1、出生

 (1)、養子に出されることが決まった上での出生

  ・明治30年(1897)、群馬県甘楽郡磐戸村(現南牧村)の茂木家で四人兄弟の末っ子として生まれた。茂木家はもともとは名主であったが、関口が生まれる頃には没落しており、関口は生まれる前から長野県北佐久郡横根村(現佐久市)の関口家へ養子に入る事が決まっていた。4歳になったときに裕福であった関口家へ移った。育ての母である関口オソは祈祷師であったので、関口も幼いころは母とともに全国を旅に回った。

 (2)、少年時代

  ・尋常小学校時代の関口は「喧嘩大将」のあだ名を持つ暴れん坊であったが、他方勉強もできた。多くのものは経済的な事情も相まって丁稚奉公や女工となっていったが、関口は高等科へと進学した。

2、演歌師になる

 (1)、横浜へ

  ・明治43年(1919)、関口は生家である茂木家の長男・量太郎を探すために、13歳の時に関口家を出奔し横浜へ行った。横浜をフラフラしているとテキヤ・桜井庄之助の一家の者たちが声をかけてきた。関口は住む場所もなく財布の中身を底をついていたので、彼らが定宿とする木賃宿へと移った。この時の桜井の若い衆たちは14、5歳であったというので、当時のテキヤは家出少年の受け入れ先であったようである。

 cf.家出少年とテキヤの関係については懲役太郎さんが解説されています。



 (2)、演歌師になる

  ①、演歌師とは

   ・演歌師とは、演歌を街中で歌い唄本を売り歩く職業である。最初は政治的な歌を学生がバイオリン片手に書生姿で歌っていたが、やがて男と女の艶っぽい歌を歌うようになり、演歌師も苦学生のアルバイトから職業の演歌師へと変わっていった。他方で、演歌師が艶っぽい歌を歌うに従い堕落する者が多くなり、不良分子も多くなっていた。

  ②、演歌師になる

   ・関口は演歌師になることにした。桜井の若衆に頼み込んで、古いバイオリン、「唄本」、書生風のオカマ帽子と袴を用意してもらい、横浜伊勢佐木町で演歌を歌い始めた。

 (3)、浅草へ

  ・関口は、兄・量太郎が住む浅草へと移った。量太郎はもともと満州にわたって馬賊になろうとしたが失敗し、浅草に住みながら演歌を書いて生計を立てていた。量太郎が博奕好きであったこともあって、量太郎の家には博奕打ちも集まるようになっていた。後に量太郎は再び資金を集めて満州に渡っていった。

 (4)、親子名乗りの盃

  ・関口は18歳の時に、桜井と「親子名乗りの盃」を交わし、正式に桜井の子分となった。後に桜井は、大正5年(1916)に横浜を離れて沼津へ移り、大正10年(1921)に「沼津桜井一家」(のちに「東海道桜井一家」)と称した。

3、テキヤ稼業と災害支援

 (1)、演歌師から街頭商品のネタ元やイベントプロモーターへ

  ①、街頭商品のネタ元

   ・演歌師はラジオや蓄音器ができ、稼ぎの場が狭くなっていった。そこで関口は、「頭の良くなる本」「ナニナニの商売で大もうけする法」といった他愛もない印刷物を商品化したり、「けったい石鹸」「簡単電灯カバー」といったアイディア商品を作る街頭商品のネタ元のような商売にシフトしていった。

  ②、イベントプロモーター

   ・関口は巣鴨で、「日本はおろか、極東大陸の珍品ズラリ・・・・・露店大披露大売出し」という催事をした。ズラリとテキヤ連中が店を並べ、至るところで演歌師が歌を歌って景気づけ、商品というかガラクタというか安い掘り出し物がふんだんにあるイベントで、ここで関口は「極東」という文字をはじめて使った。

 (2)、災害支援

  ・関口は、大正6年(1917)に東京を襲った大型台風や、大正12年(1923)の関東大震災の時に、仲間を糾合して被災者の救済にあたった。

 (3)、大日本神農会の発足

  ①、意義

   ・大正13年(1924)に大阪で全国行商人先駆者同盟が、東京でも大正15年(1926)に大日本神農会が飯島一家の山田春雄の発案で結成された。関口もこのとりまとめ役として活躍した。

  ②、背景

   ・関東大震災によって多くの失業者が出た。そこで警視庁は失業者対策として、失業者が露天商となる道を作った。これに対して既存の露天商たちが苦しい立場に追い込まれたので、既存の露天商が組合を結成した。しかし、両組織はすぐに消滅してしまった。

 (4)、極東秘密探偵局設立

  ・昭和2年(1927)、関口は極東秘密探偵局という探偵社を大塚に設立した。設立動機、活動実態、活動内容もベールに包まれた会社で、後年まで関口からこれらが明らかにされることはなかった。

4、山形事件

  ・昭和5年(1939)、関口は兄弟分であった尾津喜之助のために、敵対していた高山春吉殺害に加わり、殺人教唆罪で約10年間の獄中生活を送った。

   →山形抗争

5、戦後

 (1)、池袋・新宿へ

  ・極東桜井一家関口は、正規の庭場を持っていなかった。関口は戦後、東京池袋に拠点を築き、兄弟分であった尾津のすすめもあり新宿へも進出していった。昭和26年(1951)にGHQの団体等規制令によっていったん解散するが、「極東クラブ」「極東愛桜会」などと名称をかえて存続した。

 (2)、極東愛桜連合会

  ①、結成

   ・昭和36年(1961)に横浜の飴徳、沼津の桜井、東京の関口の三本柱を中心に、他に山形の研谷一家や三重の橋本組など東日本一帯のテキヤを一本化して極東愛桜連合会が結成された。総帥は関口が、会長はのちに関口本家三代目を継承する小林荘八が務めた。この頃が極東一門の全盛期であった。

  ②、解散

   ・昭和41年(1966)頃の極東愛桜連合会は、一都一道二府二十四県、185団体4516人と巨大組織となっていた。他方、昭和39年(1964)に始まった第一次頂上作戦によって、既存のヤクザ組織は次々と解散をしていった。極東愛桜連合会も、昭和42年(1967)に会長の小林から極東愛桜連合会の解散が発表された。さらに同じ年に、関口も亡くなった。享年70歳。

 (3)、神農界の大親分

  ・関口はテキヤの全国組織である日本街商人組合連合会の会長、東京街商協同組合最高顧問をつとめるなど、神農界全体の発展のためにも多大な功績を残した。

<参考文献>

『極東会大解剖』(実話時代編集部、三和出版、2003)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)