1、稲川組と芳浜会(よしはまかい)の抗争事件
(1)、昭和30年代の岐阜
・昭和30年代頃の岐阜は、博徒池田一家の大幹部・坂東光弘と、的屋芳浜会菊田派・菊田吉彦、同会杉本派・杉本重太、瀬古安会・安璋煥(しょうかん、鈴木康雄)が対立していた。
(2)、坂東の稲川組入り
・昭和36年(1961)、坂東が稲川組林一家総長・林喜一郎の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任した。
(3)、坂東光弘射殺事件(芳浜会→稲川組)
・昭和37年(1962)、タクシーで移動中の板東が芳浜会杉本派の組員に射殺された。この組員はすぐに岐阜中警察署に自首した。
(4)、和解の成立
・坂東が芳浜会組員に射殺された報を聞いた稲川組は、林をはじめ横須賀一家総長・石井隆匡など約200人を岐阜に結集させた。他方、芳浜会も約300人ほどが集結しこれに対峙した。林は芳浜会会長・西松政一が謝罪に来ることをもとめ、西松もこれに応じたことから、稲川組と芳浜会の抗争は和解が成立した。
2、岐阜抗争
(1)、林の舎弟へ
・昭和37年(1962)、菊田と安は、林の舎弟になりたい旨を申し入れ、林はこれを受け入れた。
(2)、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟へ
・同じころ菊田と安は、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟にもなった。これに林は激怒し、菊田と安の殺害を指示した。しかし、菊田と安の所在がつかめなかったことから、標的は芳浜会菊田一家幹部・足立哲雄となった。
(3)、足立哲雄襲撃事件(鶴政会→芳浜会)
・昭和37年(1962)、足立が運転中に林の若衆達に襲撃され、足立は重傷を負った。
(4)、和解の成立
・足立襲撃犯は大垣警察署に自首し、菊田・安と林は手打ちが成立した。この後、林は岐阜県に林一家を置くことを承認させた。
3、菊田・安の三代目山口組入り
(1)、地道組入り
・昭和30年代後半から始まった鶴政会(錦政会)の岐阜進出に対して、菊田・安は昭和38年(1963)に三代目山口組若頭・地道行雄から舎弟盃を受け、地道組へと加入した。
(2)、直系組織へ
・昭和45年(1970)、両組織は山口組直系組織に昇格した。中京地区屈指の繁華街である柳ケ瀬をはじめとして、両組織は岐阜県下に勢力を拡大していった。
4、組長追放事件
(1)、原因
・昭和53年(1978)、菊田は総工費1億数千万円の鉄筋五階建ての豪華な自宅兼事務所を新築し、新築祝儀を傘下の組長らに強制的に上納させようとした。また安も、会長宅の新築に際して、建築費のほとんどを傘下の組長らに割り当て、上納させた。以前から高額の上納金に不満を持っていた両組織傘下組長達はこれに反発し、上部団体である山口組本部に直訴をした。
(2)、クーデターではないアピール
・両組織傘下の組長達は、決して山口組に対してクーデターを起こしたわけではなく、菊田と安に対する不満であることをアピールする必要があった。当時の山口組は大阪戦争の最中であったので、山口組に忠誠を示すために、菊田組と瀬古安会から脱退した組員が松田組組長・樫忠義宅へ銃撃をする発砲事件を起こした。
(3)、組長追放
・当時若頭であった山本健一は両組織傘下組長と直接会って事情を聞いた上で、菊田と安を「統率力なし」として除籍処分とした。
(4)、山心会の結成
・その後、瀬古安会は副会長であった野田弘治が野田組を結成し、菊田組は舎弟頭であった近藤慶文が近藤組を結成した。そしてこのような旧瀬古安会と旧菊田組の幹部9人が集まって、昭和53年(1978)に「山心会」を結成され、本部預かりとなった。組織運営は、合議制であった。
5、野口組長射殺事件
(1)、意義
・「山心会」は寄り合い世帯ということもあって内部対立が絶えなかった。昭和54年(1979)、柳ヶ瀬の喫茶店の路上前で、野田が拳銃で同じ山心会西条組の準幹部に撃たれた。野田はこの襲撃の後に死亡した。
(2)、原因
・直接的な原因は、もともと野田組の縄張りであった店に西条組がルーレットをつけたことであるが、寄り合い所帯の山心会内で主導権を握っていた野田に対して、西条組が山心会の主導権を握ろうとしたことが主因である。
6、八組長同時昇格
・この後も内輪もめによる拳銃乱射事件が相次いだ。よって山口組本家は本部長・小田秀臣を岐阜に派遣し、昭和54年(1979)に二代目野田組組長・本田健二、近藤組組長・近藤慶文、足立会会長・足立哲雄、坂廣組組長・坂井廣、川合組組長・川合康允、中尾組組長・中尾春男、雄心会会長・後藤昭夫、則竹組組長・則竹武由を同時に三代目山口組直参に昇格させた。三代目山口組時代は、この8組長に中谷組組長・中谷利明を加えた9人が「岐阜九人衆」と呼ばれた。
7、現在
・引退や死亡が続き、「岐阜九人衆」で最後まで残ったのは川合組組長・川合康允であった。その川合も令和3年(2021)に逝去している。その後川合組を継承したのが、六代目山口組三代目弘道会若頭・野内正博率いる野内組で若頭を務める北村組組長・北村和博であった。なお、野内は則竹組出身である。
cf.野内氏を10代の頃から知っているという西村まこさんによると、野内氏は立派な方で、現在の岐阜は野内組が仕切っているとおっしゃっています。
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『弘道会総覧』(竹書房、2004)
(1)、昭和30年代の岐阜
・昭和30年代頃の岐阜は、博徒池田一家の大幹部・坂東光弘と、的屋芳浜会菊田派・菊田吉彦、同会杉本派・杉本重太、瀬古安会・安璋煥(しょうかん、鈴木康雄)が対立していた。
(2)、坂東の稲川組入り
・昭和36年(1961)、坂東が稲川組林一家総長・林喜一郎の傘下となり、稲川組岐阜支部長に就任した。
(3)、坂東光弘射殺事件(芳浜会→稲川組)
・昭和37年(1962)、タクシーで移動中の板東が芳浜会杉本派の組員に射殺された。この組員はすぐに岐阜中警察署に自首した。
(4)、和解の成立
・坂東が芳浜会組員に射殺された報を聞いた稲川組は、林をはじめ横須賀一家総長・石井隆匡など約200人を岐阜に結集させた。他方、芳浜会も約300人ほどが集結しこれに対峙した。林は芳浜会会長・西松政一が謝罪に来ることをもとめ、西松もこれに応じたことから、稲川組と芳浜会の抗争は和解が成立した。
2、岐阜抗争
(1)、林の舎弟へ
・昭和37年(1962)、菊田と安は、林の舎弟になりたい旨を申し入れ、林はこれを受け入れた。
(2)、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟へ
・同じころ菊田と安は、三代目山口組若頭・地道行雄の舎弟にもなった。これに林は激怒し、菊田と安の殺害を指示した。しかし、菊田と安の所在がつかめなかったことから、標的は芳浜会菊田一家幹部・足立哲雄となった。
(3)、足立哲雄襲撃事件(鶴政会→芳浜会)
・昭和37年(1962)、足立が運転中に林の若衆達に襲撃され、足立は重傷を負った。
(4)、和解の成立
・足立襲撃犯は大垣警察署に自首し、菊田・安と林は手打ちが成立した。この後、林は岐阜県に林一家を置くことを承認させた。
3、菊田・安の三代目山口組入り
(1)、地道組入り
・昭和30年代後半から始まった鶴政会(錦政会)の岐阜進出に対して、菊田・安は昭和38年(1963)に三代目山口組若頭・地道行雄から舎弟盃を受け、地道組へと加入した。
(2)、直系組織へ
・昭和45年(1970)、両組織は山口組直系組織に昇格した。中京地区屈指の繁華街である柳ケ瀬をはじめとして、両組織は岐阜県下に勢力を拡大していった。
4、組長追放事件
(1)、原因
・昭和53年(1978)、菊田は総工費1億数千万円の鉄筋五階建ての豪華な自宅兼事務所を新築し、新築祝儀を傘下の組長らに強制的に上納させようとした。また安も、会長宅の新築に際して、建築費のほとんどを傘下の組長らに割り当て、上納させた。以前から高額の上納金に不満を持っていた両組織傘下組長達はこれに反発し、上部団体である山口組本部に直訴をした。
(2)、クーデターではないアピール
・両組織傘下の組長達は、決して山口組に対してクーデターを起こしたわけではなく、菊田と安に対する不満であることをアピールする必要があった。当時の山口組は大阪戦争の最中であったので、山口組に忠誠を示すために、菊田組と瀬古安会から脱退した組員が松田組組長・樫忠義宅へ銃撃をする発砲事件を起こした。
(3)、組長追放
・当時若頭であった山本健一は両組織傘下組長と直接会って事情を聞いた上で、菊田と安を「統率力なし」として除籍処分とした。
(4)、山心会の結成
・その後、瀬古安会は副会長であった野田弘治が野田組を結成し、菊田組は舎弟頭であった近藤慶文が近藤組を結成した。そしてこのような旧瀬古安会と旧菊田組の幹部9人が集まって、昭和53年(1978)に「山心会」を結成され、本部預かりとなった。組織運営は、合議制であった。
5、野口組長射殺事件
(1)、意義
・「山心会」は寄り合い世帯ということもあって内部対立が絶えなかった。昭和54年(1979)、柳ヶ瀬の喫茶店の路上前で、野田が拳銃で同じ山心会西条組の準幹部に撃たれた。野田はこの襲撃の後に死亡した。
(2)、原因
・直接的な原因は、もともと野田組の縄張りであった店に西条組がルーレットをつけたことであるが、寄り合い所帯の山心会内で主導権を握っていた野田に対して、西条組が山心会の主導権を握ろうとしたことが主因である。
6、八組長同時昇格
・この後も内輪もめによる拳銃乱射事件が相次いだ。よって山口組本家は本部長・小田秀臣を岐阜に派遣し、昭和54年(1979)に二代目野田組組長・本田健二、近藤組組長・近藤慶文、足立会会長・足立哲雄、坂廣組組長・坂井廣、川合組組長・川合康允、中尾組組長・中尾春男、雄心会会長・後藤昭夫、則竹組組長・則竹武由を同時に三代目山口組直参に昇格させた。三代目山口組時代は、この8組長に中谷組組長・中谷利明を加えた9人が「岐阜九人衆」と呼ばれた。
7、現在
・引退や死亡が続き、「岐阜九人衆」で最後まで残ったのは川合組組長・川合康允であった。その川合も令和3年(2021)に逝去している。その後川合組を継承したのが、六代目山口組三代目弘道会若頭・野内正博率いる野内組で若頭を務める北村組組長・北村和博であった。なお、野内は則竹組出身である。
cf.野内氏を10代の頃から知っているという西村まこさんによると、野内氏は立派な方で、現在の岐阜は野内組が仕切っているとおっしゃっています。
<参考文献>
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『弘道会総覧』(竹書房、2004)