1、揺れる青少年時代
(1)、出生
・三木は昭和13年(1938)に5人兄弟の末っ子として朝鮮で生まれた。父は朝鮮で炭坑を所有していたが、敗戦後日本に引き揚げて、東京の中野で税務法律事務所を開いていた。三木はアウトロー気質が強かったが、一方で裕福で親の愛情を受けて育った。三木はこの両極を揺れながら青少年時代を過ごしてゆく。
(2)、小中学校時代
・三木は小学生の頃から熱心に柔道に取り組んだ一方、地元の悪ガキ達とグループを作って喧嘩にあけくれた。
(3)、高校時代
①、巣鴨高校へ
・三木は、当時不良が集まる学校であった巣鴨高校に進学した。
②、石神井高校へ
・三木は弁が立ち頭もよかった。まっとうな大人になってほしいという親の意向であろうか、編入試験を受けて巣鴨高校から当時は進学校であった石神井高校へと編入した。入学当初は真面目に勉学にいそしみ成績もよかったという。しかし、級友がヤクザと関係を持つ上級生に殴られ、三木に救いを求めてくる事件が起こった。三木はその上級生を呼び出して殴ったが、これにより父兄や教師からつるし上げられ学校をやめてしまった。「学校なんていい加減なものだし、正しいことが必ずしも世の中をとおらない」。三木はアウトローへと振り切った。
③、京王商業へ
・三木は親の強い要望によって京王商業へと入学したが、学校にはほとんどいかず喧嘩三昧の日々をすごし、やがて京王商業の番長となった。三木たちのたまり場がとある右翼の家であった。鷺宮から新宿に進出しようとしていた三木は、後ろ盾となるヤクザ組織を紹介するように頼んだが、三木の母親から学校に行くように説得してくれと頼まれていたとある右翼はこれを拒み続けた。自力で新宿へ進出する道を三木は模索した。
2、新宿進出
(1)、歌舞伎町へ
・新宿の縄張りは、JR新宿駅東口が尾津組、南口や中央口が和田組と野原組、西口が安田組、要通り方面が極東組(現極東会)、新宿二丁目が博徒の小金井一家とヤクザ組織が根を下ろしており、新興勢力の愚連隊が入り込む余地はなかった。しかし、戦前は住宅街であり戦後になってから繁華街として開かれてきた歌舞伎町は、確かに系譜的には小金井一家の縄張りではあるが確立はしておらず、入り込めるスキがあった。ここに入り込んできたのが二幸(現アルタ)裏の塚原一派をバックにもつ愚連隊の西武グループであった。
(2)、陳八芳との出会い
①、東声会とは
・東声会は、昭和32年(1957)に、町井久之によって創設された右翼的青少年不良グループである。東声会新宿支部長は二村興業を率いた二村昭平であり、台湾出身の陳八芳も町井の舎弟となって歌舞伎町の職安裏に事務所を出していた。
②、陳との出会い
・三木一派2人が西武グループにリンチをうけてる最中に、たまたまそこを通りかかった陳が仲裁をするという事件が起こった。この報告を受けた三木は、陳の舎弟となり、陳の事務所の最高責任者となった。新宿進出の後ろ盾=陳八芳を得たのである。
(3)、西武グループとの戦い
・当時歌舞伎町を仕切っていた西武グループに対して、三木一派は十数人ほどしかいなかった。ここで三木は巧みに西武グループのリーダーを誘い出して、二人で決闘をすることに成功した。この決闘に三木は勝利し、西武グループは分裂、三木一派は新宿歌舞伎町に大きく進出し、山手学生クラブと名乗った。
(4)、三声会へ
・三木の周りにはやがて不良たちが集まってきた。これ以上の組織拡大を目指して、昭和31年(1956)、不良たちは互選で三木を代表に選出し、組織名を「三声会」とした。三声会は三木のカリスマ性によって結成された組織ではなく、仲間思いで優しく気遣いができる三木を不良たちが担ぎ上げた組織である。三声会は一人の相手に対して多人数で襲い掛かる手法で喧嘩に明け暮れ、歌舞伎町一の不良グループへと成長した。
3、三声会
(1)、意義
・三木はメディアのインタビューによく答えた。「オレに仁義もいらない。ナワ張りもない。ケンカだけだ。あの場所が金になると思えば、そこに行くだけだ」「極東のナワ張り?そんなもの法律にあるわけでもなし」とうそぶき、既存のヤクザ組織の縄張りどどんどん侵していった。
(2)、会員
・三声会の会員の6割が高校生であり、あとは中退組、無職、チンピラ、バーテンやボーイなどであった。仲間意識で集まった不良たちの緩い組織であったので、最盛期には500人ほどになった。
(3)、シノギ
①、用心棒代
・三声会の会員たちは、ヤクザが用心棒を務めているバー、キャバレー、喫茶店などに50、60人で押しかけては大声で騒ぎだし、ヤクザが三木を襲うと数百人の三声会会員によって襲い返しリンチを加えた。この手法により従来ヤクザに用心棒代を納めていた経営者たちは、三声会へと用心棒を鞍替えした。さらに、これら歌舞伎町の飲食店の経営者たちと江ノ島の海の家を買い、食べ物屋台、貸しボート、ダンスパーティーなどを行った。
②、賭博
・歌舞伎町を縄張りとする博徒小金井一家に挨拶を入れずに、三木は歌舞伎町で賭場を開帳した。
③、パチンコ店の景品買い
・新宿駅東口や歌舞伎町のパチンコ店の景品買いもシノギとした。
4、三木の死
(1)、三声会会員刺殺事件
①、意義
・法律に書いてないとして三声会はどんどんヤクザのテリトリーを侵していった。しかし、三声会の強引な割り込みに、はじめは大目に見ていた既存のヤクザ組織もだんだん防衛に乗り出していった。ここで三声会潰しに動いたのが、旧西武グループを糾合した二幸裏の塚原一派系統である青龍会であった。
②、事件
・昭和34年(1959)9月、三声会会員が青龍会の人間に刺殺された。三声会は青龍会会長を拉致したが、東声会幹部の命令によって青龍会会長を解放した。後日、関東の大親分の仲裁によって正式にこの事件は手打ちとなったが、この後、断続的に三声会と青龍会は衝突を繰り返し、十数件に及ぶ死傷事件が起こった。
(2)、三声会の解散
・東声会は、三声会に解散を指示した。三木は幹部たちに解散の旨を伝えたが、三声会の会員たちは誰も東声会の指示に従う者はいなかった。もはや三声会は三木にすら統制できない状態となっていた。
(3)、三木の死
①、事件
・昭和36年(1961)10月、三木は兄弟分であった港会組員・福岡幸男に射殺された。享年23歳。
②、背景
・警察は、縄張り争いではなく感情的なもつれが原因であるとした。福岡が歌舞伎町の深夜喫茶に入ってきたところ、東声会の若い男と肩がぶつかり口論となった。そこに陳の子分も現れて福岡を殴った。これに激高した福岡はピストルを持ち出し仲間を連れて再びこの店に戻ってきた。三木はこの紛争の話し合いに参加し、胸を撃たれて即死した。さらに福岡は、この店にいた陳らも銃撃し、陳は死亡、三声会幹部二人が重傷を負った。
③、その後の三声会
・三木の死後、東声会と港会の間で緊迫した状態が続いたが、10月半ばに手打ちとなった。その後、三声会のほとんどの会員は歌舞伎町から姿を消し、一部の会員は東声会へと合流したという。
<参考文献>
『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019)
『愚連隊伝説』(洋泉社MOOK、1999)
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『歌舞伎町アウトロー伝説』(溝口敦他、宝島社、2014)
(1)、出生
・三木は昭和13年(1938)に5人兄弟の末っ子として朝鮮で生まれた。父は朝鮮で炭坑を所有していたが、敗戦後日本に引き揚げて、東京の中野で税務法律事務所を開いていた。三木はアウトロー気質が強かったが、一方で裕福で親の愛情を受けて育った。三木はこの両極を揺れながら青少年時代を過ごしてゆく。
(2)、小中学校時代
・三木は小学生の頃から熱心に柔道に取り組んだ一方、地元の悪ガキ達とグループを作って喧嘩にあけくれた。
(3)、高校時代
①、巣鴨高校へ
・三木は、当時不良が集まる学校であった巣鴨高校に進学した。
②、石神井高校へ
・三木は弁が立ち頭もよかった。まっとうな大人になってほしいという親の意向であろうか、編入試験を受けて巣鴨高校から当時は進学校であった石神井高校へと編入した。入学当初は真面目に勉学にいそしみ成績もよかったという。しかし、級友がヤクザと関係を持つ上級生に殴られ、三木に救いを求めてくる事件が起こった。三木はその上級生を呼び出して殴ったが、これにより父兄や教師からつるし上げられ学校をやめてしまった。「学校なんていい加減なものだし、正しいことが必ずしも世の中をとおらない」。三木はアウトローへと振り切った。
③、京王商業へ
・三木は親の強い要望によって京王商業へと入学したが、学校にはほとんどいかず喧嘩三昧の日々をすごし、やがて京王商業の番長となった。三木たちのたまり場がとある右翼の家であった。鷺宮から新宿に進出しようとしていた三木は、後ろ盾となるヤクザ組織を紹介するように頼んだが、三木の母親から学校に行くように説得してくれと頼まれていたとある右翼はこれを拒み続けた。自力で新宿へ進出する道を三木は模索した。
2、新宿進出
(1)、歌舞伎町へ
・新宿の縄張りは、JR新宿駅東口が尾津組、南口や中央口が和田組と野原組、西口が安田組、要通り方面が極東組(現極東会)、新宿二丁目が博徒の小金井一家とヤクザ組織が根を下ろしており、新興勢力の愚連隊が入り込む余地はなかった。しかし、戦前は住宅街であり戦後になってから繁華街として開かれてきた歌舞伎町は、確かに系譜的には小金井一家の縄張りではあるが確立はしておらず、入り込めるスキがあった。ここに入り込んできたのが二幸(現アルタ)裏の塚原一派をバックにもつ愚連隊の西武グループであった。
(2)、陳八芳との出会い
①、東声会とは
・東声会は、昭和32年(1957)に、町井久之によって創設された右翼的青少年不良グループである。東声会新宿支部長は二村興業を率いた二村昭平であり、台湾出身の陳八芳も町井の舎弟となって歌舞伎町の職安裏に事務所を出していた。
②、陳との出会い
・三木一派2人が西武グループにリンチをうけてる最中に、たまたまそこを通りかかった陳が仲裁をするという事件が起こった。この報告を受けた三木は、陳の舎弟となり、陳の事務所の最高責任者となった。新宿進出の後ろ盾=陳八芳を得たのである。
(3)、西武グループとの戦い
・当時歌舞伎町を仕切っていた西武グループに対して、三木一派は十数人ほどしかいなかった。ここで三木は巧みに西武グループのリーダーを誘い出して、二人で決闘をすることに成功した。この決闘に三木は勝利し、西武グループは分裂、三木一派は新宿歌舞伎町に大きく進出し、山手学生クラブと名乗った。
(4)、三声会へ
・三木の周りにはやがて不良たちが集まってきた。これ以上の組織拡大を目指して、昭和31年(1956)、不良たちは互選で三木を代表に選出し、組織名を「三声会」とした。三声会は三木のカリスマ性によって結成された組織ではなく、仲間思いで優しく気遣いができる三木を不良たちが担ぎ上げた組織である。三声会は一人の相手に対して多人数で襲い掛かる手法で喧嘩に明け暮れ、歌舞伎町一の不良グループへと成長した。
3、三声会
(1)、意義
・三木はメディアのインタビューによく答えた。「オレに仁義もいらない。ナワ張りもない。ケンカだけだ。あの場所が金になると思えば、そこに行くだけだ」「極東のナワ張り?そんなもの法律にあるわけでもなし」とうそぶき、既存のヤクザ組織の縄張りどどんどん侵していった。
(2)、会員
・三声会の会員の6割が高校生であり、あとは中退組、無職、チンピラ、バーテンやボーイなどであった。仲間意識で集まった不良たちの緩い組織であったので、最盛期には500人ほどになった。
(3)、シノギ
①、用心棒代
・三声会の会員たちは、ヤクザが用心棒を務めているバー、キャバレー、喫茶店などに50、60人で押しかけては大声で騒ぎだし、ヤクザが三木を襲うと数百人の三声会会員によって襲い返しリンチを加えた。この手法により従来ヤクザに用心棒代を納めていた経営者たちは、三声会へと用心棒を鞍替えした。さらに、これら歌舞伎町の飲食店の経営者たちと江ノ島の海の家を買い、食べ物屋台、貸しボート、ダンスパーティーなどを行った。
②、賭博
・歌舞伎町を縄張りとする博徒小金井一家に挨拶を入れずに、三木は歌舞伎町で賭場を開帳した。
③、パチンコ店の景品買い
・新宿駅東口や歌舞伎町のパチンコ店の景品買いもシノギとした。
4、三木の死
(1)、三声会会員刺殺事件
①、意義
・法律に書いてないとして三声会はどんどんヤクザのテリトリーを侵していった。しかし、三声会の強引な割り込みに、はじめは大目に見ていた既存のヤクザ組織もだんだん防衛に乗り出していった。ここで三声会潰しに動いたのが、旧西武グループを糾合した二幸裏の塚原一派系統である青龍会であった。
②、事件
・昭和34年(1959)9月、三声会会員が青龍会の人間に刺殺された。三声会は青龍会会長を拉致したが、東声会幹部の命令によって青龍会会長を解放した。後日、関東の大親分の仲裁によって正式にこの事件は手打ちとなったが、この後、断続的に三声会と青龍会は衝突を繰り返し、十数件に及ぶ死傷事件が起こった。
(2)、三声会の解散
・東声会は、三声会に解散を指示した。三木は幹部たちに解散の旨を伝えたが、三声会の会員たちは誰も東声会の指示に従う者はいなかった。もはや三声会は三木にすら統制できない状態となっていた。
(3)、三木の死
①、事件
・昭和36年(1961)10月、三木は兄弟分であった港会組員・福岡幸男に射殺された。享年23歳。
②、背景
・警察は、縄張り争いではなく感情的なもつれが原因であるとした。福岡が歌舞伎町の深夜喫茶に入ってきたところ、東声会の若い男と肩がぶつかり口論となった。そこに陳の子分も現れて福岡を殴った。これに激高した福岡はピストルを持ち出し仲間を連れて再びこの店に戻ってきた。三木はこの紛争の話し合いに参加し、胸を撃たれて即死した。さらに福岡は、この店にいた陳らも銃撃し、陳は死亡、三声会幹部二人が重傷を負った。
③、その後の三声会
・三木の死後、東声会と港会の間で緊迫した状態が続いたが、10月半ばに手打ちとなった。その後、三声会のほとんどの会員は歌舞伎町から姿を消し、一部の会員は東声会へと合流したという。
<参考文献>
『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019)
『愚連隊伝説』(洋泉社MOOK、1999)
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『歌舞伎町アウトロー伝説』(溝口敦他、宝島社、2014)