1、抗争

 昭和23年 横浜 愚連隊四天王vs京浜兄弟会

2、終戦直後の横浜

 (1)、意義

  ・終戦直後の横浜は、伝統的な博徒の集まりである「京浜兄弟会」と、新興勢力の愚連隊が激しく対立をしていた。
 
 (2)、京浜兄弟会とは

  ・京浜兄弟会とは、雨宮光安、秋山繁次郎、滝沢栄一、高橋橋松、山瀬惣十郎、外峯勇、漆原金一郎という七人の親分が兄弟分の縁を結んだものであり、鶴岡政次郎、笹田照一、藤木幸太郎という横浜に君臨する大親分の系統に連なるもの達であった。

 (3)、愚連隊四天王とは
   
  ・横浜は愚連隊発祥の地である。日露戦争の少し前に愚連隊という言葉が生まれ、関東大震災後には急激に横浜で愚連隊が幅をきかせるようになっていた。終戦直後は、モロッコの辰こと出口辰夫、井上喜人、林喜一郎、吉水金吾の四人が愚連隊四天王と呼ばれて横浜を牛耳っていた。その他の愚連隊には、清水の小鉄やメリケンタケなどがいた。

3、前史

 (1)、意義

  ・博徒など屁とも思っていなかった愚連隊達は、賭場荒らしを平気でおこない、場銭やテラ銭を奪っていった。やがて京浜兄弟会系の賭場まで襲うようになったので、京浜兄弟会側は堪忍袋の緒が切れて、愚連隊と幾度も衝突をした。

 (2)、清水の小鉄の賭場荒らし

  ・清水の小鉄は、蒔田の漆原金一郎の賭場へひとりで乗り込み、賭場荒らしをした。これに対して漆原の若い衆は、清水の小鉄をボコボコに殴って山に放置した。清水の小鉄は病院に運び込まれたが、事件を聞いた愚連隊仲間が、次々の病院にお見舞いに訪れた。このトラブルは、稲川聖城が間に入って話をつけ、また退院後の清水の小鉄も稲川が面倒を見た。

 (3)、吉水邸襲撃事件

  ・昭和22年暮れ、吉水の自宅を刺客5人が襲撃した。しかし、吉水は不在であったことから、刺客たちは吉水とその関係者を探し回り、賭場で吉水の舎弟である川島武夫と小野洋助を見つけた。川島と小野は刺客たちに襲撃され、重傷を受けて病院送りとなった。

4、保土ヶ谷児童遊園地決闘事件

 (1)、愚連隊からヤクザへの果たし状

  ・舎弟が襲撃された事に激怒した吉水は、モロッコの辰、林喜一郎、清水の小鉄の連盟で、笹田系の博徒、浜野金三、荻野音次郎、森田小太郎、漆原金一郎に対して果たし状を叩きつけた。

 (2)、保土ヶ谷児童遊園地決闘事件

  ・昭和23年1月7日、保土ヶ谷児童遊園地に、吉水、モロッコの辰、林、清水と、服役中の井上を除いて、名だたる横浜の愚連隊が集まった。しかし、博徒たちはこの場に姿を現さなかった。代わりに弘明寺の警察署長が大勢の警官を従えて、愚連隊達に解散を命じた。

 (3)、手打式

  ・決闘事件後、吉水邸には東京芝の阿部重作や、横浜の鶴岡政次郎が訪れ仲裁をし、仲裁人・阿部、博徒側からは漆原、浜野、森田、萩野、愚連隊側からは吉水、モロッコの辰、林、清水の小鉄が出席して、手打式が執り行われた。

5、愚連隊四天王の稲川組入り

 ・愚連隊四天王のうち、モロッコの辰と井上がまずは、稲川聖城の若い衆となり、その後、服役から帰ってきた吉水と林が相次いで稲川の若い衆となった。京浜兄弟会が手を焼いた愚連隊四天王を全員、稲川は戦わずして自らの若い衆にしてしまったのである。この愚連隊四天王が稲川会初期の四天王として基礎固めに大きく貢献をしていった。

 <参考文献>

 『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目会長石井隆匡の生涯』(山平重樹、2014、幻冬舎)