭山差別裁判糾弾」などと書かれたゼッケンを付けて登校させるなどが行われた。
(2)、「部落民宣言」へ
・狭山同盟休校によって、誰が部落民の子なのかが学校に知れ渡ってしまった。これ以後、部落解放同盟の強い影響を受けた地域においては、部落の児童・生徒がクラス全員の前で自分の住んでいる場所は部落であるという宣言する「部落民宣言」あるいは「立場宣言」と呼ばれる教育が行われるようになった。
<参考文献>
『近代部落史』(黒川みどり、平凡社、2011)
『部落問題入門』(全国部落解放協議会、示現舎、2020)