かつては警察官とヤクザを養成する大学として知られた国士舘大学。今回は、その国士舘大学で起こった理事殺害事件についてまとめます。

<参考動画>

 ・岩橋健一郎氏とHOMIE KEIさんが武闘派暴走族の話をされています。䥝(みなごろし)のメンバーは国士舘出身で、将来はヤクザになるか警察官になるかだったそうです。



1、事件

 ・昭和58年(1983)、国士舘大学常務理事・安高武が、同大OB・中村誠他一名と面会中、中村に刺殺された。


2、国士館大学とは

 (1)、意義
 
  ・国士舘大学は、頭山満の門下生であった柴田徳次郎が、国士を養成するために、大正6年(1917)に国士館義塾として創設したものである。戦後は、昭和33年(1958)に大学としてスタートし、拡大させていった。


 (2)、柴田家のワンマン体制

  ・国士舘大学は、創設者の柴田徳次郎、その子の柴田梵天の父子二代に渡ってワンマン体制を敷き、問題が多かった。

3、柴田家vs反柴田家


 (1)、意義 

  ・柴田家のワンマン体制に対して、反柴田家の動きが出てきた。その代表格が安高であった。安高は、昭和48年(1973)に柴田徳次郎が死去した際に後継者を、柴田梵天と争って敗れたいきさつがあり、総長となった柴田梵天は反柴田派の役員の追い出しを図った。

 (2)、反柴田派排斥

  ・反柴田派の排斥を実際に行ったのが、柴田梵天の「親衛隊」を自称する中村誠であった。中村は国士館大学体育学部一期生で、国士館の伝統を守ることを目的として国士館同志会を結成し、自らは副会長となって教員組合を攻撃していた。

 (3)、安高の殺害

  ・中村による反柴田派排斥に対して、安高は当時懸案となっていた学内の疑惑について柴田梵天に釈明を求め、もし回答がないなら昭和54年(1979)に自身が中村に8時間にわたり監禁され事務局長を辞任させられた事件を公表すると迫った。このような背景のもとで、中村は安高を殺害した。

4、柴田家支配の終焉

 (1)、反柴田派の動き

  ・昭和59年(1984)、国士舘大学の有志教員によって学長解任を求める訴えが東京地裁に出され、さらには教員組合が無期限ストを行った。

 (2)、柴田派の反撃

  ・柴田派は、無期限ストに参加した教職員など11名を懲戒解雇した。

 (3)、反柴田派の反撃

  ・反柴田派は国士館大正常化推進連合を中心に大学のバリケード封鎖を行った。

 (4)、文部省の介入

  ・この紛争に文部省が介入し、柴田梵天が総長と理事長を辞任し、東洋大学教授・綿引紳郎が新理事長に、元文部省管理局長・清水成之が副理事長となり、教職員に対する解雇処分は撤回、学内封鎖を行ったことを不問に付すことで話がまとまった。なお、柴田梵天は名誉職である国士館長となった。

<参考文献>

 『最新 右翼辞典』(堀幸雄、柏書房、2006)