稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・朝鮮総連の歴史

朝鮮総連の歴史(10) 朝鮮総連が共産主義者の組織から金日成主義者の組織へ

1、意義

 ・朝鮮総連は、もともとは共産主義者の組織であった。しかし、1970年代頃から金日成を個人崇拝する金日成主義者の組織へと変貌していった。

2、金日成主義とは?

 (1)、金日成主義とは?

  ・金日成主義とは、金日成によって唱えられた「主体(ちゅちぇ)思想」を思想的基盤とした、金日成を個人崇拝する宗教である。

 (2)、なぜ金日成主義は唱えれらたのか?

  ①、なぜ主体思想は作られたのか?

   ・マルクス・レーニン主義の立場では、権力の世襲は理論的に成り立たない。しかし、金日成は息子の金正日を後継者にしたい。よって、権力の世襲を正当化するために、マルクス・レーニン主義を捨てて、自分たちに都合のより理論を作り上げたのが主体思想を理論とする金日成主義である。

  ②、いつかわったのか?

   ・1967年6月、朝鮮労働党中央委員会第4期16次全員会議で、北朝鮮は主体思想を党の唯一思想体系と決定した。そして、1973年2月、金正日によって主体思想を唯一の指導体系とする金日成主義の誕生が宣言される。朝鮮総連にもこの決定が通達され、総連も主体思想一辺倒になってゆく。

3、「主体思想」とは?

 (1)、北朝鮮側の説明

  ①、金日成の説明

   ・金日成は、「主体思想とは一言でいえば革命と建設の主人公は人民大衆であり、革命と建設を推進する力も人民大衆にあるという思想です」と述べている。

  ②、金正日の説明

   ・金正日は『チュチェ思想について』の中で、国家政策における主体思想の概要を、

    1、人民は、思想や政治的には独立し、経済的には自己供給し、国防では自己依存していなければならない。
    2、政策は大衆の意思と願望を反映し、革命と建設の中で彼らを完全に雇用しなければならない。
    3、革命と建設の手法は、国家の状況に適応されなければならない。
    4、革命と建設の最重要作業は、人民を思想的に共産主義者に形成し、彼らを建設作業に動員する事である。

    と述べている。

 (2)、日本共産党の批判

  ・マルクス・レーニン主義を継承発展させたと北朝鮮側が主張する主体思想について、日本共産党は、「彼らの『キムイルソン主義=チュチェ思想』なるものは、教条主義、修正主義とかの域をはるかにこえて反共デマ宣伝なみの、まったく非科学的な反動的観念論に過ぎない」とし、「首領」がすべてを指導するという金日成主義が唱える政治制度は、「立憲君主制ですらなく、明治憲法における天皇とその『大御心』を体すべき臣民との関係のようなものである」として、階級論的にみて主体思想は共産主義者の敵性思想だと酷評した。

 (3)、金賛汀氏の批判

  ・主体思想は、理論的な筋道が稚拙なので学者がいろいろと理論を装飾して難解に見えるが、実質的には「金日成の命令は絶対だ」という事しか言っていない。つまり、主体思想とは、共産主義思想とは全く関係がない、金日成を教組に祭り上げた宗教的思想である。

4、金日成神話

 (1)、意義

  ・金日成の神格化をしていく過程で主体思想とともに推し進められたのが、近代朝鮮革命はすべて金日成の指導で遂行されたという、金日成神話を作ることであった。

 (2)、金日成神話

  ・金日成は1930年頃から革命運動に参加し、1934年に朝鮮人民革命軍を創設、その部隊を指揮して満州で日本軍と果敢に戦い、朝鮮人民革命軍は1945年8月、ソ連軍とともに朝鮮を解放した。金正日はこの革命運動の間に、秘密基地である白頭山山麓で誕生した。

 (3)、実際の金日成

  ①、朝鮮を解放するためではなく中国革命のために抗日運動を行っていた

   ・1931年頃金日成は中国共産党に加入し、1936年に中国共産党員として、その指導下にある中国革命のための武装部隊である抗日連軍に所属して、反満抗日運動に参加した。

  ②、日本軍に追われてソ連軍に逃げ込んだ

   ・1939年、中国共産党の抗日連軍に所属していた金日成は日本軍に追われてソ連領に逃げ込む。ここでソ連軍に保護され、ソ連軍の対日特殊戦闘部隊であるソ連極東軍第88特別狙撃旅団の大尉となった。

  ③、金正日はソ連軍の野営地で誕生した

   ・金正日は、白頭山山麓のパルチザン基地ではなく、金日成がソ連軍に在籍していた時、ソ連軍の野営地で誕生した。

  ④、金日成がソ連軍に所属をしていた時日本軍と戦火を交えていない

   ・金日成がソ連軍に属してから、日本の敗戦の日まで一度も金日成は戦場に出ることも、日本軍と戦火を交えることも行っていない。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

朝鮮総連の歴史(9) 朝鮮総連の祖国帰還運動

1、意義

 ・北朝鮮への帰還運動は、最初は北朝鮮を故郷とする人たちが運動をになったが、やがて北朝鮮の思惑により北朝鮮政府が大がかりに実施するようになる。そして、その北朝鮮の指示によって朝鮮総連は大衆的な運動をすすめた。

2、祖国帰還運動の思惑

 (1)、北朝鮮の思惑

  ①、労働力不足

   ・朝鮮戦争の犠牲者や、北朝鮮の体制に疑問をもって韓国へ逃走した人々の影響から、北朝鮮では戦後復興を担う労働力が不足していた。よって、中国、ソ連、日本にいる海外同胞を北朝鮮に呼び戻そうとしたが、北朝鮮の実情を知る中国やソ連の同胞は帰国しなかった。よって、日本にいる同胞を呼び戻したかった。

  ②、国際社会に対する宣伝

   ・朝鮮半島が南北分断後、国際政治の舞台では北朝鮮と韓国のどちらが朝鮮人民に支持されているのかが注目されていた。よって、日本から北朝鮮に帰還する人が多ければ多いほど、北朝鮮の声望の証とされた。

 (2)、日本政府の思惑
  
  ①、朝鮮人は朝鮮半島へ

   ・在日朝鮮人の北朝鮮帰還は、当然韓国政府は猛反対であった。日本も反共同盟の立場から韓国政府に同調しなければならなかったが、日本政府は戦後一貫して、在日朝鮮人はなるべく朝鮮半島に帰って欲しかった。

  ②、日韓会談を有利に進める

   ・北朝鮮との帰還協定では、北朝鮮側は在日朝鮮人に対する「賠償」は要求せず、さらに帰還にかかる経費も北朝鮮が負担するとされた。他方、韓国との日韓会談では、韓国側は在日朝鮮人に対する「賠償」を要求し、それに反発する日本政府ともめていた。よって、北朝鮮との帰還事業を行うことによって、日本政府は日韓会談を有利に進めようとしていた。

3、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還

 (1)、赤十字社を前面に押し立てる

  ・韓国政府が在日朝鮮人の北朝鮮への帰還に強く反発していたことから、日本政府が表立って北朝鮮と交渉はできなかった。よって、人道主義を掲げて赤十字社を前面に押し立てることになった。1959年2月に、日本政府は赤十字国際委員会の主導で手続きを行うことに同意し、1959年12月にはインドのカルカッタで北朝鮮帰還協定が調印された。

 (2)、帰還第1船

  ・韓国政府や民団が新潟市の日赤帰還センターの爆破を計画するなど不穏な動きはあったが、1959年12月、日本赤十字社は新潟港に帰還第1船を迎え入れた。1984年までに9万3000人あまりの在日朝鮮人が北朝鮮に帰還していた。

 (3)、北朝鮮への帰還者の現実

  ・在日朝鮮人も、そして彼らを迎え入れた北朝鮮の人々も、お互いの実態をよく知らない状態で帰還事業は行われた。確かに、最初の帰還者は北朝鮮政府に特別優遇されが、だんだん北朝鮮社会の貧困、不平等、非民主的体制が在日社会に知られていくにつれて、帰還者は激減していった。

4、朝鮮総連と帰還事業

 (1)、朝鮮総連の罪

  ①、熱心に帰還事業に取り組んだ朝鮮総連

   ・在日朝鮮人達は、日本社会で貧困に喘ぎ、希望の持てない生活を送っていた。そのような中で朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝し、北朝鮮に帰還すれば衣食住は政府が保障してくれ、何の悩みもない生活が待っていると彼らを勧誘した。さらに、1960年に入り帰還事業が進んで北朝鮮の現状が在日朝鮮人達に知られて帰還者が激減してくると、朝鮮総連は北朝鮮の指示によって韓議長自らが日本各地を回って熱烈に帰国をすすめた。

  ②、朝鮮総連は北朝鮮の現状を知っていたのか

   ・朝鮮総連の一般の活動家は北朝鮮の現状を知らず、日本で貧困に喘ぐ在日朝鮮人をどうにかしてあげたいとして帰還をすすめたが、韓議長をはじめ朝鮮総連の幹部達は北朝鮮へ密航などで実際に行っていたので、北朝鮮の現状を知った上で「地上の楽園」と宣伝をして帰還事業を進めていたと思われる。

 (2)、人質をとられた朝鮮総連幹部達

  ①、家族を帰還させた朝鮮総連幹部達

   ・朝鮮総連幹部達は帰還事業を宣伝する手前、自らの家族を北朝鮮へ帰還させた。韓徳銖議長も、金炳植(キムビョンシク)副議長もその子ども達を北朝鮮へ帰還させている。

  ②、人質として機能した幹部達の家族

   ・北朝鮮へ帰還した朝鮮総連の幹部達の家族は、北朝鮮に対する人質であった。総連幹部が北朝鮮の指示に従わないと本人は総連から去ればよいだけであるが、北朝鮮にいる家族は直接的に北朝鮮政府から弾圧をうけることとなった。これによって、北朝鮮ー朝鮮総連に異論があっても反対できない体制が作られて行った。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)


朝鮮総連の歴史(8) 朝鮮総連の民族教育

1、意義

 ・在日朝鮮人は民族教育に熱心であり、在日本朝鮮人連盟(朝連)時代に各地に民族学校が設立された時、生徒数は5万6300人を数えた。しかし、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)時代は過激な主張と活動が嫌われて生徒数は1万7604人に激減していた。朝鮮総連は設立当初から民族教育に熱心であり、民族教育の再建に力を注いだ。この結果、1960年には3万5250人まで回復している。

2、北朝鮮の支援

 (1)、意義

  ・朝鮮総連の民族教育に対する取り組みについて、北朝鮮も①教育費の支援、②教育のソフト面での支援策などで全力をあげて支援をした。

 (2)、教育費の支援

  ①、朝鮮総連から北朝鮮への支援要請

   ・1955年に朝鮮総連が結成された直後、朝鮮総連は北朝鮮に「祖国解放10周年祝賀在日同胞代表団」を派遣し、民族教育への支援を要請した。金日成は自らが教育で苦労した体験から、在日朝鮮人のために教育費と奨学金の送金を約束した。

  ②、北朝鮮から朝鮮総連への教育支援金の支給

   ・日本政府と韓国政府は教育支援金に対して強く反対をしていた。しかし、朝鮮総連の強力な運動とそれを支援する日本人の盛り上がりによって、1956年に韓国政府の強い反対にもかかわらず、日本政府は受け入れを受諾する。その結果、1957年4月に1億2109万円、同年10月にほぼ同額の教育支援金が北朝鮮から送金されてきた。現在の貨幣価値で換算すると20億から30億ほどの巨額の支援であった。その後も、毎年支援金が送られるようになり、2002年までに計448億6000万円にも及んだ。

  ③、教育支援金は何に使われたのか?

   ・北朝鮮からの教育支援金は、民族学校の学校運営費、教員の給料、朝鮮大学校の新校舎建設のほか、朝鮮総連の活動費にも充てられた。1970年以後は北朝鮮から送られてくる教育支援金よりも、在日朝鮮人が北朝鮮に送金をした額が上回ってくるが、初期の朝鮮総連の活動はこの教育支援金が支えていた。

  ④、在日朝鮮人達の感激

   ・当時の北朝鮮は朝鮮戦争以後の戦後復旧のために外貨を一銭でもほしい時期であった。このような時に金日成が資金を捻出して巨額の教育支援金を支給してくれたことに、在日朝鮮人達は感激し、北朝鮮や朝鮮総連に対する支持が高まっていった。他方、韓国の李承晩政権は教育支援金に反対したばかりでなく、自らは一銭も在日朝鮮人に支援をしてくれないので、韓国や民団に対する信頼は低下していった。

 (3)、教育のソフト面での支援

  ・北朝鮮から教科書や教育教程案、学校運営参考資料などが送られてきて、それを参考にして教科書が作られ、学校運営が行われ、教育実践に各段の改善がなされた。ちなみに、この頃の北朝鮮の学校教育は金日成の個人崇拝を強要するものではなく、社会主義的な民族教育が中心であった。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

朝鮮総連の歴史(7) 学習組

1、民対派の逆襲

 ・在日朝鮮統一民主戦線(民戦)時代に日本共産党民族対策部に属していた民対派の人々は、民戦時代の自分たちの活動路線を誤りであると決めつけた大会宣言、活動報告書、活動方針に強い不満を持っており、巻き返しを図った。彼らは朝鮮総連の中に共産党の細胞集団を再建しようとする。

2、朝鮮総連内に共産党の細胞組織を作るための障害

 (1)、「一国一党」の原則

  ・1928年、コミンテルン第6回大会で、一つの国家内には一つの前衛政党しか認めないという「一国一党」の原則が採択された。よって、朝鮮総連内に共産党の細胞を作るには、朝鮮労働党の「分党」ではこの原則に反してしまうので、日本共産党の援助を受けて活動する組織でなければならなかった。

 (2)、韓徳銖派の反発

  ・民戦時代に武闘路線の日本共産党の影響を受けた民戦執行部と路線対立をし、朝鮮総連結成後は中心をしめた韓徳銖を中心とする派閥は、彼らも共産主義者であるので前衛組織の設立自体には賛成であったが、「一国一党」の原則からこのような動きに反発した。

 (3)、朝鮮労働党の立場

  ・北朝鮮の朝鮮労働党は、たとえ朝鮮総連内に前衛組織が結成されるにしても日本共産党の関与を一切認めたくないという立場をとっていた。

3、学習組の結成

 (1)、韓徳銖派・朝鮮労働党・日本共産党の話し合い

  ・朝鮮労働党は、日本共産党幹部に朝鮮総連内の韓徳銖派と民対派の融和と前衛組織設立のための仲介を依頼する。これをうけて、日本共産党第一書記野坂参三と韓徳銖は懇談会を持ち、共産主義者の前衛組織を朝鮮労働党の日本分局ではなく、朝鮮総連の内部学習組織として設立することが助言された。

 (2)、学習組の結成

  ・1957年3月の朝鮮総連最初の全国共産主義者代表懇談会で、朝鮮労働党の政策を学習する機関として朝鮮総連内に「学習組」なる組織を設立する決定がなされる。名目は朝鮮労働党の政策を学習する機関であったが、実態は朝鮮労働党日本分局である。その後、1958年の総連第4会大会で、活動家が3名以上いる機関に義務的に「学習組」を組織させることとし、全国に360の学習組3000人の組合数が結成された。また、1960年には「学習組規定」が作成されている。

 (3)、学習組とは何か

  ①、結成当初の学習組

   ・結成当初の学習組は、韓国をも含めた朝鮮革命完遂を究極の目標とする、朝鮮総連内の秘密組織である。朝鮮労働党の政策を遂行するための朝鮮総連の指導者達もこの学習組から抜擢されている。

  ②、学習組の変容

   ・やがて学習組は、活動家ならだれでも加入できる大衆化組織となり、前衛組織としての秘密性も失われていく。また、単なる朝鮮労働党の政策を伝達する組織ではなく、金日成の独裁や親子による権力の世襲など北朝鮮の方針を正当化し疑問を呈する人を自己批判させる場ともなっていった。

  ③、学習組の解散と復活

   ・学習組は朝鮮労働党の方針を従わせるための朝鮮総連の中核組織であったが、1990年代頃からはその形骸化が目立ち、2002年8月に朝鮮労働党は学習組の解散を命じた。しかし、2005年に復活をしているという。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

朝鮮総連の歴史(6) 在日朝鮮統一民主戦線(民戦)と朝鮮総連の結成

1、意義

 ・在日本朝鮮人連盟(朝連)の後継団体として在日朝鮮統一民主戦線(民戦)が結成される。これは当時武闘闘争路線をとっていた日本共産党の強い影響を受けて、過激な運動を行っていた。この運動方針に反対をした韓徳銖(ハンドクス)を中心とする「民族派」が路線対立に勝利して、民戦の解散と朝鮮総連の結成が行われていく。

2、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)の活動

 (1)、意義

  ・1949年9月に「団体等規正令」によって在日本朝鮮人連盟(朝連)は解散をする。その後、左翼系在日朝鮮人は朝連に代わる組織として1951年1月9日に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を結成させる。この民戦の中核は当時武力革命路線をとっていた日本共産党の朝鮮人党員であったので、朝鮮戦争反対、吉田内閣打倒の過激な運動を展開していく。

 (2)、血のメーデー事件

  ・1952年5月1日、民戦はこの日のメーデーを「同胞総決起月間」の頂点と位置付けて、全国のメーデー会場に14万7000人の在日同胞を動員した。東京では、デモが禁止されていた皇居前広場に日本人と朝鮮人のデモ隊が押し寄せ、警官隊と衝突して多数の負傷者を出す大参事となった。

3、民戦日共派と民族派の路線対立

 (1)、意義

  ・過激で犠牲者が伴う闘争を行う民戦執行部(民戦日共派)に、韓徳銖を中心とする「民族派」と呼ばれていた人たちが疑問を呈した。やがて、彼らが路線対立に勝利して民戦が解散をして、彼らを中心として朝鮮総連が結成されていく。

 (2)、民戦の「合法的平和戦取路線」へ

  ・1952年7月、中国に亡命していた日本共産党書記長の徳田球一が、日本共産党の武力革命路線を強く批判する論文をコミンフォルムに発表した事をきっかけとして、日本共産党は方針を転換してゆく。これに合わせて、民戦日共派も過激な武闘闘争路線から「合法的平和戦取路線」へ転換してゆく。
 
 (3)、金正日書簡

  ・民族派は北朝鮮の支援を仰ぐため、幹部が度々北朝鮮へ密航をして北朝鮮の要人と協議をしていた。そんな中、1952年12月に「在日朝鮮人運動が正しい道を歩むためには朝鮮革命を領導する朝鮮労働党と共和国の指導を仰がなければなりません」という書簡を、金日成は民族派の人たちへ与えた。

 (4)、民族派の勝利

  ①、民戦第19回中央委員会

   ・1955年3月、民戦第19回中央委員会が開催される。ここで民族派のリーダー韓徳銖は「在日朝鮮人運動の転換について」と題した原稿を読み上げて、民戦の方針の誤りを厳しく糾弾した。民戦日共派は激しいヤジを飛ばして会議は収拾がつかなくなり、ひとまず運動方針転換問題を棚上げとして解散をした。

  ②、「解放新聞」に演説原稿全文掲載

   ・1955年3月22日、韓徳銖の演説原稿全文が社説で支持する旨とともに「解放新聞」に掲載される。

4、民戦の解散と朝鮮総連の設立の決定

 (1)、民戦の解散と朝鮮総連の設立の決定

  ・1955年5月24日、民戦6全大会で、民戦の解散と朝鮮総連の設立が決議される。これに対応して、日本共産党も朝鮮人党員を束ねていた「民族対策部」が解散し、3000人といわれた朝鮮人日本共産党員は日本共産党を離党して、新たに結成された朝鮮総連に吸収されていった。

 (2)、評価

  ・民戦日共派と民族派の対立は、民族派の勝利に終わった。これによって、在日朝鮮人の左翼運動に絶大な影響を及ぼしてきた日本共産党と新たに設立された朝鮮総連は組織的な関係を絶つことになった。朝鮮総連は、日本の革命運動には加わらずに、北朝鮮に絶対的な忠誠を誓いもっぱら在日朝鮮人のための運動に専念することとなった。

5、朝鮮総連の結成

 (1)、朝鮮総連の結成

  ・1955年5月25日、朝鮮総連の結成大会が東京の浅草公会堂で開かれた。

 (2)、大会宣言

  ・過去の活動は正しい運動から離脱していたが、その誤りを正し、今、朝鮮総連は在日同胞の健全な民主的民族的な勢力として組織を設立したと謳い上げた。

 (3)、綱領

  ①、全同胞を北朝鮮の周りに総集結させる

  ②、韓国から米国とその手先(李承晩)を追放し、祖国の平和的統一に献身する

  ③、在日同胞の全ての民主的な民族権益と自由を擁護する

  ④、民族教育と民族文化の育成

  ⑤、国籍の選択と亡命の自由を固守

  ⑥、朝日両国人民の友好親善促進

  ⑦、原爆など全ての大量破壊兵器の製造、使用の禁止

  ⑧、世界の平和友好士との連帯

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

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