稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・在日コリアンの歴史

在日コリアンの歴史(12) 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と在日本大韓民国居留民団(民団)

1、意義

 ・1948年の「大韓民国の国是を遵守する」在日本大韓民国居留民団(民団)の結成と、1955年の「朝鮮民主主義人民共和国の周りに総結集」を掲げる在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の結成によって、在日コリアンは在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)と在日本大韓民国居留民団(民団)に分かれた。

2、在日本大韓民国居留民団の結成

 (1)、朝鮮建国促進青年同盟(建青)と新朝鮮建設同盟(建同)の結成

  ・1945年10月15日、在日本朝鮮人連盟(朝連)が結成されるが、この在日本朝鮮人連盟(朝連)の左翼化や信託統治案支持に不満を持つ民族主義の青年たちは、1945年11月18年、朝鮮建国促進青年同盟(建青)を結成する。さらに、1946年1月20日には、在日本朝鮮人連盟(朝連)から排除された旧親日派や無政府主義者、民族主義者たちは、天皇暗殺計画の大逆事件で22年間獄中にいた朴烈(パクヨル)と、金天海(キムチョンヘ)らと同じく府中刑務所から出獄した李康勲(イガンフン)を担ぎ出して、新朝鮮建設同盟(建同)を結成する。

 (2)、在日本大韓民国居留民団(民団)の結成

  ・圧倒的な勢力を持つ在日本朝鮮人連盟(朝連)に対抗するために、朝鮮建国促進青年同盟(建青)や新朝鮮建設同盟(建同)は大きな団体にしようとして、合同の話が進められてゆく。1948年の大韓民国樹立後は、新朝鮮建設同盟(建同)と朝鮮建国促進青年同盟(建青)の一部が合併して、在日本大韓民国居留民団(民団)と組織名が変更される。1948年9月には韓国政府から在日同胞の公認団体として認定されている。

2、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)結成

 (1)、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)

  ・1949年9月に「団体等規正令」によって在日本朝鮮人連盟(朝連)は解散をする。その後、左翼系在日コリアンは朝連に代わる組織として1951年1月9日に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を結成させる。この民戦の中核は当時武力革命路線をとっていた日本共産党の影響下にあったので、朝鮮戦争反対、吉田内閣打倒の過激な運動を展開していく。1952年5月1日、民戦はこの日のメーデーを「同胞総決起月間」の頂点と位置付けて、全国のメーデー会場に14万7000人の在日同胞を動員した。東京では、デモが禁止されていた皇居前広場に日本人と朝鮮人のデモ隊が押し寄せ、警官隊と衝突して多数の負傷者を出す大参事となった。

 (2)、民戦日共派と民族派の路線対立

  ・過激で犠牲者が伴う闘争を行う民戦執行部(民戦日共派)に、韓徳銖を中心とする「民族派」と呼ばれていた人たちが疑問を呈した。やがて、彼ら民族派が路線対立に勝利して民戦が解散をして、彼らを中心として朝鮮総連が結成されていく。

 (3)、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)結成

  ・1955年5月25日、これまで在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を解散して在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。朝鮮総連は、共和国への総結集、内政不干渉、海外公民規定などをその運動基調とした。これにより、在日朝鮮人運動のヘゲモニーが日本共産党から朝鮮労働党へと移った。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

在日コリアンの歴史(11) 三大騒擾事件と破壊活動防止法

1、第23回メーデー(血のメーデー)

 ・1952年5月1日、独立後最初のメーデーにおいて、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)中央は、「最近我々同胞に加えつつある敵の生活と人権に対する圧迫、外国人登録法、出入国管理法、その他一切の悪法に対して、大衆的実力をもって粉砕しなければならない。」と実力闘争の命令をだす。皇居前広場には5000名もの在日朝鮮人が結集し、警官隊との衝突がおこり、2名の死者と2300名の負傷者を出したことから血のメーデーとして後々まで語り継がれた。

2、吹田事件

 ・1952年6月24日に大阪府吹田市・豊中市一帯で発生した騒擾事件。当時は朝鮮戦争の最中であったが、朝鮮戦争へゆくアメリカ軍兵士が駐留していたアメリカ軍刀根山キャンプや、国連軍への支援物資を運搬する貨物列車を編成していた国鉄吹田操車場などに対して、大阪府学生自治会連合の開催で、学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人(参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加してデモを行ったが、このデモ隊が暴徒化し、200人を超える者が逮捕され、111人が騒擾罪で起訴された事件。結局騒擾罪の成立は認められなかったが、一部の者が威力業務妨害で有罪となった。

3、新宿駅事件


 ・1952年6月25日、国際平和デー閉会後、在日朝鮮人約3000人が新宿駅の玄関や駅前派出所へ火炎瓶を投込んで窓ガラスや電線などを焼失させた事件。また、デモ隊の一部は新宿駅のホームにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。

4、大須事件

 ・1952年7月7日、中華人民共和国の北京で、日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、その歓迎集会が大須球場(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)で行われた。日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする人々が集まり、集会が終了すると約1000人が無届のデモをはじめた。警察が解散するように警告をすると、デモ隊は警察に対して火炎瓶を投込むなど暴徒化し、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。152人を起訴が騒乱罪で起訴され、最高裁までいった上で有罪が確定している。

5、破壊活動防止法
 
 ・1952年7月21日、血のメーデー事件をきっかけとして、ポツダム命令の一つ、団体等規正令(昭和21年勅令第101号)の後継立法として破壊活動防止法が施行される。

在日コリアンの歴史(10) サンフランシスコ講和条約

1、意義

 ・朝鮮戦争の下、1951年から対日講和交渉が始まる。トルーマンの特使としてジョン・F・ダレスが来日して吉田茂首相と会談する。この中で吉田は、「朝鮮は条約当事国になるべきではない。朝鮮は日本から解放された国で、日本と戦争状態もしくは交戦状態にあった国ではなかったからである。もし朝鮮が調印国となるならば、そのほとんどが共産主義者の在日朝鮮人は、連合国が有する講和条約上の財産権と補償を受ける権利を持つことになる。したがって朝鮮を条約当事国にすべきではない。」と発言した。結局、大韓民国は条約署名国から排除されることになった。

2、サンフランシスコ平和条約

 (1)、意義

  ・1951年9月8日、日本とソ連・中国・インドなどを除いた旧連合国48ヵ国との間で、サンフランシスコ平和条約が調印された。これに先立つ同年4月19日、法務府(現法務省)民事局長の「平和条約の発効に伴う朝鮮人、台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」という通達が出され、旧植民地の朝鮮人や台湾人の「日本国籍」が剥奪された。つまり、在日コリアンは日本国籍を持たない外国人となったことになる。

 (2)、帰化

  ・民事局長の通達によって日本国籍が剥奪された在日コリアンにとって、日本国籍を取り戻す方法は「帰化」をすることであった。帰化要件は、①5年以上日本に住んでいること、②素行が善良であること、③生計を営むことができること、④日本語の読み書きができること等が求められている。

 (3)、在日コリアンの法的保護からの排除

  ①、意義

   ・日本国内法が定める諸権利には「国籍条項」がついている場合がある。日本国籍を失った在日コリアンは、この「国籍条項」がついている場合には法的保護を受けることができないことになった。

  ②、具体例 

   ・1952年、戦傷病者戦没者遺族等援護法はが公布された。この法律は、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属であった者又はこれらの者の遺族を援護すること」を目的として、本人に対する障害年金、特別障害年金、障害一時金、遺族に対する遺族年金、給与金などが保障されている。しかし、日本国籍を持っているものしか保護されないという「国籍条項」があるので、戦時中に徴用・徴兵された在日コリアンの戦傷病者および戦死者の遺族は、援護対象から除外された。その数は36万人に及ぶ。

3、外国人登録法と出入国管理令

 (1)、意義

  ・1952年のサンフランシスコ平和条約の発効と同時に、外国人登録法と出入国管理令が成立した。日本政府の外国人管理体制である、「同化」か「追放(退去強制)」かの二者択一を迫る法制が整備されたことになる。

 (2)、外国人登録法

  ①、意義

   ・1947年に公布された外国人登録令が廃止されて、外国人登録法が成立した。当時、日本にいる外国人総数64万人のうち在日コリアンはその90%をしめる57万人であったので、主に在日コリアンを対象として制定された法であった。2009年の「出入国管理及び難民認定法及び日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する等の法」律の成立により、2012年に廃止された。

  ②、問題点

   ア)、外国人登録証明書の常時携帯義務

    ・外国人は、常時外国人登録証明書を携帯し、警官をはじめ日本の官憲が呈示を求めた時は、これに応じなければならず、違反すれば罰則がかされた。

   イ)、指紋押捺制度

    ・1952年に制定当時は14歳、1982年の改正時は16歳以上の外国人は、3年に1回登録書を切り替えるたびに、指紋の押捺をしなければならなかった。さらにその指紋採取も左手の人差し指を180度回転させて押す回転押捺方式であり、あたかも犯罪者のようであった。

 (3)、出入国管理令

  ①、意義

   ・日本政府がサンフランシスコ平和条約発効以前に作成し施行しようとしたがGHQの反対によって施行を保留していたものを、サンフランシスコ平和条約発効と同時に「法126号」として復活させたものが出入国管理令である。1982年に日本が難民条約・難民議定書への加入にしたことにより「出入国管理及び難民認定法(入管法)」に改められた。日本に在留する外国人をさまざまな在留資格に区分し、それにより在留期間を定めることと、外国人が罪を犯したときにこの法律によって処分することを目的としている。

  ②、問題点

   ア)、意義

    ・出入国管理令の最大の問題点は、24条の退去強制に関する規定であった。

   イ)、在日コリアンを対象とした退去強制の項目

    ①、「らい患者(ハンセン病患者)」

    ②、「精神障害者」

    ③、貧困者、放浪者、身体障害者など政府および地方公共団体の負担になっている被生活保護者

    ④、無期または1年以上の懲役もしくは禁錮に処せられた者

   ウ)、問題点

    ・戦時中、在日コリアン達は、朝鮮半島から日本の労働力不足のためにやってきて戦時産業を支えた。しかし、終戦後に日本人が職場に復帰するにともない在日コリアン達はこのような職場から締め出された。その結果、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年時点で、在日コリアン全人口53万人のうち無業者が61%、日雇労働者が6.6%、商業者(廃品回収、闇市でのマッコリ販売、ホルモン焼きを売る食堂など)5.8%という状態であり、在日コリアンは退去強制事由である「貧困者、放浪者、身体障害者など政府および地方公共団体の負担になっている被生活保護者」がたくさんいた。

  ③、大村収容所

   ・外務省は1950年10月に外局として出入国管理庁を設け、同年12月に長崎県に大村収容所を設けた。この大村収容所が、朝鮮戦争での密航者を強制追放するだけでなく、出入国管理令で規定された退去強制の項目に適合した者を韓国に強制追放する施設としても機能した。大村収容所は現在は大村入国管理センターとなって現存している。

<参考文献>

 『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006)


在日コリアンの歴史(9) 在日コリアンと朝鮮戦争

1、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国

 (1)、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国

  ・1948年5月10日、李承晩(イ・スンマン)はアメリカの支持のもので、南北統一選挙を主張していた金九(キム・グ)らを押さえ込んで、南朝鮮のみでの単独選挙を強行した。この結果李承晩が大統領に選出されて1948年8月15日に大韓民国の独立を宣言する。これをうけて北朝鮮側でも1948年8月25日、金日成を首相とする内閣を設置し、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を樹立する。

 (2)、在日コリアンへの影響

  ・1948年9月8日、団体等規制令によって在日本朝鮮人連盟(朝連)など民族四団体に解散命令が出される。1950年3月20日には、団体等規制令により上野にあった朝連の台東会館が強制接収される(台東会館事件)。

2、朝鮮戦争

 (1)、朝鮮戦争勃発

  ・1950年6月25日、朝鮮人民軍が軍事境界線である38度線を越えて南進し朝鮮戦争が勃発する。首都ソウルを陥落させて朝鮮人民軍は勢いにのり、8月下旬には釜山まで到達して朝鮮半島の9割を制圧した。しかし、1950年9月15日、マッカーサー率いる連合国軍が仁川に上陸して首都ソウルを奪還し、さらに38度線を北進して首都平壌を制圧し、さらに中国国境付近まで到達した。この後、中国人民義勇軍が参戦して再び連合国軍は撤退していった。以後、3年にわたり38度線付近で両軍の小競り合いが続いた。

 (2)、在日本朝鮮人連盟(朝連)の対応
 
  ①、在日本朝鮮人祖国防衛隊(祖防隊)

   ・朝鮮戦争を「祖国解放戦争」と規定した元朝連系の人々は、若者達を中心に反米・反戦闘争を展開した。在日本朝鮮人祖国防衛隊(祖防隊)が日本共産党の指揮の下で結成され、朝鮮戦争はアメリカの侵略と規定し、反米・反吉田・反再軍備を掲げて戦った。

  ②、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)

   ・在日本朝鮮人連盟(朝連)の後継団体として1951年1月9日、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)が結成される。民戦は日本共産党の指導の下、1952年6月24日の吹田事件など反米・反吉田・反再軍備を掲げて戦った。

 (3)、在日本大韓民国居留民団(民団)の対応

  ・民団系の青年642人は朝鮮戦争に自ら志願して、在日韓僑自願軍を結成して、玄界灘を渡って従軍した。彼らは韓国軍に編入されて朝鮮戦争に参加し、135人が戦死した。

 (4)、朝鮮戦争の戦火を逃れた避難民

  ・朝鮮戦争の戦火を逃れるために日本へ逃れてくる人もいた。日本政府は、1950年12月26日に大村収容所を開設して、避難民を密入国者として逮捕し次々と送還した。1950年から1951年の一年間だけで3000名ほどにのぼった。翌1951年10月4日に出入国管理令を公布して、朝鮮人に対する管理体制を強めていった。

<参考文献>

 『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006)

在日コリアンの歴史(8) 民族学校の設立と阪神教育闘争

1、戦前の教育

 ・戦前、在日コリアンと日本国民は権利の差がなく、教育を受ける権利も保障されていた。よって、尋常小学校に在日コリアンも入って学んでいた。

2、在日コリアンの民族教育

 (1)、国語講習所

  ・在日コリアンの人々は、朝鮮半島へ帰国した後も子ども達が朝鮮の言葉や文化になじめるように、昭和20年(1945)の終戦後すぐに、全国各地で手作りの学校(国語講習所)を作っていた。兵舎や倉庫を改造したりバラック建ての貧弱な校舎であったが、親たちの民族教育の熱は熱かった。

 (2)、在日本朝鮮人連盟(朝連)の支援

  ・国語講習所は昭和21年(1946)に、在日本朝鮮人連盟(朝連)の傘下に入った。在日本朝鮮人連盟(朝連)は在日コリアン達の要望を汲み取って、学校の財政や教科書の編纂、教員の確保などに組織的に取り組んだ。結果、昭和21年(1946)10月時点で、全国で542校、生徒数4万4000名、教員数1100名を数えるまでになった。

3、GHQ・日本政府の方針

 (1)、GHQと日本政府の方針

  ・GHQと日本政府は、朝鮮人学校を「共産主義の温床」として治安問題とみなしていた。よって、在日コリアン達の民族教育は認めない方針であった。

 (2)、「朝鮮人設立学校の取扱いについて」(第一次朝鮮人学校閉鎖令)という通達

  ①、意義

   ・GHQは朝鮮人学校を全廃しろという命令をだした。これに従って、文部省学校教育局長は各都道府県知事宛に、昭和23年(1948)1月24日「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出した。

  ②、内容

   ・在日コリアンも日本国籍者であることを前提にして、在日コリアンも日本の法令に服さなければならない。よって、教育を受ける義務が課されている。

   ・朝鮮人学校も六・三制施行をはじめとした学校教育法と教育基本法に従わなければならない。朝鮮語等の教育を正課として扱うことが禁止され、在日コリアンの自主教育は認めないというものであった。

4、阪神教育闘争

 (1)、意義

  ・昭和23年(1948)2月15日、「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達が朝鮮人学校へ一斉に発せられた。この後、朝鮮人学校への弾圧が進み、各地で日本当局と在日コリアンの衝突が起こった。

 (2)、阪神教育闘争

  ①、神戸での抗争

   ・神戸での抗争はアメリカに資料が残されており詳しく知ることができる。文部省の学校閉鎖令に反対する5000名もの人々が知事室(知事は岸田幸雄)を取り囲み、交渉の結果閉鎖令を撤回させて朝鮮人学校の存続を認めさせた。兵庫県ではこの時、戦後唯一の非常事態宣言(戒厳令)が公布された。事態を重く見たマッカーサーは急遽、第八軍司令官アイケルバーガー中将を神戸に派遣して、事態の収拾を命じた。アイケルバーガーは閉鎖令の撤回は無効であり抗議は暴動であるとして、武力で運動を鎮圧して1700名ほどを逮捕し、136名を軍事裁判にかけた。

  ②、大阪での抗争

   ・大阪でも朝鮮人学校閉鎖をめぐって大規模な乱闘が起き、金太一少年が射殺される事件が起こった。

  ③、背景

   ・阪神教育闘争の主体は、在日本朝鮮人連盟(朝連)であった。しかし、その背景には、北朝鮮の樹立後その支持を表明した在日本朝鮮人連盟(朝連)に対する、日本政府とGHQの警戒感があった。在日本朝鮮人連盟(朝連)の左傾化に反対した者たちは、在日本朝鮮人居留民団(後の民団)を結成した。

 (3)、「朝鮮人学校に関する問題について」という覚書

  ①、意義

   ・昭和23年(1948)5月5日、在日コリアンと文部省は「朝鮮人学校に関する問題について」という覚書を交わした。

  ②、内容

   ・「朝鮮人設立学校の取扱いについて」と同様に、在日コリアンも教育基本法と学校教育法に従うことが確認された。

   ・「朝鮮人設立学校の取扱いについて」では在日コリアンの自主教育が否定されたが、この覚書では、朝鮮人学校は私立学校として自主性が認められる範囲において独自の教育を認められた。

5、幻の私立朝鮮人学校国費援助案

 (1)、意義

  ・昭和24年(1949)4月、在日本朝鮮人連盟(朝連)は日本共産党議員の支援によって、私立朝鮮人学校への国費援助を国会へ請願した。この請願は、同年5月25日に衆参両院で可決された。

 (2)、文部省の猛反発

  ・阪神教育闘争を経験した兵庫県知事・岸田幸雄はこの案に異を唱え、文部省もこれに同調した。文部省は、一般私立学校に対しては補助金が交付されていないのに、朝鮮人私立学校に対してだけ補助金を交付することはできないとして、GHQに働きかけ、GHQは決議の撤回を求めた。

 (3)、決議の撤回

  ・昭和24年(1949)8月23日、文部委員会で決議が撤回された。

6、第二次朝鮮学校閉鎖令

 (1)、意義
 
  ・昭和24年(1949)9月8日、団体等規制令が制定され、在日本朝鮮人連盟(朝連)は解散させられた。さらに朝鮮学校に閉鎖命令が出された(第二次朝鮮学校閉鎖令)。第一次朝鮮学校閉鎖令はGHQからの命令であったが、第二次朝鮮学校閉鎖令は文部省が自主的に行ったものである。

 (2)、理由

  ①、理由

   ・在日コリアンは阪神教育闘争後の「朝鮮人学校に関する問題について」という覚書を遵守していなく、さらに在日本朝鮮人連盟(朝連)に伴い在日コリアンたちに、日本の法令及びこれに基づく命令を厳正に遵守させる必要があると考えたからであった。

  ②、文部省の方針

   ・文部省は、朝鮮人学校について以下のような方針を持っていた。

   一、朝鮮人子弟の義務教育は、公立学校において行うこと

   二、義務教育以外の教育を行う朝鮮人学校については、厳重に日本の法令に従わせ、無認可学校は認めないこと

   三、朝鮮人学校は自らの負担によって行われるべきであり、國又は地方公共團体の援助は、一の原則から当然その必要がないこと

 (3)、第二次朝鮮学校閉鎖令

  ・昭和24年(1949)10月13日、閣議で朝鮮人学校の閉鎖が決定され、同年10月19日、文部省は在日本朝鮮人連盟(朝連)経営の92校の即時閉鎖、在日本朝鮮人連盟(朝連)経営ではない245校の改組措置を行った。

 (4)、反発

  ・文部省が強行した第二次朝鮮学校閉鎖令に対して、韓国政府はは駐日韓国代表部を介さずに一方的にやったことに反発をした。さらに、当時民主党議員であった中曽根康弘も、日韓関係を良好に保つために批判をした。

 (5)、影響

  ・第二次朝鮮学校閉鎖令によって、朝鮮学校は閉鎖されていった。しかし、地域の事情によって、無認可校として民族教育を継続するところ、日本当局との話し合いによって公立学校分校としたところ、公立学校の中に民族学級を設けたところなど各地方においてさまざまな対応があった。

7、サンフランシスコ平和条約

 (1)、意義

  ・昭和26年(1951)、日本はサンフランシスコ平和条約を締結し、これにより在日コリアンは日本国籍を喪失した。

 (2)、影響
 
  ・在日コリアンが日本国籍を喪失したことにより、昭和27年(1952)7月、文部省と法務府は、①在日コリアンを義務教育の対象から外す、②公立朝鮮学校は廃止する、の二点を決定した。このうち①については、昭和28年(1953)2月に「朝鮮人の義務教育学校への就学について」という通達が発せられた。他方、②については、長らく実施されず、一部地方自治体のみで独自で、公立から私立各種学校へ移管させる措置が取られていた。画一的にこの措置が行われるのは、日韓基本条約締結以後である。

8、教育支援金

 (1)、意義

  ・第二次朝鮮学校閉鎖令以後も、さまざまな形で朝鮮学校は営まれていた。ただし、在日本大韓民国居留民団(民団)系は、東京韓国学校、金剛学校、建国学校、京都国際学園の4校のみであり、ほとんどの朝鮮学校は、在日本朝鮮人総連合(総連)系であった。

 (2)、教育支援金

  ・朝鮮学校は資金難で苦しんでいる所が多かった。よって、昭和32年(1957)より、北朝鮮から在日本朝鮮人総連合(総連)へ、朝鮮学校の支援のために「教育支援金」が送られるようになる。現在まで、総額460億円ほどが送金されたといわれている。なお、韓国政府は朝鮮学校に対して積極的な支援は行わなかった。

9、日韓法的地位協定

 (1)、日韓法的地位協定

  ①、意義

   ・昭和40年(1965)に日韓基本条約、日韓漁業協定、日韓請求権並びに経済協力協定、日韓法的地位協定、文化財及び文化協力に関する協定の1条約4協定が締結された。教育については、日韓法的地位協定第4条がある。

  ②、日韓法的地位協定第4条

    日本国政府は、次に掲げる事項について、妥当な考慮を払うものとする。

      (a)第一条の規定に従い日本国で永住することを許可されている大韓民国国民に対する日本国における教育、生活保護及び国民健康保険に関する事項

 (2)、内容

  ・在日コリアンに対する日本政府の教育の方針は、日本社会に同化させることであった。よって、民族学校については法的認知を与えず、上級学校への入学資格や私学助成その他で、行政上、財政上不利益な地位に置くことにより、在日コリアンの日本人学校への入学を促進させようとした。日韓法的地位協定の第4条における教育面での「妥当な考慮」とは、協定永住許可者が日本の公立の小学校または中学校へ入学することを希望する場合は、入学が認められるよう必要な措置をとり、中学校を卒業した場合は上級学校への入学資格を認める、というものであった。

 (3)、二つの文部事務次官通達

  ①、昭和40年12月28日付け文初財464号

   ・文部事務次官の各都道府県教育委員会および各都道府県知事宛の通達によって、在日コリアンは協定永住許可者であると否とを問わずに、公立の小中学校への入学および高校への入学資格を認め、授業料の徴収免除、教科書無償措置、就学援助措置につき日本国民と同等に扱うとした。しかし、永住を許可された者及びそれ以外の朝鮮人教育については、日本人子弟と同様に取り扱うものとし、教育課程の編成・実施については特別扱いをすべきではないともした。

  ②、昭和40年12月28日付け文普振第210号

   ・文部事務次官の各都道府県教育委員会および各都道府県知事宛の通達によって、在日コリアンが学ぶことができる公立小学校分校や民族学校を、今後は廃止あるいは新たな設置を認めないことと、朝鮮人学校は学校教育法第1条の学校としても各種学校としても認可すべきではなく、すでに1条校あるいは各種学校として認可されている朝鮮人学校については、報告・届出等の義務を励行させるものとした。

10、各種学校として

 (1)、1条校と各種学校

  ・学校教育法第1条は「この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする」と規定し、ここに規定されている学校が1条校として、私学助成金をはじめとした行政支援を厚く受けることができる。1条校以外は各種学校と呼ばれ、行政の支援は薄いが、自由なカリキュラムを組むことができる。自動車学校や予備校などがここに含まれる。

 (2)、各種学校として

  ・1960年代から1970年代にかけて、朝鮮学校は3万人から4万人ほどの生徒がいた。各都道府県は、朝鮮学校を各種学校に認定していった。よって、東京韓国学校、朝鮮大学校を含むすべての朝鮮学校は、現在の所は各種学校である。

<参考文献>

 『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006)  
 「占領期日本における朝鮮人学校 ー学校の閉鎖と存続をめぐってー」(崔紗華、『早稲田政治公法研究』第108号)

スポンサーリンク
記事検索
スポンサーリンク
スポンサーリンク
プライバイシーポリシー
  • ライブドアブログ