稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・総会屋の歴史

総会屋の歴史 バブル期前後の総会屋

、論談同友会

 (1)、意義

  ・代表は正木龍樹。広島出身で、広島グループに入り、そこから出て強烈なカリスマ性を発揮して、論談同友会を総会屋界で最強の集団に育て上げた。

 (2)、背景

  ・論談同友会は、住吉会系大日本興行系であった。その他、住吉会系の組長が実質的なオーナーである青嵐グループや、代表の坂本勲愛が住吉会河内組の幹部である森本企業調査会などと行動を共にした。三菱系を典型とする財界の主流をなす企業の与党総会屋として面倒を見てきた。

 (3)、事件

  ・平成4年(1992)10月、論談同友会幹事、晴嵐グループ幹部、森本企業調査会代表が、イトーヨーカ堂から株主総会が平穏に乗り切る謝礼として2700万円を受け取ったとして逮捕された。イトーヨーカ堂は、昭和61年(1986)から1億数千万円を総会屋グループに供与したとして、創業者の伊藤雅俊社長が辞任した。

  ・平成5年(1993)7月、論談同友会専務理事、晴嵐グループ、森本企業調査会の者らが、キリンビールから総会工作で3300万円を受け取ったとして逮捕された。キリンビールは昭和60年(1985)から総額で約4億円を総会屋グループに渡していたとして、キリンビール会長・本山英世が引責辞任した。

2、小池隆一

 (1)、意義

  ・小池隆一は、新潟で生まれ、地元高校を中退した後飲食店で働いたが、昭和43年頃に上京し、総会屋・小川薫の門下として総会屋稼業をスタートした。昭和52年(1977)に小池が発行する葉書通信『訴える!』で児玉誉士夫を呼び捨てで非難したことから、東声会会長・町井久之に追い込みをかけられ、現代評論社社長・木島力也の元に逃げ込んだ。この事件を小池は逆手にとって、木島や町井との関係を築いて、木島や町井に連なる児玉系の総会屋となっていった。

 (2)、背景

  ・小池の背景は現代評論社社長・木島力也であった。そして、この木島は、「やまと新聞社」会長・西山幸輝、北星会会長・岡村吾一とともに右翼のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫の「児玉門下三羽烏」と呼ばれていた。さらに、木島は東声会会長・町井久之とも親交しており、小池の背景には、児玉、東声会がいたといえる。しかし、児玉は昭和51年(1976)のロッキード事件以後は影響力を弱め、また東声会も町井引退後は勢力が振るわなかったので、小池自体にはそれほど暴力団や右翼の背景があったわけではない。微温的な与党総会屋として企業に尽くしたことと、一度総会屋に融資をしてしまうと、その事が露見することを恐れる企業側の体質によって、長年利益供与を受け続けていた。

 (3)、事件

  ・第一勧業銀行とその系列ノンバンクから総額300億円の金を引き出し、さらに野村證券から4億円の利益供与を受け、この資金で小池は四大証券の株各30万株をはじめ、東証一部上場企業223社の株各1000株以上を保有した。平成9年(1997)に捜査がはじまり、第一勧業銀行11人、野村證券3人、山一證券8人、日興證券4人、大和證券6人の計32人が逮捕され、第一勧業銀行の元会長が自殺するまで追い込まれた。

3、広島グループ

 (1)、意義

  ・代表は小川薫。広島で電気店の息子として生まれた。父は博徒岡組組長・岡敏夫と仲がよく、後に野球賭博をはじめて店を潰している。小川は高校卒業後、三菱レイヨン大竹工場に入社するが退職して、芝浦工大に入学する。しかし、芝浦工大も野球賭博にはまって中退し、親戚の電気屋の手伝いをしていた。その後、昭和39年(1964)に小川企業広告研究所を設立し、東京三洋電機の株主総会で総会屋デビューした。

  ・広島グループは、一時数千人を超える規模となったため世論の批判を招き、昭和56年(1981)の商法改正につながった。その後小川は、総会屋廃業宣言をしたが、平成4年(1992)から「株式市民運動家」と称して再び総会屋業へ復帰した。全盛期は約1000社の一流企業から年間10数億集めていたといわれ、「最後の総会屋」と呼ばれた。

 (2)、背景

  ・小川は、広島出身なので最初は共政会と近かったが、東京に出てきてからは関東の暴力団とも関係を深め、その後は山口組若頭・宅見勝や直系組長の後藤忠政などと交際をした。

 (3)、事件

  ・小川の地元企業「東洋工業」の再建に住友銀行が乗り出した時、再建のガンとなったのが東洋工業のオーナー・松田耕平であった。住友銀行は松田オーナーを勇退させるために小川に依頼。小川は松田オーナーを熱意を持って説得して勇退へと導いた。

  ・昭和46年(1966)、王子製紙の株主総会で、小川グループと既存の総会屋である嶋崎栄治が乱闘を起こした。後日、小川には広島の共政会二代目・服部武会長が、嶋崎には松葉会の菊地徳勝元会長が後見人となって、手打ちを行った。

 (4)、動画

  ・よしむらチャンネルの吉村浩一氏が、広島時代の小川兄弟について貴重な証言をされています。



、児玉グループ

 (1)、意義

  ・児玉栄三郎は、自らをリーダーに10人ほどのグループを率いた。暴力総会屋として有名であり、実子分でさえ事件を起こさせて服役させるほどの強硬ぶりを総会で発揮し、各企業を戦々恐々とさせた野党総会屋であった。田村事務所・田村守や藤野事務所・藤野康一郎などと友好関係を結んだ。

 (2)、背景

  ・児玉は、山口組系仲里組と関係が深かった。後に、仲里組組長・仲里正秋が真鍋組を継承して、真鍋組の二代目組長となったことから、児玉も真鍋組の幹部となった。しかし、平成9年(1997)に山口組本部の命により、児玉は真鍋組から絶縁され、山口組の後ろ盾を失った。

 (3)、事件

  ・昭和62年(1987)、衣料メーカー「ワコール」の文書部長が会社近くの路上で襲撃され負傷した。この事件を指示したとして、児玉は傷害罪で逮捕された。

  ・富士写真フィルム専務・鈴木順太郎が、自宅前で刺殺された。この事件で暴力団員2人が逮捕されたが、その背後関係は不明なままである。一説によると、児玉が指示したともいわれている。

  ・日本光電工業での建物侵入事件

  ・新日鉄でのウィスキーびん投げ事件

  ・東洋信託銀行での議長殴打事件

、その他

 (1)、佃忠行

  ・早大革マル派出身で、理路整然とした弁論を得意とした。山口組系後藤組の系列とされる。

 (2)、日本會民主同盟

  ・代表は坂本将大。山口組系井奥組の現役組員とされる。

 (3)、共論会

  ・会長は松本孝治。山口組系倉本組がバックとされる。

 (4)、中本総合企画

  ・代表は中本貞次。中本は広島に生まれ、もとは協友会グループに属していたが、独立して中本総合企画を設立した。細井栄蔵や斉藤誠といった論客を抱え、総会で最も発言回数の多い先鋭的なグループであり、総会とは別に質問書を送付するなど、活動が活発であった。

 (5)、中村省三事務所

  ・代表は中村省三。中村は山口に生まれた。誠実な人柄から業界内部でも信望が厚く、業界を背負う一人と注目された人物であった。

 (6)、藤野事務所

  ・代表は藤野康一郎。藤野は広島に生まれ立教大学を卒業した。藤野グループというものはないが、東京若手のリーダー格で藤野を中心に緩やかなグループを形成した。味の素で与党総会屋として活躍した。

<参考文献>

 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
 『憚りながら』(後藤忠政、宝島社、2010)

総会屋の歴史 暴力化した総会屋

1、意義

 (1)、衰退する総会屋

  ・昭和56年(1981)商法が改正され、①単位株制と、②利益供与の禁止が設けられ、翌昭和57年(1982)に施行された。この結果、全国の総会屋は8000人、総会屋に流れる金は年間421億円にも及んでいたものが、その数は激減し、名簿上1200人、実質では200~250人ほどになった。毎年何人か利益供与で逮捕される程度で、忘れ去られる存在となっていった。

 (2)、暴力化した総会屋

  ・総会屋は、広島の共政会を後ろ盾として1970年代に登場した広島グループ以後、暴力化していった。また暴力団側でも平成4年(1992)の暴力団対策法施行やバブル経済の崩壊によって、地上げ、債権取り立て、みかじめ料の徴収などが滞ってきた。そこで、暴力団は企業から金を毟り取る企業対象暴力の方向へと移っていき、その一方式として総会屋へ参入していった。総会屋と暴力団がさまざまな程度で合わさりあって、総会屋は暴力化していった。

2、総会屋がらみの殺傷事件

 (1)、意義

  ・株主総会がもめた後に、企業する社屋や総会関係者自宅へ向けたカチコミや、実際に総会関係者が殺傷される事件が起きるようになった。

 (2)、事件

  ・昭和62年(1987)6月、ワコールの株式部長が刃物で襲われて怪我を負った。

  ・平成4年(1992)9月、日本光電工業の社長夫人が、自宅で宅配便の配達を装った男にスプレーを吹きかけられたうえ、刃物で切りつけられて腕に10日間の怪我を負った。

  ・同年10月、日本光電工業総務部長の母親が、自宅で刃物で顔を切り付けられて2週間の怪我を負った。

  ・平成5年(1993)8月、阪和銀行副頭取・小山友三郎が、出勤のために車に乗ったところ、自宅前で射殺された。犯人は不明である。

  ・同年9月、キングの社長宅を訪れていた義姉が、男に刃物で顔などを切られて10日間の怪我を負った。

  ・平成6年(1994)2月、富士写真フィルム専務・鈴木順太郎が、自宅前で刺殺された。

  ・同年9月、住友銀行の名古屋支店長・畑中和文が、射殺された。犯人は不明である。

  ・平成9年(1997)8月、山一證券顧客相談室長・樽谷紘一郎が、刺殺された。犯人は不明である。

3、総会屋と暴力団

 (1)、総会屋と暴力団の関わり合い

  ・バブル期前後頃の総会屋は、ヤクザの組員、企業舎弟であったり、またヤクザではなくてもヤクザを後ろ盾にしていたり、元ヤクザであったり、たいていがヤクザと関係を持っていた。

 (2)、暴力団

  ①、意義

   ・かつて総会屋に強い暴力団は、広島グループの共政会や、関東の松葉会であった。しかし、暴力団の寡占化によって、住吉会や山口組系が多くなっていった。

  ②、具体例

   ・論談同友会は住吉会系大日本興行系であった。

   ・論談同友会に対抗したのが、小川薫の小川グループ、日本會民主同盟など山口組系の総会屋や、山口組直系の後藤組であった。

4、警察の対応

 (1)、意義

  ・警察は企業へ総会屋を切るように指導をした。しかし、富士写真フィルム専務刺殺事件など総会屋を切った後に暴力化した総会屋が総会担当者を襲撃する事件が相次ぎ、総会屋を切った後に警察が安全を保障してくれるのか、総会担当者は疑心暗鬼となった。

 (2)、警察の対応

  ①、過去は問わない警察

   ・昭和56年(1981)商法が改正され利益供与が禁止された。これは株式の行使に対して利益を供与したら、供与を受けた総会屋だけでなく、供与をした企業側も罰するという制度であった。よって、過去に総会屋へ利益供与をしていた企業は、自らが罰されてしまうので警察に相談しにくかった。そこで、警察庁長官・城内康光は、「警察は企業の過去は問わない。過去の利益供与の解明より事件の捜査に重点を置く」という法律の運用を指示した。

  ②、企業の総会屋排除

   ・企業は総会屋排除を決め、警視庁に誓約書を提出し、総会屋や右翼筋が送り付けてくる情報誌の購読も中止するようになった。

5、足を洗う総会屋達

 (1)、意義

  ・平成4年(1992)以降、もはや総会屋稼業では飯は食えないと見切りをつける総会屋が増えだした。例えば、論談同友会では、幹部は経営コンサルタント、そういかない下の者はバイク便、ビル清掃、飲食店など正業に就かせていった。

 (2)、利益供与の抜け穴を考える

  ・総会屋を続ける者達は、自分の女に店をやらせて、企業の人間が来た時は特別勘定でがっぽりつけて利益供与がわりにしたり、企業の方も総会屋にはビール券や商品券など換金性があるものをあげたり、利益供与の抜け穴を考えていった。

6、総会屋からコンプライアンス利権を奪った警察

 (1)、意義

  ・総会屋と警察の戦いは、総会屋がお金をもらって他の総会屋から企業を守るのか、警察が企業を守るのか、コンプライアンス利権の奪い合いという側面もあった。
 
 (2)、特殊暴力防止対策連合会(特防連)

  ①、意義

   ・特殊暴力防止対策連合会とは、東京霞が関の警察総合庁舎など全国7カ所に事務所を置く公益社団法人である。企業から入会金や年会費を取り、企業が株主総会を開く前に、模擬株主総会を開いて総会屋対策を教え、総会当日に総会屋が出席をすると分れば、現役警官を警備員として配置するなどの事をしている。しかし、現在企業から総会屋に対する問い合わせはあまりなく、クレーマーについての問い合わせの方が多いという。

  ②、警察OBの天下り先

   ・特防連の幹部や職員は、圧倒的にヤクザ対策を担当する捜査四課や暴力団対策課などの警察OBが多い。警察OBの天下り先になっているのである。

 (3)、企業の総務部

  ・大企業だと株主総会を担当する総務部には、警察OBが天下りをしている場合が多い。企業からは、総会屋に払っていた金よりも天下りの警察OBへ払う給料の方が高くつくと嘆かれる場合もある。

<参考文献>

 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
 『新装版 ヤクザ崩壊半グレ勃興』(溝口敦、講談社、2015)


総会屋事件史 富士写真フィルム専務刺殺事件

1、意義

 ・昭和56年(1981)商法が改正以後、総会屋は勢力を弱めていたが、1980年代後半から総会屋と暴力団がさまざまな程度で合わさりあうようになり、企業に対して攻撃を加えるようになっていった。そのような中でも、企業の総会担当者に深い動揺と恐怖を与えたのが、富士写真フィルム専務刺殺事件であった。

2、シャンシャン総会から荒れる総会へ

 ・平成3年(1991)1月、富士写真フィルム専務・鈴木順太郎は同社の総務部長に就任した。これ以後株主総会は短時間のシャンシャン総会からロングランの荒れた総会へと変わった。つまり、鈴木が総会担当者になって以後、総会屋へ金を出すことをやめたのである。

3、平成6年(1994)年の株主総会

 (1)、意義

  ・富士写真フィルムの平成6年(1994)の株主総会が1月19日に開かれた。この総会は4時間22分の荒れた総会となった。

 (2)、出席した総会屋達

  ・田村守ら田村事務所

  ・小峰五郎ら小峰グループ

  ・五十嵐芳治ら日本會民主同盟

  ・児玉英三郎ら児玉グループ

  ・斉藤誠ら中本総合企画

  ・間宮裕詞ら中村省三事務所

  ・丸尾武士ら北経済研究所

  ・串田泰夫ら串田事務所

 (3)、荒れた総会

  ・総会開始10分前から、富士写真フィルム社長・大西実を皮肉って「足柄山の金太郎」の替え歌を歌いだし、質疑応答中に児玉グループの者がミニチュアボトル3本を議長席に投げつけるなど、暴力行為と建造物侵入罪で逮捕者を出す騒ぎとなった。会社側も怒号の中、強行採決で閉める大荒れの総会となった。

4、富士フィルム専務刺殺事件

 (1)、富士フィルム専務刺殺事件

  ・平成6年(1994)年2月28日、東京都世田谷区の自宅前で、鈴木は男に刺された。自力で玄関まで戻ったが力尽き、そのまま死亡した。

 (2)、犯人逮捕

  ・事件発生から8ヶ月後、実行犯として大阪にある砂子川組坂根組幹部と山口組倉本組傘下の組員が逮捕された。しかし、この二人は鈴木と利害関係がなく、誰がどのような思惑で鈴木を襲撃する依頼、もしくは命令をしたのかは不明のままであった。

5、影響

 ・警察は企業へ総会屋を切るように指導をした。しかし、この事件によって、総会屋を切った後に警察が安全を保障してくれるのか、総会担当者は疑心暗鬼となった。

<参考文献>

 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)


総会屋事件史 富士銀行十九億円不正融資事件

1、意義

 ・昭和45年(1970)、富士銀行雷門支店副長・菅沼正男の自動販売機のオペレーター会社トムソンに対する不正融資事件が明らかになる。このとき、売り出し中であった広島グループの総大将小川薫一派が総会で富士銀行の役員を追及し、会長や頭取を退陣に追い込もうとし、富士銀行側は大物総会屋島崎英治に対策を依頼し、事件の裏面で総会屋が暗躍した事件である。

2、経緯

 (1)、事件の発覚

  ・昭和45年(1970)4月、富士銀行の佐々木副頭取のもとに、富士銀行雷門支店副長・菅沼正男が自動販売機のオペレーター会社であるトムソンの架空輸出手形を買い取り、トムソンの有馬社長に2年数か月の間に19億円余りの不正融資をし、この事件が発覚したら海外に逃亡したとの報告が入る。
 
 (2)、常務会で対策を協議する

  ・佐々木副頭取はすぐに常務会を開いて対策を協議し、事件化を避けるためにこの事件は富士銀行のトムソンへの融資の焦げ付きとして処理し、トムソンを再建し貸金を取り立てることで処理をすることにした。

 (3)、大蔵省への報告

  ・トムソンの有馬社長も海外に逃亡してしまう。これによって富士銀行側はやむを得ずに当時の大蔵省へ事件を報告した。ここにおいて、マスコミも報道をはじめ、警察も捜査をはじめ、国会においても事件が取り上げられるに至る。

 (4)、「広島グループ」の暗躍

  ①、総会屋の暗躍

   ・この事件を聞きつけた総会屋が、富士銀行にたかってお金を得ようとした。この動きの中で最大なものが、当時売り出し中であった「広島グループ」の小川薫一派であった。小川グループはこの事件を本格的に富士銀行の株主総会で追及し、当時の富士銀行の金丸会長や岩佐頭取を退陣させて総会屋としての確固たる地位を築こうと考えていた。

  ②、広島グループの暗躍

   ・小川は大きな犠牲を覚悟で総会屋に臨む態勢を作っていた。小川ら広島グループには広島の暴力団共政会がついているといわれ、富士銀行の株主総会に暴力団員を含む100人を動員すると噂されていた。

 (5)、富士銀行の幹事総会屋島崎英治の対策

  ・富士銀行は幹事総会屋島崎英治に相談をし、島崎は、

   ①膨大な資金を提供して小川を黙らせる
 
   ②株主総会前に岩佐頭取が退陣を表明する

  のどちらかしかない旨を伝える。

 (6)、岩佐頭取の事件処理

  ①、外遊

   ・富士銀行の岩佐頭取は、当時の大蔵大臣である福田赳夫とともにIMFの総会に政府顧問として随行していた。これは福田蔵相の、野党の追及が激しくマスコミが過熱報道をしている間は岩佐頭取を海外に連れ出しておき、また岩佐頭取もIMFの総会に出席したということで花道を作り退陣をさせようという策であった。

  ②、岩佐頭取の事件処理

   ・外遊から帰国した岩佐頭取は、

    ア)、役員のボーナルの全額返上

    イ)、常務取締役以上の減給

    ウ)、井口雷門支店長の論旨免職

    エ)、外国部長の辞任受理

   と矢継ぎ早に事件を処理していった。

 (7)、岩佐頭取の退陣

  ・岩佐頭取は株主総会の運営に自信がなかったので、幹事総会屋島崎の提案について

    ①総会屋の小川薫に対して資金提供はしない

    ②自らが責任をとって頭取を退任する

   との明確な方針を定めた。

 (8)、総会屋の小川薫が手を引く

  ・岩佐頭取が退任をしたということで、総会屋の小川薫はこの事件から手を引いて富士銀行側と和解をした。

<参考文献>

 『総会屋の100年』(神田豊晴、リッチマインド、1991)

総会屋事件史 白木屋乗っ取り事件

1、意義

 ・白木屋は創業300年を誇る老舗のデパートであった。しかし、昭和24年(1949)に当時経営不振であった白木屋を、東急の総帥五島慶太一派の横井英樹が買収を画策する。白木屋社長鏡山忠男は大物総会屋の久保祐三郎に防戦を依頼、横井側でも大物総会屋の田島将光を後ろ立てとしており、久保と田島の対決となった事件である。

2、経緯

 (1)、横井英樹の後ろ立てに大物総会屋田島将光がつく

  ・大物総会屋の田島将光は、以前白木屋の立て直し問題で大丸の合併案を白木屋社長鏡山忠男に示したが、居留守を使われて追い払われた経験があった。よって、総会屋の田島は横井の後ろ盾について白木屋乗っ取りを支援することにした。

 (2)、横井英樹が株を買い占める

  ・横井は白木屋株を買い集め、昭和27年9月ころから白木屋株が急激な値上がりをする。これに対して白木屋社長であった鏡山忠男も防戦をしたことから、昭和28年1月には白木屋株は約3倍ほどに暴騰した。

 (3)、白木屋側に大物総会屋久保祐三郎がつく

  ・白木屋社長鏡山忠男は、かねてからの知人であった大物総会屋久保祐三郎に防戦を依頼し、さらに総会屋の久保は後に住吉一家三代目になる阿部重作も引き入れた。

 (4)、白木屋第70期定時株主総会に向けての対策

  ・両陣営は決戦の日である株主総会に向けて、株の買い集めや委任状集めを行ったり、陣営の切り崩しをしたり、虚々実々に駆け引きを行った。

 (5)、白木屋第70期定時株主総会

  ①、意義

   ・昭和29年3月31日、白木屋第70期定時株主総会が中央区浜町になる中央クラブで開催された。議長は白木屋社長の鏡山忠男がつとめ、全国から総会屋、暴力団関係者、右翼関係者が集結した。

  ②、委任状の点検

   ・株主からの委任状を点検すべきであるという提案によって、両陣営立合いのもとに点検を行った。その結果、会社側提出の委任状は196万票、横井側提出の委任状は137万票となり、合計333万票となった。しかし、白木屋の発行済み株式数は400万株でその中に議決権停止の仮処分をうけている横井側の102万株が含まれているので委任状の総数は298万票以内でなければならず、点検された委任状は40万票近くも多すぎることとなった。

  ③、流会へ

   ・会場は明らかに二重に提出された委任状があることから騒然となり、結局総会は流会とし、昭和29年4月2日に千代田区の東京会館で継続総会を開くこととなった。

 (6)、東京会館が会場を提供しない旨を通知する

  ・白木屋の総会には多数の暴力団関係者や右翼関係者が動員されるという噂がたったことから、会場として予定されていた東京会館は白木屋に対して継続総会の会場に提供しない旨を通知してきた。

 (7)、白木屋側の第70期定時株主総会

  ①、中央クラブでの株主総会開催
  
   ・東京会館に会場使用を断られた白木屋側は、急きょ中央区の中央クラブを会場とし、その旨を夕刊新聞に公告し、東京会館の正面入り口にも掲示を張り出した。

  ②、横井側が総会が成立しない旨を主張する

   ・白木屋側の鏡山社長が議長として継続総会の開会を宣言すると、横井側の株主達はすぐに「会場変更手続き」や「鏡山社長側が株主の名義書き換え期間中に強引に書き換えを行った70万株余の無効」を指摘し、総会は成立しないと妨害を図った。

  ③、白木屋側鏡山社長の強引な総会運営

   ・総会屋の久保を中心とする白木屋側株主達が鏡山社長の議事運営を助け、

    ア)、総会が成立する旨

    イ)、第一号議案 計算書類の承認は可決される旨

    ウ)、横井側から提出された累積投票の請求は成立せず、取締役及び監査役の選任は普通決議により選任する旨

    エ)、第二号議案 具体的な取締役や監査役の選任

    オ)、第三号議案 定款一部変更の件

   と一気に議事を終了させた。

  ④、横井側の総退場

   ・横井側の株主達はこの白木屋側の鏡山社長の強引な総会運営に激怒し、怒号を残して総退場を決行した。

  ⑤、白木屋側の勝利?

   ・総会を乗り切った白木屋側は鏡山社長と総会屋の久保を中心に勝利をねぎらった。しかし、この総会に総大将である横井英樹と大物総会屋田島将光の姿はなかった。彼らは、この総会と同時刻に元の東京会館で総会を開催していたのである。

 (8)、横井側の第70期定時株主総会

  ①、東京会館での株主総会

   ・横井英樹と大物総会屋田島将光は、会場の変更は総会の決議以外には認められないとして、白木屋側が中央クラブで総会を開催している同時刻に東京会館で十数名が出席して白木屋継続総会を開催した。これは、大物総会屋の田島の策であり、田島は白木屋側が東京会館の使用を拒否された時に別名で会場を予約していたのであった。よって、白木屋側が中央クラブで開催した総会に出席した横井側の株主達は総会を混乱させ時間を引き延ばすために送り込まれたものであった。

  ②、大物総会屋田島の手際よい議事進行

   ・田島は一人で手際よく議事を進行させ、

    ア)、第一号議案 計算書類の承認は否決して検査役5名を選任して調査することとする旨

    イ)、第二号議案 具体的な取締役や監査役の選任については、選挙の形式を省略し議長の指名によって選任手続きにかえることとし、議長の中沢某が横井英樹他を役員に選任していった。

    ウ)、第三号議案 定款変更は全面的に反対する旨

   を審議し、わずか10数分で総会を終えてしまった。さらに、この後取締役会を開催して横井を代表取締役に選任した。

  ③、登記の申請を済ませる

   ・大物総会屋の田島は株主総会と取締役会を終えるとすぐに日本橋法務局へ行き、議事録を添付して新しい役員を登記してしまった。

 (9)、訴訟合戦

  ・白木屋側が株主総会と取締役会終了後に登記を申請しようとしてもできなかった。この後、白木屋側と横井側は訴訟合戦をして事態は全く進展しなくなった。

 (10)、紛争の帰着

  ・最終的に、横井英樹は白木屋の社長に就任することなく所有していた株式をすべて東急の五島慶太に譲って手を引き、白木屋の鏡山社長も社長の座を追われた。白木屋は結局東急の傘下に収まった。

<参考文献>

 『総会屋の100年』(神田豊晴、リッチマインド、1991)

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