稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・朝鮮総連の歴史

朝鮮総連の歴史(15) 在日朝鮮人の日本定住志向

1、在日朝鮮人の日本定住志向

 (1)、在日朝鮮人の日本定住志向

  ・戦後の一時期、在日朝鮮人は朝鮮半島へ帰還をして新国家を建設することが望みであった。しかし、1970年代以降から朝鮮半島へ帰還するよりも日本に定住したいという思いが強くなっていく。よって、在日朝鮮人達は日本での生活を確かなものにするために、日本政府が在日朝鮮人に課したさまざまな制度的差別の撤廃を求めるようになった。

 (2)、朝鮮総連の対応

  ・朝鮮総連はいまだに「南朝鮮革命の遂行」「祖国の統一」「チュチェ思想の確立と金日成主席への忠誠」など、北朝鮮の政策遂行に全力をあげ、在日朝鮮人が日本社会の中で直面している生活面での改善要求とは遊離した政治活動をしている。

2、地方公務員の国籍条項撤廃要求

 (1)、地方公務員の国籍条項撤廃要求

  ・1980年代以後、日本への定住志向が強くなるにつれて、安定した地方公務員を求める在日朝鮮人も多くなってきた。しかし、地方公務員の採用には国籍条項があるので、これを撤廃する要求をするようになった。

 (2)、朝鮮総連の反応

  ・国籍条項撤廃後初めて地方公務員の採用試験に合格した在日朝鮮人の青年を、朝鮮総連の副議長は「売民族的行為」と非難をした。

3、在日朝鮮人の朝鮮学校離れ

 ・定住志向が強くなった在日朝鮮人は、民族教育よりも日本社会で適応するための教育を欲するようになる。金日成・金正日親子に対する忠誠心教育よりも、基本的人権や民主主義的な理念を教える教育を求め、朝鮮学校へその子女を送らなくなった。朝鮮学校の生徒数は1975年には3万1200人だったのが、2012年段階では5000~6000人まで減少したと言われている。

4、定住外国人の地方参政権

 (1)、定住外国人の地方参政権

  ・定住志向が強くなった在日朝鮮人は、自分達が定住する地域に自分達の意思を反映させるために地方参政権を求めるようになり、1995年には在日韓国人達が地方参政権を求める裁判において、傍論ではあるが定住外国人の地方参政権を「専ら国の立法政策にかかわる事項」という最高裁判所の判決が下るに至っている。

 (2)、朝鮮総連の反応

  ・在日朝鮮人の日本人への同化を促進させるであるとか、日本の内政干渉になるなどの理由によって、朝鮮総連は地方参政権要求に激しく反対をした。

5、住民投票
 
 (1)、住民投票

  ・1990年代から、各自治体は原子力発電所の建設や産業廃棄物処理施設の建設など地域住民の命と生活にかかわる重要な問題を、住民投票によって決定していく傾向が強くなった。しかし、この住民には在日朝鮮人は除外されていた。よって、在日朝鮮人も住民投票に参加させろという要求が強くなってくる。2001年6月の滋賀県米原町の町村合併を巡る住民投票では、定住外国人も「住民」として住民投票を認めるに至り、この後在日朝鮮人にも投票権を与える自治体が続出した。

 (2)、朝鮮総連の反応

  ・原子力発電所建設のような政治色の強い問題に賛否を表明することは内政干渉であるとして、住民投票問題でも反対をした。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

朝鮮総連の歴史(14) 朝鮮総連の経済的自立化

1、北朝鮮からの指示

 (1)、朝鮮総連の活動資金

  ・朝鮮総連は、在日朝鮮商工人からの献金、北朝鮮からの教育援助金などによって運営されていた。しかし、北朝鮮は経済的に苦しくなっており、1975年には37億という巨額が教育援助金名義で総連に送られてきたが、その額は年々低下し、1986年には6億8000万円となり、この6億程度の額すら重荷になっていた。

 (2)、北朝鮮からの指示

  ・1986年9月、金正日から朝鮮総連は経済的に自立しろという旨の指示が送られてくる。これ以後、朝鮮総連は不動産やパチンコなどの経済活動をはじめるようになる。北朝鮮の意図は、教育援助金を削減し、さらには朝鮮総連の経済事業で総連から北朝鮮に利益を運んでくるというものであった。

2、朝鮮総連の経済事業

 (1)、北朝鮮相手の輸出入

  ①、朝鮮総連系の商社

   ・総連には東海商事、朝・日輸出入商社など北朝鮮相手に輸出入をして営利活動をしている株式会社が数社あったが、さらに会社を設立していった。

  ②、失敗

   ・日本が欲しがる商品が北朝鮮にはほとんどなかったので、北朝鮮間の輸出入では利益がでるところが赤字経営になりかねかった。

 (2)、パチンコ事業

  ①、意義

   ・在日朝鮮人が強い分野がパチンコ事業である。よって、総連も許宗萬(ホジョンマン)を総責任者としてパチンコ事業に乗り出した。

  ②、東北地方へ出店

   ・パチンコはすでに総連系の商工人が全国に出店をしていたが、東北地方は少なかった。よって、総連系商工人のパチンコ店との競争を避けるために、総連は東北地方にパチンコ店を出店していった。

  ③、最盛期

   ・大規模パチンコホールを郊外に建設し、朝鮮大学校や朝鮮学校卒業者を低賃金で従業員として雇い人件費を抑制し、朝鮮総連中央で20店舗、地方本部も中央を真似て40店舗ほどが経営され、1990年代前半にはかなりの利益を上げた。

 (3)、不動産事業

  ①、意義

   ・不動産業も在日朝鮮人が強い分野であり、かつ当時はバブル経済の開始期でもあった。総連も許宗萬を総責任者として不動産取引、それも詐欺師やヤクザと絡むことが多いのでリスクも伴うが利益も多い地上げを中心に行った。

  ②、最盛期

   ・名古屋駅周辺や大阪の江坂で地上げに成功し、双方で60億の利益を出すなど、バブル全盛期にはかなりの利益を上げた。

3、担保に使われた総連の財産

 (1)、担保に使われた総連の財産

  ・パチンコ店や不動産屋の経営のための資金調達は、朝銀信用組合等が総連所有の不動産を担保にして融資をした。

 (2)、具体例

  ・近畿学院→朝銀大阪信用組合が40億円、住宅ローンサービスが16億円

  ・生野朝鮮幼稚園→朝銀大阪信用組合が18億9000万円

  ・大阪朝鮮教育文化会館→住宅ローンサービスが35億円、朝銀大阪信用組合が8億円

  ・生野朝鮮初級学校→大阪私学振興会が2億円

  ・大阪総連本部→朝銀大阪信用組合が11億8000万円
  
  ・朝銀大阪信用組合本店→在日本朝鮮信用組合協会が17億円

  ・京都朝鮮初中級学校→東京リースが40億円

  ・神戸朝鮮高級学校→東京私学振興会が10億3000万円

  ・東京朝鮮第八初級学校→大同生命保険相互会社が42億円

  ・総連中央学院→北海道拓殖銀行が100億円

  ・朝・日輸出入商社→インターナショナル企画が65億円

  ・出版会館→大林フローラ606他が25億円、朝銀神奈川信用組合が10億円

  ・朝鮮新報社→朝銀東京信用組合他が86億円

  ・共栄商事→朝銀大阪信用組合他が56億円

  ・朝鮮大学校横の土地→朝銀東京信用組合他が109億円

4、経営の失敗

 (1)、パチンコ事業

  ・バブル崩壊以後、総連のパチンコ店は軒並み赤字を計上した。結局は店舗を売却したり、他の在日朝鮮人経営者と共同経営ということで経営権を譲ったりして、現在において朝鮮総連中央はパチンコ店経営から撤退、地方本部でも数店舗しか経営していない。

 (2)、不動産事業

  ・バブル崩壊以後、莫大な損失を計上した。例えば、九州の小倉では地上げに関してヤクザともめて200億~300億ほど投資したが失敗し、そのうちにバブルが崩壊して大損をした。

 (3)、担保に入れた不動産の競売

  ・融資を受けた際に担保に入れた総連所有の不動産は、次々と競売をされている。朝鮮新報社、朝鮮出版会館、金剛山歌劇団の施設、朝鮮大学校の第二グラウンドなどはすでに差押えが入っており、また、宮城県本部、千葉県本部、愛知県本部、滋賀県本部、大阪府本部、東京都本部、西東京本部の建物、敷地などが不良債権の担保となっている。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

朝鮮総連の歴史(13) 朝銀信用組合

1、 朝銀信用組合とは

 (1)、朝銀信用組合とは

  ・在日朝鮮人は日本の金融機関から融資を受けることが難しいので、自分達で金融機関をつくり相互扶助の機関としようという考えで設立された信用組合。1952年に同和信用組合が結成されたのを皮切りに、1955年代から朝鮮総連の活発な設立運動によって、全国で次々と設立されていった。
 
  ・朝鮮総連が結成された1955年では全国8組合14店舗、預金総額8億8000万円しかなかったが、1990年には全国38組合176店舗、預金総額2兆375億円まで拡大した。

 (2)、呼称

  ・呼称は朝銀+(地名)+信用組合(例えば、朝銀東京信用組合)となる。なお朝鮮銀行は戦前に日本が朝鮮半島に設立した特殊銀行、朝鮮中央銀行は北朝鮮の中央銀行のことであり、直接的な関連性はない。また、在日韓国人が設立した信用組合は商銀信用組合である。

 (3)、朝鮮総連との関係

  ・総連は各県の朝銀信用組合を在日本朝鮮信用組合協会のもとに統制し、組合長などを総連に忠実なものにすげ替えていった。これにより、朝銀信用組合は総連の絶対忠実の組織となっていった。

2、朝銀信用組合の破たん

 (1)、関西

  ①、朝銀大阪信用組合の破たん

   ・1997年5月、朝銀大阪信用組合は経営破たんをする。同年11月に近畿地区の5朝銀(滋賀、奈良、和歌山、京都、兵庫)が統合して朝銀近畿信用組合が設立され、朝銀大阪信用組合の事業はここへ譲渡され、1998年5月に公的資金3102億円が投入された。この朝銀大阪信用組合の経営破たんをきっかけとして、全国の朝銀信用組合が破たんをしていく。

  ②、朝銀近畿信用組合の破たん

   ・2000年12月、朝銀近畿信用組合が経営破たんをする。公的資金が投入された後に短期間で二次破たんをしたのは朝銀近畿信用組合がはじめてであった。

  ③、ミレ信用組合の設立

   ・2002年8月、経営破たんした大阪、奈良、和歌山の3つの信用組合の受け皿として、ミレ信用組合が設立される。
 
 (2)、関東

  ①、朝銀東京信用組合の破たん

   ・1999年5月、朝鮮総連中央のメインバンクの朝銀東京信用組合が経営破たんをする。公的資金投入前の調査によると、360億もの不正融資が判明した。

  ②、ハナ信用組合の設立

   ・2002年12月、経営破たんをした東京、関東、千葉、新潟、長野の5つの信用組合の受け皿として、ハナ信用組合が設立され営業を開始した。

3、破たんの原因


 (1)、北朝鮮への献金に利用された朝銀信用組合

  ①、意義

   ・朝銀信用組合は、日本の金融機関からはなかなか融資を受けられない在日朝鮮人の零細企業に対して融資や相談にのってうまく機能していた。しかし、1974年頃に北朝鮮が対外債務の返済困難に陥ると、外貨獲得のために朝鮮総連は朝銀信用組合を使って在日朝鮮人から献金を募るようになっていった。

  ②、融資をする代わりに献金作戦

   ・1980年代後半になると、日本の金融機関が敬遠するような投資計画に対して、総連幹部の紹介があれば、融資額の10%から20%を北朝鮮に献金することを条件に融資をするという、金融機関として邪道の融資を行うようになった。

  ③、破たんの原因

   ・朝銀大阪信用組合は、経営が不安定な在日朝鮮人が経営する零細工場へ北朝鮮への献金を条件に融資をしていた。バブル崩壊後、これら零細工場が一斉に倒産し、朝銀大阪信用組合は多額の不良債権を抱えることとなった。

 (2)、朝鮮総連の経済的自立化のために無茶や融資を行った朝銀信用組合

  ①、意義

   ・1986年9月、金正日から朝鮮総連は経済的に自立しろという旨の指示が送られてくる。これ以後、朝鮮総連は不動産やパチンコなどの経済活動をはじめるようになる。

  ②、朝鮮総連所有の不動産を担保に無茶な融資をする

   ・パチンコ店や不動産屋の経営のための資金調達は、朝銀信用組合等が総連所有の不動産を担保にして融資をした。

  ③、破たんの原因

   ・朝鮮総連所有の不動産をかなり過大に評価した不正融資がなされていたので、これらが不良債権化していった。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)

朝鮮総連の歴史(12) 北朝鮮の在日朝鮮人の財産収奪作戦

1、北朝鮮の資金不足

 (1)、北朝鮮の焦り 

  ・日韓基本条約後、韓国が飛躍的に発展していくのを目の当たりにして、経済成長で韓国を凌駕して北朝鮮主導で朝鮮統一を目指した北朝鮮指導部は焦った。

 (2)、北朝鮮の資金不足

  ・1973年から1974年にかけて大規模工事基地建設計画をたて、基本建設事業へ集中投資を採用して、必要な機械類を日本や欧州から買い入れようとしたが、そのためには外貨が必要であった。しかし、1973年にはじまった世界的なオイルショックによって、北朝鮮内の豊富に埋蔵されている亜鉛や鉛などの鉱物資源は暴落しており、資金不足に陥った。1976年には日本と欧州に対して支払いの繰り延べが要請され、日本に対しては、1979年と1983年に支払いの繰り延べが合意され、その代わりに300億の遅延利息と100億の元本の支払いが合意された。

2、献金事業


 (1)、意義

  ・資金不足に陥った北朝鮮が資金確保の手段として力を入れたのが、さまざまな手段で在日朝鮮人に対して献金を募ることであった。この献金は、朝鮮総連を通して北朝鮮へと届けられた。

 (2)、慶事の贈り物作戦

  ・1972年、金日成の還暦に大々的な贈り物をしようという「150日間革新運動」が朝鮮総連で、当時権力を握っていた金炳植によって始められる。これが献金事業のはじまりであり、この時は50億円ほどが北朝鮮に送金された。これ以後、金日成の誕生日、金正日の誕生日、建国記念日など北朝鮮でお祝いがある度に、朝鮮総連は在日朝鮮人達に献金を求めるようになる。

 (3)、「短期祖国訪問団」を利用した献金作戦

  ①、「短期祖国訪問団」

   ・1979年、日本政府は日本から北朝鮮に帰った人たちと在日朝鮮人が面会することを目的とする「短期祖国訪問団」を認める。北朝鮮と朝鮮総連は、これを利用して在日朝鮮人から献金を募ろうとした。

  ②、「短期祖国訪問団」を利用した献金作戦

   ・朝鮮総連は、短期祖国訪問団に参加するためには総連に相当の寄付をしなければならないとして、帰国を希望する資産家に献金を求めた。1回の訪問団で2億から3億の金が集まり、その訪問団が年間15~20回あるのだから、年間で30億~60億ほど集金されていた。

  ③、行き詰まり

   ・やがて在日朝鮮人の中で巨額の寄付までして北朝鮮に訪問をしようとする人々はいなくなり、訪問団を組織しようとしても金が集まらなくなった。

 (4)、お手紙作戦

  ・北朝鮮は、北朝鮮にいる帰国者に日本にいる家族へ寄付を募る手紙を書かせ、その寄付の額によって北朝鮮にいる帰国者に様々な特権を与えるという、お手紙作戦をはじめた。

 (5)、金剛山歌劇団作戦

  ①、金剛山(くんがんさん)歌劇団とは?

   ・金剛山歌劇団は、在日の芸術家を保護し、民族的な歌や踊りを在日に普及する目的で設立されたものである。しかし、1960年代後半になると、金日成の偉大さを歌劇や舞踏で宣伝する団体になってしまった。
 
  ②、金剛山歌劇団作戦

   ・1970年後半、金剛山歌劇団はピョンヤンで訓練をして、新宿コマ劇場や厚生年金会館で公演を行うことになった。このとき、朝鮮総連の韓徳銖議長が自ら在日朝鮮人に対して招待状を送った。劇場に行ってみると、総連の幹部から彼らに直接献金の要請が行われ、一回の公演で100億円(朝鮮総連財政局にいた韓光煕談)が集まったと言われている。

  ③、行き詰まり

   ・やがて二回、三回と公演を重ねていくにしたがって、総連が招待状を送っても有力な在日朝鮮人達は参加しなくなり金も集まらなくなった。

 (6)、朝銀信用組合を使った献金作戦

  ①、従業員のボーナスから献金作戦

   ・朝銀信用組合の従業員のボーナスなどから天引きして、朝鮮総連に献金をさせた。

  ②、融資をする代わりに献金作戦

   ・1980年代後半になると、日本の金融機関が敬遠するような投資計画に対して、総連幹部の紹介があれば、融資額の10%から20%を北朝鮮に献金することを条件に融資をするという、金融機関として邪道の融資を行うようになった。

  ③、行き詰まり

   ・バブル崩壊後の朝銀信用組合の相次ぐ破たんでこれもできなくなった。

 (7)、在日朝鮮人の商工人ヨイショ作戦

  ①、商工人を見下した総連幹部

   ・総連幹部は商工人を革命活動での落伍者と見る意識が強く、どこか見下していた。例えば、モランボングループの創業者の全演植(ジョンヨンシク)は、在日商工連合会会長の要職につき朝鮮総連副議長に就任していても、「学習組」には入れず、総連の重要な決定をするような場には蚊帳の外であった。

  ②、『凍土の共和国』事件

   ・1984年3月に、北朝鮮に帰国した在日朝鮮人の内情を生々しく描いた『凍土の共和国』が出版される。「地上の楽園」への帰還と自画自賛をしていた朝鮮総連は大きな衝撃をうけた。執筆者は北朝鮮を短期間訪問した在日朝鮮人の商工人であり、これは明らかに商工人の反乱の兆行であった。

  ③、「4・24教示」

   ・1985年4月24日、「(在日朝鮮商工人は)在日同胞の中で基本群集の地位にあり、在日朝鮮人運動の基本動力である」とする「教示」を、金日成が北朝鮮を訪問した在日朝鮮商工人の代表団に与える。これは、献金ばかりを求められて離反・反感を持っていた在日朝鮮商工人に対する懐柔であった。

  ④、在日朝鮮人商工人を総連幹部にする

   ・1985年5月24日、朝鮮総連結成30周年記念式典の会場における祝電で、金日成は在日朝鮮商工人を重視する姿勢を鮮明にし、1986年9月に行われた総連第14会全体大会で、モランボングループ総帥の全演植と神戸の実業家文東建が副議長に選任される人事があった。これは多額の献金に対するお礼の意味でもあった。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)


朝鮮総連の歴史(11) 朝鮮総連の対韓国政治工作

1、意義

 ・北朝鮮は1967年以後、韓国に対して武力強行路線をとる。これに対応して、朝鮮総連も金炳植が責任者となって、北朝鮮政府の指示に従って左傾化路線をとった。しかし、東西冷戦におけるデタントから、韓国と北朝鮮は融和路線に転じ、北朝鮮の政策も変わってしまう。結局、朝鮮総連では左傾化路線の責任はすべて金炳植が負い、彼が失脚することで終わった。

2、北朝鮮の韓国に対する人民解放路線

 (1)、意見対立

  ①、意見対立

   ・1965年、日韓基本条約が締結されて、韓国は日本からの経済支援により経済発展をなしとげた。これに対して、1967年に入って北朝鮮では、韓国に対してどのように対処すべきかを巡って意見対立があった。

  ②、強硬派

   ・軍部を中心として、武力を行使してでも朝鮮半島の統一を促進しようとする立場。

  ③、経済再建派

   ・朴金喆(パククムチョル)政治委員会常務委員などを中心として、経済競争で韓国を凌駕して統一問題を有利に進めようとする立場。

 (2)、強硬派の勝利

  ①、強硬派の勝利

   ・1967年5月、金日成は強硬派を支持する旨を表明した。経済再建派の朴らは粛清されたと言われている。

  ②、韓国に対するテロの続発

   ・1968年1月21日、北朝鮮の武装ゲリラ31名が、朴正煕韓国大統領暗殺の目的で大統領官邸近くまで侵入し、韓国軍と銃撃戦を起こした。

   ・1968年1月23日、北朝鮮はアメリカの情報収集艦プエブロ号を元山近くで拿捕した。

3、朝鮮総連の対韓国政治工作

 (1)、意義

  ・北朝鮮の武力強行路線は朝鮮総連にも伝えられ、①総連組織を金日成の命令に無条件に服する体制を構築すること、②戦争が勃発した時に備えて総連内にも非公然組織を作り非常時に対処できるようにしておくこと、などの指令がなされた。そして、この指示の遂行をしたのが筆頭副議長であった金炳植(キムビョンシク)であった。そして、この体制を構築していく過程で、金炳植は総連内における絶対的な権勢を獲得してゆく。

 (2)、思想統制

  ・金炳植は、金日成絶対服従の体制を築くために、金日成の政策に不信を抱く者、金日成の権威を軽視する者、自由主義的傾向がある者を、学習組を通して徹底した自己批判をさせることを行った。ただし、実質的に自己批判の対象者となった者は、旧民対派の流れをくむものや、金炳植に批判的なものであった。

 (3)、「フクロウ部隊」

  ・金炳植を代表者として、総連内に組織防衛と韓国革命遂行のための非公然組織「フクロウ部隊」が作られた。しかし、フクロウ部隊が実質的に行ったことは、革命という大義名分のもとで、金炳植に反対するものを監視、尾行、脅迫する金炳植の私兵のような役割であった。

 (4)、対韓国政治工作

  ①、意義

   ・朝鮮総連は、韓国で北朝鮮の指示に従い革命を行う人材を養成、または獲得して北朝鮮の工作機関へ引き渡す役割を担った。そのために、総連政治局は、民団系の青年学生を対象として、彼らの朴正煕独裁政権に対する反感を利用して北朝鮮のシンパに育成し、密航船で北朝鮮に送り出した。送り出された者は北朝鮮で教育を受けた上で日本に送り返し、日本から韓国に留学生として送り込んで韓国内部で体制崩壊の運動を行わせた。

  ②、文世光事件

   ・1974年8月15日、光復節の記念式典で、文世光が大韓民国大統領朴正煕を暗殺しようとして銃撃し、陸英修夫人が射殺された事件。「7・4共同声明」や金炳植が失脚した後でも朝鮮総連は、対韓国政治工作を続けていた。文世光は民団系の青年団体である在日韓国青年同盟に所蔵していたが、民団に不満を持っており、朝鮮総連の幹部に扇動されて北朝鮮の工作員となり犯行に及んだものであった。

  ③、日本人拉致問題

   ・この対韓国政治工作の延長線上に、1970年代後半の日本人拉致が行われた。

4、北朝鮮の対韓国和平路線への転換

 (1)、米ソデタント

  ・1969年頃から、ベトナム戦争で厭戦気分が蔓延したアメリカと、中ソ国境での中国人民解放軍との大規模な武力衝突を機にアメリカとことを構えることを避けたいソ連との間で、冷戦の緊張緩和の動きが出始めた。この動きは朝鮮半島にも影響を及ぼし、アメリカは韓国の朴正煕大統領を説得し、ソ連はポドゴルヌイソ連最高会議幹部会議長を北朝鮮に派遣して説得をした。

 (2)、「7・4共同声明」

  ・韓国と北朝鮮は赤十字社を使って秘密交渉を続け、1972年7月に「7・4共同声明」が南北両政府から発表され、朝鮮統一の3大原則が示された。

5、金炳植の失脚

 (1)、金炳植の困惑

  ・今まで北朝鮮の指示によって対韓国政治工作を行ってきた金炳植は、北朝鮮の対韓国和平路線の転換に困惑する。さらに、金炳植の総連左傾化路線に対する不満から在日同胞は総連離れが進んでいた。よって、総連内では韓徳銖や金炳植の責任を問う声がおこるようになった。

 (2)、金炳植の巻き返し

  ・金炳植は、金日成の還暦に大々的な贈り物をしようという「150日間革新運動」を始める。これによって、今までの左傾化路線を緩和し、総連の北朝鮮に対する忠誠心を固め、さらには自らが責任者となって金日成に贈り物をすることで、自らの忠誠心も金日成に示そうという作戦であった。

 (3)、金炳植の野望

  ・1972年2月、札幌オリンピックで来日した北朝鮮代表団が「第一副議長(金炳植のこと)に反対する者は、これを信任している韓徳銖議長ひいては金日成首相に反対することを意味する」という「教示」を持参した。金炳植は「150日間革新運動」の贈り物のおかげか、金日成の信任を得ることに成功する。さらには、韓徳銖の議長職にまで野望を持つようになった。

 (4)、金炳植の失脚

  ・金炳植の議長職に対する野望に対して、韓徳銖議長も反撃に出る。最終的には、1972年9月に、金炳植が北朝鮮を訪問している留守を狙って、緊急の幹部講習会を開催し、この席上で韓徳銖は金炳植を批判した。さらに、2001年に韓徳銖の後任として朝鮮総連の議長となった徐萬述(ソマンスル)もこれに続いて批判をした。この後、金炳植は第2回の南北赤十字会談に朝鮮総連から送り出され、金炳植が日本にいると朝鮮総連が混乱するという北朝鮮当局の判断から北朝鮮にとどめ置かれ、二度と日本に帰ってくることはなかった。

 (5)、責任をすべてかぶった金炳植

  ・朝鮮総連は、総連の左翼急進路線はすべて金炳植の個人的な野望と反革命的な行動に原因があると総括をしてしまい、北朝鮮による指示があったことは巧みに隠した。

<参考文献>

 『朝鮮総連』(金賛汀、新潮新書、2004)


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