稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・ヤクザ人物史

ヤクザ人物史 宅見勝

1、出生

 (1)、出生

  ・昭和11年(1936)、洋裁店を営む宅見春一、閑子の三男として神戸に生まれた。宅見の他に4人兄弟がいたが、ヤクザになったのは宅見のみである。宅見が小学1年生の頃に父春一が亡くなったので、閑子と4人の兄弟たちは閑子の実家である香川県大野村へ疎開した。宅見家は貧しかった。

 (2)、青少年期

  ・終戦後、宅見が中学2年生の時に、母の閑子も亡くなり、宅見は伯母方へ引き取られた。宅見は優秀であり、進学校で知られる大阪府立高津高校に進むが、昭和28年(1953)に誰にも相談せずに中退してしまった。

2、渡世入り

 (1)、和歌山へ

  ・宅見は、知人の紹介で、和歌山市中ノ島の遊郭で働きだした(バーのマネージャーとして働いていたという説もある)。ここで、宅見は晴子と出会った。晴子の家は堅気の家であったことから、宅見との交際を禁止され、昭和30年(1955)、宅見と晴子は駆け落ち同然で大阪へと移った。

 (2)、渡世入り

  ①、渡世入り

   ・大阪で宅見は定職のない日々を過ごしていた。宅見のアパートの近くに土井組系川北組の組事務所があった事から、宅見は同組幹部・岩名威郎と懇意となり、岩名の誘いで、土井組系川北組組長と盃をかわして若い衆となった。

  ②、南大阪氷業

   ・宅見は、川北組長の世話で、「南大阪氷業」を開業した。さらに、キャバレーのボーイから石田日出夫や望戸節夫などの人材をスカウトし、川北組内で宅見グループを作っていった。

  ③、川北組若頭へ

   ・昭和35年(1960)、宅見は川北組の若頭になった。

  ④、川北組の解散

   ・昭和37年(1962)に菅谷政雄の兄が率いる菅谷組と川北組は、シノギをめぐる抗争をし、組員の大量検挙で川北組は解散してしまった。

3、山口組入り

 (1)、山口組入り

   ・昭和38年(1963)、宅見は川北組解散後、当時は珍しい大卒のインテリヤクザであった福井英夫率いる福井組に入った。福井はもともと藤村唯夫率いる南道会の最古参幹部であった。南道会はのちに山口組入りし、山口組系南道会が解散した後は、福井や、中西一男、白神一朝(のちに白神英雄に改名)など南道会幹部が山口組の直系組長にあげられた。その中でも福井は、南道会八人衆の筆頭として勢力を持っていた。

 (2)、南地芸能社設立

  ・福井は、昭和38年(1963)に艶歌師を会員とする南地歌謡クラブを結成し、これを母体に昭和39年(1964)に西日本芸能社を設立、さらに昭和42年(1967)には大阪芸能協会を設立するなど、興行関係のシノギが多かった。この影響からか、宅見も昭和39年(1964)に大阪千日前の風呂屋の二階に南地芸能社を設立し、流しのギター弾きを組織して売上を上納させたり、芸能人を盆踊りなどに派遣したり、キックボクシングの興行を行ったりして莫大な利益を上げ、その利益を福井組組員をはじめ他の組関係者へ事業資金として融資をしていった。

 (3)、宅見組の結成

  ①、宅見組の結成

   ・宅見は昭和40年(1965)に福井組の若頭補佐となった。同年、三重県鳥羽市内に福井組鳥羽支部を開き、宅見が支部長に就任した。これが実質的な宅見組の結成であった。さらに、昭和45年(1970)には福井組の若頭となり、南地芸能社内に宅見組事務所を開いた。

  ②、山口組直参へ

   ・宅見は、当時山口組の若頭であった山本健一に取り入り、昭和53年(1978)1月、親分福井英夫が直系組長のまま、山本健一を推薦人として、田岡から親子盃をうけて、山口組直系組長に取り立てられた。これと同時に、正式に宅見組が立ち上げられた。組員63名でのスタートであった。

4、大阪戦争

 (1)、意義

  ・大阪戦争は、昭和50年(1975)から昭和53年(1978)に起こった、山口組と松田組との抗争である。昭和53年(1978)7月11日に田岡一雄が京都のクラブ「ベラミ」で襲撃を受けて以後、山口組の松田組に対する無差別的な攻撃が始まった。

 (2)、第一次大阪戦争

  ・宅見は第一次大阪戦争には参加していない。しかし、大日本正義団会長・吉田芳弘は西城秀樹の姉と付き合っていたが、この女性を本妻とは別に宅見の愛人とした。ミナミにクラブを経営させたり、ステーキ屋やアクセサリー店を開かせたりした。

 (3)、第二次大阪戦争

  ①、意義

   ・宅見は、経済ヤクザのイメージがあるが、第二次大阪戦争では武闘派の側面を見せつけた。

  ②、杉田組長射殺事件

   ・昭和53年(1978)9月24日、和歌山市内の松田組系福田組事務所を訪れた福田組内杉田組組長を、待ち伏せをしていた山口組系宅見組の組員が銃撃した。杉田組長は翌日に亡くなった。

  ③、宅見組による樫組長宅空爆計画

   ・松田組の樫組長は、自宅にこもっていたので、山口組は全く手が出せない状態であった。そこで山口組系宅見組は樫組長宅の近くに前線基地を設営し、ダイナマイトを積んだラジコンのヘリコプターを飛ばして樫組長宅を空爆する計画を立てた。この計画は実験段階で露見し、宅見組の組員が殺人予備と銃刀法違反容疑で逮捕された。

5、山一抗争

 (1)、福井を引退させる

  ・昭和59年(1984)から山一抗争が始まった。宅見の親分である福井は、山一抗争時に一和会へ移ろうとしていた。宅見は福井を説得して、一和会に行かせずに引退させた。この後宅見は、毎年盆暮れには決まって現金100万円とちょっとした手土産をもって福井の元を訪れ、誠心誠意福井に尽くした。
   
 (2)、若頭補佐になる

  ・岸本組組長・岸本才三や織田組組長・織田譲二らとともに、田岡フミ子の執事役として竹中四代目実現に動いた。しかし、その竹中は宅見を「小型の小田秀」と称し、あまり評価していなかった。よって、今度は若頭に内定した豪友会会長・中山勝正に近づき、中山の推薦で昭和59年(1984)6月、四代目山口組成立時に若頭補佐となった。

 (3)、若頭になる

  ・山一抗争末期には、岸本、野上らと組み、山本健一亡き後山健組を継いでいた渡辺芳則を擁立して五代目組長に据えることに成功した。五代目山口組において宅見は組長代行を望んだが、組長がいながら組長代行はおかしいということで、若頭となった。

6、その他の抗争

 ・平成元年(1989)7月には竹中組との山竹抗争、同年9月には長崎湊会との抗争、同年11月には山形市で極東関口一家佐藤会系とのみちのく抗争、平成2年(1990)2月には札幌市で広島共政会系右翼団体との札幌抗争、同年2月には山口組の東京進出を伴ったニ率会との八王子抗争などを指揮した。

7、暴力団対策法とバブル経済

 (1)、暴力団対策法

  ・平成3年(1991)年、暴力団対策法が施行された。これによって、従来のようなシノギは難しくなり、表企業の買収や合併を通じて合法的に利益を得る企業舎弟やフロント企業が暗躍するようになった。宅見も積極的に表企業へと食い込んでいった。

 (2)、盃外交

  ・平成8年(1996)1月18日、五代目山口組若頭補佐・桑田兼吉、四代目会津小鉄会若頭・図越利次、四代目共政会会長・沖本勲の間で、三兄弟盃が挙行された。さらに、同年9月28日には、五代目山口組組長・渡辺芳則と、三代目稲川会会長・稲川裕紘との間で五分の兄弟盃が交わされた。

8、フランスへ

 ・宅見は、昭和56年(1981)頃から糖尿と肝臓を患っていた。そこで平成4年(1992)にフランスで治療しようとパリに飛んだが、日本大使館の警察関係者から宅見がフランスへ行くとフランスの司法警察に連絡が入り、宅見は「ペルソナ・ノングラタ(好ましくない人物)」に指定されて、飛行機から降りることができなかった。結局、そのまま日本へと帰国した。

9、宅見若頭射殺事件

 ・平成9年(1997)8月28日、新神戸駅近くのオリエンタルホテルで、宅見、総本部長・岸本才三、副本部長・野上哲男が談笑していたところ、宅見が射殺された。さらに、流れ弾が近くにいた歯科医師にあたり、この歯科医師も死亡した。なお、宅見は30年来糖尿と肝臓を患っており、平成8年(1996)10月に肺炎も併発し、生死の境をさまよっていた。余命はあと半年か1年とみられており、中野会に襲撃されなくても、長くは生きられなかったという。享年61歳。

10、力の源泉

 (1)、宅見の才腕

  ・宅見は、時流を読むのがうまかった。福井英夫→山本健一→田岡フミ子→竹中正久(中山勝正)→渡辺芳則と、これはと思う相手には誠心誠意を尽くし、常に主流派に身を置き、勝ち馬に乗り続けた。また、暴力団臭がせず、堅気と社交することができ、約束したことは守る律義さを持ち、まめな気配りができる人であった。
 
 (2)、豊富な資金力

  ①、意義

   ・宅見はバブル期に地上げと株で蓄財をした。その総資産額は3000億円とも言われ、さらにその金を貯蓄するのではなく、どんどん直系組長達に融通し、それが山口組内での力の源泉となっていった。

  ②、シノギのやり方

   ・宅見は、覚せい剤、銃、売春ではなく、大企業から金を毟り取る方法を得意とした。まず、エースと呼ばれる人間を大企業へ送り込み、このエースを仲介人として、金融機関から巨額を借り出させる(暴力団の世界では「借りる」は「貰った」と同じ意味である)、企業に手形を乱発させる、絵画を時価の数十倍で買わせる、預金証書や株の預かり証を偽造してそれを担保に金融機関から金を引き出す等の手法をとった。この結果、イトマン事件では伊藤寿永光がエースとなり、5、6000億円が闇の世界に流れそのうちの3分の1の2000億円が山口組に流れ、大阪府民信組では南野洋がエースとなり、1300億円が闇に流れたという。

 cf.しかし、山之内幸夫氏によると、2000億は検察のデタラメだそうです。


<参考文献>

 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
 『五代目山口組宅見勝若頭の生涯』(木村勝美、メディアミックス、2012)



ヤクザ人物史 渡辺芳則

1、出生

 ・渡辺芳則は、昭和16年(1941)1月、栃木県下都賀郡壬生町の農家の家に生まれた。

2、少年期

 ・渡辺は算数が好きなほかは全般に学業成績は振るわず、中学を卒業してから地元をふらふらしていた。

3、東京へ

 ・渡辺は東京へ出て、浅草の日本そば屋に住み込みで働き始めたが、ほどなくぐれて飯島連合系のテキヤの下で手伝うようになった。テキヤから実子分として来ないかという誘いをうけるが、知り合いが多くいる東京でテキヤはできないと思い、東京で芸能人相手に野球賭博をしていた山健組の三輪正太郎の誘いをきっかけに関西へ行くこととした。

4、山健組

 (1)、山健組へ

  ・渡辺はまずは京都へ行き、その後三輪の誘いによって神戸で出て、山健組を結成したばかりの山本健一と出会い、昭和38年(1963)頃に山健組入りをした。仁義なき戦いで有名な広島抗争にも山健組から打越会への応援隊の一員として参加した。

 (2)、一度目の破門

  ・山本健一は、昭和37年(1962)の福岡事件で凶器準備集合罪で捕まり、昭和40年(1965)10月から神戸刑務所と旭川刑務所で服役をした。この時、組長不在の山健組では、舎弟頭・田中達男がトップであった。しかし、この田中と渡辺は馬が合わず破門をされた。山本健一が出所後にすぐに山健組に戻し、渡辺は山本健一付きとなり、山健組の若頭補佐となった。

 (3)、服役

  ①、恐喝事件

   ・昭和42年(1967)、山本健一らは静岡市内の建設会社社長に頼まれて、名古屋市内の土建業の男性と三吉一家元組長を11時間軟禁して6000万円を脅し取ろうとした疑いで、昭和44年(1969)に逮捕された。この事件には渡辺も参加しており、服役した。渡辺は、服役中に貯めた作業賞与金は全部、山本健一夫妻に差し出したという。

  ②、拳銃不法所持

   ・昭和44年(1969)、山本健一他山健組の幹部は、拳銃不法所持で大阪府警に逮捕された。さらに、大阪府警に対抗する兵庫県警も、山口組系永井組と大日本平和会の対立に絡む抗争で凶器準備集合罪で逮捕しようとしていた。山健組は山本以下幹部のほとんどが逮捕され、存亡の危機に立たされた。この時、山本夫人の秀子が夫を救うために、渡辺に拳銃を持って警察に自首することを頼み、渡辺はこの身代わり役を引き受けた。渡辺はこの事件によっても服役をしたが、秀子夫人の信頼を勝ち取り、秀子夫人はこの後に、渡辺が山健組の若頭、そして組長になるための支援をした。

 (4)、健竜会の結成

  ・昭和45年(1970)、渡辺は出所後すぐに、健竜会を結成し、さらに道子と結婚をした。

 (5)、二度目の破門

  ・先の拳銃不法所持事件で、山健組の舎弟頭や舎弟など幹部クラスはほとんど山本から破門された。渡辺もこの時破門されたが、田岡一雄夫人のフミ子から山本は「恰好つけるだけの破門やったら、やめとき」と諭され、20日ほどで破門は解かれた。

 (6)、山健組若頭へ

  ・昭和46年(1971)、山本健一は山口組の若頭となった。同じころ、渡辺も山健組の若頭に昇格した。

 (7)、大阪戦争

  ①、意義

   ・大阪戦争は、昭和50年(1975)から昭和53年(1978)に起こった、山口組と松田組との抗争である。昭和53年(1978)7月11日に田岡一雄が京都のクラブ「ベラミ」で襲撃を受けて以後、山口組の松田組に対する無差別的な攻撃が始まった。山健組も、当時山健組三羽烏と称された、健竜会の渡辺、盛力会の盛力健児、健心会の杉秀夫を中心に、この攻撃に参加した。

  ②、健竜会の攻撃

   ・昭和53年(1978)9月2日、和歌山市で合法企業を多数営み松田組随一の金持ち組織であった松田組系西口組の西口善夫組長宅に、健竜会の組員が侵入し拳銃を乱射した。警戒中であった西口組長はゴルフで外に出ていたが、警戒中であった西口組の組員2人が射殺された。この事件の首謀者として、当時健竜会で若頭補佐を務めていた、現神戸山口組組長・井上邦雄が逮捕され懲役17年の刑に、渡辺も懲役2年4ヶ月の刑に服した。

 (8)、二代目山健組組長へ

  ・昭和57年(1982)2月4日、山本健一は大阪市内の病院で亡くなった。その四十九日が済んだ後、秀子未亡人から二代目山健組組長に渡辺が就任する旨が告げられた。ライバルの盛力健児はこの時服役中であったが、山健組は一人の脱落者や反逆者も出すことなく、渡辺への二代目継承を成功させた。その後渡辺は、山口組直系組長への昇格も果たした。

5、五代目山口組組長

 (1)、山口組若頭へ

  ・昭和60年(1985)1月26日、山口組組長・竹中正久が大阪府吹田市で射殺された。山口組は早くも2月5日の定例幹部会で、組長代行に舎弟頭の中西一男、若頭に若頭補佐の渡辺を据える人事を発表した。

 (2)、ゴルフ場撃ち込み事件

  ・昭和59年(1984)11月、神戸市内のゴルフ場でゴルフ中に渡辺を注意してきた男性を、渡辺のボディーガードが暴行を加えて全治45日の重傷を負わせるた事件で、昭和61年(1986)8月に渡辺は逮捕された。この事件の裁判において渡辺は、検事出身など数人の弁護団を組み合宿までさせて無罪判決を得ようとした。結局「子分が勝手にやった」という渡辺の主張は認められず、共謀共同正犯が問われて懲役10月執行猶予3年の有罪判決となった。

 (3)、山一抗争を終結させる

  ・渡辺は、稲川会や会津小鉄会に協力を仰いだ上で、一和会会長・山本広への引退工作を行った。山本はこれを受け入れ、平成元年(1989)3月16日、山本と渡辺は会津小鉄会会長・高山登久太郎宅で会談をし、山本広は自らの引退と一和会の解散を記した書状を渡辺に差し出した。同年3月19日には、警察にも自らの引退と一和会解散の旨を伝えた。

 (4)、五代目取り

  ・山一抗争も末期に差し掛かかり、昭和63年(1988)5月に一和会理事長・加茂田重政、一和会本部長代理・松本勝美が引退を表明した頃になってくると、山口組では五代目を誰が継承するのかが問題となっていった。渡辺は、組長代行・中西一男とその地位を争い、平成元年(1989)7月20日、襲名式を行い、五代目組長に就任した。

6、引退

 (1)、五代目山口組の運営

  ・五代目山口組は、若頭・宅見勝と7人の若頭補佐(英組組長・英五郎、倉本組組長・倉本広文、弘道会会長・司忍、芳菱会総長・瀧澤孝、三代目山健組組長・桑田兼吉、中野会会長・中野太郎、古川組組長・古川雅章)、総本部長・岸本、副本部長・野上らによって物事は決定し、組長の渡辺はそれを追認するだけであった。特に若頭の宅見の力は強く、渡辺の回答が否や保留と出ても、若頭の宅見が「ええやろ。わしから頭に後で話しとくわ」と承諾すれば、そのまま渡辺も納得する局面が多々あったという。五代目山口組において、直系組長達の多数派工作の上で組長に就任した渡辺の求心力は、成立時から低かった。

 (2)、宅見若頭射殺事件

  ・平成9年(1997)8月28日、若頭の宅見が新神戸駅近くのオリエンタルホテルで、山口組系中野会組員によって射殺された。しかし、若頭が射殺されたにも関わらず、渡辺は中野会を復帰の可能性がある破門処分とし、3日後に流れ弾にあたった歯科医師が亡くなってやっと中野会を絶縁処分とした。さらに、若頭を射殺した中野会を何度も山口組に復帰させようとするなど、指示が迷走した。

 (3)、引退へ

  ・平成14年(2002)11月29日、山口組は緊急直系組長会を開き、五代目組長・渡辺芳則は今後、組運営にいっさいタッチをせず、執行部の合議制で組を運営していく旨が発表された。この背景には、平成7年(1995)8月25日、山口組系藤和会内山下組組員が京都府警の巡査部長を会津小鉄会系組員と間違えて射殺された事件について、渡辺にも民法715条の使用者責任の規定によって、損害賠償請求が認められたことがあった。平成17年(2005)7月29日、臨時直系組長会が開かれて、司の六代目組長就任と、渡辺の引退が発表された。

7、死去

 ・渡辺は引退後、神戸市中央区北長狭通の豪邸で過ごし、平成24年(2012)12月に71歳で亡くなった。

8、人物評

 (1)、「サラリーマンヤクザ最大の成功者」(溝口敦氏)

  ①、ヤクザに「就職」する

   ・ヤクザは貧困家庭出身が多いが、渡辺の実家は土地持ちの農家であり、のちはこの農地を売却して貸家経営をやるなど裕福であった。さらに、渡辺の少年時代は、札付きのワルでも少年院に入った経験もなかった。つまり渡辺はヤクザしか行き場がないというわけではなく、普通に就職をしようと思えばできた人物であった。渡辺がヤクザの道を選んだ理由は、自分次第で努力すれば伸びられる、自分でもヤクザの世界ならば出世できると考えたからである。渡辺は、ヤクザに「就職」をしたヤクザであった。

  ②、目上の人に好かれる資質

   ・渡辺は田岡一雄夫人のフミ子と冗談を言い合ったり、山本健一や夫人の秀子に可愛がられたり、パチンコ団体の会長がスポンサーとしてついたりと、目上の人に好かれる資質を持っていた。

  ③、合理主義者・現実主義者

   ア)、懲役観

    ・渡辺は、暴行とか傷害、殺人未遂といったヤクザらしい話はあまりない。「懲役は長い短いより、行く内容やね。われわれの社会では、やっぱり抗争事件でやね、体賭けて行ったものは功績として認めるからね。そやけど、自分で覚せい剤で行った十年なんていうのは認めへんわな」と合理的な考え方を持っていた。現に渡辺自身、短期刑を通算しても数年程度しか懲役に行っていない。

   イ)、人生設計

    ・渡辺は、「俺はだいたい三十歳前後で組を持とう、三十過ぎて組ができんようなら、ヤクザをやめようと思ってた」と語った。実際に、29歳で山健組内に健竜会を結成した。

   ウ)、嫁の見定め

    ・渡辺は道子と神戸駅前のダンスホール出会い、やがて同棲するようになった。しかし、同棲中の三年間、渡辺は道子に金を一銭も渡さなかった。この三年間、道子は渡辺に「金くれ」「生活費をくれ」とも言わずに生活を成り立たせていたので、この女性なら信用できると思って渡辺は結婚をした。

   エ)、組織運営

    ・山本健一は、組員は少なくてよい、いざ抗争の時率先して行く奴がいればいいという考え方であった。他方、渡辺は「組員が十人おったとして、そのうちの一人懲役に行かすとして、毎月組員一人から一万円ずつ集めたとしても九万円にしかならへん、と。これが百人の組員がおったら、一人一万円が一人千円集めればよくなる。経済的にも楽できる。組織力も温存できる」として、なるべく組織を大きくしようという考え方であった。その結果、山健組は全盛期8000人ともいわれた巨大組織となった。

   オ)、五代目取り

    ・渡辺は、五代目山口組組長に就任するにあたって、「跡目とったら、俺はこう考えとる。(組員のすべてが)ええような結果になって、「ああ、やっぱり(渡辺が五代目で)よかったな」と思われるのが最高や。もし悪くいけば「やっぱり(渡辺を立てて)失敗やったな」と。(そうなると)こっちは落ち目にならないかんわな。それは嫌やから自分から苦労せなしゃないわね。跡目とって。より、これだけ俺を信じとんねんやったら、みんな信じただけの答えを俺がだしたる、と。」と答え、五代目取りにあたって、強烈な指導理念、哲学、目標を示すのではなく、組員の経済生活の維持拡大と人数を増やすという、きわめて現実的な考え方を示した。

 (2)、徳川秀忠タイプの人物(太田守正氏)

  ・渡辺の側近として仕えてきた太田守正は、「五代目が周到な根回しに秀で、大組織を統括するうえできわめて合理的な発想をもった親分」であったと評する。田岡三代目、竹中四代目は戦国大名であったが、大阪戦争や山一抗争を経て、平成4年(1992)の暴対法、平成23年(2011)の暴力団排除条例などが制定され、ヤクザが抗争をできない時代へと変わっていった。このような時代の変化に対応して山口組も「親藩、譜代大名また直参旗本を従えた幕藩体制」へと移行していった。この山口組幕藩体制において必要とされるリーダーは「戦国大名」ではなく、「官僚のトップ」=「幕閣の長」=「権力機構の中心的な歯車」である。このような意味で、渡辺は際立って目立たなかった組長であったが、合理的な組織運営と統括力がある、時代に即した組長であったとする。

  ・そして、「五代目は明らかに家康の晩年ないしは江戸幕府における二大将軍秀忠である」とする。その理由は、「秀忠は戦によることなく全国に徳川幕府の威光をしめし、縁戚化や恩賞をつうじて全国に松平姓(徳川)を浸透させた。信長・秀吉・家康を通じて実現した全国平定を、秀忠は土井利勝や松平伊豆守信綱らの幕閣とともに、みごとに完成させたのである。徳川の松平姓を山菱の代紋に置き換えれば、実に分りやすい」と説明する。

 (3)、石井隆匡氏の人物評

  ・稲川会会長・石井隆匡は、「渡辺は柔軟性を持ってるし、世間じゃあれを武闘派っていいますけれど、決してそんなもんじゃないですよ。(渡辺は)人の話もよく聞くし、自分の考えも主張する。(五代目は)そういう人じゃなきゃダメですよ。時代は大きく組織化されてますからね。(山口組には)何万人もついてきてるでしょう。だから強いばっかりがこの渡世じゃないですよ」とのべて、渡辺の山口組五代目組長就任を断固支持した。

 (4)、五代目山口組若頭補佐の一人

  ・渡辺五代目体制発足時に若頭補佐に加えられたある組長は、「あの人のいいところは三千人や五千人の兵隊を持っているけれども、それをカサにきた物言いを一つもしないことです。普通だったら、山口組でいちばん兵隊もおり、抗争に際しても、大阪戦争から対一和会抗争まで全部参加しているわけです。山口組の歴史を見れば、山健組がどんな働きをしてきたか、一目瞭然ですよ。だけど、それでもあの人は人に気配りをし、謙虚に頭を低くしている。あの人から教えられるところは一杯ある。やはり器量がちがうと思います。これからの山口組のトップというのは「俺についてこい」では組織を引っぱっていけない。みんなが参加しているという意識改革が必要だと思いますよ。個人プレーの時代ではない。気配りが末端まで届くような繊細な人がやっていくべきだと思いますね」と述べ、渡辺が気配り、謙虚の人であるとする。

 (5)、山健組幹部

  ・渡辺には悪評もある。例えば山健組幹部は、渡辺は「ケチで世間知らず、大阪戦争ではろくな働きも見せず、ジャバでのうのうとしていた。他の若い衆は親分のためを思って、みな事件に従い懲役に行った。その留守中、山健組の二代目になって功績を独り占めした」といったものである。

9、映像

 (1)、激動の1750日

  ・原作は志茂田景樹さんの『首領を継ぐのは俺だ』、中井貴一さん演じる若竹正則(モデルは渡辺芳則)を中心として、山一抗争を描いています。基本的に史実に忠実ですが、中盤以降から、オリジナルストーリーが強くなります。渡辺五代目が、魅力的でかっこよく描かれています。




<参考文献>

 『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
 『血別 山口組百年の孤独』(大田守正、サイゾー、2015)
 『六代目山口組ドキュメント 2005~2007』(溝口敦、講談社、2013)


ヤクザ人物史 竹中正久

1、出生

 ・昭和8年(1933)、兵庫県飾磨郡御国野村大字深志野(現兵庫県姫路市御国野町深志野)に、竹中龍次と妻愛子の三男として生まれた。上に姉が4人いるので、7番目の子ということになる。龍次と愛子は八男五女をもうけた子だくさんであり、三男正久のほかにも、四男英男、五男竹中正、六男修、八男武もヤクザとなった。
2、少年期

 (1)、貧しい少年時代

  ・もともと竹中家は村の有力な一族であり、祖父英正は4期16年間御国野村の助役をつとめた人物であった。しかし、父龍次は村議として村の面倒をみていたが、相撲の勧進元をしたり、プロの博徒ではないが無類の博奕好きであったり、遊民的な人であったった。母愛子は料理屋や小さな八百屋などをしていたが、その稼ぎも龍次は博奕に使ってしまう始末であり、竹中家は没落していった。さらに、その父龍次も昭和21年(1946)に病で死亡しており、竹中の少年時代は貧しかった。

 (2)、優秀な少年時代

  ・竹中は優秀であり、姫路中学に次ぐ名門校といわれた旧制姫路市立鷺城中学校に入学した。しかし、一年で中退をし、製瓦工場で3年間働いた。その後は、暴行、傷害、恐喝、器物損壊、公務執行妨害等により逮捕され、服役する生活を送った。この服役生活中に、山口組系宇野組の宇野加次組長の長男である宇野正三と知り合った。

3、竹中組の活躍

 (1)、竹中組の結成

  ①、竹中組の結成

   ・昭和35年(1960)、姫路で竹中組を結成した。竹中組は、宇野正三によって山口組とのつながりを持ち、翌昭和36年(1961)に山口組入りし、直若に取り立てられた。

  ②、竹中組の運営

   ・昭和37年(1962)、姫路駅近くの十二所前町に三階建ての事務所兼住宅を構えた。資金源はもっぱら賭博であり、事務所の三階の広間で賭博を開いていた。

  ③、女

   ・竹中は、終生妻を持たなかった。しかし、竹中組を結成し山口組入りした頃から、中山きよみという女性と同棲をはじめ、昭和57年(1982)に竹中が脱税で挙げられるまで20年以上、籍は入れずに関係を持った。

 (2)、山口組内での活躍

  ①、博多事件

   ・昭和37年(1962)、福岡県福岡市で夜桜銀二こと平尾国人が地元のヤクザに射殺された博多事件が起こると、竹中組は山口組の部隊として九州に乗り込み、凶器準備集合罪で検挙された。

  ②、若頭補佐就任

   ・竹中は当時の若頭であった山本健一に気に入られ、昭和46年(1971)に若頭補佐となった。なお、この時8人いた若頭補佐の筆頭が、後に対立することになる山本広であった。

  ③、「史上空前の総長賭博」

   ・昭和48年(1973)、山口組と稲川会の結縁を祝うために、竹中の姫路の事務所を舞台として、賭け金総額50億以上という「史上空前の総長賭博」が行われた。参加者は、山本健一若頭や、稲川会理事長の石井進ら幹部60数人が参加した。翌49年(1974)に竹中ら30人が逮捕されたが、竹中は警察に口を割らずに捜査が暗礁に乗り上げ、結局30人全員が起訴猶予となった。この事件で、田岡一雄、山本健一、田岡フミ子らに竹中は信頼されてゆく。

  ④、姫路事件

   ・昭和50年(1975)から昭和51年(1976)に起こった大阪戦争では活躍していないが、木下会との抗争である姫路事件では、武闘派としての竹中の名を有名にした。

  ⑤、若頭就任

   ・昭和56年(1981)に田岡一雄が亡くなった翌年の昭和57年(1982)7月、竹中は山口組の若頭となった。この時の組長代行は、山本広であった。

4、最期

 (1)、山口組組長へ

  ・昭和59年(1984)6月5日、竹中は正式に山口組四代目組長の襲名を決めた。しかし、兵庫県警はこの三日後に賭博などで姫路の竹中組事務所を捜索した。この時に捜査員に向かって怒鳴り散らしたのが、有名なこの映像である。

   襲名式は7月10日に行われた。



  同年8月14日にはNHK特集「山口組知られざる組織の内幕」でインタビューに答えた。



 (2)、最期

  ①、新たな愛人

   ・竹中と同棲をしていた中山きよみは脱税で指名手配を受けた。これによって彼女と会えなくなったので、竹中は27歳の愛人を「GSハイム第二江坂」に囲った。

  ②、上棟式へ

   ・昭和60年(1985)1月26日の午前中、竹中は神戸市灘区篠原本町の田岡御殿に隣り合う土地に、四代目山口組の本家となる邸宅を建設するための上棟式に列席した。同日午後、竹中は京都で入院中の先代田岡一雄未亡人のフミ子を見舞いに行った。その後竹中は、新大阪駅に近い吹田市江坂にある愛人が待つ「GSハイム第二江坂」」へ向かった。この日は終始、若頭の中山勝正と若衆の南力と行動をともにしていた。

  ③、最期

   ・午後9時15分過ぎ、竹中、中山、南は、「GSハイム第二江坂」で、一和会系山広組の長野修一、長尾直美、田辺豊記、立花和夫に銃撃され、翌日の1月27日に亡くなった。四代目を襲名してからわずか半年と16日後であった。享年51歳。

  ④、警察の関与
   
   ・昭和59年(1984)6月、吹田署が「GSハイム第二江坂」に竹中の愛人が住んでいることを探知し、大阪府警本部に情報を上げた。この情報が一和会側にリークされ、それによってこの事件が惹き起こされた可能性がある。

5、人柄

 (1)、警察嫌い

  ・竹中は雑誌のインタビューで、「ボディチェックには身体検査令状がいる。しかしそれなしに機動隊員が強行するので自分は必ず抵抗を試みる。ただし、「すんませんけど」と頭を下げた警官にはやらせている。暴力団にも人権はある」と語った後、「これが一般の人にまで平気でやりよるようになったら、戦前の特高警察のようになってしまうで。」と答えた。

 (2)、極道の分

  ・竹中は雑誌のインタビューで、一和会の記者会見について「極道がスター気取りでは世間様に笑われる。極道は極道の分をわきまえろ」と答えた。実際に竹中は、ゴルフには見向きもせず(四代目組長になってから宅見勝組長のすすめではじめてゴルフをはじめた)、夜な夜な飲み歩くわけでもなく、質素に事務所の二階で愛人の中山きよみと同棲をしていた。竹中は、「子どもがいると、この世界にしがらみを残す。迷いも生じるし、意気込みをそぐ」ということで子どもを作ろうとしなかった。極道に女房、子どもはいらないという考えであった。

 (3)、人物評

  ①、山口組の某直系組長

   「竹中さんには先代の田岡親分と似ているところがあった。田岡親分も若いころ博奕がすきだったけど、竹中さんも博奕一本にかけていた。妙な事件には手を出さなかった。物ごとの処理、解決にあたっても、田岡親分と考えが似ている。結論が早い。ズボラに見えて神経が細かい。人情に篤く組員の面倒見がいい。ひまがあれば、偉い親分にもかかわらず、服役中の若い衆に面会にいく。なかなかできないまねだ。口で言うのは簡単だが。」

  ②、兵庫県警の某幹部

   「竹中ほど唯我独尊、向う意気の強い奴はまずいないやろ。警察に対しては反抗的、挑発的で徹底的に疑り深い。警察ばかりじゃない。検察庁や裁判所、要するに対権力に徹底的に身勝手なのや。自分の非は認めない。絶対に白状しない。いくら身のほど勝手な極道でも、年取って出世もすれば、角が取れ、世間並みの考えに合わせてくるもんや。しかし、あの男ばかりはそうじゃない。若い頃から山口組組長になるまで終始変わらない。自分ばかりか配下にまで、警察では絶対うたうなと徹底させている。だから、そこの連中は今どき珍しい。実に頑ななのや。」

6、映像

 (1)、実録・竹中正久の生涯 荒らぶる獅子 前篇 

  ・姫路で愚連隊をして大下会(モデルは木下会)と喧嘩をしていた頃から、山賀組(モデルは山口組)入り、博多事件(夜桜銀次事件)での竹中組の警察に対する「ごじゃ」、田代正雄(モデルは田岡一雄)のボディーガード就任、岡山竹中組の成立と竹中英男の死、第一次頂上作戦と山賀組解散騒動までです。








 (2)、実録・竹中正久の生涯 荒らぶる獅子 後篇 

  ・山倉健三(モデルは山本健一)若頭体制下での若頭補佐就任、大阪戦争、三国事件と菅田政雄(モデルは菅谷政雄)の破門問題、姫路事件、田城正雄(モデルは田岡一雄)と山倉健三(モデルは山本健一)の死と四代目問題、四代目就任から射殺事件までです。警察とは断固として対立したことと、女性には弱かった側面が魅力的に描写されています。


 (3)、実録・竹中正久の生涯 荒らぶる獅子 外伝

  ・本編が竹中正久の姫路での愚連隊時代から射殺されるまでであるのに対して、外伝はその前後、竹中正久の青少年期と、死亡した後竹中組の返しの話です。中野英雄さん演じる竹中武が岡山県警に逮捕される所から始まります。検事の取り調べの中で、過去を振り返る形で、竹中家の父の死から竹中正久と竹中組の歴史が振り返られ、竹中武の保釈と併せて竹中正久射殺事件後の竹中組の一和会への返し、赤坂進射殺事件、脱会強要射殺事件、中川宣治射殺事件が、寺島進さん、大沢樹生さんなど豪華な出演者の友情出演で描写されていきます。


<参考文献>

 『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)

ヤクザ人物史 三宅芳一

1、八百屋

 ・三宅芳一はもともとは「現金屋」という八百屋であった。この現金屋という屋号は、売るにも買うにも現金をモットーとしたことによる。

2、逮捕

 ・三宅は昭和19年(1944)に恐喝罪で逮捕されたが、鹿児島県味野警察署の焼失に紛れて海軍将校に扮装して7ヶ月間逃亡した。

3、「内海のカポネ」

 (1)、現金屋の結成

  ・終戦後、三宅は旧軍用被服類を略奪横流しして巨万の富を築き、現金屋を結成する。彼のもとには数百人の子分が集まった。

 (2)、「内海のカポネ」

  ①、密貿易

   ・三宅は四艘の船を操って、沖縄・台湾との間で大工道具、生ゴム、砂糖、米軍衣料などの密貿易を行ったことから、進駐軍は三宅を「内海のカポネ」とあだ名した。関税のかからないこの密貿易で、三宅はさらに巨財を築いた。

  ②、検挙

   ・昭和24年(1949)、三宅以下百数十人の配下は、関税法違反で検挙された。

 (3)、解散

  ・昭和26年(1951)、法務府(のちの法務省)から解散命令をうけ、現金屋は解散をした。

 (4)、復活

  ・解散後、三宅は昭和27年(1952)に土建業現金屋三宅組と観光ホテル雅叙園を設立し、すぐに復活する。

4、「現金屋レース」と「現金屋議会」

 (1)、「現金屋レース」

  ・昭和27年(1952)、児島市(現倉敷市児島地域)に児島競艇場が開設された。三宅は開業とともにこれに介入し、昭和29年(1954)には児島競艇場の会場警備係長に任命された。以後、選手に八百長レースを強要するなど児島競艇場の全部門を握り、市民からは「現金屋レース」と呼ばれた。

 (2)、「現金屋議会」

  ・昭和23年(1948)に町村合併によって児島市が誕生した。三宅は昭和31年(1956)に児島市議会議員に初当選をした。さらに多数の子分をも児島市議会に送り込むんだので、市民からは「現金屋議会」と呼ばれた。昭和42年(1967)に児島市は倉敷市と合併した。

 (3)、水島臨海重化学工業基地へ割り込む

  ・昭和33年(1958)以後、三宅は水島臨海重化学工業基地へ割り込み、現金屋水島出張所を設けて、土地売買や工事請負などの利権を手に入れた。

5、山口組の岡山進出

 (1)、現金屋の跡目継承問題

  ・昭和37年(1962)、三宅は岡山県議会議員になることをめざしてヤクザを引退し、跡目に幹部の熊本親に譲ることをほのめかす。これに対して、現金屋の主流派である小畠春男一統は内紛を起こした。熊本親は昭和38年(1963)に山口組若衆頭・地道行雄から舎弟盃を受けた。

 (2)、熊本組の結成

  ・昭和38年(1963)、現金屋系福田会組員が、地道組岡山支部影山組組員を刺して重傷を負わせる事件が起こった。この事件によって福田会は解散に追い込まれ、この旧福田会の組員を結集して、地道組系熊本組が結成された。さらに、昭和39年(1964)に熊本親は田岡から山口組本家若衆の盃を受けて、山口組直系組織となった。

 (3)、現金屋の山口組入り

  ・熊本親が地道を結んでから、三宅も山口組との親密度を増していった。昭和38年(1964)に三宅は田岡から山口組客分の盃を受けた。さらに、昭和39年には児島市議会議員選挙に連続当選したのを機にヤクザを引退し、現金屋二代目を実弟の三宅一巳に譲った。その後、二代目・三宅一巳は田岡と四分六の兄弟分の結縁をし、現金屋も山口組入りをした。 

<参考文献>

 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、講談社、1998)

ヤクザ人物史 小林楠扶

1、出生

 ・昭和5年(1930)に生まれる。帝京商業学校卒業後、後に大日本興行を設立する高橋輝男率いる「銀座警察」に加わり、戦後暴れまわっていた中国人や朝鮮人と戦った。

2、小林会結成

 (1)、結成

  ・小林は高橋と契りを結び、住吉連合会小林会を結成する。小林会は、昭和28年(1953)に力道山を刺殺した村田勝志が同会の理事をしていたということで一躍その名が知れ渡る。

 (2)、久保正雄の後見

  ・小林は、インドネシアにおける事業の契約をとりたい東日貿易の久保正雄の依頼をうけて、昭和33年(1958)に来日をしたインドネシアのスカルノ大統領のボディーガードを引き受けた。これにより小林は久保の信頼を得て、久保の後見をうけるようになる。ちなみに、このとき久保がスカルノに献上したのが根本七保子、後のデヴィ夫人である。

 (3)、住吉連合会の本部長へ

  ①、意義

   ・昭和62年(1987)、小林は住吉連合会の本部長に就任している。また、小林会は銀座や六本木に地盤を築く都会派ヤクザの代名詞的存在となり、住吉会二代目会長・福田晴瞭など、有為な人材を輩出している。

  ②、寄居真会との抗争

   ア)、原因

    ・平成元年(1989)9月、福島県郡山市に本拠を置く、寄居真(まこと)会と抗争をした。寄居真会がテキヤから博徒へ路線変更をし、住吉連合会への加盟を希望した。よって、寄居真会は小林から舎弟の盃をもらい傘下に入った。しかし、その直後に稲川会へ加盟するという話になり、これにメンツをつぶされた小林が激怒した。

   イ)、抗争

    ・平成元年(1989)9月30日、千代田区九段下にあるホテルのロビーで、小林会組員が寄居真会東北寄居連合会の組長を狙撃した。さらにこの襲撃の15分後には、郡山市の寄居真会本部事務所が襲撃され、組員が重傷を負い、事務所が約1時間にわたって占領されてしまった。

    ・同年10月6日、六本木の小林会事務所前で小林会組員が寄居真会組員に襲撃された。さらにほぼ同じころ、新宿区大久保にある小林会系事務所にも拳銃が撃ち込まれた。

    ・同日夜、寄居真会系事務所や組幹部宅に拳銃が撃ち込まれた。

   ウ)、和解

    ・住吉連合会と寄居一家が交渉をし、寄居一家は非を認めて寄居真会を解散させ、組長を絶縁することで和解が成立した。

3、右翼活動

 (1)、殉国青年隊への参加

  ・小林は、「銀座警察」時代の先輩であった豊田一夫が昭和27年(1952)に頭山満の長男頭山秀三を顧問に結成した「殉国青年隊」に参加し、右翼活動を開始した。

 (2)、楠皇道隊結成

  ・昭和36年(1961)、小林は楠皇道隊を結成した。

 (3)、日本青年社へ

  ①、結成

   ・昭和44年(1969)、小林は楠皇道隊を発展的に解消し、日本青年社とする。日本青年社は、日本原水爆禁止日本国民会議大会や日本教職員組合大会での抗議行動、左翼過激派との実力闘争など活発な活動を行う。

  ②、主な活動

   ア)、左翼過激派への攻撃

    ・昭和61年(1986)、共産同荒派が皇居に向けてロケット弾を発射したことに抗議をして、アジトに4トントラックで突入した。また、翌62年(1987)にも中核派の拠点へ車両で突入をしている。

   イ)、尖閣諸島・魚釣島への灯台の設営

    ・昭和53年(1978)、中国の武装漁船が魚釣島に大挙して領有権を主張する行為をしたことに抗議して、衛藤豊久総隊長が決死隊を編成して、魚釣島に上陸し二日間で全長約6メートルの灯台を設営した。この灯台は、昭和63年(1988)に国際規格の堅牢な設備に改築され、平成17年(2005)に政府に寄贈された。現在は海上保安庁によって管理されている。

4、経済界に強いヤクザ

 ・住吉会でも小林は経済界に強いヤクザとして有名であった。自らゴルフコンペ楠会を開き、毎回300人前後の企業経営者や芸能人を集めていた。会費は3万円と安く副賞も小林の持ち出しで外車などが送られたが、ゴルフコンペによって築かれる幅広い人脈で小林は大金を稼いだ。

5、最期

 ・小林は平成2年(1990)に病のために逝去した。享年60歳。

<参考文献>

 『日本「愛国者」列伝』(宝島社、2014)
 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
 『ネオ山口組の野望』(飯干晃一、角川書店、1994)


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