稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・ヤクザ抗争史

ヤクザ抗争史 岐阜市の抗争事件

1、稲川組と芳浜会(よしはまかい)の抗争事件

 (1)、昭和30年代の岐阜

  ・昭和30年代頃の岐阜は、博徒池田一家の大幹部・坂東光弘と、的屋芳浜会菊田派・菊田吉彦、同会杉本派・杉本重太、瀬古安会・安璋煥(しょうかん、鈴木康雄)が対立していた。

 (2)、坂東の稲川組入り

  ・昭和36年(1961)、坂東が稲川組林一家総長・林喜一郎の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任した。

 (3)、坂東光弘射殺事件(芳浜会→稲川組)

  ・昭和37年(1962)、タクシーで移動中の板東が芳浜会杉本派の組員に射殺された。この組員はすぐに岐阜中警察署に自首した。

 (4)、和解の成立

  ・坂東が芳浜会組員に射殺された報を聞いた稲川組は、林をはじめ横須賀一家総長・石井隆匡など約200人を岐阜に結集させた。他方、芳浜会も約300人ほどが集結しこれに対峙した。林は芳浜会会長・西松政一が謝罪に来ることをもとめ、西松もこれに応じたことから、稲川組と芳浜会の抗争は和解が成立した。

2、岐阜抗争

 (1)、林の舎弟へ

  ・昭和37年(1962)、菊田と安は、林の舎弟になりたい旨を申し入れ、林はこれを受け入れた。

 (2)、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟へ

  ・同じころ菊田と安は、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟にもなった。これに林は激怒し、菊田と安の殺害を指示した。しかし、菊田と安の所在がつかめなかったことから、標的は芳浜会菊田一家幹部・足立哲雄となった。

 (3)、足立哲雄襲撃事件(鶴政会→芳浜会)

  ・昭和37年(1962)、足立が運転中に林の若衆達に襲撃され、足立は重傷を負った。

 (4)、和解の成立

  ・足立襲撃犯は大垣警察署に自首し、菊田・安と林は手打ちが成立した。この後、林は岐阜県に林一家を置くことを承認させた。

3、菊田・安の三代目山口組入り

 (1)、地道組入り

  ・昭和30年代後半から始まった鶴政会(錦政会)の岐阜進出に対して、菊田・安は昭和38年(1963)に三代目山口組若頭・地道行雄から舎弟盃を受け、地道組へと加入した。

 (2)、直系組織へ

  ・昭和45年(1970)、両組織は山口組直系組織に昇格した。中京地区屈指の繁華街である柳ケ瀬をはじめとして、両組織は岐阜県下に勢力を拡大していった。

4、組長追放事件

 (1)、原因

  ・昭和53年(1978)、菊田は総工費1億数千万円の鉄筋五階建ての豪華な自宅兼事務所を新築し、新築祝儀を傘下の組長らに強制的に上納させようとした。また安も、会長宅の新築に際して、建築費のほとんどを傘下の組長らに割り当て、上納させた。以前から高額の上納金に不満を持っていた両組織傘下組長達はこれに反発し、上部団体である山口組本部に直訴をした。

 (2)、クーデターではないアピール

  ・両組織傘下の組長達は、決して山口組に対してクーデターを起こしたわけではなく、菊田と安に対する不満であることをアピールする必要があった。当時の山口組は大阪戦争の最中であったので、山口組に忠誠を示すために、菊田組と瀬古安会から脱退した組員が松田組組長・樫忠義宅へ銃撃をする発砲事件を起こした。

 (3)、組長追放

  ・当時若頭であった山本健一は両組織傘下組長と直接会って事情を聞いた上で、菊田と安を「統率力なし」として除籍処分とした。

 (4)、山心会の結成

  ・その後、瀬古安会は副会長であった野田弘治が野田組を結成し、菊田組は舎弟頭であった近藤慶文が近藤組を結成した。そしてこのような旧瀬古安会と旧菊田組の幹部9人が集まって、昭和53年(1978)に「山心会」を結成され、本部預かりとなった。組織運営は、合議制であった。

5、野口組長射殺事件

 (1)、意義

  ・「山心会」は寄り合い世帯ということもあって内部対立が絶えなかった。昭和54年(1979)、柳ヶ瀬の喫茶店の路上前で、野田が拳銃で同じ山心会西条組の準幹部に撃たれた。野田はこの襲撃の後に死亡した。

 (2)、原因

  ・直接的な原因は、もともと野田組の縄張りであった店に西条組がルーレットをつけたことであるが、寄り合い所帯の山心会内で主導権を握っていた野田に対して、西条組が山心会の主導権を握ろうとしたことが主因である。

6、八組長同時昇格

 ・この後も内輪もめによる拳銃乱射事件が相次いだ。よって山口組本家は本部長・小田秀臣を岐阜に派遣し、昭和54年(1979)に二代目野田組組長・本田健二、近藤組組長・近藤慶文、足立会会長・足立哲雄、坂廣組組長・坂井廣、川合組組長・川合康允、中尾組組長・中尾春男、雄心会会長・後藤昭夫、則竹組組長・則竹武由を同時に三代目山口組直参に昇格させた。三代目山口組時代は、この8組長に中谷組組長・中谷利明を加えた9人が「岐阜九人衆」と呼ばれた。

7、現在

 ・引退や死亡が続き、「岐阜九人衆」で最後まで残ったのは川合組組長・川合康允であった。その川合も令和3年(2021)に逝去している。その後川合組を継承したのが、六代目山口組三代目弘道会若頭・野内正博率いる野内組で若頭を務める北村組組長・北村和博であった。なお、野内は則竹組出身である。

  cf.野内氏を10代の頃から知っているという西村まこさんによると、野内氏は立派な方で、現在の岐阜は野内組が仕切っているとおっしゃっています。



<参考文献>

 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
 『弘道会総覧』(竹書房、2004)


ヤクザ抗争史 山一抗争 山本広宅襲撃事件

1、意義

 ・昭和62年(1987)2月、山口組と一和会は抗争の「終結」を宣言した。しかし、竹中正久を射殺された竹中組は、山本広への攻撃をやめなかった。この事件は山一抗争の末期、現六代目山口組若頭補佐・安東美樹が山本広宅を襲撃し、その過程で警察官に銃撃をして重傷を負わせてしまった事件である。

2、準備

 (1)、人物

  ・当時の安東美樹は、竹中組内安東会の会長であった。ヤクザにしては珍しく物腰が柔らかく、謹厳なタイプであり、親分である竹中組組長・竹中武に心酔していた。

 (2)、準備

  ①、人員

   ・襲撃グループは、安東を含めて5人であった。竹中組と、竹中武と後藤忠政が仲がよかったことから、後藤組の者も参加した。

  ②、武器

   ・米国製の自動小銃M16や、その先端に差し込み、対戦車戦などに使うてき弾などを準備した。

  ③、訓練

   ・安東はフィリピンに5回ほど渡航し、拳銃や機関銃の射撃訓練を受けた。

  ④、計画

   ・まず安東ともう一人が山本広宅に詰める2人の警官にホールドアップし、スプレーで目つぶしをしたうえ、針金で縛りあげて自由を奪う。その後、屋外に1人だけ残し、4人が山本広宅に乱入し、山本広が家にいればこれを殺し、いなければ女と子どもは屋外に逃がした後に、山本広宅を爆破する、というものであった。

3、事件

 (1)、決行決定

  ・昭和62年(1987)5月13日、安東は山本広が在宅であるという情報を得た。よって、同年5月14日午前2時に決行することになった。

 (2)、逃走

  ・襲撃グループは5人であったが、決行となって1人が逃走してしまった。安東は残り4人で決行することを決定した。

 (3)、誤算

  ・襲撃グループは山本広宅へ自動車で向かった。山本広宅の前にはパトカーが停まっており、この中に警察官がいた。しかし、計画では警察官は2名だと思っていたが、1人警察官が遊びに来ており、パトカー内に警察官は3名いた。安東らは警察官は2名だと思っていたので、パトカーの窓越しに2名の警察官に向かって「手を挙げろ」と自動小銃を向けた時、もう1人の警察官が拳銃に手をかけ反撃しようとした。この時に、安東らは警察官が3名いたことに気が付いた。

 (4)、警察官への発砲

  ・安東は自動小銃やライフル銃など20数発を警察官に発砲し、2週間から5ヶ月の傷を負わせてた。

 (5)、山本広邸へてき弾を撃ち込む

  ・警察官が携帯無線機の非常スイッチを押していたので、応援の警察官が駆け付けるのは時間の問題であった。安東は、急いで自動小銃の先端にてき弾を差し込み、山本広宅へ撃ち込んだ。しかし、山本広宅には警察がネットを張っていたので、てき弾はネットに引っかかって地上に落ち爆発した。さらに、山本広邸の勝手口に消火器爆弾も仕掛けたが、これも発火薬部分だけが燃えたのみであった。

 (6)、茨城へ

  ・安東らはてき弾の爆発によって肩や膝を負傷した。この後、山口組系後藤組組員の支援で茨城県東茨城郡城北町の病院で肩や膝から金属片の摘出手術を受けた後、再び逃走した。

 (7)、逮捕

  ・昭和62年(1987)5月28日、兵庫県警は安東を爆発物取締法違反容疑で指名手配した。後、安東らは逮捕され、安東は懲役20年の刑に服した。

 (8)、影響

  ・安東の山本広邸襲撃事件の一週間後に、一和会本部長・松本勝美が引退と松美会の解散を表明した。

4、見方・評価

 (1)、山口組若頭・渡辺芳則

  ・渡辺は「こんなんは、実に非道なことですわ、往生してます」として、二代目山健組の組内に犯人がいないか調べさせた。そして、犯人に対しては「シャブをうってやったとしか思われへん。判断力がちょっとでもあれば、こんなことせぇへん。プラスになること、一つもあらへんやないの。マイナスばっかりや。やった人間にしたら人から恨まれたうえ、懲役に行かなしゃあない。それも間違いなく最高刑をくらうやろうね」と非難した。

 (2)、竹中組組長・竹中武

  ・竹中武は「この度の一件で世間はとやかく言っている様だが、評価などという問題は通り越しており、ヤクザとしてやられた事をして返すというだけの事。その目的達成の為には、わが命を捨て、手段を選ばずのみである。ただ、この度、犠牲になった三警官の方々には、本当に申し訳ないことをしたと思っている」とマスコミ宛てにコメントを出した。他方、渡辺芳則の「シャブうってやったとしか思われへん。プラスになること、一つもあらへんやないの」という発言には、「これから上に立とうという人間が、組のためを思う若い者の気持ちを買ってやれんでどうするかい。」と激しく反発し、「山口組に迷惑をかけるようやったら、山口組をでてもいい」という意向を漏らし、安東をかばい事件に準ずる姿勢を示した。のちに、渡辺芳則が山口組五代目を継承したときに、竹中武が盃を飲まなかった遠因ともなった。

  cf.なお、渡辺氏を擁護すると、元山口組顧問弁護士の山之内幸夫氏は、渡辺氏はヤクザ的な人(自分のせいで人が死んでもあまり気にしない人、くよくよせずに開き直れる人)ではなく一般人の優しい感覚を持っている人であるとされます。



5、その後の安東美樹
 
 (1)、一心会へ

  ・安東は、竹中組や武組長へ捜査が及ばないように竹中組を脱退し、四代目山口組若頭補佐の一心会会長・桂木正夫の舎弟盃をうけて、一心会へ移籍した。

 (2)、収監中
   
  ・安東は、懲役20年で懲役生活を送っている時も、四代目山口組組長・竹中正久を襲撃した実行犯を殴りかかる騒動を起こした。

 (3)、六代目山口組最高幹部へ

  ①、社会復帰

   ・安東は、平成23年(2011)の出所し、三代目一心会副会長、若頭代行を歴任し、平成26年(2014)に初代柴田会会長・柴田健吾の跡目として、二代目柴田会を襲名し、六代目山口組の直参となった。

  ②、二代目竹中組組長へ
   
   ・平成27年(2015)に安東は六代目山口組の幹部となり、さらに二代目柴田会を二代目竹中組に改称した。

 (4)、古川恵一幹部射殺事件と養子縁組

  ①、古川恵一幹部射殺事件

   ・令和元年(2019)11月、神戸山口組幹部で三代目古川組総裁の古川恵一が、元六代目山口組二代目竹中組組員・朝比奈久徳に自動小銃で射殺された。朝比奈はこの事件の1年前に二代目竹中組を破門されていた。

  ②、養子縁組

   ・令和3年(2021)2月19日、神戸地裁は朝比奈に無期懲役を言い渡した。朝比奈は控訴した。この後朝比奈は安東と養子縁組をし、安東久徳となった。かつて安東も山広邸を襲撃しジギリをかけたが、渡辺に「シャブをうってやったとしか思われへん」と言われ悲しい思いをしたことから、朝比奈(現安東)を支えるために養子縁組をしたと思われる。

6、映像

 (1)、武闘派極道史竹中組組長邸襲撃事件

  ・家にこもる山城剛志(モデルは山本広)とそれを襲撃しようとする安藤英樹(モデルは安東美樹)を中心として、赤坂進射殺事件、脱会強要射殺事件、竹中正久の墓前での竹中組員の射殺事件、中川宣治射殺事件、中野会の砂子川組への誤射事件、加茂田重政の引退など竹中正久射殺事件後の竹中組の返しを描いている作品です。変に美化するのではなく、山城邸襲撃メンバーの1人が途中で逃げ出したことであるとか、張り付け警備の警官が2名だと思っていたのが3名で狼狽するところであるとか、扉を爆弾で爆破して開けようとしたら不発であったところであるとか、敵弾が警察が山城邸に張った防護ネットに跳ね返って逆に撃った側が怪我をするところとか、ちょっと情けない場面がありのままに描いていて、そこが逆にリアル感があります。竹中組組長・竹中武氏は、兄である四代目山口組組長・竹中正久氏の生涯を描いた『荒ぶる獅子』(溝口敦、講談社、1999)の中で、「この本は兄のいいことも悪いことも、恥ずかしい時代のことも含めて、ありのままに記している。誰でも恥ずかしい時代、苦しい時代をくぐり抜けている。それを忘れて、いいこと、ウソばかり書いている本には値打ちがない」という解説を書いていますが、竹中武氏の恥ずかしい所も含めてありのままに描く手法が成功していると思います。

<参考文献>

 『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)

ヤクザ抗争史 六神抗争 「脱税」vs「失踪事件」

1、神戸山口組の結成

 (1)、意義

  ・平成27年(2015)8月27日、直系組長13人が六代目山口組を離脱して、神戸山口組を結成した。構成員は約3000人(離脱後の六代目山口組は約7000人)で、本拠地は兵庫県淡路市の侠友会本部に置かれた。

 (2)、人事

  ・組長に四代目山健組組長・井上邦雄氏、若頭に侠道会会長・寺岡修氏、若頭補佐に二代目黒誠会会長・ 剣政和氏と織田絆誠氏、副組長に二代目宅見組組長・入江禎氏、総本部長に正木組組長・正木年男氏、本部長に毛利組組長・毛利善長氏、舎弟頭に池田組組長・池田孝志氏、舎弟に二代目松下組組長・岡本久男氏と二代目西脇組組長・宮下和美氏、顧問に奥浦組組長・奥浦清司氏、若中に四代目真鍋組組長・池田幸治氏と雄成会会長・高橋久男氏と大志会会長・清崎達也氏という布陣となった。

2、抗争の特徴

 (1)、法律の規制の強化

  ・山一抗争時と比べると、相次ぐ暴対法の改正と使用者責任規定の新設、組織犯罪処罰法の新設、刑法の共謀共同正犯のヤクザへの適用強化など、法律の規制が断然に厳しくなった。よって、物理的な暴力ではなく経済戦になることが予想された。六代目山口組時代に総本部長で「金庫番」であった入江氏が握る金の流れのデータによって六代目山口組組長・司忍氏が脱税で検挙されるのではないか、山口組総本部の土地を所有している株式会社山輝の株式を持つ神戸山口組の組長達が、株主権を行使して山口組総本部を使用できなくするのではないか、他方神戸山口組については、平成25年(2013)に京都市で消費者金融を営む男性が失踪じた事件で神戸山口組幹部が逮捕されるのではないかといったような憶測が飛び交った。

 (2)、「逆盃」

   ・山一抗争時、一和会へ移った組長たちは、四代目山口組組長・竹中正久氏の盃を受けていなかった。しかし、神戸山口組へ移った組長たちは、司氏の盃を受けていた。ヤクザの世界で「逆盃」をした組織は、他組織から認めてもられない。よって井上氏と兄弟分の浪川睦会会長・浪川政浩氏、九代目酒梅組組長・吉村光男氏、さらに山健組傘下の健竜会で井上氏の先代にあたる山本一廣氏と兄弟分でその後も親しく付き合っていた住吉会幸平一家十三代目総長・加藤英幸氏、寺岡氏と兄弟分の三代目侠道会会長・池澤望氏との縁から他組織との関係を構築していった。

3、分裂時の懸念

 (1)、山健組の派閥問題

  ①、意義

   ・分裂前、池田孝志(池田組)氏は「花隈(注山健組)は一つにまとまっとんか」「まとまってなかったら、我々は花隈にもたれていかんと無理や。花隈がまとまっとらんかったら、あかん。イーさん(注井上邦雄氏)、ちゃんとまとめてくれてんのか」と懸念したという。また、分裂直後も六代目山口組直参組長は「跡目を譲りたくても、派閥争いが激しくてできない。井上さんだからみんなついてきているが、他の幹部が跡目になれば盃を飲まないヤツが出てくる。盃がなくなったらバラバラになるから、井上さんは四代目を降りられず、神戸山口組の組長と兼任している」と山健組の派閥問題を見透かしていた。実際、全国を回って示威行動をしていた織田氏に対して、「織田がいる以上、俺たちは動かない」と言う山健組幹部も結構いたという。

  ②、補足

   ・平成30年(2018)度の太田興業納会の動画で、山健組出身の神戸山口組太田興業会長・太田守正氏は「今の太田興業が和気あいあいで、いい雰囲気で、今日まで来ていると思います。誰がそしり合うことなく、よその所の組でも大きくなっていくと派閥とかいろんなのがあるんですよね。今の太田興業に関しては今私が見る限りではそういうことが一切ないし、みな和気あいあいでほんまに私もありがたく思っております」と発言されていますが、長く山健組の派閥抗争を見てきたからなのでしょう。


 (2)、二代目宅見組の謎

  ①、意義

   ・山健組が出身母体の中野会が宅見組組長・宅見勝氏を射殺した。さらに、『悲憤』によると中野会に宅見氏射殺を命じたのは、山健組が出身母体の五代目山口組組長・渡辺芳則氏であるという。一方、六代目山口組組長・司氏は、二代目宅見組組長・入江氏に目をかけ、ナンバー3の総本部長まで引き上げた。警察も入江氏は「六代目体制と運命共同体」と分析しており、二代目宅見組が神戸山口組へ移籍したことは、驚きをもって受け止められた。

  ②、経緯

   ・池田幸治(真鍋組)氏によると、池田孝志(池田組)氏が分裂計画に参加する条件として、入江氏が計画に乗ることを求めた。慎重な性格の入江氏への説得は、井上氏、寺岡氏、剣氏、池田幸治(真鍋組)氏があたった。最終的に入江氏は、「本当に山口組のためやな。若いもんの未来のためやな」と計画に乗ることを決意した。最初は入江氏を神輿に担ごうとしたが、入江氏は井上氏を担ごうと主張し、井上氏は「わかりました。お受けします。ただし最初の五年間は入江の舎弟頭の言うた通りにします」と約した。

 (3)、寺岡氏がいる問題

  ①、意義

   ・寺岡氏は、献身的に組織に尽くし、また若い衆を大切にすることからヤクザとしての評価が高かった。分裂前も警察から「若頭補佐クラスで根性ありそうなのは寺岡修くらいだろう。他の補佐クラスはどうってことない」と評され、六代目山口組若頭・髙山清司氏からも「寺岡は人たらし、気をつけよ」と警戒されていた。分裂時に六代目山口組幹部は神戸山口組メンバーに寺岡氏がいたことについて「これは六代目側にとって大きな損失だ」と嘆いたという。

  ②、寺岡氏の献身

   ・寺岡氏は、損と分かっていながらも自身が率いる俠友会の淡路島にある本部建物を神戸山口組本部に提供した。その後、本部の使用差し止めの仮処分が神戸地裁により出されると、神戸市内の中心部に新たな本部事務所を用意した。この時に、虚偽登記をしたということで電磁的公正証書原本不実記録・同供用の疑いで逮捕もされている。また、神戸山口組の直参が逮捕起訴されると、こまめに拘置所を訪問して面会して励ましていた。

4、六代目山口組の対応

 (1)、絶縁破門

  ・六代目山口組執行部は、井上、寺岡、入江、池田孝志、正木各組長を絶縁、剣、池田幸治、宮下、岡本、毛利、奥浦、高橋、清崎各組長を破門の処分を下した。

 (2)、正統性のアピール

  ①、歴史的正統性

   ・六代目山口組は、神戸山口組の出現に対して、自らの正統性をアピールした。歴史的な正統性としては、先人組長のお墓参りをしたり、安東美樹氏率いる二代目柴田会を二代目竹中組と改称し、四代目山口組組長・竹中正久氏の出身母体である竹中組を復活させたりした。

  ②、他組織からの承認

   ・神戸山口組の初会合には、住吉会幸平一家十三代目総長・加藤英幸氏が訪問したのに対して、六代目山口組の会合には、稲川会の幹部が総勢15名で、住吉会会長・関功氏を含む幹部が十数名で訪問をした。

5、「脱税」vs「失踪事件」

 (1)、「脱税」(神戸山口組→六代目山口組)

  ①、意義

   ア)、福岡方式

    ・福岡県警は、平成27年(2015)6月に所得税法違反容疑で工藤會総裁・野村悟氏を逮捕した。ヤクザ組織は自治会などと同じく「任意団体」であり、税法上「任意団体」の運営のために集められた会費は非課税とされるので、ヤクザ組織の上納金も非課税とされてきた。しかし、工藤會の場合は、上納金の入出金記録についての詳細なメモが発見され、これによって上納金のいくらが野村氏個人に渡り、その中のいくらが野村氏の「個人所得」と認定できるのかを明らかにすることができたので、野村氏の逮捕へとつながった。

   イ)、脱税で告発

    ・六代目山口組時代、入江氏は総務全般と取り仕切る「総本部長」、毛利氏は「総本部事務局長」、剣氏は「事務局次長」であり、六代目山口組の財務状況に精通していた。よって、六代目山口組の金の流れを熟知したこれらの面々によって、司氏が脱税で告発されるのではないかという噂が流れた。

  ②、「脱税」で告発されず

   ・結局、司氏は脱税で告発されなかった。その最大の理由は国税庁であった。国税庁は「脱税=所得税法違反の立件は国税当局の縄張りである」という意識が強く、工藤會を福岡県警が所得税法違反で捜索したときも、国税庁は警察庁に猛反発をした。この時に警察庁は国税庁との間で「警察が主体となった脱税捜査は今回限り」という合意が形成されており、警察が脱税で動くことは困難な状態であった。

 (2)、「失踪事件」(六代目山口組→神戸山口組)

  ①、京都金融会社社長失踪事件

   ・平成25年(2013)3月末、京都で不動産会社「鳳産業」や、消費者金融会社「鳳」を経営している70代の男性が行方不明となった。平成26年(2014)に京都府警は、京都の裏社会では有名な金融業者と山健組の企業舎弟を事情を知っているとして逮捕したが、結局分からずじまいで終わった。

  ②、弘道会のタレコミ

   ・山口組分裂後、この事件に関する情報が弘道会関係者から京都府警に頻繁に寄せられるようになった。弘道会はこの事件を京都府警に捜査させて、山健組を崩壊させようという戦略であった。

  ③、「失踪事件」で逮捕されず

   ・京都府警は、平成29年(2017)11月に「鳳」経営者の男性と借金のトラブルになっていた織田氏の自宅と二代目織田興業事務所を家宅捜索し、さらに翌平成30年(2018)12月には長野県内の産業廃棄物処分場も家宅捜索したが、結局織田氏が逮捕されることはなかった。

<参考文献>

『山口組 分裂抗争の全内幕』(西岡研介他、宝島社、2016)
『山口組三国志 織田絆誠という男』(溝口敦、講談社、2017)
『悲憤』(中野太郎、宮崎学、講談社、2018)
「社長不明で産廃処分場を捜索 京都府警、監禁致死容疑」(産経WEST20181208)
「消費者金融社長、4年前から行方不明に 京都府警が逮捕監禁容疑で暴力団事務所など捜索」(産経WEST20171111)
「神戸山口組に最後まで残った寺岡修若頭、献身と誤算と忍耐の晩節」(柳沢十三、実話文化タブー、20201127)
「溝口敦が斬る 山口組内乱の実相」(溝口敦、WEDGE Infinity. 20150907)
「「銃声なき抗争」分裂山口組繰り広げられる暗闘の真相(1)総本部「乗っ取り情報」」(産経新聞20151103)



ヤクザ抗争史 北関東抗争(栃木抗争)

1、抗争

 平成15年(2003) 栃木県 五代目山口組弘道会東海興業大栗組vs住吉会住吉一家親和会

2、大栗組の山口組入り

 (1)、四ツ木斎場事件による宇都宮の新秩序形成

  ・平成13年(2001)、四ツ木斎場事件が起こり、宇都宮を縄張りとしていた稲川会大前田一家は名跡抹消の上で解散となった。その後宇都宮駅東口は、親和会傘下の栃木一家、羽黒一家、勘助十三代目、矢畑一家の四組織が四社会を結成して縄張りとした。

   参考)、ヤクザ抗争史 四ツ木斎場事件

 (2)、大栗組の山口組入り

  ・宇都宮の拠点を置く大栗組は、東京のテキヤ組織に所属するテキヤであったので、親和会との間でトラブルは起こっていなかった。しかし、1990年代後半に五代目山口組弘道会東海興業入りしたことによって、宇都宮に緊張が生まれるようになった。

3、小競り合い

 (1)、トラック特攻事件(親和会田野七代目→弘道会東海興業大栗組)

  ・縄張り内に山口組系組織の事務所があるのは問題があるとして、田野七代目は大栗組の事務所にトラックを突っ込ませた。

 (2)、事実上の黙認

  ・弘道会側は手打ちを申し入れたが、田野七代目はこれを拒否した。大栗組の事務所は山口組の「連絡所」ということで事実上黙認されることとなったが、この後も、親和会系組織と大栗組の小競り合いは続いた。

4、大抗争の始まり

 (1)、はじまり(親和会田野七代目→弘道会東海興業大栗組)

  ・栃木県内の運転代行業の利権などをめぐり両組織の緊張関係が高まり、平成15年(2003)4月18日、大栗組の組事務所に、田野七代目組員が大型保冷車で突っ込んだ。

 (2)、弘道会の猛攻(弘道会→親和会)

  ①、意義

   ・弘道会は情報収集能力が高く、対立組織に対しては、そのフロント企業、幹部らの自宅住所、携帯番号、愛人宅、行きつけの飲食店まで徹底的に調べ上げるという。弘道会は最初の田野七代目とのトラブルが起こったあたりからすでに情報収集を始めていたようであり、この情報によって、大型保冷車の特攻事件から即座に、親和会系の組事務所だけでなく、組関係者が経営する店、さらには組幹部の殺害までを誤射なくたった3日間で行った。

  ②、田野七代目事務所銃撃事件

   ・保冷車の特攻から30分後の午前4時過ぎ、田野七代目組事務所に十数発が撃ち込まれた。この後すぐに、親和会は運転代行業者の大栗組関係者の自動車がバッドで襲った。

  ③、光京睦会幹部射殺事件

   ・同年4月19日、群馬県で光京睦会幹部で西田組組長・西田孝雄が射殺された。その後2日後、親和会は10トンダンプで大栗組事務所へ突入し、二度目の大栗組事務所襲撃を行った。

  ④、田野七代目幹部射殺事件

   ・同年4月21日、田野七代目幹部・関谷弘美が射殺された。

5、「組事務所の使用制限」の仮命令

 ・抗争の激化に、栃木県警は大栗組事務所と田野七代目事務所に、宮城県警は大栗組の上部団体である東海興業の組事務所に、暴対法に基づく「組事務所の使用制限」の仮命令を出した。これによって、一旦抗争は沈静化した。

6、弘道会本部への襲撃(親和会→弘道会)

 ・親和会は、警察の規制が厳しい地元栃木ではなく、東海興業や大栗組の上部組織である弘道会の膝下である名古屋での返しを企図した。平成15年(2003)5月5日、弘道会司龍興業ビル前で弘道会系組員が銃撃され、重傷を負った。

7、弘道会のさらなる猛攻(弘道会→親和会)

 (1)、光京睦会特別相談役射殺事件

  ・弘道会はすぐに返しをした。同年5月5日、栃木県佐野市の親和会光京睦会の組事務所に男が押し入り、事務所内にいた光京睦会特別相談役・野沢昇平と同会系鈴木組組員が射殺された。

 (2)、下馬一家事務所襲撃事件

  ・同日、親和会下馬一家の組事務所が襲撃され、警戒中の組員が撃たれて重傷を負った。

 (3)、樺山組組員射殺事件

  ・同年5月14日、栃木県栃木市にある栃木女子高校前で、親和会系樺山組組員が射殺された。

8、「組事務所の使用制限」の仮命令・本命令

 ・抗争の激化に、愛知県警が弘道会本部事務所に、栃木県警が親和会本部事務所と親和会光京睦会総本部事務所に暴対法に基づく「組事務所の使用制限」の仮命令を出した。さらに、東海興業と大栗組、田野七代目の各事務所へは「組事務所の使用制限」の本命令が出された。

9、親和会の返し(親和会→弘道会)

 ・同年5月15日には山形で弘道会系組員が銃撃され重傷を負い、19日には福島で同じく弘道会系組員が銃撃され軽傷を負い、20日には再び山形で弘道会高橋興業の事務所に銃弾が撃ち込まれ、23日には仙台で弘道会高橋興業幹部の自宅前で鉄パイプ爆弾が爆破された。

10、和解

 (1)、山口組vs住吉会の全面抗争は防がれる

  ・弘道会と親和会の両トップは、山口組と住吉会の要職についていたことから、山口組と住吉会の全面抗争に発展することが懸念されたが、弘道会会長・司忍は裁判中であり、また親和会会長・小松澤英雄は「前橋スナック銃乱射事件」で警察の徹底取り締まり対象となっていたために、大抗争となることは防がれた。

 (2)、和解

  ・同年6月12日、東京都内のホテルで双方の最高幹部が話し合って抗争終結に合意し、和解が成立した。体裁としては弘道会が親和会に謝罪をし、大栗組は看板を下ろすこととなったが、わずか2か月で親和会系組員5人の命を誤射なく奪った弘道会の恐ろしさを関東のヤクザ組織に植え付けることとなった。なお、大栗組は平成17年(2005)年頃に大道興業として復活し、現在は弘道会の直参団体である。

<参考文献>

『山口組分裂抗争の全内幕』(西岡研介他、宝島社、2016)
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『山口組vs関東ヤクザ』(土井泰昭、笠倉出版社、2014)

ヤクザ抗争史 山一抗争 ハワイ事件

1、意義

 (1)、竹中正久射殺事件

  ・昭和60年(1985)1月26日、山一抗争の最中、四代目山口組組長・竹中正久は、愛人が住む大阪府吹田市にある「GSハイム第二江坂」で、ボディーガードをしていた若頭の中山勝正と若衆の南力とともに、一和会山広組のヒットマンの銃撃をうけ、翌日の1月27日に亡くなった。享年51歳。竹中正久は8男5女の兄弟がいたが、このうちヤクザとなったのは、三男正久のほかにも、四男英男、五男正(まさし)、六男修、八男武であった。竹中組は竹中武が継承し、竹中正は竹中組の相談役に収まった。

 (2)、竹中組の報復を防ぐ

  ・警察は竹中組の報復を警戒した。昭和60年(1985)2月1日、竹中武を警察は野球賭博の容疑で逮捕した。竹中武はこの後、1年5ヶ月の間長期勾留され、裁判の結果は無罪であった。警察側が竹中武を社会不在にして報復を防ぐ目的での逮捕であったといえる。他方、竹中正が社会不在となったのが、このハワイ事件であった。

2、経過

 (1)、ヒロ佐々木と竹中正の出会い

  ・竹中正は、マイケル・ジャクソンの日本公演に関心を持っていた。アメリカ連邦麻薬取締局の秘密エージェントでハワイ在住のプロレスラー・ヒロ佐々木は、この竹中正の意向を知り、これを利用しようと考えた。昭和60年(1985)1月13日、竹中正とヒロ佐々木は神戸で会い、ヒロ佐々木がマイケル・ジャクソンの日本公演を請け負うこととなった。この時、ヒロ佐々木はハワイのマフィアであるジョン・リー一家に籍を置いていると自己紹介をした。

 (2)、金をつぎ込む竹中正

  ・竹中正はこれに大いに喜び、ヒロ佐々木へ保証金や謝礼金名目で数億円支払った。また、昭和60年(1985)5月12日、ハワイに飛んで、公演料4億円とするニセの基本契約書まで締結した。さらに、昭和60年(1985)5月24日、竹中正はヒロ佐々木から160万ドル(4億円)を送金するように求められ、この送金が遅れたとしてさらに80万ドル(8000万円)を詐取された。

 (3)、武器を見せられる

  ・昭和60年(1985)1月15日、ヒロ佐々木はワイキキのホテルに竹中正を誘い、米陸軍から借り出した拳銃や機関銃を見せた。山一抗争の最中であったので、竹中正はこれを喜んだが、この姿が隠しビデオで盗撮された。

 (4)、ハワイに招かれる

  ・昭和60年(1985)8月末、「ジョン・リー一家結成二十五周年記念パーティー」の招待状が山口組の主だった幹部あてに送られた。これは大阪空港で局止めになって幹部達の手には届かなかったが、竹中正と四代目織田組組長・織田譲二が引っ掛かり、ハワイへと渡ってしまった。

 (5)、逮捕

  ・竹中正、織田その他一名は、殺された竹中四代目の報復として、一和会会長・山本広らを殺害するために、ハワイで米国の犯罪グループ(実はアメリカ連邦麻薬取締局のオトリ捜査官が扮するマフィア「ジョン・リー一家」)と接触し、「ロケット砲を操作できる男を探してくれ」と頼み、報酬として5万ドルの支払いを申し出たなど、昭和60年(1985)9月、ロケット砲など密輸未遂、麻薬不正取引き、殺人教唆など19件の組織犯罪防止法、麻薬、銃器取締法の各違反、殺人謀議罪の疑いで逮捕され、オアフ刑務所に拘置された。

 (6)、裁判

  ・織田は司法取引をしようとしたが、竹中正は竹中組関係者らしく司法と妥協はしたくないということで、最後まで争った。ヒロ佐々木がハワイではものすごく評判が悪かったこと、日本側から山口組顧問弁護士・山之内幸夫が頻繁にハワイにかけつけたこと、陪審員を買収したことから、竹中正と織田は無罪を獲得し、昭和61年(1986)4月に帰国した。

3、警察の関与
  
 ・ヒロ佐々木は兵庫県警に一連の経過を通報していた。その結果、昭和60年(1985)8月末、山本広宅にロケット砲が撃ち込まれても大丈夫なように防御ネットが張られた。

<参考文献>

『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
Youtube動画「HOMIE KEI 竹中組 五兄弟」
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