稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・ヤクザ抗争史

ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 総論

1、昭和30年代後半の中京地区のヤクザ

 (1)、昭和30年代後半の中京地区のヤクザ

  ・単一組織としては日本最大の縄張りを持つといわれた名門「瀬戸一家」、江戸末期に清水の次郎長と覇を競った平井亀吉を初代とする「平井一家」、その他古豪の「稲葉地一家」「平野家一家」「三吉一家」などが確固たる地盤を固めていた。

 (2)、昭和30年代後半の中京地区の山口組

  ①、鈴木組

   ア)、鈴木組の山口組入り

   ・鈴木こと中森光義率いる鈴木組は、名古屋港湾の船内荷役を一手に取り仕切っていた。後に、鈴木は第二次広島抗争を戦うために山口組の直系となっていた打越会会長・打越信夫と兄弟盃を交わし、この打越との縁で三代目山口組組長・田岡一雄から舎弟盃を降ろしてもらい、鈴木組は山口組の直系組織となった。

   イ)、弘田武志の鈴木組入り

    ・弘田武志は高知県に生まれ、若くして大阪へ出てきて港湾荷役業に従事し、昭和27年(1952)頃に名古屋へ移り、鈴木組へ加入した。また、もとから鈴木組に加入しており、鈴木組の名古屋進出の際に、先兵として名古屋に乗り込み、最初は港近くの赤線地帯を縄張りとしていたが、やがて大阪で得た港湾事業の経験を生かして荷役業へ進出をしていったという説もある。弘田は鈴木組の若頭をつとめており、さらに昭和38年(1963)には弘田組を結成した。

  ②、第一次頂上作戦と弘田組の直系組織への昇格

   ア)、鈴木組の解散

    ・昭和38年(1963)に勃発した広島抗争に参戦した山口組に対して警察は頂上作戦を開始し、岡精義をはじめ山口組の大幹部が次々と逮捕された。田岡は、港湾荷役に携わっているものは全員山口組を離れるように指示し、鈴木もこれに従って昭和41年(1966)に鈴木組を解散した。

   イ)、弘田組の直系組織への昇格

    ・鈴木組の若頭であった弘田が鈴木組の残党を引き受け、田岡から直々に親子盃を受け、弘田組は本家直系若衆となった。弘田組若頭兼司興業組長・司忍、弘田組若頭補佐兼佐々木組(後の菱心会)組長・佐々木康裕、弘田組若頭補佐兼神谷組組長・神谷光雄は弘田組の武闘派三羽烏と呼ばれた。

  ③、司忍のバイオグラフィー

   ア)、出生

    ・司忍(本名篠田建市)は、昭和17年(1942)に大分県大分市に生まれ、昭和35年(1960)に臼杵水産高校を卒業した。

   イ)、大阪へ

    ・高校卒業後、すぐに大坂へ出た。大阪では運輸業を営んでいた重石某のところに身を置いていたが、司がヤクザ志望であったことから、重石が司を山口組北山組原組組長・原松太郎へゆだねた。原は大阪西成の飛田遊郭を縄張りとしていた。

   ウ)、名古屋へ

    ・大阪で2年ほど過ごした後、司は20歳の時に名古屋へ移り、弘田組へ入った。司は弘田組で頭角を現し、自ら司興業を創設し、昭和43年(1968)に、金持ちヤクザとして有名である稲葉地一家の縄張りであった名古屋を代表する歓楽街の中村区大門地区に事務所を構えた。

2、東陽町事件

 (1)、抗争

  山口組弘田組vs大日本平和会山中組、豊山一家

 (2)、概要

  ・昭和44年(1969)5月、大日本平和会山中組小牧支部の組員が、神谷組の事務所に殴りこみをかけて、神谷組組員2人が死亡、2人が重軽傷を負った。この返しとして弘田組司興業と佐々木組は、大日本平和会豊山一家の豊山王植を刺殺した。これより、首謀者として司忍は殺人教唆で懲役13年、襲撃犯リーダーで司興業若頭・土井幸政は懲役13年、実行犯の佐々木組・髙山清司は懲役4年が言い渡された。

  参考)、ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 東陽町事件

3、山口組弘田組と稲葉地一家鬼木会の抗争

 (1)、抗争

  山口組弘田組vs稲葉地一家鬼木会

 (2)、概要

  ・昭和56年(1981)、山口組弘道会と稲葉地一家鬼木会が抗争を起したが、運命共同会総裁・河澄政照が仲介人となり手打ちが成立した。

  参考)、ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 山口組弘田組と稲葉地一家鬼木会の抗争

4、4日戦争

 (1)、抗争

  山口組弘田組司興業vs導友会

 (2)、概要

  ・昭和56年(1981)、山口組弘田組内司興業と導友会が抗争を起したが、地元の有力組織双葉会会長・森田道竹と山口組直系若衆で名古屋の山口組勢力の長老格である益田啓助が和解に奔走して、抗争はわずか4日で終わった。

  参考)、ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 4日戦争

5、山口組弘田組菱心会と導友会光岡組鈴木組との抗争

 (1)、抗争

  山口組弘田組菱心会(旧佐々木組)vs導友会光岡組鈴木組

 (2)、概要

  ・4日戦争が手打ちで終結してから数か月後の昭和58年(1983)11月に勃発した、山口組弘田組菱心会と導友会との抗争である。

  参考)、ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 山口組弘田組菱心会と導友会光岡組鈴木組との抗争

6、中京戦争

 (1)、抗争

  運命共同会中京浅野会vs瀬戸一家侠神会岩本組

 (2)、概要

  ・運命共同会中京浅野会と瀬戸一家侠神会岩本組の抗争である。紆余曲折を経て、運命共同会、瀬戸一家、平野一家、稲葉地一家、導友会の五団体によって「中京五社会」という親睦団体が結成され、中京地区の平和と山口組の進行に歯止めをかけるようになった。

  参考)、ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 中京戦争

7、光岡兄弟と浜健組を巡る抗争

 (1)、抗争

  平野家一家vs導友会浜健組、のちに平野家一家・導友会vs浜健組

 (2)、概要
 
  ・平野家一家と導友会浜健組の抗争から、やがて浜健組が導友会から破門されて、平野家一家・導友会と浜健組の抗争へとなっていった。表面化したものだけで合計20件、死者は3名、負傷者は14名をだして、昭和61年(1986)7月、孤立無援で戦っていた浜健組が事実上解散することにより抗争は終結した。

  参考)、ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 光岡兄弟と浜健組を巡る抗争

8、山一抗争と弘道会

 (1)、弘道会の発足

  ①、司忍の出所

   ・昭和58年(1983)、東陽町事件で懲役13年の刑に服していた司忍が出所した。

  ②、弘道会の発足

   ・昭和59年(1984)に山一抗争が勃発した。弘田組組長・弘田武志は山口組ではなく一和会に行こうとした。これに対して周りが説得し、最終的には弘田は引退を決意。弘田組のほとんどの勢力は司忍が新たに立ち上げた弘道会が引き継いだ。

 (2)、山一抗争での活躍

  ①、弘道会の強さ

   ・名古屋の稲葉地一家や導友会など伝統のある名門組織は、地元の学生崩れや金持ちの息子がグレてヤクザになったような者が多かった。一方、弘田組や弘道会は、飯が食えなくてヤクザになるしかないという貧乏人の子が多かった。その結果「ゼニはないけど、握り飯食ってでも喧嘩やるぞという気持ち」を持つものが多く、「長期の服役に行ける人間、そういう志願者が多」かった。山一抗争でも、長期の服役覚悟で弘道会が一和会へのピンポイントでの攻撃をし、極道界の評判を上げていった。

  ②、後藤組若頭拉致事件

   ・昭和60年(1985)2月、弘道会菱心会若頭補佐・竹内照明らが、四代目山口組組長・竹中正久襲撃を指示した、一和会二代目山広組若頭・後藤栄治率いる後藤組若頭・吉田清澄を拉致した。これに対して、後藤は後藤組の解散届を警察に出し、吉田の解放を願って山口組本部に詫び状を入れた。

  ③、水谷一家組員拉致事件

   ・昭和60年(1985)4月、弘道会園田組幹部ら3人が、一和会水谷一家の組員2人を拉致し、人質解放と交換条件で水谷一家の解散を要求した。しかし、水谷一家がこれに応じなかったために、拉致した組員1人を射殺、もう1人は重傷を負わせた上で車に入れ、車ごと病院前に放置した。

  ④、花田組組長射殺事件

   ・昭和63年(1988)4月、弘道会司道連合幹部ら2人が、札幌で一和会加茂田組二代目花田組組長・丹羽勝治を射殺した。

  ⑤、五代目山口組の若頭補佐へ

   ・司は、五代目山口組が成立すると、山一抗争の功労者として若頭補佐となり、執行部の一員となった。

 (3)、名古屋の繁華街を管理下に収める

  ①、意義

   ・弘道会若頭・髙山清司は、すでに地元名門組織の縄張りである名古屋の繁華街、栄や錦において、飲食店や風俗店から月々集める組合費の回収を代行するサービスを始めた。これにより、縄張りを持つ地元名門組織は回収の手間もトラブルもなく金を手に入れることができ、弘道会も代行をしたサービス料で利益をあげることができるようになった。バブル期には、名古屋の繁華街はほぼ弘道会の管理下に入っていった。

  ②、バブル期の躍進

   ・愛知県内の弘道会の支配率は発足当初は18%ほどであったが、バブル期の平成元年(1989)頃には30%くらいになっていた。

9、名古屋抗争

 (1)、抗争

  山口組弘道会vs鉄心会

 (2)、概要

  ・弘道会は中京地区でまだ山口組に属していない露天商を集めて連合体を作ろうとするが、これに運命共同会の中核組織でありテキヤ集団であった鉄心会が反発した。ここから弘道会と鉄心会との抗争が始まるが、平成3年(1991)2月、稲葉地一家総裁・池田憲一の仲裁で、弘道会と鉄心会は和解を成立させた。

  参考)、ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 名古屋抗争

10、名古屋の山口組化

 ・平成3年(1991)3月、平井一家総裁・岸上剛史と瀬戸一家総裁・渡辺啓一郎は山口組入りし、直系組長となった。また、中京浅野会、平野家一家、導友会、稲葉地一家、浜健組の残留組員は、弘道会入りをした。これにより、「中京五社会」は実質的に崩壊した。ただし、鉄心会のみは山口組を嫌って稲川会の直参となった。

11、映像 実録 名古屋やくざ戦争 統一への道

 (1)、意義

  ①、意義

   ・平成27年(2015)に六代目山口組から四代目山健組など有力組織が離脱して、六神抗争が勃発しました。令和元年(2019)10月に出所した六代目山口組若頭・髙山清司は、「実録 名古屋やくざ戦争 統一への道」を傘下組織に配ったそうです。この作品はそれくらい重要な作品なのでしょう。

  ②、弘道会のヒストリー

   ・弘道会に参画した組織は、稲葉地一家や導友会など名門組織でそれぞれの歴史を持っています。中には弘道会と激しく抗争をした歴史を持つ組織もあります。それを弘道会ー司忍・髙山清司を中心とした歴史に整理しているのがこの作品といえるでしょう。六神抗争において山健組は分裂をしてしまいましたが、弘道会は多少の離脱組織はありながらも一枚岩だったのは、経済的基盤が強い事が第一でしょうが、組織としての歴史を共有するとにより組織としてのアイデンティティーが確立されていた点にも要因があるのでないでしょうか。

 (2)、実録 名古屋やくざ戦争 統一への道1

  ・中野英雄さん演じる高嶋誠司(モデルは髙山清司)を中心に名古屋の一連の抗争を描いたVシネです。今作は高嶋誠司が高校を中退して渡世入りする所から東陽町事件までです。主要人物は、

   高嶋誠司(モデルは髙山清司)  中野英雄

   仁笠剛 (モデルは司忍)    小沢仁志

   佐崎康博(モデルは佐々木康裕) 渡辺裕之

   城田武志(モデルは弘田武志)  竹中直人

   神代光雄(モデルは神谷光雄)  羽賀研二

   門井幸政(モデルは土井幸政)  遠藤憲一

 主な組織は、

   山王会    山口組
 
   城田組    弘田組

   佐崎組    佐々木組

   仁笠興業   司興業

   神代組    神谷組

   大日本平和会 大日本昭和会

   山中組    中山組
  
   遠山組    豊山一家



 (3)、実録 名古屋やくざ戦争 統一への道2

  ・今作は、仁笠剛が宮城刑務所から出所する所から、中京抗争(大瀬戸一家と中京浅田会の抗争)、4日戦争(城田組と導侠会)、山丸抗争(尾藤組若頭拉致事件、水音一家組員拉致事件、花戸組組長射殺事件)までです。1話に付け加える主要人物は、

   清澄政照(モデルは河澄政照) 島田洋八

   武田力也(モデルは竹中正久)

   山脇辰一(モデルは山本広)

   岩倉毅(モデルは石倉毅)  火野正平

   森井健司(モデルは森健司) 中倉健太郎

   竹ノ内照明(モデルは竹内照明)

  組織は、

   運命侠愛会 運命共同会

   愛知同心会 愛豊同志会

   中京浅田会 中京浅野会

   鉄志会   鉄心会
 
   稲妻一家  稲葉地一家
 
   導侠会   導友会

   大瀬戸一家 瀬戸一家
 
   広野家一家 平野家一家

   丸和会   一和会

   山辰組  山広組

   城道会   弘道会



 (4)、実録 名古屋やくざ戦争 統一への道3

  ・今作は、光岩兄弟と沢田組をめぐる抗争と、城道会へ地方の各組織が加入していく話です。

   松屋多部連合会多部本家三代目総長 笠原茂巳(モデルは小笠原茂巳)

   忠字家一家内川竜会徳島組組長 徳島康正(モデルは福島康正)

   忠字家一家内川竜会鈴鹿組組長 鈴鹿覚(モデルは鈴木覚)

   四代目山王会直参神立会滝誠会 滝誠次朗(モデルは谷誠次郎)

   城東組関山一家阿藤会会長   川森正雄(モデルは川村正夫) 

   城東組関山一家阿藤会     高梨健三(モデルは高橋憲治) 
  
   城東組関山一家阿藤会     伊藤和男(モデルは佐藤和男) 
  
   城東組関山一家阿藤会     伊藤政光(モデルは佐藤政光)

   城東組関山一家阿藤会     金戸基一(モデルは金田基一)

   長島会            長島政春(モデルは中島政春)

   丸和会溝口組米村組      米村康博(モデルは米川康博)   

   導侠会沢健組組長       沢田健嗣(モデルは浜田健嗣)

   導侠会光岩組組長       光岩官成(モデルは光岡官成)

   広野家一家徳命会会長     光岩徳成(モデルは光岡徳成)



 (5)、実録 名古屋やくざ戦争 統一への道4

  ・今作は、山羽抗争(羽山組(モデルは波谷組)と城道会(モデルは弘道会))、名古屋抗争(鉄志会(モデルは鉄志会)と城道会(モデルは弘道会))、そして中京浅田会、広野家一家、導侠会、稲妻一家が城道会入り、大瀬戸一家、平木一家が五代目山王会直参となったことにより、タイトル通りの名古屋統一によって終わります。

   運命侠愛会会長 島村禎宏(モデルは今村禎宏)

   大瀬戸一家総裁 渡来敬一郎(モデルは渡辺啓一郎)          

   稲妻一家総裁 高田憲一(モデルは池田憲一)

   広野家一家総裁 政岡喬治(モデルは浅岡喬吉)

   導侠会会長 谷塚照雄(モデルは石塚照雄)

   運命侠愛会鉄志会会長 坂上鉄一(モデルは高上鉄一)

   雄仁会(モデルは十仁会)



 <参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
 『山口組抗争史外伝 弘道会常勝軍団への道』(東史郎、竹書房、2008)
 週刊現代20191231「山口組、高山若頭が年末の会合で配った「意外な手土産」の意味」

ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 名古屋抗争

1、抗争

 山口組弘道会vs鉄心会

2、経過

 (1)、原因

  ・弘道会は中京地区でまだ山口組に属していない露天商を集めて連合体を作ろうとするが、これに運命共同会の中核組織でありテキヤ集団であった鉄心会が反発した。鉄心会の幹部数名が弘道会入りをしようとするが、この幹部を鉄心会上層部が絶縁したことから、弘道会はこれを挑戦状と受け取って攻勢を強めた。

 (2)、弘道会の襲撃

  ・平成3年(1991)1月26日、弘道会系組織3団体の幹部組員で組織された襲撃部隊が、移籍を拒否していた鉄心会組員を襲撃して重傷を負わせた。これを皮切りにして両組織が系列組事務所へ発砲をした。

 (3)、鉄心会伊藤組組長宅襲撃事件

  ・平成3年(1991)1月28日、鉄心会系伊藤組組長宅に、弘道会系組員が銃弾10発を撃ち込んだ。

 (4)、鉄心会企業舎弟射殺事件

  ・平成3年(1991)1月30日、弘道会直系の有力3団体から選抜されたヒットマンによって、鉄心会組長宅に出入りしていた鉄心会企業舎弟の不動産会社従業員2人が射殺された。

 (5)、和解

  ・平成3年(1991)2月、稲葉地一家総裁・池田憲一の仲裁で、弘道会と鉄心会は和解を成立させた。

 <参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
 『山口組抗争史外伝 弘道会常勝軍団への道』(東史郎、竹書房、2008)

ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 光岡兄弟と浜健組を巡る抗争

1、抗争

 平野家一家vs導友会浜健組、のちに平野家一家・導友会vs浜健組

2、経過

 (1)、浜健組事務所襲撃事件(平野家一家→導友会浜健組)

  ・昭和57年(1982)、平野家一家事務所で行われた前総裁の一周忌法要の席で、導友会浜健組組長・浜田健嗣が破門者をなじったのを平野家一家徳心会会長・光岡徳成がなだめた。これに浜田が反発したことから、自分の親分が恥をかかされたと曲解した徳心会組員が浜健組事務所を襲撃した。しかし、もともと導友会と平野家一家は友好関係だったので、すぐに和解が成立した。

 (2)、浜田組長襲撃事件(平野家一家→導友会浜健組)

  ・昭和60年(1985)4月、名古屋市内のカントリークラブで、浜田と導友会水谷組組長・水谷賢司が、平野家一家徳心会組員に襲撃されて重傷を負った。犯人の組員は、兄貴分が浜田に借金の申し入れをしたが断られ、自殺したので、その敵討ちが動機であると供述した。

 (3)、浜健組の返し(導友会浜健組→平野家一家)

  ・浜健組は2日後に報復として、徳心会事務所に押しかけて、組員を射殺した。

 (4)、光岡官成導友会理事長射殺事件(導友会浜健組→導友会理事長)

  ・昭和60年(1985)11月、導友会前会長・古川竹男の墓の「開眼式」の場で、平野家一家徳心会会長・光岡徳成の弟でもある導友会理事長・光岡官成が、浜健組組員に射殺された。導友会はただちに浜田を絶縁処分として解散を迫ったが、浜田はこれに応じなかった。

 (5)、浜健組東京支部長襲撃事件(平野家一家→浜健組)

  ・昭和61年(1986)1月、平野家一家徳心会幹部が名古屋の繁華街で、浜健組東京支部長ら3人を襲撃した。東京支部長は防弾チョッキを着ていたために無事であったが、他の2人は重傷を負った。

 (6)、浜健組の返し(浜健組→平野家一家)

  ・浜健組はすぐに、平野家一家徳心会会長・光岡徳成の自宅にカチコミをし、さらに徳心会の事務所にトラックを突っ込ませた。

 (7)、浜健組副組長射殺事件(導友会光岡組→浜健組)

  ・昭和61年(1986)2月、導友会光岡組組員2人が、刈谷市の路上で、浜健組副組長・小松勲と組員を襲撃し、小松を射殺、組員に重傷を負わせた。さらに、小松の葬儀の日には映画のような銃撃戦も行われた。

 (8)、抗争終結

  ・表面化したものだけで合計20件、死者は3名、負傷者は14名をだして、昭和61年(1986)7月、孤立無援で戦っていた浜健組が事実上解散することにより抗争は終結した。

 <参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
 『山口組抗争史外伝 弘道会常勝軍団への道』(東史郎、竹書房、2008)

ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 中京戦争

1、抗争

 運命共同会中京浅野会vs瀬戸一家侠神会岩本組

2、運命共同会の設立

 ・関東には「関東二十日会」、関西には「阪神懇話会」と親睦団体があり、抗争が発生すると早期解決ができるが、中京地区にはそのような団体が存在していなかった。そこで、豊橋市を地盤とする河澄政照はこのような親睦団体を作ろうとした。昭和37年(1962)に山口組一心会が豊橋市に進出しようとした際に、抗争をして阻止した豊橋事件を契機として、昭和42、3年頃に平井一家など地元団体を結集して「愛豊同志会」を結成した。さらに昭和54年(1979)4月には、愛豊同志会に中京浅野会や鉄心会なども加えて「運命共同会」を結成し、河澄が団体の代表に就任した。

3、前史

 ・昭和55年(1980)、愛知県津島市の縄張り争いから、中京浅野会と瀬戸一家侠神会が抗争を起こし、瀬戸一家侠神会側に1人の死者が出た。この後、大きな抗争には発展しなかったが、両組織間に紛争の火種が燻ぶった。

4、抗争のはじまり

 (1)、事件

  ・昭和58年(1983)6月18日、名古屋のスナックで、中京浅野会組員と瀬戸一家侠神会岩本組組員がカラオケの順番をめぐって喧嘩をした。これをきっかけにして中京浅野会と瀬戸一家侠神会岩本組との間で抗争が発生し、数次のカチコミで組員4人が負傷した。

 (2)、手打ち

  ・この抗争に対して、稲葉地一家総裁・伊藤信雄と平野一家総裁代行・佐藤安高が仲介に乗り出して、昭和58年(1983)7月中旬に手打ちが成立した。この結果、瀬戸一家侠神会岩本組組長・岩本優は責任をとって瀬戸一家を離脱。瀬戸一家侠神会会長・渡辺鉄也も侠神会会長の座を降りた。だが、瀬戸一家を離脱してカタギになるはずであった岩本組はこの裁定に不満で、新たに愚連隊「岩本組」を名乗って抵抗した。

5、河澄総裁射殺事件

 (1)、意義

  ・昭和58年(1983)7月26日、河澄が瀬戸一家総裁・小林金治宅を手打ち式の話し合いのために訪問して帰ろうとした時に、手打ち条件に不満を持っていた岩本組組員達によって射殺された。手打ち式は翌日であったので、手打ち式前日の強行したものであった。

 (2)、報復

  ・岩本組組長・岩本優と侠神会会長・渡辺鉄也は、河澄死後ぱったりと姿を消してしまった。河澄の愛豊同志会は、河澄の敵討ちに報復攻撃を開始した。侠神会側もこれに迎え撃った。また、運命共同会は河澄亡き後、愛豊同志会最高幹部である三虎一家五代目総長・宮路開住雄を中心に結束をかためた。

6、瀬戸一家の混乱

 (1)、意義

  ・瀬戸一家内には、侠神会を切ろうという穏健派がおり、瀬戸一家は内紛でもめていた。

 (2)、瀬戸一家破門事件

  ・昭和58年(1983)9月、瀬戸一家総裁・小林金治名義で、瀬戸一家の奥山組長ら数人を「任侠道に反したので破門した」という破門状が地元組長や幹部に配布された。しかし、この破門状は偽者であり、誰がこのようなことを行ったのかは現在もわかっていない。

 (3)、瀬戸一家総裁宅焼き打ち事件

  ・昭和58年(1983)10月、瀬戸一家総裁・小林金治宅が全焼した。この犯人は現在もわかっていない。

7、和解の成立

 (1)、警察の動き

  ・愛知県警は長引く中京戦争に対して、昭和58年(1983)の年明けとともに瀬戸一家と運命共同会の両組織の集中攻撃をかけて、両組事務所を捜索して組長など19人を逮捕した。さらに、昭和59年(1984)2月22日、東京赤坂に潜伏していた岩本組組長・岩本優を逮捕した。

 (2)、和解の成立

  ・住吉連合や稲川会など有力親分衆の働きかけもあって、昭和59年(1984)6月に豊橋と蒲郡の中間点にある料亭で、名だたる親分衆臨席の上で和解が成立した。この結果、瀬戸一家は関係者を絶縁し八代目総裁・小林金治が引退し、総裁代行・渡辺啓一郎が九代目を襲名した。対する愛豊同志会は、「政心同志会」に改称し、新会長に藤川卓夫をすえて双方ともに新たな一歩を歩み始めた。

8、瀬戸一家小林前総裁射殺事件

 (1)、意義

  ・昭和60年(1985)4月24日、蒲郡市で引退をした瀬戸一家前総裁・小林金治が、政心同志会(旧愛豊同志会)平井一家木下組組員によって射殺された。この組員は「殺された河澄総裁に報いるための仕返しであり、自分ひとりでやった」と供述した。

 (2)、和解の成立

  ・手打ち成立後、瀬戸一家を引退してカタギになった小林前総裁を射殺したことは、極道社会でもスジが通らないことであった。よって、政心同志会総裁・藤川卓夫は地元の有力者へ謝罪し、小林前総裁の密葬に参列して侘びとして指を落とした。実行犯の組員は拘置中に心不全で急死した。政心同志会の誠意ある態度と、地元親分衆の粘り強い交渉に瀬戸一家も姿勢を和らげて、二度目の和解が成立した。

9、政心同志会の内紛

 (1)、意義

  ・昭和60年(1985)9月5日、政心同志会平井一家高橋組組長・高橋敏が、同じ政心同志会の総裁・藤川卓夫と同平井一家木下組組長・木下泰市を襲撃して重傷を負わせる事件が起こった。高橋は翌日の朝、河澄の墓前で自殺した。

 (2)、理由

  ・高橋は元は河澄の直系子分であり、ボディーガードをつとめていた。しかし、河澄を面前で殺害されたことにより風当たりが強くなり、昭和59年(1984)には「本部長」であったのを昭和60年(1985)には「常任理事」まで格下げされた。高橋組長は人事に不満をもっていたのであった。

10、「中京五社会」の結成

 ・中京戦争終結後、中京地区にも運命共同会、瀬戸一家、平野一家、稲葉地一家、導友会の五団体によって「中京五社会」という親睦団体が結成され、中京地区の平和と山口組の進行に歯止めをかけるようになった。しかし、親睦団体の実態は「お食事会。ドングリの背比べ連中がよせばいいのに、お互い反目し合っていた」といったものであったという。

11、動画

 ・中京戦争は複雑でわかりにくいですが、懲役太郎さんが整理して解説をされています。




 <参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
 『山口組抗争史外伝 弘道会常勝軍団への道』(東史郎、竹書房、2008)

ヤクザ抗争史 名古屋の抗争 山口組弘田組菱心会と導友会光岡組鈴木組との抗争

1、抗争

 山口組弘田組菱心会(旧佐々木組)vs導友会光岡組鈴木組

2、経過

 (1)、スナックでの喧嘩

  ・4日戦争が手打ちで終結してから数か月後の昭和58年(1983)11月、愛知県下の導友会の息のかかったスナックで、山口組弘田組菱心会と導友会光岡組鈴木組の組員が喧嘩をした。

 (2)、菱心会組員への暴行(導友会光岡組鈴木組→山口組弘田組菱心会)

  ・菱心会の組員2人がこのスナックに乗り込み暴れたが、逆に導友会光岡組鈴木組の事務所へ連れていかれて暴行を受けた。

 (3)、菱心会の返し(山口組弘田組菱心会→導友会光岡組鈴木組)

  ・菱心会はすぐに返しをし、菱心会と他組員1人が鈴木組の事務所に乗り込んだ。応戦した鈴木組組長ら組員を含めて、双方全員が重軽傷を負った。

 <参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『抗争』(溝口敦、小学館、2012)
 『山口組抗争史外伝 弘道会常勝軍団への道』(東史郎、竹書房、2008)
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