稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・同和事件史

同和事件史 飛鳥会事件 大阪市の乱脈同和行政

1、西中島駐車場事件

 (1)、意義

  ・大阪市の外郭団体「大阪市開発公社」が経営する大阪市淀川区にある「西中島駐車場」の管理委託業務をめぐり、財団法人飛鳥会理事長で、部落解放同盟飛鳥支部長の小西邦彦が業務上横領と詐欺の容疑で、2006年5月に逮捕された事件。

 (2)、経過

  ①、御堂筋建設によってできた高架下のトラブル

   ・1970年の大阪万博に向けて進められた新大阪駅周辺の開発、区画整理にともなって新御堂筋が建設され、その高架下に空き地ができた。やがて、この空き地は露天商が勝手に屋台車置き場として使ったり、ゴミ捨て場にもなっていたことから、周辺住民から苦情が出た。

  ②、駐車場の建設計画

   ・この周辺住民と大阪市とのトラブルに介入したのが小西であった。小西は中高齢者雇用ならびに老人福祉対策の一環として、新御堂筋の高架下を駐車場として利用することを提案し、大阪市はこれを認めた。

  ③、飛鳥会に有利な管理委託契約

   ・大阪市と大阪市開発公社が合計2960万円を負担して、西中島駐車場は建設され、1974年にオープンした。そして、管理委託先となったのが小西が理事長をしている財団法人飛鳥会であった。西中島駐車場は同和地域ではないにも関わらず、道路占有料と設備費使用料を支払うだけで駐車場料金の納入はしなくてもよいという有利な条件で、飛鳥会は駐車場の経営の仕事を請け負ったわけである。

  ④、横領された飛鳥会の金

   ・年間約2億円と言われる西中島駐車場の売り上げは、三和銀行淡路支店に開設された「財団法人あすか会新大阪ガレージ代表理事小西邦彦」名義の口座に振り込まれ、1989年から2006年までの間にこの口座から三和銀行の小西の個人口座に合計5億1500万円が振り込まれていた。これによって、小西は業務上横領容疑で逮捕されたのである。

2、飛鳥解放会館(その後大阪市立飛鳥人権文化センター)土地転がし疑惑

 (1)、意義

  ・大阪市が飛鳥会を同和特別扱いしたことによって、土地ころがしや金融機関からの融資に大阪市自らが手を貸していた事件。

 (2)、経過

  ・1965年、大阪市建築局が飛鳥解放会館の現在の敷地を住宅用地として使うために取得した。

  ・1971年6月、飛鳥会所有の別の用地が大阪市土木局の土地改良事業にともなう道路拡張事業予定地に入ったため、土地交換の対象となった。これにより飛鳥会はこの地の所有権を大阪市から取得した。公共用地買収は金銭補償が原則であるが、飛鳥会は同和特別扱いとして土地交換が行われた。

  ・1971年9月、この土地は飛鳥会から山口組系金田組の金田三俊組長の内縁の妻である丁順子に所有権が移転された。

  ・1973年4月、丁順子が所有している段階で、この土地に解放会館を建設する計画を大阪市が立てた。

  ・1974年4月、丁順子が所有している段階で、解放会館の建設工事が着工した。

  ・1974年7月、この土地に、金田三俊組長が韓国系の金融機関である大阪商銀からうけた3000万円の融資を担保するために抵当権が設定された。
 
  ・1975年3月28日、この土地の隣にある大阪府の所有地(当時の価格で1億円以上と言われている)と土地交換ということで、丁順子から大阪市に再びこの土地の所有権が移転した。これも金銭補償ではなく同和特別扱いとして土地交換が行われた。よって、丁順子は土地ころがしをした上で、1億円以上の土地を取得したことになる。小西はさらに、この土地交換で手に入れた元大阪府の所有地を大阪市に買い上げるように要求をしていた。

  ・1975年3月31日、飛鳥解放会館が完成した。この日に、金田組長の抵当権も抹消されている。

3、パール温泉とあすか温泉

 (1)、意義

  ・パール温泉とあすか温泉は飛鳥会が運営する同和風呂である。この二つの同和風呂に対する大阪市の補助金は、1996年度~2004年度までで約6億円以上であった。

 (2)、パール温泉の疑惑

  ・飛鳥会が運営していたパール温泉が、火災で全焼をした。次の年に再建されたが、その水道代は大阪市内の他の同和風呂が2分の1の補助なのに対して、パール温泉は3分の2の補助を受ける特別扱いを受けた。

 (3)、あすか温泉の疑惑

  ・あすか温泉が1996年~1997年にかけて2億4000万円の補助金で建て替えられた際、温泉の上の二階、三階に勝手にマンションを建設し、無届で経営して、その家賃を飛鳥会口座に振り込ませていた。

4、柴島浄水場事件

 (1)、意義

  ・小西は、野間工務店が柴島浄水場の脱水汚泥の搬出工事を請け負うように圧力をかけていた。また、柴島浄水場のろ過池跡の埋立工事の設計変更を水道局に繰り返しさせ、当初953万円だった工事費を8437万円と9倍に膨らませて受注した。1974年から1980年までの7年間で、水道局の工事を8億1500万円も受注していた。

 (2)、野間工務店とは

  ・野間工務店とは、小西が経営する建設会社である。しかし、看板だけのペーパーカンパニーであり、受注後はすぐに他の業者に丸投げしていた。1985年に廃業するまでの5年間で、大阪市の工事を21億円請負っていた。

5、出入橋ビル事件

 (1)、意義

  ・大阪市が桜島守口線の拡幅用地として、大阪市北区堂島の出入橋ビルを買収した。この時、小西は同ビルに飛鳥会が入居していないにもかかわらず入居していたことにして、大阪市から立退き補償金を受け取った。

 (2)、その後の出入橋ビル

  ・出入橋ビルはその後、経緯は不明であるが小西が理事長を務める社会福祉法人「ともしぶ福祉会」の所有物件となった。しかし、飛鳥会事件が発覚するまで、旧山口組系柳川組の残党のたまり場となっていた。

6、市有地私物化事件

 (1)、意義

  ・大阪市が飛鳥地区協に無償で貸していた吹田市新芦屋下の土地に、部落解放同盟飛鳥支部執行委員で野間工務店社長であった小西の一の子分である伊藤久重が、自宅を建てたり、土地を抵当に入れて金融機関から融資を受けたりしていた事件。

 (2)、経過

  ①、飛鳥地区協に無償で貸し出される

   ・大阪府が所有していた東淀川区にある府営崇禅寺住宅を含む飛鳥地区の土地について、大阪市は同和事業を計画した。大阪市は吹田市新芦屋下の土地を6億7000万円で取得して、この土地と飛鳥地区の土地を交換しようとしたがうまくいかず、結局吹田市新芦屋下の土地は飛鳥地区協に無償で貸し出され、菜園として使われることとなった。

  ②、私物化された市有地

   ・この吹田市新芦屋下の土地を菜園として整備するために、公金計3000万円を使って、野間工務店が請負い、農園全体を整備して休憩室も作られた。しかし、1974年にこの土地に財団法人飛鳥会名義で建築確認が申請されて、建物が建てられ、伊藤久重執行委員が住宅として住みだした。1980年にはこの建物の登記名義も伊藤に変更された。さらに、休憩所も伊藤名義に登記され、この自宅と休憩所に抵当権を設定して1500万円の融資まで受けていた。

 (3)、飛鳥地区の土地について

  ・大阪市が所有する吹田新芦屋下の土地と大阪府が所有する飛鳥地区の土地との交換は、2005年4月になってようやく成立した。その後、この飛鳥地区の土地は大阪市から小西が理事長を務める社会福祉法人「ともしび福祉会」に無償で提供され、小西は2005年12月にここに生活支援ハウスをオープンさせた。

7、小西と福祉ビジネス

 (1)、小西と福祉ビジネス

  ・小西は、1981年に社会福祉法人「ともしび福祉会」を設立した。そして、大阪府有地に「ともしび保育園」を、1994年には高槻市に特別老人ホーム「高槻ともしび苑」を、1995年には「飛鳥地区健康管理センター」を、1996年には特別老人ホーム「福島ともしび苑」を、2005年には飛鳥地区に「生活支援ハウス」をオープンさせた。

 (2)、特別な便宜を図った大阪市

  ・2005年度、「ともしび福祉会」は大阪市から2億円の補助金を受けるなど、他の社会福祉法人とは比べものにならないくらい大阪市から便益を受けた。他方、「飛鳥地区健康管理センター」の初代所長は、当時の大阪市長であった関淳一と縁のある女性医師が天下っていた。

8、大阪市立飛鳥人権文化センター(旧飛鳥会館)に関連した疑惑

 (1)健康保険証詐取事件

  ・小西は、健康保険証を持たない飛鳥会関係者、飛鳥支部関係者、小西の親族あるいは知人に健康保険証を取得させる目的で、1976年ごろから大阪市立飛鳥人権文化センター(旧飛鳥解放会館)職員に指示して、飛鳥人権協会で働いていることにして、健康保険証を作らせていたということで、健康保険証の詐取容疑で逮捕された。

 (2)、人権協会職員の給与ピンハネ疑惑

  ・小西は、人権文化センターに事務所を置く飛鳥人権協会の職員の給与をピンハネしていた。そのピンハネ額は5年間で2400万円以上にのぼった。

<参考文献>

 『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)

 

同和事件史 飛鳥会事件 小西邦彦とは

1、小西邦彦とは

 (1)、ヤクザになる

  ・1933年、大阪府高槻市内の旧同和地区に生まれる。地元中学校卒業後、行商をしたり京都で不良をした後に、10代で金田三俊組長の金田組に入る。金田組の組事務所はこの頃大阪市西淀川区の飛鳥地区にあり、小西も飛鳥地区に移り住んだ。

 (2)、部落解放運動へ

  ①、部落解放運動へ

   ・ヤクザ時代の小西は、窃盗や恐喝などを繰り返していたが、金にならないヤクザではなく金儲けがしやすい部落解放運動の道へと進み、1967年に部落解放同盟飛鳥支部長となった。ただし、支部長就任後も3年間は金田組組員であり、またヤクザを辞めた後もずっとヤクザとの関係は続いた。

  ②、飛鳥会とは
 
   ア)、飛鳥会とは

    ・飛鳥会はもともとは同和浴場「パール温泉」を運営していた社団法人飛鳥会である。1967年に部落解放同盟飛鳥支部長に就任した小西は、1969年に施行された同和対策特別措置法に基づく同和対策事業の恩恵を受けるために、社団法人飛鳥会を解散して収益事業を行える財団法人として1971年に設立したのが、財団法人飛鳥会である。小西は設立時から理事(のちには理事長)に就任している。

   イ)、飛鳥会の事業

    ・飛鳥地区内での同和浴場パール温泉と飛鳥温泉の経営

    ・大阪駅前ビルの「サウナあすか」と喫茶店の経営

    ・飛鳥人権文化センター内での喫茶店の経営
  
    ・万博公園で売店の経営

    ・北新地で飲食店が入ったテナントビルの経営

    ・西中島駐車場の経営

 (3)、小西家の富

  ①、家

   ・小西とその長男の居住地は、飛鳥地区の同和住宅ということになっているが、実際にはそこに住んでおらず、奈良市内の高級住宅地に妻名義と長男名義で豪邸所有し、そこに住んでいた。

  ②、車

   ・小西は高級外車リンカーンを運転手付きで乗り回していた。

   ・長女や長男にも数百万から千数百万の高級外車をプレゼントしていた。

  ③、その他の資産
 
   ・500万円かけて自分の棺桶を作った。

   ・妻と長女にクレジットカードを渡し、宝石やブランド品を買いあさっていた。

  ④、豪遊

   ・毎月数十万から百数十万も高級クラブで豪遊していた。

   ・毎月数十万から数百万以上も百貨店で物品を購入していた。

   ・愛人に1000万円もする宝石をプレゼントしていた。

2、なぜ小西邦彦は力を持てたのか

 (1)、同和対策事業の時代

  ・1969年に同和対策特別措置法が施行され、莫大な同和対策事業費が同和地区に投入されていた時代であった。さらに、「同和」と名がつけばどんな無理難題でも通った時代でもあった。

 (2)、小西邦彦のスポンサー三和銀行

  ①、意義

   ・小西の力の背景として、小西が貯金箱として自由に使える三和銀行の存在があった。

  ②、三和銀行と小西の出会い

   ・三和銀行は大阪府、大阪市の公金取扱い銀行となることが悲願であった。1975年、大阪府立柴島高校が設立されたときに、小西が大阪府に働きかけて、三和銀行淡路支店を同校の公金取扱い銀行にすることに成功した。三和銀行は小西に感謝し、本店業務部長で後に頭取になる人物が小西の所に直接お礼をしに訪れ、この時に飛鳥会事務所へ三和銀行の法人課長を派遣することも決定された。

  ③、蜜月関係

   ア)、三和銀行が小西のためにやったこと

    ・三和銀行は1970年代から30年間に渡って歴代の法人課長を飛鳥会事務所に常駐させて、小西および飛鳥会の経理の一切を行っていた。また、元法人課長の中には三和銀行退職後に飛鳥会の理事として天下りし、小西の金庫番を務めた者もいた。

   イ)、小西が三和銀行のためにやったこと

    ・1978年、小西は三和銀行淡路支店の用地買収に力を貸した。

    ・1990年、三和銀行の運転手が石切神社管長の二男を運転中に不手際で水死させてしまう事件が起こった。石切神社は三和銀行に取引停止を通告した。氏子もこれにならうと恐れた三和銀行は、小西に和解斡旋を依頼し、小西が間に入ることによって円満に解決した。
 
    ・1991年、大阪府同和建設協会の岸正見会長が、大阪府副知事を介して三和銀行に融資の申出をしてきた。三和銀行は、小西に依頼して岸会長への融資を断ることに成功した。

 (3)、小西邦彦とヤクザ

  ①、意義

   ・小西は、元ヤクザであり、またヤクザとの交際も幅広く、ヤクザの暴力が力の源泉の一つであった。

  ②、金田組

   ア)、金田組とのかかわり

    ・金田三俊組長率いる金田組は、山口組直系のヤクザである。小西は、金田組の幹部であり、部落解放同盟飛鳥支部長になれたのも、金田組長の力によるものであった。後に金田組を脱退するが、金田組長は資金源が豊富な小西を手放したくなく、金田組を辞めた後も山口組の資金源としてヤクザと関わりを持ち続けた。

   イ)、逸話

    ・小西は、金田組を辞める時に小指を落としたという逸話がある。しかし実際には、小西が金田組長に黙って大阪駅前ビルに飛鳥会経営のサウナを開店させ、その披露パーティーに組長を招かなかったことが後でばれて、指を詰めたものであった。

  ②、山一抗争

   ・1985年、山口組の竹中正久四代目組長は吹田市内の愛人が住むマンションで山広組系組員に射殺されるが、このマンションの名義人は小西であった。竹中四代目に取り入っていた金田組長の命によって小西がこのマンションを借りたと言われている。

   ・山口組系黒誠会の幹部が、竹中四代目が射殺に対する報復を一和会に対して行おうとしていたが、この幹部は小西が実質的に管理していた飛鳥地区の人権住宅に潜伏していた。

  ③、生島久次元組長射殺事件

   ・1996年、不動産会社を経営し巨額の闇資金を運用していた元ヤクザであった生島久次元組長が、大阪駅前ビルの路上で射殺された。この生島元組長と小西は親戚付き合いをしていた。例えば、生島元組長のために、大阪ミナミの立体駐車場を担保として、三和銀行系クレジット会社と京セラ系クレジット会社から小西が運営する「ともしび福祉会」名義に約50億円の転貸融資をしていた。

  ④、宅見勝若頭射殺事件

   ・1997年、山口組系中野会組員によって山口組の宅見勝若頭が射殺された。この後、小西の飛鳥会事務所へも銃弾が撃ち込まれた。この理由は、小西が所属していた金田組は金田組長の死去によって解散し、金田組員は中野会へと移った。さらに、小西と親戚付き合いをしていた生島元組長も中野会の中野太郎会長と盃を交わす寸前と言われるほどの間柄であった。中野会組員が小西の飛鳥会事務所に出入りしていたこともあって、小西も狙われたのであった。

  ⑤、天野組

   ・小西は中野会に近く狙われたことから、宅見勝組長の元側近であった天野組の天野洋志穂組長に近づき、用心棒とした。天野組長は、大阪市内の不動産会社社長と共同で、大阪市四条畷市内の霊園開発予定地を5億円で落札し、この土地を山口組若頭補佐であった山口組系極心連合会の橋本弘文会長へ約8億5000万円で転売する計画を立てた。この後、天野組長はこの不動産会社社長を脅したということで強要未遂容疑で逮捕されたが、この土地代5億円は小西が天野組長に融資したものであった。

 (4)、小西邦彦と部落解放同盟

  ①、意義

   ・小西は1967年から部落解放同盟飛鳥支部長を40年以上に渡ってつとめてきた。この「部落解放同盟支部長」という肩書が、同和対策事業を進める行政と交渉するときに大きな力を持った。

  ②、部落解放同盟大阪府連とのかかわり

   ・部落解放同盟大阪府連は、1970年に大阪府連行動隊を結成した。これは、同和対策事業を独占するために反対者を暴力で排除することを目的として結成されたものであり、羽曳野市役所の占拠・包囲・市長の監禁や、日本共産党の演説会出席者を乗せたバスへの襲撃事件など、過激な行動を繰り返した。そして、この隊長が当時酒梅組の準構成員であった岡田繁次であり、副隊長がまだ金田組の構成員であった小西であった。

  ③、部落解放同盟の反応

   ・2006年に西中島駐車場事件で逮捕された後、部落解放同盟大阪府連は小西を、部落解放同盟の肩書を利用して私利私欲を満足させる「エセ同和」行為と非難をし、部落解放同盟は関係なく小西個人の問題であるとした。

 (5)、小西邦彦と大阪市役所

  ①、意義

   ・大阪市が行う事業についてトラブルが発生したり、大阪市が部落解放同盟との間でトラブルが発生すると、小西が仲介して解決をしてくれた。よって、大阪市の側でも小西に便益を図るようになっていった。

  ②、具体例

   ・1982年~1983年頃、柴島浄水場の工事に際して、部落解放同盟南方支部が協力金名目で金銭を要求し、工事を差し止めた時に、小西が仲介をして、大阪市、大手ゼネコン、部落解放同盟南方支部の話し合いで解決をした。

   ・大阪市道路公社が上六地下駐車場を作った時に、地元駐車場業者が反対をして工事がストップしたが、小西が駐車場経営者を説得して工事が再開をした。

   ・大阪市内12の解放同盟支部において、市職員と部落解放同盟の間にトラブルが起こると、大阪市は小西に依頼し、小西は円満解決にもっていった。

<参考文献>

 『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)



同和事件史 松本家とその富

1、松本家の概要

 (1)、松本治一郎

  ・1884年、福岡県那珂郡金平村(現在の福岡市東区馬出)に生まれる。1911年に土建業松本組を設立する。1925年に全国水平社中央委員議長に就任し、1936年には衆議院議員に初当選し3期務めた。戦時中、戦争協力をしたことから終戦後は公職追放をうけた。公職追放が解かれた後は、GHQと密接につながり、特殊慰安施設協会(RAA)の経営陣として巨万の富を手に入れていった。1947年には参議院議員に初当選し、日本社会党左派「平和同志会」の領袖として知られた。カニの横ばい拒否事件をおこしたり、レッドパージで再び公職追放されながらも4期務めた。この間に、初代参院副議長にも就任している。また、部落解放全国委員会が部落解放同盟と改称された時に、最初の執行委員長に就任した。

 (2)、松本英一

  ・1921年、福岡県福岡市に生まれる。福岡県庁職員を経て、戦後は実父の弟で参議院議員であった松本治一郎の秘書となり、さらに松本組にも入社した。生涯妻帯をしなかった松本治一郎は、松本英一を養子にとった。1967年に部落解放同盟中央委員となった後、松本治一郎の逝去をうけて、1968年に社会党から参議院戦に出馬し初当選、以後5期務めた。

 (3)、松本龍

  ①、来歴

   ・1951年、福岡県福岡市に松本英一の長男として生まれた。大学卒業後、父松本英一の秘書となり、1990年に中選挙区時代の福岡一区に社会党公認で初出馬し当選し、以後7期連続で衆議院議員を務め、2010年の菅第1次改造内閣では環境大臣兼内閣府特命担当大臣(防災担当)に就任、2011年3月11日に発生した東日本大震災以降は、内閣府特命担当大臣(防災担当)を務めたが、舌禍事件を起こして退任した。部落解放運動も祖父、父を引き継ぎ参加し、部落解放同盟福岡県連委員長、中央委員会副委員長を務めた。

  ②、松本家の富

   ・2010年の閣僚の資産公開で、松本龍は資産7億6074万円と閣僚の中でもずば抜けて多額の資産を有していた。この資産のほとんどは祖父や父から受け継いだものであり、松本組の筆頭株主であり、またりそな銀行・ロイヤル・日本航空システム・テレビ西日本等の株式、ゴルフ会員権、福岡市内の中心部や福岡空港周辺部の土地建物87件と、貧困=同和のイメージとはかけはなれた富豪ぶりであった。

2、松本組の設立

 (1)、松本組の設立

  ・1911年、福博電気軌道(現在の西日本鉄道)の延伸工事が行われた。この延伸路線の計画地の一部に部落が所有する原野があった。松本治一郎はこの時猛烈な反対運動を行った。この時、福博電気側の代表として交渉にやってきたのが、後に電力の鬼と呼ばれた松永安左ェ門であった。そして、この松本治一郎と松永安左ェ門の交渉後に反対運動は終結した。この後、松本治一郎は福岡市に松本組を設立した。

 (2)、背景

  ・松本組は創業時、鉄道工事や火力発電所の工事を請け負い、利益を上げていった。当時、部落民は仕事がなかった。よって、松永安左ェ門は福博電気の工事や火力発電所建設の工事の土木作業員として部落民を雇うこととし、その口入れ稼業として松本組は設立されたのである。松永安左ェ門と松本治一郎の関係は、松本治一郎が死亡するまで続いた。この松永安左ェ門とのつながりが、松本組が躍進していった一つの原因である。

3、松本組による集団リンチ事件

 (1)、意義

  ・1923年に起こった、鉄道工事をめぐる松尾組と松本組の抗争。松本組組員50人以上が松尾組の松尾幸太郎社長やその親族を集団リンチし、死者1名重傷者3名を出した。この集団リンチ事件に松本治一郎が関与していたのかどうかは謎であるが、「松本組は恐ろしい」という業界内の評判を生み、松本組に逆らえない原因の一つとなった。

   cf.部落解放同盟中央本部編の『松本治一郎伝』では、この年の設立され松本治一郎が初代委員長となった全九州水平社の動きに対する権力側の弾圧であると説明されている。

 (2)、経過

  ①、呼び出し

   ・松本治一郎は、鉄道工事でそれまで対立していた松尾組の松尾に、仲直りしようと旅館に呼び出した。松尾もこれに応じ、子分10人ほどを連れてこの旅館に行った。

  ②、一回目の集団リンチ事件

   ・子分達を外に置いて、旅館に一人で入ってきた松尾に対して、松本組の者数名がいきなりドスで突き刺した。この者達はいったん引き上げたが、再び松本組組員50名ほどが旅館に集結して、松尾を集団リンチした。松尾は病院に担ぎ込まれたが、同日死亡した。

  ③、二回目の集団リンチ事件

   ・翌日、松尾の通夜が松尾の叔父宅で行われた。この場に再び松本組組員50名ほどが殴り込みをかけ、松尾の叔父と甥2名が重傷を負った。

4、松本組の全盛期

 (1)、意義

  ・戦後、松本組は九州電力や西日本鉄道など地元で「七社会」呼ばれる福岡財界と密接な関係を築くようになり、県内最大手のゼネコンとなった。

 (2)、松本組の全盛期

  ・福岡で大型ハコモノ工事や道路工事をする時は、スーパーゼネコンであっても、松本組とジョイントベンチャーを組まなければ仕事が取れなかった。さらに、福岡の建設業界で談合の中心的役割を果たすようになる。

 (3)、空港利権

  ①、飛行場予定地の土地を買いあさる

   ・1944年、旧陸軍が席田(むしろだ)飛行場を建設を計画する。この建設予定地には同和地区がいくつもあった。当時衆議院議員を務め、軍部とも関係があった松本治一郎はこの計画を察知し、飛行場予定地周辺の土地を買いあさった。

  ②、空港利権

   ・戦後、席田飛行場はアメリカ軍により接収されて板付基地となった。1972年にアメリカ軍より返還され福岡空港となった。福岡空港の35%は民有地で、空港側はこの土地の地権者に借地料を毎年払っているが、この大地主が松本家である。2010年度でも約2451万円が空港側から支払われた。

5、松本組の衰退

 (1)、入札情報の公開

  ・最近は公共事業について入札情報の公開が進み、談合がしにくくなった。

 (2)、有力者の死亡

  ・松本組の力の源泉であった、部落解放同盟第四代中央委員長の上杉佐一郎、松本治一郎の養子で松本組社長であり参議院議員を5期務めた松本英一、福岡県会議員の林武彦など有力者が亡くなった。

<参考文献>

 『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)

同和事件史 スージータウン構想

1、スージータウン構想とは?

 (1)、意義

  ①、スージータウン構想とは

   ・崇仁同和協議会(のちの崇仁協議会)の藤井鉄雄委員長らが打ち上げた、日本三大旧同和地区である京都駅前の材木町や塩小路町などの崇仁地区の一大開発計画。オフィスビル、ホテル、国際会議場、デパート、ショッピングセンターなどを誘致して「スージータウン」を作ろうとした。

   ・この当時はバブル経済が始まる時期であり、京都にも東京や大阪の資本が乗り込み地上げの嵐が吹き荒れる一方、京都財界主導での大型プロジェクトも相次ぎ、地価が暴騰していた。京都駅前の崇仁地区の再開発であるスージータウン構想は、このような時代背景の中で格好の利権の対象となった。

  ②、崇仁同和協議会とは

   ア)、ヤクザ時代

    ・藤井鉄雄は、若い頃は暴力団内浜会を率いて懲役15年も送ったヤクザであった。しかし、出所を機に1985年に内浜会を解散した。

   イ)、部落解放運動の世界へ

    ・藤井は内浜会解散直後、全日本同和会の京都府・市連合会副会長で洛南支部長だった高谷泰三と知り合い、洛南副支部長に就任した。

   ウ)、崇仁同和協議会の設立

    ・京都の全日本同和会は、部落解放同盟と大阪国税局との密約ではじまった税務申告フリーパスの特権を利用した巨額脱税請負事件を起こし、世論の非難をうけて分裂に追い込まれた。その中で、藤井は高谷とともに1986年5月8日に崇仁同和協議会を設立した。後に崇仁協議会と改名された。

   エ)、崇仁協議会の活動

    ・藤井委員長は、獄中で部落問題集という本を読んだことによりヤクザの世界に入ったことを反省し、「ヤクザから足を洗い自分の生きる道を自分を拾い育ててくれた七条崇仁地区の差別と貧しさに居る人達の為に一生を捧げて行こうと誓い」、さまざまな活動を行う。実際に老人への入浴サービス、学習塾、夜間保育、英会話教室などが無料で崇仁地区では行われた。

 (2)、スージータウン構想における二つの障害

  ①、意義

   ・スージータウン構想における障害は、①「改良住宅地区」指定の解除と②地上げであった。

  ②、「改良住宅地区」指定の解除

   ・「改良住宅地区」に指定されると民間は不動産を取得しても開発も建築もできなくなるが、これが崇仁地区全体にかけられていた。崇仁同和協議会は「改良住宅地区」指定解除のために、地区指定取り消しのキャンペーンを行い、地区指定取消の住民訴訟も提起された。

  ③、地上げ

   ・崇仁地区を開発するには、まずは地区住民をいったん移動させて更地を確保しなければならなかった。このためには地上げをしなければならず、地上げをするには不動産売買会社と資金が必要となった。

2、崇仁地区の地上げ

 (1)、不動産売買会社と資金

  ①、不動産売買会社と資金の決定

   ・崇仁地区の地上げをするには、不動産売買会社と資金が必要である。この不動産売買会社として藤井は、1986年7月29日に会津小鉄会の顧問弁護士をしていた者が社長であった休眠会社のサンセイハウスを手に入れた。そして、資金の提供は、当時住友不動産や武富士の顧問弁護士をしていた「同和問題に詳しい弁護士」である前田知克弁護士の紹介によって、武井保雄会長の武富士が提供することとなった。

  ②、崇仁地区の地上げ

   ・1986年12月12日、資金を提供する武井会長のファミリー企業「徳武」、地上げを実際に行うサンセイハウスと崇仁同和協議会の三者の間で、材木町と塩小路町の約3300坪、110戸の建物を対象として、徳武が155億を支出して、1987年5月31日までに地上げを完了させるという契約書が交わされた。なお、この地上げ資金155億は太陽神戸銀行京都支店の徳竹代理人である前田知克弁護士名義の口座(前田口座)に融資されて、それが買収資金として提供されることとなった。

   ・これ以後、崇仁地区の家々には立ち退きを迫る男たちが億単位の現金を詰めたアタッシュケースや段ボールをもってやってきて、少しでも難色をすると嫌がらせがされるようになる。

 (2)、延長される地上げ

  ・1987年5月31日の期限がきても地上げは完了しなかった。崇仁協議会とサンセイハウスは買収資金の増額を要求し、1987年12月22日に追加変更契約が締結され、総枠280億5000万円に増額され、買収起源も1988年3月まで延長された。しかし、それでも1988年3月の段階でも約8割の土地しか買収は完了しなかった。

3、武富士と崇仁協議会の対立

 (1)、武富士と前田弁護士の対立

  ・武富士は、1988年夏頃から「前田口座」の金銭管理に疑問を持ち始めた。1989年2月、武富士の藤川渉外部長が前田口座の金の流れの調査をし、武富士と前田弁護士とが対立した。この時は、藤井委員長が仲介に入って、1989年6月に前田弁護士は地上げした土地の権利書を武富士に渡し、武富士は3億円の報酬を前田弁護士に支払うことで話がまとまり、前田弁護士は武富士の顧問弁護士を解任された。

   →前田弁護士は1991年に武富士から、前田口座の金から約50億円を横領したとして告訴されている。

 (2)、武富士と崇仁協議会の対立

  ①、意義

   ・崇仁地区の地上げは、バブル経済のあおりで土地が急騰したことにより予定通りに完成しなかった。そこで、武富士は当初の崇仁地区を再開発して利益を得る計画から、買収した土地を転売して利益を上げる方式に転換した。これにより、武富士にとって崇仁協議会と藤井委員長は邪魔者となった。

  ②、武井会長と藤井委員長の会談

   ・武富士側は、1990年9月上旬に、徳武の取締役会で崇仁協議会との契約解除を決定して通告した。同年12月4日には、武富士の武井会長と崇仁協議会の藤井委員長が武富士本社で会談を行った。これにより、崇仁協議会側は、材木町の土地を担保として外国資本のベクテル社から700億円の融資を受け、それで武富士に融資してもらった280億円は400億円にして返却すること、崇仁地区の開発は崇仁協議会が単独で行うことが決定し、武井会長も同意した。

4、武富士による崇仁協議会への攻撃

 (1)、意義

  ・1990年12月4日の武井会長と藤井委員長の会談後、武井会長は崇仁協議会の藤井委員長やその部下が、崇仁地区で地上げした土地を他に転売してしまうのではないのかと危惧する。武井会長は右翼団体に崇仁協議会への攻撃を指示した。しかし、武富士所有の崇仁地区で銃撃戦が起こり、マスコミの取材が武富士まで来てしまったことから、合法的に行っていることをアピールするために、最初は前田弁護士を、その後は藤井委員長を告訴してマスコミ対策をすることとした。

 (2)、山口組系山健組の攻撃

  ①、山健組の申し入れ

   ・1990年12月4日の武井会長と藤井委員長の会談の直後、藤井委員長は山口組関係者から「武富士の言うとおりにやってほしい。ついてはお会いしたい」と申し入れを受けた。さらに、1990年12月26日には、京都市内のホテルで山健組舎弟の男性と山健組のフロント企業である芙蓉の役員15~16名に取り囲まれて、崇仁地区の地上げから手を引くように迫られた。藤井委員長はこれを断った。

  ②、山健組の攻撃

   ・1990年12月27日、崇仁地区の集会所に銃弾6発が撃ち込まれた。この事件から、山口組と会津小鉄会との抗争も始まった。

   ・1991年1月4日、右翼団体の天祐同志会や大日本至誠会などが崇仁地区に押しかけて、「崇仁協議会は出ていけ」「藤井にだまされるな」と街宣を行った。

   ・1991年1月7日、前記山健組舎弟の男性が代表を務める全国天祐連合会が、京都市役所に乗り込み、「崇仁協議会の活動を放置せずに行政指導を行え」と迫る。

    →このような攻撃は、25日まで続いた。

 (2)、司法を使った攻撃

  ①、藤井委員長の排斥

   ・1991年1月18日、藤井委員長はサンセイハウスの代表取締役から解任された。さらに、藤井委員長が地上げした崇仁地区の土地はすべて武徳に所有権が移された。

  ②、藤井委員長を告訴する

   ア)、藤井委員長を告訴する

    ・1991年1月18日、サンセイハウスが原告となって、藤井委員長は約50億円を横領したとして、損害賠償請求をするとともに、業務上横領で京都府警に刑事告訴をした。しかし、京都府警は藤井委員長を業務上横領で立件することは難しいと判断した。

   イ)、前田弁護士への捜査

    ・京都府警は最初は、前田弁護士が「前田口座」の資金を横領していた疑いについて、重点的に捜査を行っていた。しかし、前田弁護士を起訴するには至らなかった。

     →この前田弁護士への捜査の過程で増井ガレージ事件が判明し、京都府警は藤井委員長を逮捕した。

5、崇仁協議会の武富士への反撃

 ・「崇仁の町づくりを進める会」が「暴力追放住民集会」を開き、ビラなどえ「武富士の責任を問う」と反撃した。さらに同会は、武富士本社と武井会長宅に押しかけて、武富士側が業務妨害で告訴する事件も起こした。

6、山口組と会津小鉄会の抗争

 (1)、きっかけ

  ・1990年、会津小鉄会会長の息子と会津小鉄会系加州会会長が、武富士の武井会長に利権を求めてコンタクトをとろうそした。これに武井会長は驚き、山健組に介入を依頼し、山口組系山健組と会津小鉄会の抗争が始まった。この抗争の過程で、山口組系山健組組員、会津小鉄会系組員が5~6人殺害された。

 (2)、崇仁協議会役員による地上げ資金横領疑惑と失踪事件

  ・1991年夏、崇仁協議会の会計担当者であった高谷泰三が、54億円の地上げ資金横領疑惑と失踪事件が起こった。この横領された地上げ資金は1992年に会津小鉄会の幹部によって山分けされていたことが明らかとなり、崇仁協議会の藤井委員長は会津小鉄会の高山登久太郎会長に抗議文を送った。

   →会津小鉄会側では、藤井委員長を暗殺する計画が練られるが、未遂に終わった。

 (3)、山口組系中野会の京都進出

  ①、高谷泰三元会長を引き入れる

   ・藤井委員長を引き入れることによって京都進出を図ろうとして、山口組系中野会が、1993年春ごろから度々崇仁協議会へ協力する旨を申し出る。藤井委員長はこの申出を断った。しかし、高谷泰三はこの申出を受け入れ、会津小鉄会から中野会の側へと移った。

  ②、武富士の武井会長と会う

   ・中野会は、山健組系の芙蓉の仲介で武井会長に3回ほど会った。つまり、武富士のバックは山健組から中野会に代わったわけである。この後、崇仁協議会への攻撃は山健組から中野会が行うようになった。

 (4)、崇仁協役員射殺事件

  ・1993年4月15日、崇仁協議会役員で、高谷泰三が管理していた三菱銀行口座の約150億円にのぼる使途不明金問題の交渉窓口でもあった潮見旭が、二人の男に射殺される事件が起こった。京都府警は、会津小鉄会系中野会組長と幹部、さらに実行犯として同会組員2人を逮捕したが、後に処分保留で釈放された。この事件は未だに未解決事件となっている。

7、藤井委員長の逮捕

 (1)、藤井委員長の逮捕

  ①、意義

   ・京都府警は、崇仁協事務所を覚せい剤使用容疑で捜索し、事務所から覚せい剤が発見され、さらに藤井委員長の体内からも覚せい剤成分が検出されたとして、1993年4月16日に藤井を逮捕した。さらに、1993年6月4日には藤井委員長が徳武からの地上げ資金のうち3億5000万円の小切手をだまし取った(増井ガレージ事件)として、詐取と私文書偽造容疑で逮捕した。

  ②、増井ガレージ事件とは

   ・増井ガレージとは、崇仁地区の物件の一つであり、地上げの対象となっていた。地上げ資金は「前田口座」から支給され、1989年2月23日に3億5000万円の手付金が保証小切手で藤井委員長に渡された。しかし、増井ガレージの所有者の甥が藤井委員長の幼馴染であったところから売却の意思を確認した所、「もう少し待って」と言われたので、藤井委員長は3億5000万円の保証小切手を1989年2月27日に知人の会社社長に託し、これが前田弁護士に返却された。しかし、京都府警は、藤井委員長は増井ガレージの買収の約束がとれていなかったにもかかわらず、売渡契約書を偽造し、手付金3億5000万円の保証小切手をだまし取って、領収書を偽造したとしたとして逮捕した。

 (2)、なぜ京都府警は藤井委員長を逮捕したのか

  ・崇仁協議会の藤井委員長がいるから、武富士、山口組、会津小鉄会の抗争も激化し、京都の治安が乱されていると京都府警は判断した。よって、まず藤井委員長を逮捕することが最初にあって、武富士が告訴したサンセイハウスの業務上横領では起訴できなかったので、前田弁護士への捜査の過程で判明した増井ガレージ事件における詐欺で立件することとした。

8、崇仁協議会への攻撃

 (1)、三菱銀行出町支店問題

  ・藤井委員長は1994年10月中旬に釈放された。藤井委員長は崇仁協議会を立て直すために、三菱銀行出町支店にあった崇仁協議会の口座に入っていた約150億円の確保に乗り出す。しかし、このお金が、崇仁協議会元幹部の高谷泰三らによって不正に引き出され、横領されていたことが判明した。これ以後、崇仁協議会は三菱銀行への抗議活動を行った。

 (2)、高谷泰三宅発砲事件

  ①、山口組対会津小鉄会

   ・1995年6月14日、会津小鉄会系山浩組の事務所に6発の銃弾が撃ち込まれた。この後京都では6月14日から16日の3日間に、山口組系や会津小鉄会系の組事務所に対する13件もの発砲事件が発生する。

  ②、高谷泰三宅発砲事件

   ・1994年6月16日、崇仁協議会の元幹部である高谷泰三宅の玄関ドアに7発の銃弾が撃ち込まれた。これは、会津小鉄会から山口組系中野会へと移った高谷に対して、会津小鉄会側が行った犯行であると言われている。

 (3)、藤井委員長宅襲撃事件

  ・1994年6月25日、藤井委員長宅の門にガソリンが巻かれて放火される事件が起った。

  ・1994年7月27日、藤井委員長宅に三人組が押し入り、拳銃3発を発砲。1発が崇仁協議会役員である北村耕之助の右太ももを貫通して重傷を負わせる事件が起こった。

    →これらの犯人は、山口組系中野会の組員であった。

 (4)、崇仁協議会役員射殺事件

  ・1994年8月2日、京都市左京区の交差点で崇仁協議会役員で建設会社社長の井尻修平が、オートバイに乗った二人組に銃撃されて、射殺される事件が起こった。井尻は三菱銀行出町支店の崇仁協議会口座問題で、交渉役として走り回っていた人であった。犯人は山口組系中野会の組員であった。

<参考文献>

 『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)
 『関西に蠢く懲りない面々』(講談社、2004、一ノ宮美成+グループ・K21)



同和事件史 エセ同和の元祖・尾崎清光

1、意義

 ・尾崎清光は「同和の事件屋」「利権同和屋」と言われた、エセ同和行為の元祖的存在である。典型的なエセ同和行為である、中央官庁や地方自治体など行政機関と掛け合って、農地転用や市街化調整区域の地目変更など、土地開発の許認可をとり、開発業者に橋渡しして、莫大な斡旋料をせしめることを得意とした。

 参考)、日本部落史(27) エセ同和行為

2、来歴

 (1)、高知時代

  ・昭和10年(1935)に、高知県で生まれる。
 
 (2)、大阪時代

  ・大阪に出て東組に入り、傷害や恐喝を繰り返す事件屋として名を売った。暴力団から足を洗い、昭和44年(1969)に「尾崎興業」を設立し、金融・手形割引・不動産会社を経営していたが、西郷吉之助元法相・参議院議員が振り出した手形の回収を任され、業者に脅迫をしたことから、兵庫県警に逮捕された。

 (3)、再び高知時代

  ・その後、郷里の高知に帰り、自ら建築、土木、砂利採取などの事業を行うかたわら、高知の政財界や行政に食い込み農地転用許可や国有地の払い下げなどに暗躍し「高知の黒幕」とまで呼ばれるようになった。昭和52年(1977)に高知県民文化ホールの工事を受注した大成建設に「工事に尽力した見返りに下請をやらせなければ仕事をできないようにしてやる」と脅して金銭を奪ったことから恐喝で逮捕された。

 (4)、東京時代

  ・これにより郷里の高知から東京に出て、全日本同和会に所属したが除名となり、自ら「日本同和清光会」を結成し、エセ同和行為を始めた。しかし、尾崎のエセ同和行為の背後には暴力団が用心棒としてついており、この暴力団とのトラブルから、昭和59年(1984)に入院中の東京女子医大病院特別病室で、ピストルで撃たれナイフで心臓部にとどめを刺されて死亡した。享年48歳。ただし、尾崎を殺害した犯人は未だに検挙されておらず、その事件の背後関係はよくわかっていない。

3、「同和の事件屋」としての尾崎清光

 (1)、意義

  ・尾崎は、全日本同和会に所属し、除名後は自ら「日本同和清光会」を作って、官庁、自治体に圧力をかけて、市街化調整区域の解除や農地転用、国有地払い下げなど通常は許可が下りないような許認可を強引にとりつけ、不動産業者や開発業者から仲介料やリベートをとり、暴利を得ていた。

 (2)、典型的な尾崎のエセ同和行為

  ・昭和58年(1983)、尾崎は車三台で群馬県庁に押しかけ、群馬県内の約1万坪の土地に「全国同和会館」を建設するので、その利用許可とこの土地についての国土法に定める限度を超えた売却価格を認めよと恐喝をした。さらに尾崎は前もって官庁にも根回しをしておき、国土庁の担当課長に群馬県庁へ「よろしく」と電話をかけさせ、また県側と尾崎との交渉の場には建設省の課長補佐が立ち会った。当然、尾崎は全国同和会館など建設する気などさらさらなく、この土地を取得して開発業者に売り渡し、利ざやを稼ぐことが目的であった。

 (3)、尾崎を暗躍させた背景

  ①、意義

   ・尾崎を暗躍させた背景は、役人の事なかれ主義もあるが、尾崎が「同和」、政治家、暴力団を背後に持ち、またかなり強引な恐喝を行ったことによる。

  ②、政治家

   ・尾崎は手形乱発事件で知り合った西郷元法相に取り入って、中央政界での人脈を築いていった。尾崎の誕生パーティーには、自民党の現職大臣や参議議員、官公庁の幹部が詰めかけた。

  ③、暴力団

   ・尾崎は、関西時代も関東時代も、常に暴力団の最高幹部を連れていた。ただし、資金を暴力団から借り負債が数十億あったともいわれ、さらに利用していた暴力団を変えたことから元の暴力団に恨みを買っていたりと、後に暗殺される原因にもなった。

  ④、強引なやり口

   ・尾崎が役人を恐喝するときは、何時間も電話を掛けたり、直接おしかけて怒鳴りつけたり、役人の自宅まで押しかけて宣伝カーでわめきちらしたり、自宅に電話をして役人の妻や子どもを脅したりと無茶苦茶やった。

 (4)、その他の尾崎のエセ同和行為

  ①、八王子の霊園事業

   ・昭和58年(1983)、公園地区の指定解除による八王子霊園の造成において、尾崎が背後で暗躍した。

  ②、国鉄用地払い下げ

   ・昭和59年(1984)、尾崎はある開発業者から頼まれて、東京都内の国鉄用地は払い下げにおいて暗躍した。

<参考文献>

 『新・同和問題と同和団体』(高木正幸、土曜美術社、1988)


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