1、意義
・幕末から明治にかけての大侠客「会津の小鉄」こと上坂仙吉に連なる京都の名門博徒組織。
2、来歴
(1)、初代上坂仙吉
→ヤクザ人物史 会津小鉄(上坂仙吉)
(2)、二代目上坂卯之松
・明治18年(1885)、初代が53歳で亡くなり、二代目は実子の上坂卯之松が継いだ。昭和14年(1939)に二代目は亡くなったが、その名跡の重さから三代目を継承する者はいなかった。
(3)、三代目図越利一
①、生い立ち
・図越利一は大正2年(1913)に京都市下京区で生まれる。図越家は高瀬川沿いの世話役を勤める父利三郎のもとで比較的裕福であったが、その周辺は内浜とよばれる水運地帯であり環境は最悪であった。図越利一は子どもの頃からケンカと博打にあけくれる。やがて愚連隊を率いて盛り場を荒らし、傷害致死で22歳の時には京都刑務所に服役もしている。出所後も盛り場を荒らして回る日々を過ごしていた。
②、中島会
・中島会は、中島源之介によって結成され、戦後の京都で盤石の基盤を築いた組織である。初代会津小鉄で若頭を務めた「いろは幸太郎」こと長谷川伊三郎の孫分にあたる水車政の若い衆「ヘン徳」こと木村徳太郎が中島の親分であった。図越利一は、この中島源之介から昭和16年(1941)に盃をうけて渡世入りした。昭和35年(1960)に中島源之介が亡くなると、図越利一は中島会の二代目を継承した。
③、京都ヤクザを統一する
・図越利一はやがて京都のヤクザをまとめて中島連合会を発足させ、自らその会長となった。
④、木屋町事件
→木屋町事件
⑤、会津小鉄会を名乗る
・由緒ある会津小鉄の名跡が埋もれていることを惜しんだ大阪の長老である小久一家総長・石本久吉らの再三の要請によって、昭和50年(1975)、会津小鉄の九十年忌法要の席で図越利一は正式に会津小鉄の三代目を継承し、自らが「総裁」となり、名跡を「会津小鉄会」とし、代紋を「大瓢箪」に統一した。
(4)、四代目髙山登久太郎
①、就任
・昭和61年(1986)、髙山登久太郎が四代目会長を襲名した。これにより、図越総裁ー髙山会長体制が確立した。
②、反暴対法キャンペーン
ア)、反暴対法キャンペーン
・髙山は、新左翼系の遠藤誠弁護士を呼んで勉強会を主催したり、平成3年(1991)秋には五代目山口組組長・渡辺芳則、三代目稲川会会長・稲川裕紘、住吉会会長・西口茂男らとともに「極道サミット」を開催したり、メディアに積極的に露出して暴対法粉砕を主張した。
イ)、暴対法施行後
・暴対法が施行されると髙山は、行政訴訟を提起したり、テレビに出演して暴対法反対の論陣を張った。さらに、平成4年(1992)には『警鐘』という本を発刊して話題を集めた。
③、会津会館の建設
・髙山の時代はバブル経済の時期であり、会津小鉄会は用心棒代や、土建建設事業だけでなく、京都における地上げでかなりの利益を得る。平成元年(1989)、会津小鉄会は四階建て、延べ床面積約1900平方メートルの「会津会館」を総工費20億で建設した。
参考)、四代目会津小鉄会の経済的基盤
④、山口組との相次ぐ抗争事件
ア)、山下組組員警官誤射殺事件
・木屋町事件以来山口組は京都へ進出しない約束が定まったが、平成になると再び山口組の京都進出が進み、抗争が相次ぐようになる。平成7年(1995)には、京都市左京区の会津小鉄会系山浩組事務所前で警戒中だった私服警官が、五代目山口組系山下組組員に、会津小鉄会系組員と誤認されて射殺された事件が起こっている。この事件では五代目山口組組長・渡辺芳則が使用者責任を問われた。
イ)、八幡事件
・平成8年(1996)、京都府八幡市の理髪店で、五代目山口組若頭補佐・中野太郎が、四代目会津小鉄会系組員に銃撃され、応戦した中野会幹部によって会津小鉄会系組員2人が射殺された事件が起こった。この事件は翌年、発生した宅見勝若頭射殺事件の原因にもなっている。
⑤、山口組との関係強化
・会津小鉄会の首脳部は、平成5年(1993)に髙山と五代目山口組組長・渡辺芳則が食事会をしたり、平成8年(1996)には五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉、四代目共政会会長・沖本勲、四代目会津小鉄会若頭・図越利次の3人で五分の兄弟盃を交わしたりして関係強化を図った。
⑥、髙山の引退
・髙山の息子が経営する不動産会社が、石垣島で計画したリゾート開発に失敗し、数百億円の借金を作った。この結果、髙山の権威が失墜し、「追い込みはかけない」「身体の安全は保証する」、もしいったん͡コトがあれば山口組が守ることを条件として、髙山は引退をした。
(5)、五代目図越利次
①、就任
・平成8年(1996)暮れ、総裁の図越利一が引退、翌年の平成9年(1996)には会長の髙山も引退し、その跡目を図越利一の実子である図越利次が継承した。この継承式では五代目山口組組長・渡辺芳則が後見人、親戚総代は三代目稲川会会長・稲川裕紘が務めた。
②、六代目山口組組長・司忍と代紋違いの舎弟になる
・平成17年(2005)、図越利次は六代目山口組組長・司忍と代紋違いの舎弟となった。これにより両者の関係はより親密なものとなった。
(6)、六代目馬場美次
・平成20年(2008)、図越利次が引退して、長年理事長を務めてきた馬場美次が六代目会長に就任した。この継承式では、六代目山口組若頭・髙山清司が後見人を務めた。その後も、馬場や若頭の金子利典ら最高幹部は、頻繁に神戸を表敬訪問して六代目山口組との関係を親密にした。
(7)、二つの会津小鉄会
①、山口組の分裂
・平成27年(2015)、六代目山口組から神戸山口組が分裂をした。この影響が会津小鉄会にも及ぶ。馬場は六代目山口組に、六代目山口組若頭・髙山清司の後見返上を申し出た。これに対して、六代目山口組は激怒した。六代目山口組三代目弘道会の幹部が会津小鉄会に乗り込み、馬場の引退と若頭・原田昇の七代目会長就任を決定し、その旨がFAXで友誼団体に送信された。
②、神戸山口組の反撃
・馬場の引退と原田七代目の強引な決定に対して、馬場は神戸山口組の幹部を引き連れて、会津小鉄会本部にいる原田派と弘道会幹部を追い出いそうとした。
③、金子派会津小鉄会
・平成29年(2017)1月21日、馬場が総裁となり、六代目会津小鉄会で顧問を務めた四代目いろは会会長・金子利典が、神戸山口組の支援のもとで、七代目会津小鉄会会長を襲名した。
④、原田派会津小鉄会
・同年2月7日、原田が七代目会津小鉄会を襲名した。後見人は六代目山口組若頭補佐で三代目弘道会会長の竹内照明であり、襲名式には六代目山口組の直系組長が大勢参列した。
⑤、金子会長襲撃事件
・同年5月19日、京都市左京区の路上で、六代目山口組四代目吉川組組員が、銭湯から出て車に乗り込む途中の金子らを襲撃し、鉄パイプで殴って重傷を負わせる事件が起こった。
⑥、金子派会津小鉄会が七代目会津小鉄会へ
・平成30年(2019)4月19日、京都府公安委員会は、「六代目会津小鉄会」から「七代目会津小鉄会」に名称変更をした旨を公示した。この際、代表者は「金元(金子利典)」とされたことから、暴対法において「七代目会津小鉄会」として指定暴力団とされたのは、金子派会津小鉄会ということになる。
⑦、指定暴力団ではない原田派会津小鉄会に暴対法が適用される
・暴対法制定過程において、暴対法が指定暴力団以外の組織に適用されないか危惧されていたこともあって、暴対法の運用は慎重に行われていた。原田派会津小鉄会の心誠会事務所は、同組織が指定暴力団であった平成29年(2018)に、暴対法に基づいて使用を禁止する仮処分が命じられた。しかし、平成30年(2019)4月19日に金子派会津小鉄会が「七代目会津小鉄会」として指定暴力団と認定されたことによって、原田派会津小鉄会は指定暴力団ではなくなった。したがって、京都府暴力追放運動推進センターが改めて心誠会事務所に、暴対法に基づく使用禁止の仮処分を求めた。これに対して、平成30年(2019)9月、京都地裁はこの仮処分を認める決定をした。これにより、史上初めて指定暴力団ではない組織に暴対法が適用されたことになる。
⑧、組織統合
・令和3年(2021)1月22日、六代目山口組淡海一家本部で、金子、原田両会長が、竹内に組織統合の挨拶をした。
⑨、会津小鉄会館の売却
・令和3年(2021)4月8日、会津小鉄会館が、京都市内の不動産業者に売却された。この業者は、会津小鉄会館を解体して更地に、跡地をビジネスに利用するという。
<参考文献>
『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)
『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)
「会津小鉄会の「対立していた2人の会長」が六代目山口組最高幹部に挨拶「統合が事実上決定」か」(20210127 biz-journal 山口組問題特別取材班)
・幕末から明治にかけての大侠客「会津の小鉄」こと上坂仙吉に連なる京都の名門博徒組織。
2、来歴
(1)、初代上坂仙吉
→ヤクザ人物史 会津小鉄(上坂仙吉)
(2)、二代目上坂卯之松
・明治18年(1885)、初代が53歳で亡くなり、二代目は実子の上坂卯之松が継いだ。昭和14年(1939)に二代目は亡くなったが、その名跡の重さから三代目を継承する者はいなかった。
(3)、三代目図越利一
①、生い立ち
・図越利一は大正2年(1913)に京都市下京区で生まれる。図越家は高瀬川沿いの世話役を勤める父利三郎のもとで比較的裕福であったが、その周辺は内浜とよばれる水運地帯であり環境は最悪であった。図越利一は子どもの頃からケンカと博打にあけくれる。やがて愚連隊を率いて盛り場を荒らし、傷害致死で22歳の時には京都刑務所に服役もしている。出所後も盛り場を荒らして回る日々を過ごしていた。
②、中島会
・中島会は、中島源之介によって結成され、戦後の京都で盤石の基盤を築いた組織である。初代会津小鉄で若頭を務めた「いろは幸太郎」こと長谷川伊三郎の孫分にあたる水車政の若い衆「ヘン徳」こと木村徳太郎が中島の親分であった。図越利一は、この中島源之介から昭和16年(1941)に盃をうけて渡世入りした。昭和35年(1960)に中島源之介が亡くなると、図越利一は中島会の二代目を継承した。
③、京都ヤクザを統一する
・図越利一はやがて京都のヤクザをまとめて中島連合会を発足させ、自らその会長となった。
④、木屋町事件
→木屋町事件
⑤、会津小鉄会を名乗る
・由緒ある会津小鉄の名跡が埋もれていることを惜しんだ大阪の長老である小久一家総長・石本久吉らの再三の要請によって、昭和50年(1975)、会津小鉄の九十年忌法要の席で図越利一は正式に会津小鉄の三代目を継承し、自らが「総裁」となり、名跡を「会津小鉄会」とし、代紋を「大瓢箪」に統一した。
(4)、四代目髙山登久太郎
①、就任
・昭和61年(1986)、髙山登久太郎が四代目会長を襲名した。これにより、図越総裁ー髙山会長体制が確立した。
②、反暴対法キャンペーン
ア)、反暴対法キャンペーン
・髙山は、新左翼系の遠藤誠弁護士を呼んで勉強会を主催したり、平成3年(1991)秋には五代目山口組組長・渡辺芳則、三代目稲川会会長・稲川裕紘、住吉会会長・西口茂男らとともに「極道サミット」を開催したり、メディアに積極的に露出して暴対法粉砕を主張した。
イ)、暴対法施行後
・暴対法が施行されると髙山は、行政訴訟を提起したり、テレビに出演して暴対法反対の論陣を張った。さらに、平成4年(1992)には『警鐘』という本を発刊して話題を集めた。
③、会津会館の建設
・髙山の時代はバブル経済の時期であり、会津小鉄会は用心棒代や、土建建設事業だけでなく、京都における地上げでかなりの利益を得る。平成元年(1989)、会津小鉄会は四階建て、延べ床面積約1900平方メートルの「会津会館」を総工費20億で建設した。
参考)、四代目会津小鉄会の経済的基盤
④、山口組との相次ぐ抗争事件
ア)、山下組組員警官誤射殺事件
・木屋町事件以来山口組は京都へ進出しない約束が定まったが、平成になると再び山口組の京都進出が進み、抗争が相次ぐようになる。平成7年(1995)には、京都市左京区の会津小鉄会系山浩組事務所前で警戒中だった私服警官が、五代目山口組系山下組組員に、会津小鉄会系組員と誤認されて射殺された事件が起こっている。この事件では五代目山口組組長・渡辺芳則が使用者責任を問われた。
イ)、八幡事件
・平成8年(1996)、京都府八幡市の理髪店で、五代目山口組若頭補佐・中野太郎が、四代目会津小鉄会系組員に銃撃され、応戦した中野会幹部によって会津小鉄会系組員2人が射殺された事件が起こった。この事件は翌年、発生した宅見勝若頭射殺事件の原因にもなっている。
⑤、山口組との関係強化
・会津小鉄会の首脳部は、平成5年(1993)に髙山と五代目山口組組長・渡辺芳則が食事会をしたり、平成8年(1996)には五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉、四代目共政会会長・沖本勲、四代目会津小鉄会若頭・図越利次の3人で五分の兄弟盃を交わしたりして関係強化を図った。
⑥、髙山の引退
・髙山の息子が経営する不動産会社が、石垣島で計画したリゾート開発に失敗し、数百億円の借金を作った。この結果、髙山の権威が失墜し、「追い込みはかけない」「身体の安全は保証する」、もしいったん͡コトがあれば山口組が守ることを条件として、髙山は引退をした。
(5)、五代目図越利次
①、就任
・平成8年(1996)暮れ、総裁の図越利一が引退、翌年の平成9年(1996)には会長の髙山も引退し、その跡目を図越利一の実子である図越利次が継承した。この継承式では五代目山口組組長・渡辺芳則が後見人、親戚総代は三代目稲川会会長・稲川裕紘が務めた。
②、六代目山口組組長・司忍と代紋違いの舎弟になる
・平成17年(2005)、図越利次は六代目山口組組長・司忍と代紋違いの舎弟となった。これにより両者の関係はより親密なものとなった。
(6)、六代目馬場美次
・平成20年(2008)、図越利次が引退して、長年理事長を務めてきた馬場美次が六代目会長に就任した。この継承式では、六代目山口組若頭・髙山清司が後見人を務めた。その後も、馬場や若頭の金子利典ら最高幹部は、頻繁に神戸を表敬訪問して六代目山口組との関係を親密にした。
(7)、二つの会津小鉄会
①、山口組の分裂
・平成27年(2015)、六代目山口組から神戸山口組が分裂をした。この影響が会津小鉄会にも及ぶ。馬場は六代目山口組に、六代目山口組若頭・髙山清司の後見返上を申し出た。これに対して、六代目山口組は激怒した。六代目山口組三代目弘道会の幹部が会津小鉄会に乗り込み、馬場の引退と若頭・原田昇の七代目会長就任を決定し、その旨がFAXで友誼団体に送信された。
②、神戸山口組の反撃
・馬場の引退と原田七代目の強引な決定に対して、馬場は神戸山口組の幹部を引き連れて、会津小鉄会本部にいる原田派と弘道会幹部を追い出いそうとした。
③、金子派会津小鉄会
・平成29年(2017)1月21日、馬場が総裁となり、六代目会津小鉄会で顧問を務めた四代目いろは会会長・金子利典が、神戸山口組の支援のもとで、七代目会津小鉄会会長を襲名した。
④、原田派会津小鉄会
・同年2月7日、原田が七代目会津小鉄会を襲名した。後見人は六代目山口組若頭補佐で三代目弘道会会長の竹内照明であり、襲名式には六代目山口組の直系組長が大勢参列した。
⑤、金子会長襲撃事件
・同年5月19日、京都市左京区の路上で、六代目山口組四代目吉川組組員が、銭湯から出て車に乗り込む途中の金子らを襲撃し、鉄パイプで殴って重傷を負わせる事件が起こった。
⑥、金子派会津小鉄会が七代目会津小鉄会へ
・平成30年(2019)4月19日、京都府公安委員会は、「六代目会津小鉄会」から「七代目会津小鉄会」に名称変更をした旨を公示した。この際、代表者は「金元(金子利典)」とされたことから、暴対法において「七代目会津小鉄会」として指定暴力団とされたのは、金子派会津小鉄会ということになる。
⑦、指定暴力団ではない原田派会津小鉄会に暴対法が適用される
・暴対法制定過程において、暴対法が指定暴力団以外の組織に適用されないか危惧されていたこともあって、暴対法の運用は慎重に行われていた。原田派会津小鉄会の心誠会事務所は、同組織が指定暴力団であった平成29年(2018)に、暴対法に基づいて使用を禁止する仮処分が命じられた。しかし、平成30年(2019)4月19日に金子派会津小鉄会が「七代目会津小鉄会」として指定暴力団と認定されたことによって、原田派会津小鉄会は指定暴力団ではなくなった。したがって、京都府暴力追放運動推進センターが改めて心誠会事務所に、暴対法に基づく使用禁止の仮処分を求めた。これに対して、平成30年(2019)9月、京都地裁はこの仮処分を認める決定をした。これにより、史上初めて指定暴力団ではない組織に暴対法が適用されたことになる。
⑧、組織統合
・令和3年(2021)1月22日、六代目山口組淡海一家本部で、金子、原田両会長が、竹内に組織統合の挨拶をした。
⑨、会津小鉄会館の売却
・令和3年(2021)4月8日、会津小鉄会館が、京都市内の不動産業者に売却された。この業者は、会津小鉄会館を解体して更地に、跡地をビジネスに利用するという。
<参考文献>
『反社会勢力』(2014、笠倉出版社)
『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)
「会津小鉄会の「対立していた2人の会長」が六代目山口組最高幹部に挨拶「統合が事実上決定」か」(20210127 biz-journal 山口組問題特別取材班)