1、意義
・住吉会の歴史は、住吉一家の歴史から始まる。昭和33年(1958)、住吉一家三代目・阿部重作の時に、住吉一家を含む関東の博徒・テキヤ・愚連隊など28団体を結集して連合組織としての「港会」が結成された。この連合組織はこの後、「港会」-「住吉会」ー「住吉連合」ー「住吉連合会」ー「住吉会」と名称を変えている。他方で、この連合組織に所属する団体は住吉一家への加入が進み、現在、連合組織である「住吉会」を構成する組織は住吉一家と幸平一家のみとなっている。
2、結成
(1)、公式
①、意義
・住吉一家初代の頃は資料が残っていないので不明な点も多いが、現在住吉一家では明治初期に博徒として広く知られた伊東松五郎を住吉一家の初代としている。なお、住吉一家の祖である堀内豊次郎、その跡目の五十嵐徳次郎は、大口惣八を住吉一家の跡目にしようとしたが、大口は断り伊東を推薦したので、伊東が住吉一家初代となった事情がある。
②、伊東松五郎とは
・伊東は、弘化3年(1846)に日本橋住吉町(現在の日本橋人形町二、三丁目)に生まれた。伊東の父親与兵衛は「住吉の旦那」と呼ばれ、伊東自身も若いころは「住吉の梅」と呼ばれて、相当な暴れん坊であった。大正9年(1921)10月25日に亡くなった。享年75歳。
(2)、「住吉」とは
・住吉一家初代の頃は資料が残っていないので、なぜ「住吉」なのかも明確ではない。伊東が出生地名からとか、住吉一家の創始者の総長が「住吉」であったためなど諸説ある。
3、二代目・倉持直吉
(1)、倉持直吉とは
①、出生
・明治10年(1877)に茨城県常総市で「河岸勘」という料亭を経営している家に生まれた。祖父も父も地元で知られた博奕打ちであった。
②、渡世入り
・千葉県野田市の中里一家初代・堺定吉の盃をうけて、渡世入りする。
③、凶状旅
・若き日、倉持は兄貴分の仇討ちのために人を斬り警察に追われる身となり、12年近く長旅をした。結局、時効寸前で東京日本橋の天ぷら屋にいたところを逮捕された。懲役4年半の判決をうけ、実際の収監は1年半で出所している。倉持は、警察から追われて長旅をしているうちに大勢の若い衆や兄貴分をつくった。そんな中に、住吉一家の祖である堀内豊次郎や大口惣八がいる。この大口の一人娘とらが倉持と結婚をしている。
(2)、住吉一家二代目へ
・大正初め、伊東初代は老衰のため引退を決意し、倉持に跡目を譲った。
(3)、大日本国粋会と関東国粋会の結成
①、大日本国粋会
・大正8年(1919)、博徒の全国的な右翼団体として大日本国粋会が結成された。倉持は西村伊三郎、梅津勘兵衛、河合徳三郎らとともに中心的な役割をはたした。大日本国粋会は、時の首相・原敬や内相・床次竹次郎ら立憲政友会が後ろ盾となった。
②、関東国粋会
・全国組織である大日本国粋会の関東版として関東国粋会が結成された。関東国粋会は太平洋戦争中に、司法省から委嘱されて「武蔵挺身隊」を組織して、爆弾で焼死または爆死した被災者を取り片づけて焼却する仕事を行った。
(4)、最期
・倉持は30年間住吉一家二代目をつとめ、昭和23年(1948)に阿部重作に跡目を譲って隠退し、昭和29年(1954)に亡くなった。享年76歳。
<参考文献>
『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)
・住吉会の歴史は、住吉一家の歴史から始まる。昭和33年(1958)、住吉一家三代目・阿部重作の時に、住吉一家を含む関東の博徒・テキヤ・愚連隊など28団体を結集して連合組織としての「港会」が結成された。この連合組織はこの後、「港会」-「住吉会」ー「住吉連合」ー「住吉連合会」ー「住吉会」と名称を変えている。他方で、この連合組織に所属する団体は住吉一家への加入が進み、現在、連合組織である「住吉会」を構成する組織は住吉一家と幸平一家のみとなっている。
2、結成
(1)、公式
①、意義
・住吉一家初代の頃は資料が残っていないので不明な点も多いが、現在住吉一家では明治初期に博徒として広く知られた伊東松五郎を住吉一家の初代としている。なお、住吉一家の祖である堀内豊次郎、その跡目の五十嵐徳次郎は、大口惣八を住吉一家の跡目にしようとしたが、大口は断り伊東を推薦したので、伊東が住吉一家初代となった事情がある。
②、伊東松五郎とは
・伊東は、弘化3年(1846)に日本橋住吉町(現在の日本橋人形町二、三丁目)に生まれた。伊東の父親与兵衛は「住吉の旦那」と呼ばれ、伊東自身も若いころは「住吉の梅」と呼ばれて、相当な暴れん坊であった。大正9年(1921)10月25日に亡くなった。享年75歳。
(2)、「住吉」とは
・住吉一家初代の頃は資料が残っていないので、なぜ「住吉」なのかも明確ではない。伊東が出生地名からとか、住吉一家の創始者の総長が「住吉」であったためなど諸説ある。
3、二代目・倉持直吉
(1)、倉持直吉とは
①、出生
・明治10年(1877)に茨城県常総市で「河岸勘」という料亭を経営している家に生まれた。祖父も父も地元で知られた博奕打ちであった。
②、渡世入り
・千葉県野田市の中里一家初代・堺定吉の盃をうけて、渡世入りする。
③、凶状旅
・若き日、倉持は兄貴分の仇討ちのために人を斬り警察に追われる身となり、12年近く長旅をした。結局、時効寸前で東京日本橋の天ぷら屋にいたところを逮捕された。懲役4年半の判決をうけ、実際の収監は1年半で出所している。倉持は、警察から追われて長旅をしているうちに大勢の若い衆や兄貴分をつくった。そんな中に、住吉一家の祖である堀内豊次郎や大口惣八がいる。この大口の一人娘とらが倉持と結婚をしている。
(2)、住吉一家二代目へ
・大正初め、伊東初代は老衰のため引退を決意し、倉持に跡目を譲った。
(3)、大日本国粋会と関東国粋会の結成
①、大日本国粋会
・大正8年(1919)、博徒の全国的な右翼団体として大日本国粋会が結成された。倉持は西村伊三郎、梅津勘兵衛、河合徳三郎らとともに中心的な役割をはたした。大日本国粋会は、時の首相・原敬や内相・床次竹次郎ら立憲政友会が後ろ盾となった。
②、関東国粋会
・全国組織である大日本国粋会の関東版として関東国粋会が結成された。関東国粋会は太平洋戦争中に、司法省から委嘱されて「武蔵挺身隊」を組織して、爆弾で焼死または爆死した被災者を取り片づけて焼却する仕事を行った。
(4)、最期
・倉持は30年間住吉一家二代目をつとめ、昭和23年(1948)に阿部重作に跡目を譲って隠退し、昭和29年(1954)に亡くなった。享年76歳。
<参考文献>
『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)