稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・ヤクザと社会運動

ヤクザと社会運動 ヤクザはかつて社会運動のリーダーであった ー秩父事件と五菱会事件ー

1、ヤクザはかつて社会運動のリーダーであった

 (1)、意義

 ・社会運動のリーダーを調べてみるとヤクザが多いと指摘したのは、フリージャーナリストの猪野健治や歴史家の安丸良夫であった。ただし、例えば安丸の指摘は、マルクス主義歴史学の影響が強い1970年代の歴史学の世界では、「近世封建社会における社会的な異端者の存在形態を具体的に考察しようとするあまり、一揆指導者の一部を博徒や侠客と結びつけるのは、支配階級の偏見に導かれた謬見ではないか」と批判を受けた。しかし、江戸から明治にかけての社会運動のリーダーに博徒や侠客が多いことは事実である。

 (2)、具体例

  ①、一揆の指導者の人物像

   ・安丸は一揆の指導者を、「個人的な腕力と経験的な知識と弁舌の能力によって、その地域の民衆から信頼されており、争いごとがあるとうまくそれをおさめたりするような地域社会の実力者」であり、「彼らは、既成の秩序の枠組みにははいりきらない人間であり、博奕をうったり腕力を競ったりもするが、どこか頼り甲斐のある侠気をもった男」であり、「民衆生活に密着したゆたかな経験的知識と巧妙な説得の能力をもち、ばあいによっては民衆にかわって命を賭けてわたりあってくれるような人物」であり、宮本常一のいう「世間師」的なものであり、史料には「博徒」「侠客」などと記載されているとする。

  ②、具体例

   ・享保8年(1723) 羽前国長瀞騒動 名子久助 「大あばれ者」

   ・宝暦11年(1761) 上田藩の一揆 半平 「侠客を以て郷里に聞」えた人物

   ・天保8年(1837) 能勢一揆 山田屋大助 「風呂敷包を背負ひて歩行廻るかと思へば、二尺計りの長脇指を横たへ、黒縮緬の羽織など着用し、大道一杯踏みはだかりて歩行廻」るような人物

   ・安政6年(1859) 伊那郡の一揆 伊助 侠客

   ・慶応2年(1866) 羽前国村山地方の世直し一揆 横尾栄蔵 「侠客」

2、秩父事件

 (1)、意義

  ①、博徒侠客論としての秩父事件

   ・明治17年(1884)に埼玉県秩父郡で自由民権運動の激化事件として有名な秩父事件が起きた。「自由民権運動の最高形態」とも「百姓一揆の最高形態」とも評価があるが、もう一つ博徒侠客論としての秩父事件がある。秩父事件のリーダー田代栄助は「侠客」であり、この事件には多数の博徒侠客が加わった。

  ②、秩父事件の主要メンバー

    総理 田代栄助 「侠客」博徒か?

    副総理 加藤織平 博徒親分

    会計長 井上伝三 自由党員

    同   宮川津盛 祠掌
    
 (2)、秩父事件の背景

  ①、背景

   ・一般的に秩父事件は、①生糸相場の暴落、②埼玉県の地租増徴、③地租の現物納から金納によって、米作と養蚕で生計を立てていた秩父地方の農民が困窮したと説明される。しかし、もう一つの要素がある。埼玉県令・吉田清英は秩父事件の原因を「高利貸ナル者其一」と説明する。すなわち、博奕と高利貸である。

  ②、秩父の高利貸

   ア)、借りる側の事情

    ・埼玉県令・吉田は、「高利貸者ノ金ヲ借用スル輩ハ、賭博ヲ始ニテ之ニ次ノ者モ遊情ニシテ、不正ノ事ニ失敗シ之ヲ補ハンガ為ニ一時高利ノ金ヲ借ル者ニシテ賭博者同等ノ懶惰(らいだ)輩ナリ」とする。すなわち、現在でも娯楽として競馬、競輪、パチンコなどのギャンブルを楽しむ人は多いが、秩父地方の農民も博奕を楽しんでいた。東京日日新聞(明治17年11月25日号)によると「秩父ノ辺ニハ従来世ニ長脇差ト唱ヘタル不良ノ徒多クシテ頗ル治メ難シ」とある。「長脇差」とは博徒のことであるので、秩父地方では特に博奕が盛んであったようである。中には入れ込んでしまう者もおり、高利貸から借金を作った。こういった者は、生糸相場の暴落が起こるとすぐに経営が傾いてしまう。質入れした田畑は高利貸しに取られ、貧農に没落したり、狩猟や山林伐採などの雑業で糊口をしのぐようになってしまったのである。

   イ)、貸す側の事情

    ・秩父地方の高利貸は、

     ①、利率

      ・トイチ(10日に1割の利息)

     ②、利息の天引き

      ・10円借りると切金と称して2,3円を天引きした。

     ③、なるべく元本の返済を拒む

      ・元金が返済されてしまうと利息をとることができなくなってしまうので、高利貸は借主が返済をしに行くと故意に居留守を使い返済金を受け取らないようにした。

     といった方法で暴利をむさぼった。

 (3)、秩父事件のリーダー・田代栄助は何者か

  ①、田代栄助は何者か

   ア)、「侠客」田代栄助

    ・東京日日新聞(明治17年11月25日号)によると「栄助という男ハ大宮郷二百九十三番地に住む平民にて、平素農を業とし資産も乏しからず且つ一郷の望みを有する者にて、常に他人の貸借上の事及び婚姻の媒介或ハ父子兄弟不和など差縺(さしもつれ)があれバ自ら立ち入りて調和する等の事多きを以て郷間みな之を称するに親分を以てするに至れり」とある。よって、「侠客」であり、安丸が指摘する一揆の指導者像に適合する人物であるが、博徒であったかどうかは不明である。他方、読売新聞(明治17年11月18日)では田代を「博徒にして侠客風」と称している。

   イ)、田代に前科はあるのか

    ・東京日日新聞(明治17年11月25日号)では「同人の履歴を聞くに別段悪業を働きたる事もなく唯明治七年中告上不実の科により懲役六十日の刑に処せられしものなり」とする。しかし、困民党乙副大隊長・落合寅市の手記には、田代をリーダーに担いだ経緯として、田代は以前高利貸・原島亥之八の首を切り落としたからであるという話がある。落合達が酒席を共にしながら田代にこの話をすると、田代は「これで亥之八を斬った」と刀を示したという。

  ②、任侠としての田代栄助

   ・事件後逮捕された田代は、尋問中にリーダーに推された経過について「自分ハ性来強ヲ挫キ弱ヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者便リ来ルトキハ附籍為致其他人ノ困難ニ祭シ、中間ニ立チ仲裁等ヲ為ス事実ニ十八年間子分ト称スル者二百有余人今般井上伝三等ノ目論見タル四ケ条一貧民ヲ救フノ要用ナルヲ信シ同意を表シタル処総理ニ推サレタリ」と供述した。「強きを挫き弱きを助ける」を任侠というのであれば田代は任侠であり、万年東一の言う「損を平気でできるのが任侠」を任侠と言うのであれば、やはり田代は任侠である。明治政府に反乱を起こしても勝てるわけはない。極刑になるのが関の山である。しかし、田代は農民たちを助けるために損なリーダー役を受け入れ、そして絞首刑となった。田代を動かしたのは、自由民権の思想ではなく、任侠の精神だったのかもしれない。

3、五菱会事件

 (1)、意義

  ・秩父事件から約120年後、平成15年(2003)前後に五代目山口組五菱会が中心となった闇金が社会問題となった。


 (2)、システム

  ①、意義

   ・比較すればわかるように、悪徳金融の手法は、秩父事件における秩父の高利貸と五菱会でほぼ同じである。しかし、秩父事件と五菱会事件では明確な違いがある。それは、秩父事件では悪徳金融にヤクザがリーダーとなって立ち向かっていった。しかし、五菱会事件では、その悪徳金融にヤクザ自体がなった点である。

  ②、システム

   ア)、利率

    ・ヤミ金の利率は、トイチ(10日に1割)からどんどん上がっていき、トサン(10日で3割)、トゴ(10日で5割)、トナナ(10日で7割)となっていった。

   イ)、利息の天引き

    ・ヤミ金は、客に貸し付ける時に、金利は前払いされる。例えば、4万円貸し付けたとすれば、金利の前払いとして2万円が引かれ、実際には2万円しか渡されない。正確には、その他書類代や審査代などの名目で数千円がさらに差し引かれる。

   ウ)、なるべく元本の返済を拒む

    ・返済日に全額返済できない客は、ジャンプといって利息だけ支払って返済を先延ばしにすることができる。元本が返済されてしまうと利息がとれなくなってしまうので、ヤミ金業者はなるべく客にジャンプさせようとした。

   エ)、少額を貸し付ける

    ・高額を貸し付けると、さすがに客も高金利で返済できないのではないかとの危惧感を抱いてしまうので、貸し付ける限度額は10万円以内であった。少額であれば、たとえ高金利でも客は返済できるであろうと思うからである。

   オ)、多重債務者をターゲットとする

    ・五菱会は、最初は主婦に貸し付けていたが、その後ソープ嬢やソープ店の男性従業員にへと拡大し、さらには名簿屋から買い集めた多重債務者リストをもとに多重債務者へと貸し付けていった。一般的に、ヤミ金業者は多重債務者を狙って貸し付ける。

4、衰退するヤクザ

 ・五菱会はその後、美尾組を経て、平成19年(2007)に清水一家と改称された。しかし、江戸から明治を生きた清水次郎長に端を発するこの名称に変更することは、地元の反発が強かった。2019年の調査で、指定暴力団の組員数は13,800人、非指定団体を含めても14,400人とヤクザの数は最低を記録した。これからも人数を減らしていくだろう。ヤクザは一貫して国家の法に反することをやってきたが、大衆の支持は一定数あった。秩父事件の田代栄助の下に集い蜂起に参加したのは8,000人とも10,000人とも言われている。しかし、今のヤクザに大衆の支持はない。

<参考文献>

『ヤクザと日本人』(猪野健治 筑摩書房 1999)
『新装版 ヤクザ崩壊 半グレ勃興 地殻変動する日本組織犯罪地図』(溝口敦、講談社、2015)
「民衆運動の思想」『日本思想大系〈58〉民衆運動の思想』(安丸良夫 岩波書店 1970)
『アウトローの近代史―博徒・ヤクザ・暴力団』(礫川全次 平凡社 2008)

ヤクザと社会運動 浜松一力一家組事務所撤去活動

 今回は、浜松一力一家組事務所撤去活動をまとめます。原告団=警察=マスコミ史観で書かれた歴史叙述はたくさんあるので、一力一家史観でまとめます。

1、事件

  浜松中央署、浜松市、海老塚町自治会(のちに自治会執行部と原告団に分裂)vs四代目山口組国領屋一力一家、「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」

2、経過

 (1)、「ブラックビル」の建設

  ①、海老塚と一力一家との関係

   ・国領屋一家は、安政時代の国領屋亀吉を初代とする名門博徒組織である。四代目山口組国領屋一力一家は江戸時代から静岡県浜松市海老塚を費場所(縄張り)としており、五代目の大川治郎七親分の時代から組事務所をこの地に置いていた。その後組事務所は浜松市鴨江へ移ったが、当時副長をしていた青野哲也は青野組事務所を海老塚に置き、自らも海老塚に住んでいた。よって、一力一家の組員と海老塚の地域社会の住民は親しい関係を築いており、浜松名物の凧揚げ祭りのときなどは、一力一家の組員が率先して活躍し、住民は一力一家の事務所で酒を飲みかわすといったことも行われていた。

  ②、「ブラックビル」の建設

   ・昭和59年(1984)、青野は一力一家の七代目を継承した。そして昭和60年(1985)に、組員から海老塚の土地を買い取り、一力一家の本部事務所兼青野の自宅として、六階建てのビルを建設した。このビルは黒っぽいことから、住民運動を行っている住民によって「ブラックビル」と命名された。

 (2)、住民運動のはじまり

  ①、きっかけ

   ・浜松中央署が浜松市市民生活課に暴力団が海老塚に本部事務所を構える動きがある旨を伝え、さらに浜松市から海老塚町自治会に対策を立てた方がよいという指導が入った。これにより、「ブラックビル」完成前の昭和60年(1985)3月に、警察、市役所、自治会の三者会談がもたれ、同年4月には自治会主催の懇談会も開かれた。

  ②、「暴力追放推進モデル地区」へ

   ・海老塚は「暴力追放推進モデル地区」に指定され、昭和60年(1985)6月2日、浜松市市長・栗原勝や浜松中央署署長・熊岡久雄の出席のもとで、伝達式と住民大会が開催された。その後も、自治会、市、警察の三者代表が「進出断念」を求める要望書を一力一家に提出したり、暴力追放一周年の総決起大会が開催され、「暴力追放」の横断幕のもとで海老塚町内をバレードしたりする活動が行われた。

 (3)、住民運動の激化

  ①、自宅から本部事務所へ

   ・昭和61年(1986)8月18日、青野の自宅として使われていた「ブラックビル」に、一力一家の本部事務所としても使用するための引っ越しが始まった。これを契機として、住民運動が激しくなっていった。

  ②、住民運動の激化

   ア)、「ブラックビル」の監視

    ・住民たちはテント小屋を建て、やがては浜松市が建設費用を出して二階建てのプレハブ小屋を建て、24時間体制で「ブラックビル」を監視し、組員の動向を分刻みで記した監視日誌を作った。この監視役には、浜松市職員235名も参加し、監視小屋の一階には警察官が常駐してガードをした。さらに夜には、工事用の500ワットの投光器5基で「ブラックビル」を照らしたので、「ブラックビル」は深夜でも昼間のような明るさとなった。

   イ)、レター作戦・電話作戦

    ・浜松市役所職員が1000枚近いはがきを住民に配り、海老塚町民に青野へのメッセージを書かせ、それを「ブラックビル」に宛てて郵送した。このはがきは、「早く出て行けよ。アンタどういう神経してるの?」「一力一家の好きな物はどれか?番号に赤丸をつけよ。①シャブ②バクチ③取り立て④売春。お前らは社会のクズだ」といった誹謗中傷をするものや、死体の絵や藁人形を描いたものがあった。さらに浜松市は、「ブラックビル」に可能な限り電話をするように指示し、深夜に「ビルを爆破してやる」といった類の脅迫電話や無言電話が際限なくかかってくるようになった。

   ウ)、周辺者への攻撃

    ・海老原町内やさらには他の商店街も、一力一家関係者には食料品や日用品を一切売らない不買運動を行った。よって、組員は遠くの店まで買いに行く羽目となった。さらに、自治会が清掃会社に圧力をかけ、一力一家事務所のゴミ出しを妨害した。

    ・ビルを建てた工務店経営者も攻撃の対象となった。工務店経営者は最初は商事会社のビルと説明したが、後に一力一家のビルだとわかり嘘をついたということから、住民から何度もつるし上げを受け、さらには「お前の子どもを学校に行かせなくしてやる」等の脅迫までされるに至った。

   エ)、警察の援助

    ・静岡県警はジェットヘリを飛ばして、「一力一家追放まで頑張ってください」とマイクで応援したり、静岡県警本部長が直接住民を激励したり、一力一家組員を小さな罪でも次々と逮捕してはいかなる嫌疑でも家宅捜索をかけていった。一力一家は組の約3分の1にあたる40数名が検挙された(刑務所まで行ったのは2~3名であったので強引な検挙であった)。

   オ)、嫌がらせ

    ・住民は「ブラックビル」の換気扇の窓口から金属音をビル内に放出して騒音で攻撃をしたり、排水口に泥を詰めて床中を水浸しにしたり、勝手にタクシーや救急車を呼だりと嫌がらせをした。

 (4)、一力一家の提訴

  ①、市長あての抗議文

   ・一力一家は「カタギには手を出してはならない」の方針であったが、住民運動のエスカレートから青野は東京の弁護士に相談をした。そこでまずは、浜松市長宛てに抗議文を出したが、市長からは何の返信もなかった。

  ②、提訴

   ・市長への抗議文が黙殺されたことから、昭和61年(1986)11月5日、青野は追放運動で精神的な苦痛を受けたとして住民の代表らを相手取り、1000万円の慰謝料を求める訴訟を提起した。

 (5)、牙をむいた一力一家

  ・過激化する住民運動に対して、一力一家がとうとう牙をむいた。昭和62年(1987)6月20日朝、住民運動のリーダーの一人であり、浜松市長から委嘱されている暴力追放推進委員の男性宅のガラスが金属バットで叩き割られた。さらに同日午後、住民側の弁護団長である弁護士が刃物で刺傷され、全治三週間の重傷を負った。犯人は、一力一家早川組幹部であり、すぐに青野の手紙を持参の上で、弁護士に付き添われて、浜松中央署へ出頭した。この事件以後、マスコミや世論の一力一家へのバッシングが激しくなっていき、また弁護士が襲撃されたことから、弁護士会も住民側を応援し始めた。

 (6)、長老弁護士の仲裁

  ①、仲裁

   ・暴力沙汰まで起こった騒動に対して、浜松市の最古参弁護士が仲裁案を示した。この案は、一力一家と自治会が住民運動や訴訟ではなく話し合いで丸く収めようというものであった。

  ②、影響

   ・この仲裁案は、運動の分裂を招いた。すなわち、自治会長を中心とする話し合い重視の穏健派(自治会執行部)と、暴力追放推進委員の男性率いるあくまでも対決を貫こうとする強硬派(原告団)である。この後、自治会長は青野と実際にあって話し合いを進め、他方原告団は一力一家への提訴の準備を進めていった。

 (7)、住民運動の分裂

  ①、穏健派(自治会執行部)の話し合い

   ・穏健派(自治会執行部)の青野との話し合いは和解まで成立し、青野は200万円かけてビルの外壁を白く塗り替え、山口組の代紋や一力一家の文字看板を外し、先に起こした訴訟の取り下げをした。

  ②、強硬派(原告団)の逆提訴

   ・昭和62年(1987)8月10日、強硬派と住民側弁護団は、住民の人格権を基礎に、不安なく暮らす権利、抗争事件発生の際に生命、身体の危険を受けない権利を主張して、一力一家の青野に対し、ビルの事務所使用差し止めを求める仮処分を静岡地裁浜松支部に申請した。同年10月9日、原告側の言い分がほぼ全面的に認められ、一力一家は建物内で定例会を開いたり、構成員を集合させるなどして、建物を組事務所として使用してはならないとの決定が下された。さらに、ビルにのべ1日7人以上の組員が出入りした場合に、1日につき100万円の支払いを命じるという間接強制も認められた。青野は東京高裁に抗告をしたが、東京高裁は地裁決定は正当であるとして、抗告を棄却した。

 (8)、青野への逮捕状

  ①、青野への逮捕状

   ・警察庁は一力一家を追い詰めるべく、関係府県警に一力一家関係者の徹底調査を指示した。これを受けて、昭和63年(1988)1月28日、大阪府警は、青野ら2人が一和会会長・山本広および一和会幹部を射殺する目的で組員を集め拳銃を渡した疑いで逮捕状をとり、指名手配へと踏み切った。

  ②、背景

   ・この事件は、昭和59年(1984)9月に、一力一家の若手組員が大阪府警に無銭飲食で逮捕された際に供述したものであった。大阪府警が捜査に乗り出したが、結局ガセネタであることが判明した。しかし、それを警察庁の号令に合わせて引っ張り出してきものであった。これは、青野を留置所につなぎとめようという意図からきたものである。

 (9)、一力一家の暴発

  ・追い詰められた一力一家は、原告団関係者へ暴力をむき出しにした。昭和63年(1988)1月2日、原告団のリーダーであるタクシー運転手が、客を装った一力一家組員から刃物で首を切られ、1ヶ月の重傷を負った。さらに、浜松市役所暴追担当課長宅放火未遂事件なども起こった。

 (10)、「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」の結成

  ・原告団側は100人近い弁護士がいたのに対して、青野の訴訟代理人は、竹下甫弁護士一人であった。のちに、山之内幸夫弁護士が加わるが、さらに遠藤誠と西垣内堅佑両弁護士が加わった。また、右翼活動家の野村秋介を中心として「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」が結成され、会長は遠藤誠弁護士が就任した。

 (11)、和解の成立

  ①、和解の成立

   ・原告団側は話し合いに応じなかったが、青野の兄弟分であり四代目山口組国領屋下垂一家総長・滝沢孝が水面下で話し合いを呼び掛けていた。ついに原告団側はこの呼びかけに応じて、昭和63年(1988)2月14日、原告団と一力一家との第一回目の会合が持たれた。この会合は交渉決裂に終わったが、同年2月18日に二回目の会合がもたれ、翌19日の約9時間に及んだ三回目の会合を経て和解が成立した。

  ②、和解内容

   ・和解内容は11項目となった。主な内容としては、

    ア)、海老塚のビルは、一力一家の組事務所として使用してはならず、青野の居住以外の目的で使用してはならない。

    イ)、違反した場合は、一力一家は原告側に対して1日につき金100万円を支払う。

    ウ)、一力一家は和解成立後、原告らに一切の加害行為を行わないことを確約する。

    エ)、原告らは、和解成立後3日以内に一力一家の退去を要求する看板を撤去し、一力一家の組事務所の撤去を確認した後3日以内に監視活動を停止する。

    というもので、一力一家側が大幅に譲歩をし、原告団の主張が大幅に認められたものとなった。

 (12)、その後

  ①、一力一家の仮事務所

   ・海老塚に事務所をおけない一力一家は、海老塚のビルからわずか300mしか離れていない上浅田地区のマンションの一室に仮事務所を設置した。

  ②、収まらない地域社会の分断

   ・海老塚の住民は、穏健派の自治会執行部と強硬派の原告団に分裂した。一力一家との和解は、強硬派の原告団との間で成立したものであるので、一力一家の側では自治会執行部に謝罪に行った。この時に、自治会執行部と原告団はお互い仲良くやるように、一力一家の側で仲を取り持ったという。しかし両者の溝は埋まらず、浜松祭りの際に青野の婦人が自治会会計担当者に寄付金として3万円とおつまみを届けたが、これを受け取った自治会執行部に対して、海老塚を明るくする会(旧原告団)の側が反発し、自治会執行部の退陣を求めて、自治会費不払いなどの行動へと出た。

  ③、一力一家の報復か

   ・平成3年(1991)3月12日、静岡県浜松市海老塚で、海老塚を明るくする会(旧原告団)のリーダーが、何者かによって顔面を刃物で切られ、30数針の重傷を負わせられた。

3、まとめ

 (1)、暴力追放運動

  ①、総論

   ・一力一家は、江戸時代からの地元密着の地場ヤクザで、ヤクザとしてはおとなしい組であった。しかし、警察によって暴力追放キャンペーンが始まり、住民運動は過激化していった。ヤクザは学がなく、言葉がないので、その対抗の手段は暴力であった。これに対して、弁護士や住民運動のリーダーをヤクザが襲撃したことから、弁護士会が動き、さらにマスコミも危険な一力一家とそれに対抗する住民運動という文脈で報道されるようになった。しかし実際は、正義の原告団=警察=マスコミと悪のヤクザといった単純な構図ではなかった。

  ②、官製運動

   ・暴力追放運動を住民に始めるように言ったのは警察であった。その後も警察が運動を背後から指揮し、ある住民は「警察官のジュラルミンの盾があって、その前に市民が立たされているだけ」の運動と称した。山平重樹はこの運動を、「警察権力と浜松市当局がプログラムを書き、それが一部の住民の思惑(次期の市長、あるいは自治会長といった座への野心があり、そのための点数稼ぎ)とうまく重なり、さらにマスコミが乗っかって行われてきたもの」としている。

  ③、地域社会の分断

   ・暴力追放運動によって、海老塚地区は、一力一家と和解したい自治会執行部、一力一家との徹底対決を堅持する原告団、ともかく平和を望む一般住民との分断された。マスコミは、原告団と警察が推進する暴力追放キャンペーンを正義として報道したが、昼夜二交代で合計400人の警察官が張り付き、ひっきりなしに巡回や職務質問をするので、商店街に人が寄り付かなくなってしまい、海老塚の住民はたいていが平和を望んだ。海老塚地区の人口は約4000人であったが、原告団側に最後まで組した住人は約50人ほどにすぎなかった。

  ④、「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」の結成

   ・ヤクザという社会の一般的な価値観を共有しない、国家権力とは別に独自の暴力を持つ異質な存在を、国家権力の側が住民運動を指導して社会から排除していくというやり方に、社会運動の活動家、新左翼系の弁護士、一部のメディア関係者が危惧感を持ったのが、「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」の結成の位置づけられる。

 (2)、法律

  ①、人格権

   ・原告団の弁護士は、「一力一家追放訴訟は、暴力団が自ら所有する本拠(事務所)の周辺に居住する住民が人格権を根拠として司法手続により暴力団をその本拠(事務所)から追放した日本で初めての事例である。(中略)この裁判の中で確認された「人格権」法理の有用性と手法としての「保全処分」の絶大な効果は、その後の暴力団事務所追放運動に大きな武器と影響を与えた」と評価する。

  ②、財産権

   ・個人が所有している土地建物を、彼がヤクザだからという理由で組事務所としての使用が禁止できるという判断を静岡地裁浜松支部を行った。すなわち、人格権を「何人にも生命、身体、財産権等を侵されることなく平穏な生活を営む自由ないし権利があり、この権利は物権の場合と同様に排他性を有する」とする。そして、「人格権は人間の尊厳を守るための基本的な保護法益であり、受忍限度を超えて違法に侵害されたり、その恐れがある場合には、被害者は加害者に対し行為の差し止めや原因の除去を請求できる」とし、「一力一家は犯罪行為を頻発した実態に徹しており、これを改善することは困難で、現状のまま住民と共存することはできない。同ビルを組事務所として公然と使用する限り、住民はいついかなる危害を加えられるかもしれない危険や不安に脅かされることになる。人格権が受忍限度を超えて侵害され、危険や不安を早急に取り除く必要に迫られている」とした。

   ・西垣内堅佑弁護士は、そもそも訴訟を提起する以前の段階で、他の組や山口組内の一力一家以外の組の暴力事件については資料がたくさん集めてあるが、一力一家の暴力事件については具体的には明らかにされていない。訴え提起後に弁護士刺傷事件が起きたが、訴え提起以前の段階でそもそも住民に「いついかなる危害を加えられるかもしれない危険や不安」があったと言えるのかは疑問であるとする。

  ③、結社の自由

   ・憲法第二十一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定する。遠藤誠弁護士は、ビルにのべ1日7人以上の組員が出入りした場合に、1日につき100万円の支払いを命じるという静岡地裁浜松支部が行った間接強制は、結社である以上、一日に多数が出たり入ったりすることは当然である。また、一力一家の事務所は現在はこのビルしかないので、その事務所を結社として使ってはいけないということは、事実上の結社の自由の否定であるとする。

  ④、公共の福祉

   ・財産権や結社の自由といった基本的人権も公共の福祉の制限に服する。よって、確かに一力一家自体はおとなしい組でも、一力一家は山口組の組織であり、当時は山一抗争で山口組は一和会と抗争をしていたので、住民が山口組系組織の組事務所が近隣にあれば、危機感や不安感を持つのも理由がありといえ、ある程度の財産権の制限をうけるのはしょうがないと思われる。また、結社の自由も、例えば、犯罪を行うことを目的とする結社は許されないといった制約がある。

 (3)、社会から排除された人間はどこへ行けばいいのか

  ①、意義  

   ・暴力追放運動は、暴対法や暴排条例によって管理された形で行うことが可能となった。しかし、山平重樹が指摘する、「「異なったもの、問題のあるものを排除する」という論理である。ではこの排除された人間たちはいったいどこへいったらいいのか?こうして学校から排除され、社会からも排除された者同士が、互いにより集まって肌をぬくめ合う世界をつくるというのも、自然ななりゆきであろう。そしてできた集団がヤクザであるという一面も否定できない事実である」という問題は現代においても解決されていない。

  ②、ヤクザをやめた人の受け皿は宗教

   ・怒羅権の佐々木秀夫さんのチャンネルに出演された進藤龍也さんによると、ヤクザをやめた人の受け皿は宗教団体だそうです。


 <参考文献>

 『浜松一力一家始末記』(山平重樹、エスエル出版会、1988)
 「いま振り返る「一力一家追放訴訟ー人格権法理形成の端緒ー」(『民暴事件の実態と対策』(民事法研究会、2000))
スポンサーリンク
記事検索
スポンサーリンク
スポンサーリンク
プライバイシーポリシー
  • ライブドアブログ