1、意義

 ・磧上の時代は第一次頂上作戦の時代である。港会は住吉会へと改称されたが、その7か月後に解散をすることになった。なお、昭和40年(1965)2月19日の朝日新聞によると、この頃の住吉会は東京中心に埼玉、千葉、栃木、群馬など十と県に勢力が及び、構成人数は約3800人。幹部は港湾荷役、運送業、不動産業、料理やなどを経営しているが、バクチを常習とし、債権取り立てや民事介入事件などを資金源としている、と報道されている。

2、就任

 ・昭和37年(1962)、住吉一家総長・阿部重作は引退し、その跡目は上萬一家の貸元であった磧上義光が継承した。

3、「港会」を「住吉会」へ

 ・昭和39年(1964)、磧上は連合組織である「港会」を「住吉会」に改めて自らその会長となった。さらに、昭和38年(1963)に錦政会、港会、松葉会、日本国粋会、義人党、東声会、北星会の7団体で結成された関東ヤクザの親睦団体である「関東会」の二代目理事長に、松葉会会長・藤田卯一郎の後をうけて就任した。

4、第一次頂上作戦と住吉会の解散

 (1)、第一次頂上作戦

  ①、当局を刺激した関東会のビラ

   ・関東会は「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」というビラを配送した。これに政治家は激怒し、警察庁が準備していた第一次頂上作戦の徹底強化に口実を与える結果となった。

  ②、第一次頂上作戦のはじまり

   ・昭和39年(1964)頃から、広域暴力団に指定する山口組、本多会、住吉会、錦政会、日本国粋会、松葉会、日本義人党、北星会、東声会、柳川組の10団体を集中的に壊滅させようという、第一次頂上作戦がはじまった。

 (2)、磧上の逮捕

  ・昭和39年(1964)度中に住吉会の検挙者は1021人、磧上も昭和39年(1964)に各組織のドンのトップをきって逮捕され、さらに、神奈川県の旅館で行った阿部の引退見舞いとしての総長賭博を行った角で、昭和40年(1965)に再び逮捕された。

 (3)、住吉会の解散

  ・昭和40(1965)年3月に錦政会が解散をし、住吉会も同年4月に解散をした。港会と改称されてからたった7ヶ月での解散となった。

5、磧上の死

 ・磧上は昭和42年(1967)に病没した。享年53歳。

<参考文献>

『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)