1、出生
・1919年、朝鮮の全羅南道新安郡生まれる。後に、韓徳銖議長の妹の婿となり、韓ー金体制を築いて朝鮮総連を支配していく。
2、朝鮮総連人事部長
(1)、朝鮮総連人事部長へ
・日本の旧制第二高中退後、東京の朝鮮学校で非常勤講師をつとめ、1949年から北朝鮮関係の通信社で働き、1953年にその責任者となる。1958年に韓徳銖が周囲の反対を押し切って朝鮮問題研究所所長に抜擢し、1959年に総連中央の全ての幹部の人事を握る人事部長に抜擢される。
(2)、『在日朝鮮人運動史』の編纂と失脚
①、『在日朝鮮人運動史』の編纂
・韓議長の独裁体制を強固にするために、韓徳銖議長を中心に据えた在日の歴史を書く。これは総連の全幹部の学習資料にもされた。
②、失脚
・1958年頃から北朝鮮内で金日成独裁体制が構築されてきており、在日朝鮮人の運動が金日成の指導ではなく韓徳銖の指導で行われたという歴史叙述に北朝鮮当局は激怒した。これにより、北朝鮮からの指示で金炳植は人事部長の職を解かれた。
3、朝鮮総連事務局長
(1)、安興甲の策略
・金炳植の後任として人事部長となったのが、民対派の安興甲であった。彼は、この機に韓徳銖議長の追い落とし策謀したが、北朝鮮にこのたくらみは洩れて、1963年に北朝鮮に召喚されて粛清された。
(2)、金炳植の復権
・安興甲の粛清後、1963年に金炳植は朝鮮総連中央の実務部門すべてを束ねる事務局長として復権をし、義兄である韓徳銖とタッグをくんで、組織内のライバルを排除し、総連支配を確固なものとしていった。
4、対韓国強硬路線派として
(1)、意義
・1967年頃から北朝鮮で対韓国強硬路線派が力を持ち始める。これに対応して、朝鮮総連も対韓国政治工作を行うことになり、この責任者が金炳植であった。そして、金炳植はこの対韓国政治工作を行っていく過程で、朝鮮総連内における絶対的な権力を確立していき、やがては韓徳銖の議長職に野心を抱くようになる。
(2)、失脚
・金炳植の議長職に対する野望に対して、韓徳銖議長も反撃に出る。最終的には、1972年9月に、金炳植が北朝鮮を訪問している留守を狙って、緊急の幹部講習会を開催し、この席上で韓徳銖は金炳植を批判した。さらに、2001年に韓徳銖の後任として朝鮮総連の議長となった徐萬述(ソマンスル)もこれに続いて批判をした。この後、金炳植は第2回の南北赤十字会談に朝鮮総連から送り出され、金炳植が日本にいると朝鮮総連が混乱するという北朝鮮当局の判断から北朝鮮にとどめ置かれ、二度と日本に帰ってくることはなかった。
5、北朝鮮で
・北朝鮮での金炳植は、名ばかりで実際の権力は伴っていないとはいえ、1993年に国家副主席となり復権する。1999年に死去した。
<参考文献>
『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)
・1919年、朝鮮の全羅南道新安郡生まれる。後に、韓徳銖議長の妹の婿となり、韓ー金体制を築いて朝鮮総連を支配していく。
2、朝鮮総連人事部長
(1)、朝鮮総連人事部長へ
・日本の旧制第二高中退後、東京の朝鮮学校で非常勤講師をつとめ、1949年から北朝鮮関係の通信社で働き、1953年にその責任者となる。1958年に韓徳銖が周囲の反対を押し切って朝鮮問題研究所所長に抜擢し、1959年に総連中央の全ての幹部の人事を握る人事部長に抜擢される。
(2)、『在日朝鮮人運動史』の編纂と失脚
①、『在日朝鮮人運動史』の編纂
・韓議長の独裁体制を強固にするために、韓徳銖議長を中心に据えた在日の歴史を書く。これは総連の全幹部の学習資料にもされた。
②、失脚
・1958年頃から北朝鮮内で金日成独裁体制が構築されてきており、在日朝鮮人の運動が金日成の指導ではなく韓徳銖の指導で行われたという歴史叙述に北朝鮮当局は激怒した。これにより、北朝鮮からの指示で金炳植は人事部長の職を解かれた。
3、朝鮮総連事務局長
(1)、安興甲の策略
・金炳植の後任として人事部長となったのが、民対派の安興甲であった。彼は、この機に韓徳銖議長の追い落とし策謀したが、北朝鮮にこのたくらみは洩れて、1963年に北朝鮮に召喚されて粛清された。
(2)、金炳植の復権
・安興甲の粛清後、1963年に金炳植は朝鮮総連中央の実務部門すべてを束ねる事務局長として復権をし、義兄である韓徳銖とタッグをくんで、組織内のライバルを排除し、総連支配を確固なものとしていった。
4、対韓国強硬路線派として
(1)、意義
・1967年頃から北朝鮮で対韓国強硬路線派が力を持ち始める。これに対応して、朝鮮総連も対韓国政治工作を行うことになり、この責任者が金炳植であった。そして、金炳植はこの対韓国政治工作を行っていく過程で、朝鮮総連内における絶対的な権力を確立していき、やがては韓徳銖の議長職に野心を抱くようになる。
(2)、失脚
・金炳植の議長職に対する野望に対して、韓徳銖議長も反撃に出る。最終的には、1972年9月に、金炳植が北朝鮮を訪問している留守を狙って、緊急の幹部講習会を開催し、この席上で韓徳銖は金炳植を批判した。さらに、2001年に韓徳銖の後任として朝鮮総連の議長となった徐萬述(ソマンスル)もこれに続いて批判をした。この後、金炳植は第2回の南北赤十字会談に朝鮮総連から送り出され、金炳植が日本にいると朝鮮総連が混乱するという北朝鮮当局の判断から北朝鮮にとどめ置かれ、二度と日本に帰ってくることはなかった。
5、北朝鮮で
・北朝鮮での金炳植は、名ばかりで実際の権力は伴っていないとはいえ、1993年に国家副主席となり復権する。1999年に死去した。
<参考文献>
『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)