1、出生
(1)、出生
・昭和11年(1936)、洋裁店を営む宅見春一、閑子の三男として神戸に生まれた。宅見の他に4人兄弟がいたが、ヤクザになったのは宅見のみである。宅見が小学1年生の頃に父春一が亡くなったので、閑子と4人の兄弟たちは閑子の実家である香川県大野村へ疎開した。宅見家は貧しかった。
(2)、青少年期
・終戦後、宅見が中学2年生の時に、母の閑子も亡くなり、宅見は伯母方へ引き取られた。宅見は優秀であり、進学校で知られる大阪府立高津高校に進むが、昭和28年(1953)に誰にも相談せずに中退してしまった。
2、渡世入り
(1)、和歌山へ
・宅見は、知人の紹介で、和歌山市中ノ島の遊郭で働きだした(バーのマネージャーとして働いていたという説もある)。ここで、宅見は晴子と出会った。晴子の家は堅気の家であったことから、宅見との交際を禁止され、昭和30年(1955)、宅見と晴子は駆け落ち同然で大阪へと移った。
(2)、青少年期
・終戦後、宅見が中学2年生の時に、母の閑子も亡くなり、宅見は伯母方へ引き取られた。宅見は優秀であり、進学校で知られる大阪府立高津高校に進むが、昭和28年(1953)に誰にも相談せずに中退してしまった。
2、渡世入り
(1)、和歌山へ
・宅見は、知人の紹介で、和歌山市中ノ島の遊郭で働きだした(バーのマネージャーとして働いていたという説もある)。ここで、宅見は晴子と出会った。晴子の家は堅気の家であったことから、宅見との交際を禁止され、昭和30年(1955)、宅見と晴子は駆け落ち同然で大阪へと移った。
(2)、渡世入り
①、渡世入り
・大阪で宅見は定職のない日々を過ごしていた。宅見のアパートの近くに土井組系川北組の組事務所があった事から、宅見は同組幹部・岩名威郎と懇意となり、岩名の誘いで、土井組系川北組組長と盃をかわして若い衆となった。
②、南大阪氷業
・宅見は、川北組長の世話で、「南大阪氷業」を開業した。さらに、キャバレーのボーイから石田日出夫や望戸節夫などの人材をスカウトし、川北組内で宅見グループを作っていった。
③、川北組若頭へ
・昭和35年(1960)、宅見は川北組の若頭になった。
④、川北組の解散
・昭和37年(1962)に菅谷政雄の兄が率いる菅谷組と川北組は、シノギをめぐる抗争をし、組員の大量検挙で川北組は解散してしまった。
・大阪で宅見は定職のない日々を過ごしていた。宅見のアパートの近くに土井組系川北組の組事務所があった事から、宅見は同組幹部・岩名威郎と懇意となり、岩名の誘いで、土井組系川北組組長と盃をかわして若い衆となった。
②、南大阪氷業
・宅見は、川北組長の世話で、「南大阪氷業」を開業した。さらに、キャバレーのボーイから石田日出夫や望戸節夫などの人材をスカウトし、川北組内で宅見グループを作っていった。
③、川北組若頭へ
・昭和35年(1960)、宅見は川北組の若頭になった。
④、川北組の解散
・昭和37年(1962)に菅谷政雄の兄が率いる菅谷組と川北組は、シノギをめぐる抗争をし、組員の大量検挙で川北組は解散してしまった。
3、山口組入り
(1)、山口組入り
・昭和38年(1963)、宅見は川北組解散後、当時は珍しい大卒のインテリヤクザであった福井英夫率いる福井組に入った。福井はもともと藤村唯夫率いる南道会の最古参幹部であった。南道会はのちに山口組入りし、山口組系南道会が解散した後は、福井や、中西一男、白神一朝(のちに白神英雄に改名)など南道会幹部が山口組の直系組長にあげられた。その中でも福井は、南道会八人衆の筆頭として勢力を持っていた。
(2)、南地芸能社設立
・福井は、昭和38年(1963)に艶歌師を会員とする南地歌謡クラブを結成し、これを母体に昭和39年(1964)に西日本芸能社を設立、さらに昭和42年(1967)には大阪芸能協会を設立するなど、興行関係のシノギが多かった。この影響からか、宅見も昭和39年(1964)に大阪千日前の風呂屋の二階に南地芸能社を設立し、流しのギター弾きを組織して売上を上納させたり、芸能人を盆踊りなどに派遣したり、キックボクシングの興行を行ったりして莫大な利益を上げ、その利益を福井組組員をはじめ他の組関係者へ事業資金として融資をしていった。
(3)、宅見組の結成
①、宅見組の結成
・宅見は昭和40年(1965)に福井組の若頭補佐となった。同年、三重県鳥羽市内に福井組鳥羽支部を開き、宅見が支部長に就任した。これが実質的な宅見組の結成であった。さらに、昭和45年(1970)には福井組の若頭となり、南地芸能社内に宅見組事務所を開いた。
・宅見は昭和40年(1965)に福井組の若頭補佐となった。同年、三重県鳥羽市内に福井組鳥羽支部を開き、宅見が支部長に就任した。これが実質的な宅見組の結成であった。さらに、昭和45年(1970)には福井組の若頭となり、南地芸能社内に宅見組事務所を開いた。
②、山口組直参へ
・宅見は、当時山口組の若頭であった山本健一に取り入り、昭和53年(1978)1月、親分福井英夫が直系組長のまま、山本健一を推薦人として、田岡から親子盃をうけて、山口組直系組長に取り立てられた。これと同時に、正式に宅見組が立ち上げられた。組員63名でのスタートであった。
4、大阪戦争
(1)、意義
・大阪戦争は、昭和50年(1975)から昭和53年(1978)に起こった、山口組と松田組との抗争である。昭和53年(1978)7月11日に田岡一雄が京都のクラブ「ベラミ」で襲撃を受けて以後、山口組の松田組に対する無差別的な攻撃が始まった。
(2)、第一次大阪戦争
・大阪戦争は、昭和50年(1975)から昭和53年(1978)に起こった、山口組と松田組との抗争である。昭和53年(1978)7月11日に田岡一雄が京都のクラブ「ベラミ」で襲撃を受けて以後、山口組の松田組に対する無差別的な攻撃が始まった。
(2)、第一次大阪戦争
・宅見は第一次大阪戦争には参加していない。しかし、大日本正義団会長・吉田芳弘は西城秀樹の姉と付き合っていたが、この女性を本妻とは別に宅見の愛人とした。ミナミにクラブを経営させたり、ステーキ屋やアクセサリー店を開かせたりした。
(3)、第二次大阪戦争
①、意義
・宅見は、経済ヤクザのイメージがあるが、第二次大阪戦争では武闘派の側面を見せつけた。
②、杉田組長射殺事件
・宅見は、経済ヤクザのイメージがあるが、第二次大阪戦争では武闘派の側面を見せつけた。
②、杉田組長射殺事件
・昭和53年(1978)9月24日、和歌山市内の松田組系福田組事務所を訪れた福田組内杉田組組長を、待ち伏せをしていた山口組系宅見組の組員が銃撃した。杉田組長は翌日に亡くなった。
③、宅見組による樫組長宅空爆計画
・松田組の樫組長は、自宅にこもっていたので、山口組は全く手が出せない状態であった。そこで山口組系宅見組は樫組長宅の近くに前線基地を設営し、ダイナマイトを積んだラジコンのヘリコプターを飛ばして樫組長宅を空爆する計画を立てた。この計画は実験段階で露見し、宅見組の組員が殺人予備と銃刀法違反容疑で逮捕された。
5、山一抗争
(1)、福井を引退させる
・昭和59年(1984)から山一抗争が始まった。宅見の親分である福井は、山一抗争時に一和会へ移ろうとしていた。宅見は福井を説得して、一和会に行かせずに引退させた。この後宅見は、毎年盆暮れには決まって現金100万円とちょっとした手土産をもって福井の元を訪れ、誠心誠意福井に尽くした。
(2)、若頭補佐になる
・岸本組組長・岸本才三や織田組組長・織田譲二らとともに、田岡フミ子の執事役として竹中四代目実現に動いた。しかし、その竹中は宅見を「小型の小田秀」と称し、あまり評価していなかった。よって、今度は若頭に内定した豪友会会長・中山勝正に近づき、中山の推薦で昭和59年(1984)6月、四代目山口組成立時に若頭補佐となった。
(3)、若頭になる
・山一抗争末期には、岸本、野上らと組み、山本健一亡き後山健組を継いでいた渡辺芳則を擁立して五代目組長に据えることに成功した。五代目山口組において宅見は組長代行を望んだが、組長がいながら組長代行はおかしいということで、若頭となった。
6、その他の抗争
6、その他の抗争
・平成元年(1989)7月には竹中組との山竹抗争、同年9月には長崎湊会との抗争、同年11月には山形市で極東関口一家佐藤会系とのみちのく抗争、平成2年(1990)2月には札幌市で広島共政会系右翼団体との札幌抗争、同年2月には山口組の東京進出を伴ったニ率会との八王子抗争などを指揮した。
7、暴力団対策法とバブル経済
(1)、暴力団対策法
・平成3年(1991)年、暴力団対策法が施行された。これによって、従来のようなシノギは難しくなり、表企業の買収や合併を通じて合法的に利益を得る企業舎弟やフロント企業が暗躍するようになった。宅見も積極的に表企業へと食い込んでいった。
(2)、盃外交
・平成8年(1996)1月18日、五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉、四代目会津小鉄会若頭・図越利次、四代目共政会会長・沖本勲の間で、三兄弟盃が挙行された。さらに、同年9月28日には、五代目山口組組長・渡辺芳則と、三代目稲川会会長・稲川裕紘との間で五分の兄弟盃が交わされた。
8、フランスへ
・宅見は、昭和56年(1981)頃から糖尿と肝臓を患っていた。そこで平成4年(1992)にフランスで治療しようとパリに飛んだが、日本大使館の警察関係者から宅見がフランスへ行くとフランスの司法警察に連絡が入り、宅見は「ペルソナ・ノングラタ(好ましくない人物)」に指定されて、飛行機から降りることができなかった。結局、そのまま日本へと帰国した。
9、宅見若頭射殺事件
・平成9年(1997)8月28日、新神戸駅近くのオリエンタルホテルで、宅見、総本部長・岸本才三、副本部長・野上哲男が談笑していたところ、宅見が射殺された。さらに、流れ弾が近くにいた歯科医師にあたり、この歯科医師も死亡した。なお、宅見は30年来糖尿と肝臓を患っており、平成8年(1996)10月に肺炎も併発し、生死の境をさまよっていた。余命はあと半年か1年とみられており、中野会に襲撃されなくても、長くは生きられなかったという。享年61歳。
10、力の源泉
(1)、宅見の才腕
・宅見は、時流を読むのがうまかった。福井英夫→山本健一→田岡フミ子→竹中正久(中山勝正)→渡辺芳則と、これはと思う相手には誠心誠意を尽くし、常に主流派に身を置き、勝ち馬に乗り続けた。また、暴力団臭がせず、堅気と社交することができ、約束したことは守る律義さを持ち、まめな気配りができる人であった。
(2)、豊富な資金力
①、意義
・宅見はバブル期に地上げと株で蓄財をした。その総資産額は3000億円とも言われ、さらにその金を貯蓄するのではなく、どんどん直系組長達に融通し、それが山口組内での力の源泉となっていった。
②、シノギのやり方
・宅見は、覚せい剤、銃、売春ではなく、大企業から金を毟り取る方法を得意とした。まず、エースと呼ばれる人間を大企業へ送り込み、このエースを仲介人として、金融機関から巨額を借り出させる(暴力団の世界では「借りる」は「貰った」と同じ意味である)、企業に手形を乱発させる、絵画を時価の数十倍で買わせる、預金証書や株の預かり証を偽造してそれを担保に金融機関から金を引き出す等の手法をとった。この結果、イトマン事件では伊藤寿永光がエースとなり、5、6000億円が闇の世界に流れそのうちの3分の1の2000億円が山口組に流れ、大阪府民信組では南野洋がエースとなり、1300億円が闇に流れたという。
cf.しかし、山之内幸夫氏によると、2000億は検察のデタラメだそうです。
cf.しかし、山之内幸夫氏によると、2000億は検察のデタラメだそうです。
<参考文献>
『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
『五代目山口組宅見勝若頭の生涯』(木村勝美、メディアミックス、2012)