稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・在日コリアンの歴史

在日コリアンの歴史(17) 地方参政権獲得運動

1、意義

 ・昭和62年(1987)に民団が「納税の義務を果たしている者の当然の権利として、地方選挙への参与を要求する」と主張したように、1980年代から在日コリアンの中で地方参政権を求める声が大きくなってくる。ただし、朝鮮総連は、地方参政権は同化政策であるとして消極的であった。

2、司法

 (1)、概要

  ①、事件

   ・平成2年(1990)に金正圭(キンジョンギュ)ら11人の在日コリアンが、公職選挙法に基づく選挙人名簿に在日コリアンが登記されていないのはおかしいとして、大阪市など選挙管理委員会を提訴した。

  ②、争点

   ア)、争点

    ・地方自治法18条や公職選挙法9条は、地方公共団体の住民の選挙権を保障した憲法93条に違反しているか。

   イ)、参考条文

    憲法93条2項

     地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。

    地方自治法18条

     日本国民たる年齢満二十年以上の者で引き続き三箇月以上市町村の区域内に住所を有するものは、別に法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有する。

    公職選挙法9条

     日本国民たる年齢満十八年以上の者で引き続き三箇月以上市町村の区域内に住所を有する者は、その属する地方公共団体の議会の議員及び長の選挙権を有する。

 (2)、判決

  ・平成7年(1995)の最高裁の判決は、主文では憲法93条2項の住民とは日本国民のことであり、在留外国人に地方参政権を保障したものではないとし、地方自治法18条も公職選挙法9条も違憲ではないとしたうえで、傍論において、「憲法は法律をもって居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至った定住外国人に対し地方参政権を付与することを禁止していない」とした。

3、立法

 (1)、最高裁判決のインパクト

  ①、意義

   ・平成7年(1995)の最高裁判決が出され時、自民党、社会党、さきがけの連立政権であった。自社さ連立政権は定住外国人について参政権を与えるかどうか議論を行った。

  ②、相互主義

   ・この議論の中で多数派を占めたのが、相手国がその国に在籍する日本人に参政権を与えている場合は日本でもその国の外国人に参政権を与えるが、相手国がその国に在籍する日本人に参政権を与えていない場合は日本でもその国の外国人に参政権をあたえないという相互主義の立場であった。この立場に立てば、当時韓国においては韓国にいる日本人に参政権を与えていなかったので、在日韓国人にも与えるべきではないという結論となる。

 (2)、立法されず

  ①、盛り上がり

   ・平成10年(1998)に来日した金大中大統領が国会演説で「在日韓国人二世三世は、日本で税金を納め、大きな貢献をしている。だから地方参政権を与えてほしい」と述べた。これに触発されて、野党である民主党、共産党、公明党から定住外国人に地方参政権を与えようとする試案が提出され、平成11年(1999)には当時の自民党野中広務幹事長が中心となり、与党三党は定住外国人に地方選挙への投票権を認める法律を成立させることにいったん同意をした。

  ②、抵抗

   ・一部国会議員が定住外国人に参政権をあたえることに強く抵抗し、対案として在日コリアンが日本国籍を取得しやすくする法案(日本国籍取得緩和法案)を提示した。

 (3)、韓国における永住外国人地方選挙法案の成立

  ①、意義

   ・平成17年(2005)にアジア初の永住外国人地方選挙法案が韓国で成立した。これによって、日本が在日韓国人に地方参政権を付与しない根拠とされていた相互主義の立場は論拠を失ったことになる。

  ②、批判

   ・平成17年(2005)の段階で地方参政権付与の対象となった在韓永住日本人はわずか51人しかいない。他方、日本に永住する在日コリアンは約54万人、うち選挙権を有することができる20歳以上の在日コリアンは約49万人とみられており、とても対等な参政権相互付与とはいえない。

<参考文献>

 『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006) 
 『大嫌韓時代』(桜井誠、青林堂、2014)

在日コリアンの歴史(16) 指紋押捺拒否事件

1、外国人登録法と指紋押捺制度

 (1)、意義

  ・昭和27年(1952)のサンフランシスコ平和条約の発効と同時に、外国人登録法と出入国管理令が成立した。

 (2)、外国人登録法

  ①、意義

   ・昭和22年(1947)に公布された外国人登録令が廃止されて、外国人登録法が成立した。当時、日本にいる外国人総数64万人のうち在日コリアンはその90%をしめる57万人であったので、主に在日コリアンを対象として制定された法であった。

  ②、問題点

   ア)、外国人登録証明書の常時携帯義務

    ・外国人は、常時外国人登録証明書を携帯し、警官をはじめ日本の官憲が呈示を求めた時は、これに応じなければならず、違反すれば罰則がかされた。

   イ)、指紋押捺制度

    ・昭和27年(1952)の制定当初は14歳、昭和57年(1982)の改正時は16歳以上の外国人は、3年に1回登録書を切り替えるたびに、指紋の押捺をしなければならなかった。さらにその指紋採取も、左手の人差し指を180度回転させて押す回転押捺方式であり、あたかも犯罪者のようであった。

2、指紋押捺拒否運動

 (1)、意義

  ・昭和27年(1952)の外国人登録法の指紋押捺制度の制定以後、さまざまな抵抗運動はあったが大きなうねりにはならなかった。それが1980年代に入り、在日の法制度に対する怒りが一気に噴出した。特にこの指紋押捺拒否運動は、在日の二世や三世によって担われた特徴を持っていた。全国各地で指紋押捺拒否の声があがり、拒否者および留保者が全国で一万人に及ぶというという大きな運動となった。

 (2)、はじまり

  ・指紋押捺拒否運動は、 昭和55年(1980)9月に在日コリアン一世である韓宗碩(ハン・ジョンソク)が、外国人登録法に定められた指紋押捺は屈辱の烙印であるとして、東京新宿区役所で指紋紋押捺を拒否したことにより始まった。拒否から一年後、韓は牛込警察署の取調べをうけて東京地検へ送検され、外国人登録法違反で起訴された。

 (3)、裁判

  ①、概略

   ・昭和59年(1984)に、神奈川県で指紋押捺拒否をして逮捕された日系アメリカ人のキャサリン・モリカワが、外国人登録法によって要求される外国人登録原票などへの指紋押捺の義務づけが、憲法13条(個人の尊厳、プライバシー)、憲法14条(不合理な差別の禁止)に違反し、また犯罪容疑者と同じ回転押捺式は品位を傷つける取扱いを禁じた国際人権規約第7条に反するとして争われた。

  ②、判決

   ・多数の下級審においては、私生活上の自由の一つとして「承諾なしにみだりに指紋押捺を強制されない自由」があることを認めたが、同一人性を確認するために必要かつ合理的な手段として指紋押捺は合憲であるとした。

   ・最高裁においては、昭和57年法75号による改正前の指紋押捺の義務について、「指紋の押捺を強制されない自由」を憲法13条によって保護される「個人の私生活上の自由の一つ」としたが、押捺制度の立法目的には「十分な合理性があり、かつ、必要性も肯定できる」し、手段も「一般的に許容される限度を超えない相当なもの」であったとした。

3、指紋押捺制度の全廃

 (1)、指紋押捺の形骸化

  ・指紋押捺制度の本来の趣旨は、外国人が同一人物かどうかを確認するためであると自治省は説明してきた。しかし、自治体職員達によって実務においては本人の照合などまったくされていないことが明らかとなり、外国人の指紋押捺制度が形骸化していること分かった。

 (2)、指紋押捺制度の全廃

  ・昭和62年(1987)の法改正で、一年以上在留する16歳以上の外国人は、原則として登録申請の際に一回に限り指紋押捺をすることに改められた。さらに、平成4年(1992)の改正によって、永住資格を認められた定住外国人に対する指紋押捺はすべて廃止された。また、非永住者についても平成11年(1999)の法改正で指紋押捺制度は廃止され、現在は署名と写真提出の制度に変更された。

 (3)、課題

  ・外国人登録法において指紋押捺制度と同様に問題となった外国人登録証明書の常時携帯義務については、現在もまだ廃止されていない。

<参考文献>

 『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006) 
 『憲法』(芦部信喜、東京大学出版会、2002)



在日コリアンの歴史(15) 就職差別撤廃運動

1、意義

 ・1970年代は、日本生まれの二世が70%を超えて世代交代が進んだ。このような二世たちにとって大きな不安が、学校を卒業した後どのような職業に就くことができるのかということであった。一般企業は在日コリアンの採用を差し控えたり、司法修習生、教師、公務員などには国籍条項があって就くことができなかったからである。民主主義や人権を学んだ二世たちは、このような就職差別撤廃のための運動を行うようになった。

2、日立就職差別事件

 (1)、経緯

  ・在日コリアン二世の朴鐘碩(パクチョンソク)は、日本人の学校を卒業して地元企業に勤めた後に、日立製作所の採用試験を受けた。この時、履歴書には「朴」ではなく日本の通名である「新井」と名乗った。試験に合格した後に会社から戸籍謄本の提出を求められたが、在日コリアンには戸籍がないので、外国人登録証明書を提出しようとしたところ、「外国人は雇えない」として、一方的に採用の取消を通告した。

 (2)、裁判

  ・昭和45年(1970)12月8日、日立製作所を相手に朴鐘碩は、就職差別撤回の訴訟を横浜地裁に起こした。日立製作所は履歴書に通名という虚偽の記載をしたので採用を取消したと主張したが、昭和49年(1974)6月19日に判決が下り、朴が勝訴し、解雇は無効とされた。朴は日立製作所に入社して、定年まで勤めあげた。

 (3)、影響

  ・朴の裁判以後、在日コリアン達が民族差別と闘う組織や運動体をたくさん作っていった。これにより、公営住宅の入居差別、児童手当の支給につけられた国籍条項の撤廃運動、在日コリアンの国民年金の適用等を求める運動が展開されるようになった。その結果、昭和50年(1975)に大阪府と大阪市は在日コリアンの公営住宅への入居資格を認め、全国的には昭和55年(1980)に公営・公団住宅への入居、住宅金融公庫・国民金融公庫の利用が次々と認められていった。

3、司法修習生に対する国籍条項の撤廃運動

 ・当時、司法試験合格後に司法修習生になるには、日本への帰化が条件づけられていた。昭和51年(1976)に司法試験二次試験に合格した金敬得(キムギョンドゥク)は帰化を拒み、6回に亙って最高裁判所任用課に意見書を提出した結果、昭和52年(1977)に要求が認められ、韓国籍のままで司法修習生となった。その後金は弁護士としても、指紋押捺拒否事件や慰安婦戦後補償問題など朝鮮人の人権に関わる裁判で活躍した。

4、公務員への採用

 (1)、意義

  ・国家公務員法や地方自治法には、外国人が公務員になれないという規定は一切存在しない。昭和28年(1953)に内閣法制局が提出した「公務員に関する当然の法理」という通達による、「公権力の行使または公の意思形成に参画する公務員になるには、日本国籍が必要である」という法解釈をもとに、国や自治体における公務員の採用にあたっては、国籍条項の厳しい制限をつけてきた。

 (2)、国公立大学の教員

  ・昭和49年(1974)に、関西の大学に勤めていた在日コリアンの教員有志が、国公立大学における外国人教授任用運動を始める。この運動がやがて全国的な運動となり、、昭和52年(1977)に、現行法令下でも外国籍者を国公立大学の教授に任用できるという公式声明が出され、昭和57年(1982)に国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法(現・公立の大学等における外国人教員の任用等に関する特別措置法)が成立し、外国人でも国公立大学の教壇に立つことができるようになった。

 (3)、小中高の公立校の教員

  ・昭和57年(1982)に国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法が成立したと同時に、文部省の人事担当課長会議で小中高の教諭には日本国籍を有する者のみがなれるとする決定がされて、全国の教育委員会へ通達がなされた。このような中、昭和59年(1984)に長野県の教員採用試験に合格した在日コリアンの梁弘子(ヤンホンジャ)は、外国籍という理由で採用が取消される事件が起こった。これに対して抗議が殺到し、昭和60年(1985)に世論と文部省の板挟みとなった長野県は、梁を教諭ではなく常勤講師として採用するという妥協案を発表した。

 (4)、電電公社社員

  ・昭和50年(1975)に、在日コリアンの高校生が電電公社(現NTTグループ)を受験しようとしたが、電電公社は彼らが外国籍ということで認めなかった。大韓キリスト教会や部落解放同盟など14の団体が抗議を行い、昭和52年(1977)には国会においても日本社会党がこの問題を取り上げた。このような運動によって、昭和52年(1977)9月に電電公社は受験資格に国籍条項の撤廃を発表し、昭和53年(1978)には電電公社で働く在日外国人が誕生した。

 (5)、地方公務員一般職

  ①、一般市

   ・昭和53年(1978)に、大阪府八尾市で民団を中心に、公務員の一般行政職の受験資格における国籍条項撤廃を求める運動が行われた。この結果、昭和54年(1979)に八尾市は全国の地方自治体で初めて、市職員の国籍条項を撤廃した。この動きは、全国の地方自治体へと広がっていった。

  ②、政令指定都市

   ・平成2年(1990)に、文公輝(ムンゴンフィ)が政令指定都市である大阪市の職員になるために願書を提出しようとしたが、国籍条項から受験ができなかった。この後に文は、大阪民闘連(民族差別と闘う連絡協議会)の呼びかけにより、自治労や部落解放同盟などの支援をうけて抗議活動を行い、平成5年(1993)に大阪市は、一般職に国籍条項をはずした「国際」と「経営情報」という専門職を作って対処をした。

   ・平成8年(1996)に、川崎市の高橋清市長が、地方自治体の3500以上ある職種のうち公権力性が薄い3327の職種について外国人の採用を可能とし、政令指定都市においてはじめて一般事務職における在日外国人の受験資格を認めた。

<参考文献>

 『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006)


在日コリアンの歴史(14) 日韓基本条約

1、日韓基本条約の締結

 (1)、意義

  ・1951年にサンフランシスコ平和条約が締結される。これ以後、日本はアメリカの反共同盟の強化という要望に沿って、韓国との間で戦前の植民地支配の問題や在日朝鮮人の法的地位などの問題を解決するために断続的に日韓会談が行われる。特に、李承晩政権を打倒した1960年の四・一九革命後に、大統領に就任した朴正煕(パクチョンヒ)は、朝鮮戦争から復興するために日本からの経済協力がほしかったので、日韓会談が急速に進められた。

 (2)、日韓基本条約の締結

  ・1965年に日韓基本条約、日韓漁業協定、日韓請求権並びに経済協力協定、日韓法的地位協定、文化財及び文化協力に関する協定の1条約4協定が締結された。

2、在日朝鮮人の法的地位

 (1)、意義

  ・日韓法的地位協定により、「協定の実施に伴う出入国管理局特別法」が制定され、在日韓国人に永住権(協定永住権)が認められた。

 (2)、対象者

  ・協定永住の対象者は「大韓民国国民」である。韓国政府は朝鮮半島の全土を統治する権限を持っているとしているので、外国人登録の国籍欄が「朝鮮」であろうと「韓国」であろうと、日本にいる在日コリアンはすべて「大韓民国国民」であることになる。よって、在日コリアンはすべて協定永住の対象者となった。しかし、協定永住を取得すするためには、申請の際に韓国政府発行のパスポート、あるいはこれに代わる在外国民登録証または大韓民国の国籍を有している旨の陳述書の提出が求められたので、「朝鮮」籍者の多くは政治的な対立から協定永住を申請しなかった。

 (3)、期間
 
  ①、意義

   ・日本と韓国両政府の話し合いによって、協定永住の対象者は二代目までとされ、三代目以後は25年が経過するまでに日本と韓国両政府が再び協議をする、とされた。

  ②、協定永住一代目

   ア)、戦前から協定永住申請時まで引き続いて日本に居住している人

   イ)、ア)の者の直系卑属として協定の効力発生時から5年以内(1971年1月16日)までに日本で出生し、日本に居住している人

  ③、協定永住二代目

   ・協定永住一代目の子として1971年1月17日以後に日本で出生した人

 (4)、協定永住者に認められること

  ①、退去強制事由が縮小される

    参照)、日韓法的地位協定第3条

     第一条の規定に従い日本国で永住することを許可されている大韓民国国民は、この協定の効力発生の日以後の行為により次のいずれかに該当することとなつた場合を除くほか、日本国からの退去を強制されない。

      (a)日本国において内乱に関する罪又は外患に関する罪により禁錮以上の刑に処せられた者(執行猶予の言渡しを受けた者及び内乱に附和随行したことにより刑に処せられた者を除く。)

      (b)日本国において国交に関する罪により禁錮以上の刑に処せられた者及び外国の元首、外交使節又はその公館に対する犯罪行為により禁錮以上の刑に処せられ、日本国の外交上の重大な利益を害した者

      (c)営利の目的をもつて麻薬類の取締りに関する日本国の法令に違反して無期又は三年以上の懲役又は禁錮に処せられた者(執行猶予の言渡しを受けた者を除く。)及び麻薬類の取締りに関する日本国の法令に違反して三回(ただし、この協定の効力発生の日の前の行為により三回以上刑に処せられた者については二回)以上刑に処せられた者

      (d)日本国の法令に違反して無期又は七年をこえる懲役又は禁錮に処せられた者

  ②、教育、生活保護及び国民健康保険に関して妥当な考慮を払う

    参照)、日韓法的地位協定第4条

     日本国政府は、次に掲げる事項について、妥当な考慮を払うものとする。

      (a)第一条の規定に従い日本国で永住することを許可されている大韓民国国民に対する日本国における教育、生活保護及び国民健康保険に関する事項

      (b)第一条の規定に従い日本国で永住することを許可されている大韓民国国民(同条の規定に従い永住許可の申請をする資格を有している者を含む。)が日本国で永住する意思を放棄して大韓民国に帰国する場合における財産の携行及び資金の大韓民国への送金に関する事項

  ③、①と②以外はすべて外国人に同様に適用される日本国の法令が適用される

 (5)、日韓法的地位協定第4条の「教育に関して妥当な考慮を払う」について

  ①、意義

   ・在日コリアンに対する日本政府の教育の方針は、日本社会に同化させることであった。よって、民族学校については法的認知を与えず、上級学校への入学資格や私学助成その他で、行政上、財政上不利益な地位に置くことにより、在日コリアンの日本人学校への入学を促進させようとした。よって、日韓法的地位協定第4条における教育面での「妥当な考慮」とは、協定永住許可者が日本の公立の小学校または中学校へ入学することを希望する場合は、入学が認められるよう必要な措置をとり、中学校を卒業した場合は上級学校への入学資格を認める、というものであった。

  ②、昭和40年12月28日付け文初財464号

   ・文部事務次官の各都道府県教育委員会および各都道府県知事宛の通達によって、在日コリアンは協定永住許可者であると否とを問わずに、公立の小中学校への入学および高校への入学資格を認め、授業料の徴収免除、教科書無償措置、就学援助措置につき日本国民と同等に扱うとした。しかし、永住を許可された者及びそれ以外の朝鮮人教育については、日本人子弟と同様に取り扱うものとし、教育課程の編成・実施については特別扱いをすべきではないともした。

  ③、昭和40年12月28日付け文普振第210号

   ・文部事務次官の各都道府県教育委員会および各都道府県知事宛の通達によって、阪神教育闘争以後1949年に民族学校が閉鎖された際の妥協措置としてとられた、在日コリアンが学ぶことができる公立小学校分校や民族学校を、今後は廃止あるいは新たな設置を認めないことと、朝鮮人学校は学校教育法第1条の学校としても各種学校としても認可すべきではなく、すでに1条校あるいは各種学校として認可されている朝鮮人学校については、報告・届出等の義務を励行させるものとした。

    cf.学校教育法第1条は「この法律で、学校とは、幼稚園、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、大学及び高等専門学校とする」と規定し、ここに規定されている学校が1条校として、私学助成金をはじめとした行政支援を厚く受けることができる。東京韓国学校、朝鮮大学校を含むすべての朝鮮学校は1条校ではなく各種学校であることから、行政支援が薄い。

3、戦後補償問題

 (1)、意義

  ①、意義

   ・戦後補償問題を規定したのが、日韓請求権並びに経済協力協定である。

  ②、日韓請求権並びに経済協力協定第2条

   1 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。

   2 この条の規定は、次のもの(この協定の署名の日までにそれぞれの締約国が執つた特別の措置の対象となつたものを除く。)に影響を及ぼすものではない。

    (a)一方の締約国の国民で千九百四十七年八月十五日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるものの財産、権利及び利益

    (b)一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつて千九百四十五年八月十五日以後における通常の接触の過程において取得され又は他方の締約国の管轄の下にはいつたもの

   3 2の規定に従うことを条件として、一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益であつてこの協定の署名の日に他方の締約国の管轄の下にあるものに対する措置並びに一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であつて同日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする。

 (2)、問題点

  ①、日本政府の立場

   ・日本政府は、在日韓国人の戦後補償の問題は、日韓請求権並びに経済協力協定第2条第1項の「完全かつ最終的に解決」に含まれていると解した。よって、日本国内の戦後補償立法には国籍条項をつけて、在日韓国人は排除した。

  ②、韓国政府の立場

   ・韓国政府は、在日韓国人の戦後補償の問題を、日韓請求権並びに経済協力協定第2条第2項(a)の「一方の締約国の国民で千九百四十七年八月十五日からこの協定の署名の日までの間に他方の締約国に居住したことがあるもの」に在日韓国人は含まれているので、日韓請求権並びに経済協力協定第2条第1項の「完全かつ最終的に解決」の例外であると解した。よって、日韓請求権並びに経済協力協定発効後に韓国政府は「請求権資金の運用及び管理に関する法律」「対日民間請求権申告に関する法律」「対日民間請求権補償に関する法律」などを制定して、韓国人に対する補償を実施してきたが、在日韓国人はこの補償対象からは除外した。

 (3)、立法による解決

  ・日本政府からも韓国政府からも、在日韓国人が戦後補償を受けることができない問題については、2000年に「平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族等に対する弔慰金等の支給に関する法律」が制定されることによって、立法による解決がなされた。これにより、旧植民地出身重度戦傷病者に対しては、見舞金及び老後生活設計支給給付金、遺族には弔慰金が支給された。

<参考文献>

 『歴史教科書 在日コリアンの歴史』(在日本大韓民国民団中央民族教育委員会、明石書店、2006)

在日コリアンの歴史(13) 帰還事業

1、在日コリアンの貧困

 ・1950年代の在日コリアンは民族差別により失業率8割という生活苦に喘いでいた。親たちはその暮らし、子ども達は学校を出ても就職することができなかった。こうした状況から1958年、生活苦に喘ぐ在日コリアンの中から共和国の建国と戦後復興に希望を抱く人が現れて、それが全国的に北朝鮮への帰国運動へと広がっていった。

2、祖国帰還運動の思惑

 (1)、北朝鮮の思惑

  ①、労働力不足

   ・朝鮮戦争の犠牲者や、北朝鮮の体制に疑問をもって韓国へ逃走した人々の影響から、北朝鮮では戦後復興を担う労働力が不足していた。よって、中国、ソ連、日本にいる海外同胞を北朝鮮に呼び戻そうとしたが、北朝鮮の実情を知る中国やソ連の同胞は帰国しなかった。よって、日本にいる同胞を呼び戻したかった。

  ②、国際社会に対する宣伝

   ・朝鮮半島が南北分断後、国際政治の舞台では北朝鮮と韓国のどちらが朝鮮人民に支持されているのかが注目されていた。よって、日本から北朝鮮に帰還する人が多ければ多いほど、北朝鮮の声望の証とされた。

 (2)、日本政府の思惑
  
  ①、朝鮮人は朝鮮半島へ

   ・在日コリアンの北朝鮮帰還は、当然韓国政府は猛反対であった。日本も反共同盟の立場から韓国政府に同調しなければならなかったが、日本政府は戦後一貫して、在日コリアンはなるべく朝鮮半島に帰って欲しかった。

  ②、日韓会談を有利に進める

   ・北朝鮮との帰還協定では、北朝鮮側は在日朝鮮人に対する「賠償」は要求せず、さらに帰還にかかる経費も北朝鮮が負担するとされた。他方、韓国との日韓会談では、韓国側は在日コリアンに対する「賠償」を要求し、それに反発する日本政府ともめていた。よって、北朝鮮との帰還事業を行うことによって、日本政府は日韓会談を有利に進めようとしていた。

3、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還

 (1)、赤十字社を前面に押し立てる

  ・韓国政府が在日コリアンの北朝鮮への帰還に強く反発していたことから、日本政府が表立って北朝鮮と交渉はできなかった。よって、人道主義を掲げて赤十字社を前面に押し立てることになった。1959年2月に、日本政府は赤十字国際委員会の主導で手続きを行うことに同意し、1959年12月にはインドのカルカッタで北朝鮮帰還協定が調印された。

 (2)、帰還第1船

  ・韓国政府や在日本大韓民国居留民団(民団)が新潟市の日赤帰還センターの爆破を計画するなど不穏な動きはあったが、1959年12月、日本赤十字社は新潟港に帰還第1船を迎え入れ、第一次帰国船が975名をのせて北朝鮮へと船出した。この後、1984年までに9万3000人あまりの在日コリアンが北朝鮮に帰還していた。

4、北朝鮮への帰還者の現実

 ・在日コリアンも、そして彼らを迎え入れた北朝鮮の人々も、お互いの実態をよく知らない状態で帰還事業は行われた。確かに、最初の帰還者は北朝鮮政府に特別優遇されが、だんだん北朝鮮社会の貧困、不平等、非民主的体制が在日社会に知られていくにつれて、帰還者は激減していった。さらに、帰還した在日コリアンも、未だに日本との自由往来はできていない。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

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