稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・盃事の研究

盃事の研究 神戸山口組の「逆盃」と任俠団体山口組の「革命」

1、神戸山口組の「逆盃」

 (1)、六代目山口組直系組長4人

  ①、引用(「情報戦で劣勢の「六代目山口組」の激白5時間 「カネ、カネ、カネ」だから叛乱は事実か?」(20151001、週刊新潮))

   司の親分の盃飲んだモンが、その盃を返すことなくほったらかしにして出て行っとるんやから、これ、謀叛ですやんか。しかも、これは逆縁と言うて、我々の世界では犯罪。犯罪の中でも、万死に値するもんです。

   我々の世界の根本に何があるかというと、盃事なんです。汚い世界のたった一つのキレイなところ、と言うてもええかもしれません。今回、彼ら(注、神戸山口組の親分たち)は我々の世界の根本にあるルールを破った。その時点で、向こうに百に一つの言い分があったとしても、それは通らない、ということなんです。山口組を含め、この業界では、一切の権利、一切の縄張りは親分のモン。先代と代替わりした時には、先代のカマドの灰まで当代のモンなんです。山口組の親分は、ええモンも悪いモンも全部引き継ぐ。その親分に白い物を黒や言われても、それは認める言うて我々、盃飲んどるんです。そんな大事な盃をほったらかしにして出るなんて、絶対にやってはならん。彼らには山口組を名乗る資格はない。

  ②、考察

   ・六代目山口組では直参組長が引退する時は、シノギも事務所も資産も置いていけという方針なので「カマドの灰まで当代のモン」となりますが、それ以外の部分については、山口組だけでなくヤクザ社会一般の論理でしょう。六代目山口組は一貫して「分裂」ではなく「謀叛」と言い続けました。

 (2)、神戸山口組最高幹部

  ①、引用(『山口組 分裂抗争の全内幕』(西岡研介他、宝島社、2016))

   今回の我々の行動を向こう(六代目山口組)は「逆縁だ」、「逆盃だ」と批判していますが、我々からすれば、逆縁は向こうからしてきたもの。神前で交わす、誓いの盃に最も必要とされるのは「誠の心」。そもそも神道の神髄は、誠の心にあるんです。夫婦盃も「誠の心を以て一生添い遂げます」と誓うでしょう。ヤクザの盃、親子の盃や兄弟の盃はそれよりはるかに重く、「天照大御神」、「春日大明神」、「八幡大菩薩」という三柱の前で、誠の心を以て契る。苦しい時には苦しみを、幸せな時には喜びを、親と子が、あるいは兄弟がお互いに「分かち合う」ことを誓うわけです。(中略)しかしあの人(注、六代目山口組組長・司忍)には「誠の心」がなかった。我々がどれほど誠の心を奉げて忠誠を誓っても、吸い上げるものだけ吸い上げて、搾取するだけ搾取して、用済みになったら捨てる。これじゃあ、奴隷じゃないですか。親と子ではなく、主と奴隷の関係ですよ。(中略)我々は逆縁したんではなく、すでにされていたんですよ。

  ②、考察

   ア)、盃よりも心が大切

    ・鳩は平和の象徴といいますが、目に見えない平和を目に見えるものにしたのが鳩という意味です。これと同じように、親と子、兄と弟の「誠の心」での関係という目に見えないものを形に表したものが盃であるという考え方です。そして重要なのは、形式的な「盃」ではなく、実質的な親と子、兄と弟の「誠の心」での関係であるということになります。このように考えれば、親と子、兄と弟の「誠の心」の関係を壊した司氏の方が「逆縁」「逆盃」をしたんだという理屈になるのです。

   イ)、盃は不要なのか

    ・この考え方を突き詰めていくと、もはや盃は不要なのではないか、親と子、兄と弟の「誠の心」での関係=絆さえあればよいのではないかという考え方に行き着きます。

2、任俠団体山口組の「革命」

 (1)、「ヤクザを一から定義し、作り直そうとする革命」

  ・神戸山口組は、司氏と弟、司氏と子という関係を壊しただけではなく、ヤクザ社会一般の論理を壊したことになります。盃を否定した神戸山口組に対して鈴木智彦氏は、「ヤクザを一から定義し、作り直そうとする革命」が必要であるとします。しかし、神戸山口組は離脱後、神戸山口組組長・井上邦雄氏と組長達の親と子、兄と弟の盃を交わしたので、まだヤクザ社会一般の論理の枠組みでした。

 (2)、織田氏は革命家か

  ①、盃事をしなかった任俠団体山口組

   ・平成29年(2017)に神戸山口組から分裂し織田絆誠氏を代表として任俠団体山口組が結成されました。任俠団体山口組本部長・池田幸治氏は、その結成式において「本来、我々の業界では盃を重んじ、忠誠を誓うというのが本筋ですが、一昨年(2015年)8月27日に、その盃の意味を崩壊させ、併せて絶縁・破門状の重みも崩壊させたのが神戸山口組であります。この現状の中で我々は盃よりも精神的な同士の絆に重きを置き、あえて盃事はいっさい執り行いません」と発言し、任侠団体山口組は盃事を行わない方針をとりました。

  ②、盃は否定せず

   ・しかし、織田氏はインタビューの中で、「私としては、ヤクザにとって大事な盃事を否定するのが本意ではないんです。山口組では五代目組長以降、この30年間、盃が諸悪の根源になってきた。盃を下ろした側(組長)は子分に対して、白い物を黒いと言って許されると考える。盃を下ろされた側(直参、直系組長たち)は親分からどんな理不尽なことを言われても、呑み込む、耐え抜いてこそ子分だといった変な美学がまかり通っている。盃を下ろすまでは、組長になる人はそれぞれいい人なんです。が、下ろしたとたん、子分からカネの吸い上げ自由、組織で組員たちに理不尽だという思いをさせても自分の勝手と考える。こういった盃なら要らないということです。しかるべき人物が現れ、トップになっても人柄や姿勢が変わらないと確信できた段階で、組長の座にお迎えして盃事を復活させたいと考えています」とするので、織田氏も盃自体を否定していません。

  ③、盃で組織を構築していく上で避けられない事

   ・イギリスの歴史家ジョン・アクトンに「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という有名な言葉がありますが、それこそ「白い物を黒いと言っても許される」ほどの権力を手中にした組長は、たとえ組長になるまでは「いい人」であっても、どんどん権力に溺れていくようです。盃で構築していくヤクザ組織においては、避けられない事なのかもしれません。織田氏は、権力を掌握したとしても権力に溺れない、そういう「しかるべき人物」=人格者を求めようという思想をとります。

 (4)、盃事に帰る

  ①、「しかるべき人物」は織田氏

   ・平成29年(2017)8月に任侠山口組に改称し、「(結成から)2年経って織田代表は変わったか。組長に就いたからといって、カネを持ってこいなどと言い出す人でないと分かった。しかるべき人は織田代表しかいない」という声が上がり、盃事が行われることになりました。

  ②、盃事に帰る

   ・平成31年(2019)4月16日、任侠山口組は長野県上田市にある石澤組本部(信州会館)で盃事を挙行し、これにより織田氏の「革命」は終わりました。ただ盃事は正装ではなくラフな服装で行われ、ここにおいては任侠山口組の従来のヤクザ組織とは異なる自由なスタイルが維持されました。

3、ヤクザ社会の根幹は盃

 (1)、盃事の意味

  ・歴史学者の熊倉功夫氏によると、日本人は唇が接触することについて非常に潔癖である、唇が接触するともはや他人ではなくなる、他人でなくなるようにするためには唇を接触させる儀式を行うそうです。つまり、盃事という儀式を行って、親と子、兄と弟がひとつの盃に口をつけて飲みかわすことは単なる形式的な儀式ではなく、特別な関係に入るために実質的に意味のあることなのです。

   参考)、盃事の研究 風俗嬢はなぜキスを嫌がるのか?

 (2)、ヤクザ社会の根幹は盃

  ・神戸山口組と任侠山口組(現絆會)は脱退と分裂を繰り返しました。このことに対して、令和2年(2020)の週刊文春のインタビューで六代目山口組幹部は、「ヤクザは、この男と決めたらとことん親分に付いて行くもの。そもそも、分裂騒動の際に山口組から出て行った時点で、ヤクザにとって最も重要な親子の盃をないがしろにしている。もはや脱退だとか分裂だとかいうことを繰り返しても、何も感じないようになっているのでは」と指摘しました。やはり、ヤクザ社会の根幹にあるのは盃なのでしょう。

<参考文献>

『山口組 分裂抗争の全内幕』(西岡研介他、宝島社、2016)
『山口組三国志 織田絆誠という男』(溝口敦、講談社、2017)
「情報戦で劣勢の「六代目山口組」の激白5時間 「カネ、カネ、カネ」だから叛乱は事実か?」(20151001、週刊新潮)
「任侠山口組がついに盃事を挙行、新たなヤクザ像を目指す「織田絆誠組長」が誕生へ」(沖田臥竜、20190419、biz-journal)
「任侠山口組が組長制に 40数名が織田代表と親子盃、舎弟盃」(溝口敦、20190423、日刊ゲンダイDIGITAL)
「ヤクザにとって最も重要な『親子の盃』をないがしろ」神戸山口組から6代目山口組系に大量移籍の動きが出始めた(尾島正洋、20200725、文春オンライン) 


盃事の研究 盃事は命がけ

、手打ちの盃

 ・Youtubeに山道抗争時の「手打ちの盃」の動画があります。



  「鯉の腹あわせの儀」とは、鯉を背中合わせにし、その後その腹を合わせることによって、これまで対立していた二人が腹を合わせて仲良くやっていこうという儀式です。その後に五分手打ちの盃を飲みます。しかし、盃事は盃事師も命がけのようです。

2、盃事は命がけ

 (1)、意義

  ・戦国時代は血なまぐさい喧嘩が頻発しましたが、江戸時代になり公儀権力による秩序が構築されてくると、喧嘩の際にも古来以来の作法である「手打ちの盃」が多用されるようになりました。しかし、「手打ちの盃」の作法をめぐって紛争も起こるようにもなりました。

 (2)、作法違いで殺された盃事師

  ・正保3年(1646)、大筒役の井上正継と稲富直賢が砲術の技をめぐって江戸城内で喧嘩寸前となった時、旗本長坂信次が間に入りました。しかし、この長坂の「手打ちの盃」に作法違いがあったことから井上が激高し、井上は長坂を殺害してしまいました。さらに、手打ちを乱したとして長坂家も幕府から千石余りの知行を没収されてしまいました。「盃事にあたりましては、古来より式作法等には多々流儀流派があるように聞き及んでおりますが、手前〇〇一門に伝わります流儀を持ちまして執り行わせていただきます」と必ず盃事師が断る理由も分かります。

<参考文献>

『サムライとヤクザ―「男」の来た道』(氏家幹人、筑摩書房、2007)

盃事の研究 風俗嬢はなぜキスを嫌がるのか?

 NHKラジオ第2で放送されている文化講演会で、熊倉功夫氏が「和食文化を再考する」という題名で興味深い講演をされていました。

「東南アジアから東アジアと全部箸を使っております。ですから、箸は日本だけではないのでありますが、日本の箸の特徴は何かといいますと、一人ずつ銘々が自分の箸を持っているということです。これはなかなか東南アジアでもないことなんですね。日本人は何故自分の箸を持つのか。日本人は箸だけではなく、湯飲みであるとか、飯茶碗についても自分の物を持っています。何故、そういう風に個人所有なのか。私は、日本人は唇が接するものについて潔癖なんだろうと思います。逆に言えば臆病なんだろうと思います。ですから、日本人は唇の接触について、いろいろなタブーを持っております。日本人は唇というものに関して、ある種の皮膚感覚として伝統的なものを持ち続けているんだろと思うんですね。ですから、そういう唇の接触するところに入ってきてしまうと、もう他人でなくなることになります。つまり、他人でなくなるための儀式は唇を共にすることなんですね。それの典型的なことが、盃の応酬でござます。今は宴会でやることはないと思いますが、40、50年前は上役が俺の盃なんて言ってやっていました。こういうのは今は裏社会しかないと思いますが、そういう風に盃を応酬することによって他人でなくなる儀式、これが今残っておりますのが、結婚式の三々九度でございます。あそこで新郎と新婦が盃をめぐらせる、はじめて唇を共にする、はじめてかどうかは分かりませんが、とにかく親戚縁者の前でははじめてということで、これが夫婦の契りになるというわけです。そのくらい日本人の唇に対する皮膚感覚というもの、潔癖さは非常に伝統的なものだと思います。」

 日本人は唇が接触することについて非常に潔癖である、唇が接触するともはや他人ではなくなる、他人でなくなるようにするためには唇を接触させる儀式を行うというわけです。つまり、キスを嫌がる風俗嬢は、客とは他人でいたい、キスは他人ではない特別な人としたい、ということなのでしょう。他方、ヤクザの盃事は、他人ではない親分子分、兄弟分という特別な社会関係を築こうということなのです。キスを嫌がる風俗嬢の心理は、日本の文化に根付く自然なものだということになります。


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