稗史

社会の片隅で生きる人達の虚実織り交ぜた物語

 ・ヤクザ人物史

ヤクザ人物史 会津小鉄(上坂仙吉)

1、出生

 (1)、出生

  ・天保4年(1833)、大坂で水戸の浪人・上田友之進と母ユウの子として生まれた。

 (2)、孤児

  ・仙吉が3歳の時に父が妻子を捨てて家を出てしまった。母ユウと仙吉は父を探して水戸へ向かって旅にでるが、この旅先で母も亡くなり、齢6歳にして天涯孤独となった。

2、悪童時代

 (1)、「子供博打」

  ・仙吉は祖父母の実家で引き取られ、そこで育てられることとなった。しかし、8歳か9歳になると神社の境内で開帳される「子供博打」にはまりだし、10歳ころになると胴元を張るようになった。ここで「子供博打」の頭分であった上坂音吉出会う。

 (2)、殺人

  ・仙吉は17歳の時に、博打仲間の不始末をタネにその親をゆすっていた男を殺してしまった。音吉に付き添われ仙吉は奉行所に出頭し、「大坂所払い」となった。

3、渡世入り

 (1)、江戸へ

  ・渡世入りした仙吉は、江戸へ向かった。江戸では香具師の親分、神田の政五郎一家の所へ草鞋を脱いだ。この時、江戸の大親分辰五郎一家と政五郎一家の喧嘩の仲裁役を買って出て男を上げた。

 (2)、結婚

  ・仙吉は瞽女(ごぜ、女性の盲人芸能者)のおりんと結婚をした。

4、会津小鉄会の結成

 (1)、会津藩へ

  ①、かくれ賭場開帳

   ・江戸から京都へ移った仙吉は、女房を食わしていくために安定収入を求め、名張屋新蔵一家の縄張りであった粟田口で、仲間3人と隠れて賭場を開帳した。しかしこれがすぐに名張屋一家に露見し、夜襲をうけた。この時女房おりんが命を失っている。

  ②、仙吉の返し

   ・仙吉はおりんの敵討ちに名張屋一家に単身で乗り込み、おりんを殺したお神楽源治を斬殺した。

  ③、会津藩との接点

   ・この一部始終を見ていたのが、会津藩邸出入りの中間、人夫、鳶職などの御用達をしていた大垣屋清八であった。大垣屋清八は仙吉の腕と度胸と人情に惚れて仙吉を引き取った。ここに仙吉と会津藩との接点が生まれる。

 (2)、会津小鉄一家の結成

  ①、会津藩邸中間部屋の部屋頭へ

   ・仙吉は岐阜大垣に住んで大垣藩邸御用達で修業をした後、京都に戻って大垣屋清八と親分子分の盃を交わし、当時京都にあった黒谷と百万遍の両会津藩邸の中間部屋の部屋頭となった。

  ②、会津小鉄一家の結成

   ア)、「会津の小鉄」

    ・仙吉は、背一面に「小野の小町」の絵柄と桜吹雪をあしらった刺青を入れ、「長曽根入道虎徹」の長脇差を常に携帯していた。小柄な体格であったことから「小鉄の仙吉」と呼ばれていたが、会津藩中間部屋を取り仕切るようになると「会津の小鉄」と呼ばれるようになった。

   イ)、会津小鉄一家の結成

    ・仙吉の元には、悪ガキ時代の仲間であるいろは楼の幸太郎、旅籠屋の熊五郎、京友禅の常吉が若衆を引き連れてやってきて、盃をもらって子分となった。文久2年(1862)、仙吉が29歳の時に大垣屋清八の許可を得て、代紋は大瓢箪と定めて、「小鉄一家」の看板を掲げた。のちの会津小鉄会の結成である。この時子分は300人ほどいたという。

5、幕末京都での活躍

 (1)、会津軍受け入れ体制整備

  ・幕末の京都は治安が乱れていた。よって文久3年(1863)12月に京都守護職の会津藩藩主・松平容保が1000人の兵を引き連れて京都にのぼった。この1000人の兵を収容するために、会津藩は黒谷、百万遍両藩邸の拡張や宿舎の建設を工期100日そこそこで行った。この時仙吉は会津藩の命令で、工事に必要な人夫、大工、左官などの職人、建設資材から、米、ミソの食料品までを調達し、工事を背後から支えた。

 (2)、新選組への協力

  ①、芹沢鴨の暗殺

   ・文久3年(1863)、新選組の芹沢鴨が暗殺をされた。この暗殺の実行犯が実は仙吉であったのではないかと四代目会津小鉄会会長・髙山登久太郎は推測している。

  ②、池田屋事件

   ・元治元年(1864)、新選組が四条河原町の旅籠屋・池田屋で倒幕の謀議をしている勤皇志士たちを襲撃した。この時、池田屋を遠巻きにして他の勤皇の志士たちの応援を阻んで新選組の仕事をやりやすくしたのが仙吉とその子分たちであったと言われている。

 (3)、蛤御門の戦い

  ・元治元年(1864)、会津藩や薩摩藩を中心とする幕府軍と長州藩との間で戦いが起こった。この時仙吉は、会津藩や薩摩藩兵士の死体や負傷者収容の総指揮をとった。この労により会津藩藩主・松平容保からは感状と恩賞をもらっている。なおこの時、仙吉が助けた薩摩藩の負傷者の中に、明治新政府で警察制度を作ることになる川路利良がいた。川路が作った警察がのちに会津小鉄会を弾圧することになるので、奇妙な縁である。

6、襲撃され大阪へ

 (1)、襲撃をうける

  ・会津藩と共に行動をしていた仙吉は勤皇志士をはじめ敵も多かった。仙吉はで歩くときに子分たち若い衆を付き添わせないこともあって、菊乃屋という貸座敷で丸腰でいたところを何人かの浪士に襲撃され、命はとりとめたが、額や肩、胸元、胸、足など数カ所に大小の傷を負った。この時、右手で白刃を握ったことから、親指と人差し指以外の三本の指がそぎ落ちた。

 (2)、大阪へ

  ・体中傷だらけの仙吉は、生まれ故郷である大阪で療養生活を送った。家はかつての博打仲間である音吉が高津に用意してくれた。この高津の家で芸者・小富との間に男児「卯之松」(後二代目となる)を生んだ。仙吉が大阪で療養中、京都の会津小鉄一家を支えたのが、いろは幸太郎ら小鉄一家四天王、八人衆であった。この頃になると会津小鉄一家は、京都のほか大阪、兵庫、滋賀方面にも舎弟親分をつくり一家の勢力を伸ばしている。

 (3)、賭場荒らしで牢屋へ

  ・当時京都では大名屋敷の中間部屋が、大阪では大阪城勤番の直参旗本が賭場を開いていた。仙吉はこの直参旗本が開いていた賭場に出入りし、旗本の侍や用心棒と渡り合い3人を殺めたことから牢屋送りとなった。京都で仙吉の留守を守っていたいろは幸太郎ら幹部が200両という大金を用意して旗本をなだめ、死罪は免れた。

7、鳥羽伏見の戦い

 (1)、鳥羽伏見の戦いに参戦

  ・慶応4年(1868)、薩摩藩長州藩を中心とする新政府軍と、会津藩を中心とする旧幕府軍との戦いが起こった。仙吉は牢屋から釈放され、会津藩のために総勢500人の荷駄隊を率いて従軍し、食料品の輸送や、負傷兵の収容、傷の手当などを行った。

 (2)、会津藩の敗北

  ・戦いで会津藩は壊滅状態となり、仙吉も子分のいろは幸太郎ら15、6人を残して、残りの荷駄隊隊員全員に功労金を支払い荷駄隊を解散させた。その仙吉に対して会津藩も労をねぎらい任務を解いた。

 (3)、遺体の収容

  ・任務を解かれたが、仙吉は戦死した会津兵の遺体を収容する仕事をやりたいと直訴した。会津藩は仙吉に千両箱を渡し、仙吉はこの金を使って会津藩だけでなく官軍側の戦死者の遺体を収容し、砲弾によって穴があいた道路を補修し、落ちかかった橋の改修工事を敵陣からの妨害などにあいながら命がけで行った。そして、仙吉は自ら会津まで行き、回収して荼毘に付した遺骨を届け「会津藩兵の遺体を全部収容した」ことを報告してお役御免となった。

8、仙吉の明治

 (1)、戦犯

  ・仙吉は遺体の収容作業が終わった後、博徒の親分として鳥羽伏見の戦いに加わり官軍と応戦した戦犯として捕まり連行された。この時裁判にあたったのが、明治新政府で警察制度を作ることになる、当時新政府民政局長官を務めていた川路利良であった。川路は「無罪放免」の判決を出した。

 (2)、妻の死

  ・遺骨を届けた後、仙吉は会津から大阪高津の自宅に帰ったが、妻小富は二人目の子どもを身ごもり、難産で体力を使い果たし死亡していた。次男の辰之助は九州博多の博徒の親分の所に養子に出し、仙吉は長男の卯之松を連れて京都に戻った。

 (3)、結婚

  ・かつて、蛤御門の戦いで孤児となったユカという幼女をいろは幸太郎が救って仙吉のもとに連れて来たことがあった。仙吉はこの子の養育を知り合いの祇園の女将・よねに頼み、養育費として大金を渡した。成長してユカは祇園で芸者をしていたが、京都に戻った仙吉はこのユカと結婚をした。20歳の年の差婚であった。このユカとの間に仙之助が生まれた。

 (4)、絶頂期

  ・この頃の会津小鉄会の縄張りは、京都を中心に滋賀、大阪、神戸へと拡がり、直系の子分は2000人、孫子分まで合わせると12000人という巨大組織となっていた。各地の賭場から仙吉のもとへ1日150円(現在の貨幣価値で5000万円)が上納されていたともいう。明治9年(1876)、京都市左京区北白川吉田町1丁目に仙吉は約2400坪の大豪邸を建造した。

 (5)、教育への投資

  ①、「小鉄学校」

   ・激動の幕末維新期において、孤児が多く発生した。仙吉はこのような子どもたちの収容施設を作った。当時の人はこれを「小鉄学校」と呼んだ。

  ②、同志社大学の建学資金

   ・新島襄の妻八重の実父が会津藩砲術師範であったことから、会津藩と縁の深い仙吉は知り合いであった。この関係で、新島襄が同志社英学校(現同志社大学)を建学するときに、今の金で1億円ほどを提供し、さらに自宅近くに一軒家を買い、同校の学生をここに住まわせて衣食住の面倒をみた。

9、仙吉の死

 (1)、明治の博徒大刈込

  ・明治17年(1884)、賭博犯処分規則制定された。所謂明治の博徒大刈込である。この前後は明治新政府が博徒を大弾圧する時期であり、仙吉も明治16年(1883)に逮捕され、賭博開帳罪と博徒招結罪で重禁錮10ヶ月罰金100円の判決を受けた。

 (2)、仙吉の死

  ・仙吉は10ヶ月の刑期を務めて出所したが、この時別人のように衰え、すぐに京都大学の附属病院へ入院した。明治19年(1886)、死を悟った仙吉は得度をして僧籍に入り、その後死亡した。享年53歳。

 (3)、守られなかった遺言

  ・仙吉の遺言は「ユカ、極道はワシ一代でいい。仙之助、卯之松、堅気になれよ。いろは(幸太郎)よ、頼んだぞ・・・・・」であった。しかし、遺言に反して仙之助は家出をしその行方は永遠に不明のままとなり、卯之松は会津の小鉄の二代目を継いで極道となった。

<参考文献>

 『警鐘PART2』(髙山登久太郎、ぴいぷる社、1993)

ヤクザ人物史 山本広

1、出生

 ・山本広は、大正14年(1925)に兵庫県淡路島で、出口千代吉の三男として生まれた。出口家は半漁半農で貧しかったので、二歳の時に姉の嫁ぎ先の山本家に養子に出された。山本家は経済的にも恵まれていたので、何不自由なく育ち、中学校卒業後は三菱電機の工員になった。ヤクザになる者は、たとえ就職をしても遅刻欠勤などトラブルを起こす場合が多いが、山本は勤務ぶりも真面目であったという。

2、戦争

 ・戦争がはじまると、山本も昭和17年(1942)に志願して徴兵検査を受け、呉の海兵団に入団し、南方戦線で戦った。

3、土建業白石組へ

 (1)、土建業白石組へ

  ・復員した山本は淡路島に戻り漁や畑を手伝っていたが、知人の紹介で尼崎市にあった土建業白石組の若衆となった。白石組の白石幸吉は三代目山口組組長・田岡一雄と舎弟の関係であり、土建業を営む田岡の企業舎弟のような存在であった。山本は、ヤクザではなく土建業白石組の社員として、真面目に肉体労働に従事した。

 (2)、上栄運輸の監査役へ

  ・昭和25年(1950)に朝鮮戦争が勃発した。兵站基地となった神戸港には特需物資が急増した。これに対応して、港湾荷役会社が次々と設立されたいった。白石も昭和27、28年頃に上栄運輸という会社を設立し、監査役に山本を抜擢した。山本は荒くれものが多い港湾労務者をよく束ね、能吏ぶりを発揮した。

4、ヤクザになる

 (1)、渡世入り

  ・白石は事業家に専念することを望んだ。しかし、神戸港で港湾荷役の仕事を続けるためには、山口組との関係を断つわけにはいかなかった。よって、白石は山本を田岡の若衆に差し出し、能吏を欲していた田岡も山本を受け入れた。山本は、ヤクザしか行き場なくてヤクザになったタイプではなく、有能な企業の役員が白石組と三代目山口組をつなぐパイプ役として渡世入りした形になる。

 (2)、山広組の結成

  ・白石の名代であり、また真面目な能吏タイプの山本は、異例のスピードで出世した。若衆となった翌年には若頭補佐となり、昭和34、5年頃には、田岡の許可を得て、山広組を結成した。資金的なバックは白石がついていたので、山広組は資金が豊富であり、組織はすぐに拡張していった。

5、山口組の最高幹部へ

 (1)、地道行雄の重用

  ・当時の三代目山口組の若頭は、地道行雄であった。地道も、能吏タイプの山本を重用し、実務面では大いに地道を補佐した。また、山口組の全国進出においては、大阪戦争や夜桜銀次殺害事件でそれなりの功績もあげ、明友会事件の時は懲役2年の実刑判決も受けている。

 (2)、梶原清晴の重用

  ・警察の頂上作戦によって、地道は失脚をした。その後に若頭となったのが、梶原清晴であった。梶原時代においても山本は重用され続けた。

 (3)、田岡の裁定によって若頭を逃す

  ・昭和46年(1971)に、梶原は事故死した。後任の若頭をだれにするのかについて、互選をすることになった。結果は、山本広4票、山本健一2票で山本広の勝ちであったが、田岡の裁定によって、山本健一が若頭となることになった。

6、田岡一雄と山本健一の死

 (1)、田岡一雄の死

  ・昭和56年(1981)7月23日、田岡は、関西労災病院で死亡した。享年68歳。

 (2)、集団指導体制

  ・田岡の死後、四代目組長は若頭であった山本健一が予定されていた。しかし、山本健一は大阪刑務所に収監中であったことから、山口組は、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫、益田芳夫、加茂田重政の8人の若頭補佐の合議によって運営されていた。

 (3)、山本健一の死

  ・昭和57年(1982)2月、山本健一は持病の肝硬変を悪化させて、刑の執行停止を受けて民間病院に身柄が移され後に急死した。四代目に内定していた山本健一が田岡の後を追って急逝したことから、山口組内はにわかに混乱をした。

 (4)、山本広派vs竹中正久派

  ①、山本広組長代行-竹中正久若頭体制

   ・昭和57年(1982)6月、暫定的措置として山本広が組長代行、竹中正久が若頭となった。

  ②、山本広「四代目組長」成立

   ・この頃、兵庫県警が田岡の未亡人フミ子を「三代目姐」として、山口組の影の組長とした。これに対して、フミ子が暴力団視されたのは、四代目組長が長く決まらないからだとして、田岡の舎弟達が山本広にはやく組長となることを説得した。山本広もこれに応じて、昭和57年(1982)9月に選挙を行うことまで決定した。

  ③、竹中正久派の反発

   ・山本広の四代目組長就任が決定的になるにつれて、当時神戸地検に勾留中であった竹中正久の留守を狙って選挙を強行するものであるとして、竹中正久派が猛反発をした。こうして、山本広「四代目組長」を選出するための選挙は流れてしまった。

7、四代目山口組と成立と一和会の設立

 (1)、四代目山口組の成立

  ・昭和59年(1984)6月5日、田岡一雄の未亡人フミ子は、定例幹部会で、田岡は四代目組長・山本健一ー若頭・竹中正久を考えていたので、山本健一が亡くなった以上は竹中正久が組長になるべきであるとして、竹中正久を四代目組長に指名した。竹中正久はすぐに就任を承諾する挨拶をした。昭和59年(1984)7月10日、徳島県鳴門のホテルで、竹中正久の襲名式が行われた。

 (2)、一和会の設立

  ・昭和57年(1984)6月5日、竹中四代目が決定したのと同時に、山本広派は松美会事務所に集まって「竹中正久若頭の四代目就任反対」を決議した。その後、山本広、小田秀臣、加茂田重政、溝橋正夫、佐々木道雄、松本勝美が連なって、在阪のマスコミ各社を呼び記者会見を開いた。昭和57年(1984)6月13日、山本広派は山口組の名も代紋も捨て去って山口組を脱退した。そして、従前通り親子盃や兄弟盃を飲み分けて擬制血縁組織を形成した竹中四代目に対して、各組長が同志的に平等に付き合う定例的な会合を持つ組織、同様の実力者による連合組織として、山本を会長に据えて「一和会」を結成した。

8、山一抗争

 (1)、山一抗争の勃発

  ・四代目山口組と一和会は、山一抗争に突入した。

 (2)、竹中正久射殺事件

  ①、意義

   ・昭和60年(1985)1月26日、竹中は、愛人が住むマンションで、ボディーガードをしていた若頭の中山勝正と若衆の南力とともに、一和会山広組のヒットマンの銃撃をうけ、翌日の1月27日に亡くなった。四代目を襲名してからわずか半年と16日後であった。享年51歳。

  ②、一和会側の対応
 
   ア)、行方をくらませた山本広

    ・四代目山口組はすぐに、「今年の事始めは信賞必罰を旨とする」として、一和会への報復に動いた。しかし、敵の大将を討ったにもかかわらず山本は、昭和60年(1985)4月14日の一和会定例会に顔を見せるまで、約80日間一部の幹部にのみ電話番号を教えて連絡を取るのみで、行方をくらませた。

   イ)、見捨てられた後藤栄治

    ・竹中正久襲撃の指揮を執ったのは一和会山広組同心会会長・長野修一であったが、長野に指示をしたのが山広組若頭・後藤栄治であった。指名手配を受け、さらに山口組からも追われる身となった後藤は、山本広にも、二代目山広組会長・東健二にも連絡がつかず、一和会総本部に電話をしても相手にされず、一和会の最高幹部に連絡をしても面倒見切れないと断られてしまい、さらには、後藤組若頭・吉田清澄を四代目山口組弘道会の組員に拉致され追い込まれた。結局後藤は、警察に後藤組の解散届を出し、山口組総本部には詫び状を郵送して、後藤組を解散し自らも含めた後藤組組員全員がカタギとなる旨を伝えた。山本は、戦果をあげた子分達を見捨てる形となってしまった。

 (3)、終結

  ・その後の四代目山口組の猛攻によって劣勢に立たされた一和会は、昭和63年(1988)10月の段階で、山本広、副幹事長・東健ニ、常任幹事・村上幸ニなど30人から50人ほどまでに組員数が落ち込んだ(警察発表では200人であった)。平成元年(1989)3月30日、山本は稲川会本部長・稲川裕紘ら稲川会の幹部達付き添いのもとで山口組本家を訪ね、中西一男や渡辺芳則など山口組執行部に対して竹中らを殺害したことを謝罪し、自らの引退と一和会の解散を伝えた。これで約4年、双方で死者25人、重軽傷者66人、逮捕者は400人を超えた山一抗争が終結となった。

9、晩年

 (1)、居所不明

  ・山一抗争終結後の山本は、居所不明であった。神戸市の自宅に住んでいたとも、神戸を離れて京都周辺にいたとも、山梨県の日蓮宗総本山久遠寺で作務衣姿で庭掃除をしていたとも言われる。また一説によると、竹中組の追手から逃れるため、山口組から5000万円をもらい、山口組や稲川会の支援をうけて各地を転々としていたともいう。

 (2)、逝去

  ・山本は、引退間もない頃から病魔に侵されていた。そして、平成5年(1993)8月27日、神戸市内の病院で亡くなった。享年68歳。最期は「懲役から帰ってくる者たちのことが心配や。誰がどのように出迎えてやるのか、そのことだけが気がかりや」と何度も繰り返していたという。

 (3)、葬儀

  ・山本の遺言で、葬儀は質素に行われた。通夜には元一和会関係者20人ほどが集まったが、葬儀の参列者は親族や知人など78人で、元一和会幹部や山口組関係者の姿はなかった。

10、山本広評

 (1)、四代目山口組舎弟『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)

  「山広は策を弄しすぎる。ヤクザ社会のトラブルを、前々から金銭で解決しようとする傾きがあった。ま、その方が無難な途ではあるけど、四代目としてはどうかな。こういう山広を四代目にしようと担いだ連中は、山広が組長になれば自分たちが便利だからで、トップとしての評価からじゃない。その点、竹中さんには先代の田岡親分と似てるところがあった。田岡親分も若いころ博奕がすきだったけど、竹中さんも博奕一本にかけていた。妙な事件には手を出さなかった。物ごとの処理、解決にあたっても、田岡親分と考えが似ている。結論が早い。ズボラに見えて神経が細かい。人情に篤く組員の面倒見がいい。ひまがあれば、偉い親分にもかかわらず、服役中の若い衆に面会にいく。なかなかできないまねだ。口でいうのは簡単だが。」

 (2)、懲役太郎

  ・懲役太郎さんの山本広評も面白いです。簡単に言えば、現在では山広さんのようなヤクザの方が活躍しているし、時代が早すぎたということです。



 (3)、鈴木智彦(『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019))

  ・鈴木氏の山本広評も懲役太郎さんと同じで、平時の能吏であるが乱世の大将タイプではなかった、山口組のリーダーになるには時代が早すぎた、というものです。「もしいまのような平和共存路線のなかで組織のトップになっていたら、山広は稀有な親分と呼ばれていたかもしれなかった。他組織と密接に付き合い、良好な関係のなかで組織を維持していったはずだ。共同体のリーダーが内部評価によって公平感と安住感を乱さないというなら山広は誰よりもその資質を持っている。こういった状況では意思決定の迅速さや命令の徹底など強さの要素はなにもいらない。平時なら山広ですべてうまくいった。山広に親分の器がないというなら、彼より遥かにひどい親分はたくさんいる。かえすがえすも山広は、時流と自分の才能を読み間違えたとしか言えない。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。必要以上に山広を非難するのはあまりにも不当なのだ」。

 (4)、山之内幸夫

  ・山之内氏は、竹中正久襲撃事件に若頭、そして四代目組長になる機会を二回も反故にされた山広さんの「ヤクザ山本広」としての意地を指摘します。よくヤクザに穏健派はいないといわれますが、ヤクザとしては穏健派であっても、一般人と比較すればヤクザはみな武闘派です。



<参考文献>

『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019)
『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)
『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
『ヤクザの死に様』(山平重樹、幻冬舎、2006)


ヤクザ人物史 関口愛治

1、出生

 (1)、養子に出されることが決まった上での出生

  ・明治30年(1897)、群馬県甘楽郡磐戸村(現南牧村)の茂木家で四人兄弟の末っ子として生まれた。茂木家はもともとは名主であったが、関口が生まれる頃には没落しており、関口は生まれる前から長野県北佐久郡横根村(現佐久市)の関口家へ養子に入る事が決まっていた。4歳になったときに裕福であった関口家へ移った。育ての母である関口オソは祈祷師であったので、関口も幼いころは母とともに全国を旅に回った。

 (2)、少年時代

  ・尋常小学校時代の関口は「喧嘩大将」のあだ名を持つ暴れん坊であったが、他方勉強もできた。多くのものは経済的な事情も相まって丁稚奉公や女工となっていったが、関口は高等科へと進学した。

2、演歌師になる

 (1)、横浜へ

  ・明治43年(1919)、関口は生家である茂木家の長男・量太郎を探すために、13歳の時に関口家を出奔し横浜へ行った。横浜をフラフラしているとテキヤ・桜井庄之助の一家の者たちが声をかけてきた。関口は住む場所もなく財布の中身を底をついていたので、彼らが定宿とする木賃宿へと移った。この時の桜井の若い衆たちは14、5歳であったというので、当時のテキヤは家出少年の受け入れ先であったようである。

 cf.家出少年とテキヤの関係については懲役太郎さんが解説されています。



 (2)、演歌師になる

  ①、演歌師とは

   ・演歌師とは、演歌を街中で歌い唄本を売り歩く職業である。最初は政治的な歌を学生がバイオリン片手に書生姿で歌っていたが、やがて男と女の艶っぽい歌を歌うようになり、演歌師も苦学生のアルバイトから職業の演歌師へと変わっていった。他方で、演歌師が艶っぽい歌を歌うに従い堕落する者が多くなり、不良分子も多くなっていた。

  ②、演歌師になる

   ・関口は演歌師になることにした。桜井の若衆に頼み込んで、古いバイオリン、「唄本」、書生風のオカマ帽子と袴を用意してもらい、横浜伊勢佐木町で演歌を歌い始めた。

 (3)、浅草へ

  ・関口は、兄・量太郎が住む浅草へと移った。量太郎はもともと満州にわたって馬賊になろうとしたが失敗し、浅草に住みながら演歌を書いて生計を立てていた。量太郎が博奕好きであったこともあって、量太郎の家には博奕打ちも集まるようになっていた。後に量太郎は再び資金を集めて満州に渡っていった。

 (4)、親子名乗りの盃

  ・関口は18歳の時に、桜井と「親子名乗りの盃」を交わし、正式に桜井の子分となった。後に桜井は、大正5年(1916)に横浜を離れて沼津へ移り、大正10年(1921)に「沼津桜井一家」(のちに「東海道桜井一家」)と称した。

3、テキヤ稼業と災害支援

 (1)、演歌師から街頭商品のネタ元やイベントプロモーターへ

  ①、街頭商品のネタ元

   ・演歌師はラジオや蓄音器ができ、稼ぎの場が狭くなっていった。そこで関口は、「頭の良くなる本」「ナニナニの商売で大もうけする法」といった他愛もない印刷物を商品化したり、「けったい石鹸」「簡単電灯カバー」といったアイディア商品を作る街頭商品のネタ元のような商売にシフトしていった。

  ②、イベントプロモーター

   ・関口は巣鴨で、「日本はおろか、極東大陸の珍品ズラリ・・・・・露店大披露大売出し」という催事をした。ズラリとテキヤ連中が店を並べ、至るところで演歌師が歌を歌って景気づけ、商品というかガラクタというか安い掘り出し物がふんだんにあるイベントで、ここで関口は「極東」という文字をはじめて使った。

 (2)、災害支援

  ・関口は、大正6年(1917)に東京を襲った大型台風や、大正12年(1923)の関東大震災の時に、仲間を糾合して被災者の救済にあたった。

 (3)、大日本神農会の発足

  ①、意義

   ・大正13年(1924)に大阪で全国行商人先駆者同盟が、東京でも大正15年(1926)に大日本神農会が飯島一家の山田春雄の発案で結成された。関口もこのとりまとめ役として活躍した。

  ②、背景

   ・関東大震災によって多くの失業者が出た。そこで警視庁は失業者対策として、失業者が露天商となる道を作った。これに対して既存の露天商たちが苦しい立場に追い込まれたので、既存の露天商が組合を結成した。しかし、両組織はすぐに消滅してしまった。

 (4)、極東秘密探偵局設立

  ・昭和2年(1927)、関口は極東秘密探偵局という探偵社を大塚に設立した。設立動機、活動実態、活動内容もベールに包まれた会社で、後年まで関口からこれらが明らかにされることはなかった。

4、山形事件

  ・昭和5年(1939)、関口は兄弟分であった尾津喜之助のために、敵対していた高山春吉殺害に加わり、殺人教唆罪で約10年間の獄中生活を送った。

   →山形抗争

5、戦後

 (1)、池袋・新宿へ

  ・極東桜井一家関口は、正規の庭場を持っていなかった。関口は戦後、東京池袋に拠点を築き、兄弟分であった尾津のすすめもあり新宿へも進出していった。昭和26年(1951)にGHQの団体等規制令によっていったん解散するが、「極東クラブ」「極東愛桜会」などと名称をかえて存続した。

 (2)、極東愛桜連合会

  ①、結成

   ・昭和36年(1961)に横浜の飴徳、沼津の桜井、東京の関口の三本柱を中心に、他に山形の研谷一家や三重の橋本組など東日本一帯のテキヤを一本化して極東愛桜連合会が結成された。総帥は関口が、会長はのちに関口本家三代目を継承する小林荘八が務めた。この頃が極東一門の全盛期であった。

  ②、解散

   ・昭和41年(1966)頃の極東愛桜連合会は、一都一道二府二十四県、185団体4516人と巨大組織となっていた。他方、昭和39年(1964)に始まった第一次頂上作戦によって、既存のヤクザ組織は次々と解散をしていった。極東愛桜連合会も、昭和42年(1967)に会長の小林から極東愛桜連合会の解散が発表された。さらに同じ年に、関口も亡くなった。享年70歳。

 (3)、神農界の大親分

  ・関口はテキヤの全国組織である日本街商人組合連合会の会長、東京街商協同組合最高顧問をつとめるなど、神農界全体の発展のためにも多大な功績を残した。

<参考文献>

『極東会大解剖』(実話時代編集部、三和出版、2003)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)


ヤクザ人物史 三木恢

1、揺れる青少年時代

 (1)、出生

  ・三木は昭和13年(1938)に5人兄弟の末っ子として朝鮮で生まれた。父は朝鮮で炭坑を所有していたが、敗戦後日本に引き揚げて、東京の中野で税務法律事務所を開いていた。三木はアウトロー気質が強かったが、一方で裕福で親の愛情を受けて育った。三木はこの両極を揺れながら青少年時代を過ごしてゆく。

 (2)、小中学校時代

  ・三木は小学生の頃から熱心に柔道に取り組んだ一方、地元の悪ガキ達とグループを作って喧嘩にあけくれた。

 (3)、高校時代

  ①、巣鴨高校へ

   ・三木は、当時不良が集まる学校であった巣鴨高校に進学した。

  ②、石神井高校へ

   ・三木は弁が立ち頭もよかった。まっとうな大人になってほしいという親の意向であろうか、編入試験を受けて巣鴨高校から当時は進学校であった石神井高校へと編入した。入学当初は真面目に勉学にいそしみ成績もよかったという。しかし、級友がヤクザと関係を持つ上級生に殴られ、三木に救いを求めてくる事件が起こった。三木はその上級生を呼び出して殴ったが、これにより父兄や教師からつるし上げられ学校をやめてしまった。「学校なんていい加減なものだし、正しいことが必ずしも世の中をとおらない」。三木はアウトローへと振り切った。

  ③、京王商業へ

   ・三木は親の強い要望によって京王商業へと入学したが、学校にはほとんどいかず喧嘩三昧の日々をすごし、やがて京王商業の番長となった。三木たちのたまり場がとある右翼の家であった。鷺宮から新宿に進出しようとしていた三木は、後ろ盾となるヤクザ組織を紹介するように頼んだが、三木の母親から学校に行くように説得してくれと頼まれていたとある右翼はこれを拒み続けた。自力で新宿へ進出する道を三木は模索した。

2、新宿進出

 (1)、歌舞伎町へ

  ・新宿の縄張りは、JR新宿駅東口が尾津組、南口や中央口が和田組と野原組、西口が安田組、要通り方面が極東組(現極東会)、新宿二丁目が博徒の小金井一家とヤクザ組織が根を下ろしており、新興勢力の愚連隊が入り込む余地はなかった。しかし、戦前は住宅街であり戦後になってから繁華街として開かれてきた歌舞伎町は、確かに系譜的には小金井一家の縄張りではあるが確立はしておらず、入り込めるスキがあった。ここに入り込んできたのが二幸(現アルタ)裏の塚原一派をバックにもつ愚連隊の西武グループであった。

 (2)、陳八芳との出会い

  ①、東声会とは

   ・東声会は、昭和32年(1957)に、町井久之によって創設された右翼的青少年不良グループである。東声会新宿支部長は二村興業を率いた二村昭平であり、台湾出身の陳八芳も町井の舎弟となって歌舞伎町の職安裏に事務所を出していた。

  ②、陳との出会い

   ・三木一派2人が西武グループにリンチをうけてる最中に、たまたまそこを通りかかった陳が仲裁をするという事件が起こった。この報告を受けた三木は、陳の舎弟となり、陳の事務所の最高責任者となった。新宿進出の後ろ盾=陳八芳を得たのである。

 (3)、西武グループとの戦い

  ・当時歌舞伎町を仕切っていた西武グループに対して、三木一派は十数人ほどしかいなかった。ここで三木は巧みに西武グループのリーダーを誘い出して、二人で決闘をすることに成功した。この決闘に三木は勝利し、西武グループは分裂、三木一派は新宿歌舞伎町に大きく進出し、山手学生クラブと名乗った。

 (4)、三声会へ

  ・三木の周りにはやがて不良たちが集まってきた。これ以上の組織拡大を目指して、昭和31年(1956)、不良たちは互選で三木を代表に選出し、組織名を「三声会」とした。三声会は三木のカリスマ性によって結成された組織ではなく、仲間思いで優しく気遣いができる三木を不良たちが担ぎ上げた組織である。三声会は一人の相手に対して多人数で襲い掛かる手法で喧嘩に明け暮れ、歌舞伎町一の不良グループへと成長した。

3、三声会

 (1)、意義

  ・三木はメディアのインタビューによく答えた。「オレに仁義もいらない。ナワ張りもない。ケンカだけだ。あの場所が金になると思えば、そこに行くだけだ」「極東のナワ張り?そんなもの法律にあるわけでもなし」とうそぶき、既存のヤクザ組織の縄張りどどんどん侵していった。

 (2)、会員

  ・三声会の会員の6割が高校生であり、あとは中退組、無職、チンピラ、バーテンやボーイなどであった。仲間意識で集まった不良たちの緩い組織であったので、最盛期には500人ほどになった。

 (3)、シノギ

  ①、用心棒代

   ・三声会の会員たちは、ヤクザが用心棒を務めているバー、キャバレー、喫茶店などに50、60人で押しかけては大声で騒ぎだし、ヤクザが三木を襲うと数百人の三声会会員によって襲い返しリンチを加えた。この手法により従来ヤクザに用心棒代を納めていた経営者たちは、三声会へと用心棒を鞍替えした。さらに、これら歌舞伎町の飲食店の経営者たちと江ノ島の海の家を買い、食べ物屋台、貸しボート、ダンスパーティーなどを行った。

  ②、賭博

   ・歌舞伎町を縄張りとする博徒小金井一家に挨拶を入れずに、三木は歌舞伎町で賭場を開帳した。

  ③、パチンコ店の景品買い

   ・新宿駅東口や歌舞伎町のパチンコ店の景品買いもシノギとした。

4、三木の死

 (1)、三声会会員刺殺事件

  ①、意義

   ・法律に書いてないとして三声会はどんどんヤクザのテリトリーを侵していった。しかし、三声会の強引な割り込みに、はじめは大目に見ていた既存のヤクザ組織もだんだん防衛に乗り出していった。ここで三声会潰しに動いたのが、旧西武グループを糾合した二幸裏の塚原一派系統である青龍会であった。

  ②、事件

   ・昭和34年(1959)9月、三声会会員が青龍会の人間に刺殺された。三声会は青龍会会長を拉致したが、東声会幹部の命令によって青龍会会長を解放した。後日、関東の大親分の仲裁によって正式にこの事件は手打ちとなったが、この後、断続的に三声会と青龍会は衝突を繰り返し、十数件に及ぶ死傷事件が起こった。

 (2)、三声会の解散

  ・東声会は、三声会に解散を指示した。三木は幹部たちに解散の旨を伝えたが、三声会の会員たちは誰も東声会の指示に従う者はいなかった。もはや三声会は三木にすら統制できない状態となっていた。

 (3)、三木の死

  ①、事件

   ・昭和36年(1961)10月、三木は兄弟分であった港会組員・福岡幸男に射殺された。享年23歳。

  ②、背景

   ・警察は、縄張り争いではなく感情的なもつれが原因であるとした。福岡が歌舞伎町の深夜喫茶に入ってきたところ、東声会の若い男と肩がぶつかり口論となった。そこに陳の子分も現れて福岡を殴った。これに激高した福岡はピストルを持ち出し仲間を連れて再びこの店に戻ってきた。三木はこの紛争の話し合いに参加し、胸を撃たれて即死した。さらに福岡は、この店にいた陳らも銃撃し、陳は死亡、三声会幹部二人が重傷を負った。

  ③、その後の三声会

   ・三木の死後、東声会と港会の間で緊迫した状態が続いたが、10月半ばに手打ちとなった。その後、三声会のほとんどの会員は歌舞伎町から姿を消し、一部の会員は東声会へと合流したという。

<参考文献>

『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019)
『愚連隊伝説』(洋泉社MOOK、1999)
『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、 イースト・プレス 、2011)
『歌舞伎町アウトロー伝説』(溝口敦他、宝島社、2014)




ヤクザ人物史 石井隆匡

1、来歴

 (1)出生

  ・大正13年(1924)、石井は姉1人、弟3人の五人兄弟の長男として生まれた。実家は、蕎麦屋「朝日庵」を経営していた。子どもの頃から賢く、旧制鎌倉中学(現・鎌倉学園高等部)へ入学するが、三年生の時に修学旅行先で喧嘩をし、相手に怪我を負わせてしまったことから退学処分をうけ、不良の世界へ足を踏み入れた。

 (2)、戦時中

  ①、横須賀海軍工廠へ

   ・石井は戦時中、横須賀海軍工廠の造船部設計重量係という、艦船部品のトン数を計ったりする業務をしていた部署で働いた。なお、後に石井と五分の兄弟盃を交わすことになる三代目山口組若頭・山本健一も、この当時横須賀海軍工廠の航海実験部で働いてたという。

  ②、人間魚雷「回天」隊

   ・石井は横須賀海軍通信学校へ入学し、同期トップクラスの成績で、昭和20年(1945)、八丈島の人間魚雷「回天」隊の通信兵となり、同基地で終戦を迎えた。

 (3)、愚連隊時代

  ①、石井グループの結成

   ・横須賀に復員した石井は、戦時中に横須賀の不良少年の中ではカリスマ的存在であった田島軍司から紹介された宮本廣志とともに、愚連隊石井グループを結成した。

  ②、末永グループとの喧嘩

   ア)、喧嘩の勃発

    ・横須賀のダンスホールで宮本と、愚連隊末永グループのリーダーである末永孝大がの仲が不穏となった。仲裁者によって喧嘩は避けられたが、末永グループは宮本宅を急襲し、寝ていた7人が重軽傷を負った。

   イ)、石井グループの勝利

    ・末永は、石井に喧嘩の仲裁を依頼し、他方で横須賀のヤクザである石塚組組長・石塚義八郎の盃も受けた。さらに、末永のアジトへ石井グループの広崎浄吉が殴り込みに行くと、末永は広崎を人質にとって、宮本へ一人で人質を引き取りにくるように連絡してきた。この行為が石塚の逆鱗に触れ、末永は破門・横須賀所払いとなった。

  ③、ヤクザになる

   ・横須賀港の港湾荷役の仕事を一手に担ってたのは、横浜四親分の一人である笹田照一(双愛会の始祖)系の会社である相模船舶であり、石塚はその下請けとしてもっぱら沖荷役を請け負っていた。石井はこの石塚から盃をもらうことによって、渡世入りした。石塚は石井に全幅の信頼を寄せ、代貸の地位を与えた。石塚組の主力は石井グループであった。

 (4)、稲川一門へ

  ①、終戦後の横須賀

   ・終戦後の横須賀には、博徒では横須賀一家や大島一家、テキヤでは浅草の新門辰五郎の流れをくむ新門一家や羽田一家などが存在していたが、宮本や広崎のほかに、角田吉男、伊藤大太郎、稲沢和男、桜井盛也、村田忠、大瀬健一といった錚々たるメンバーが集う石井隆匡一派が、最大勢力となっていた

  ②、石塚の引退と稲川一門へ

   ア)、稲川一門へ

    ・昭和30年、石塚はヤクザを引退した。石塚は石井に、一本独鈷で行っても他の組へ行っても自由にしてよいと言い、これを受けて、かねてから誘われていた横浜愚連隊四天王の一人であり稲川聖城の若い衆であった井上喜人と五分の兄弟分の縁を結び、稲川聖城の若い衆となった。

   イ)、稲川の息子裕紘を預かる

    ・稲川は、横浜、小田原、川崎を次々と勢力下に入れ、昭和34年には東京に稲川興業の看板を掲げ、同年に鶴政会を結成した。この頃石井は、稲川の依頼によって、稲川の息子である裕紘を横須賀の自宅で預かり、何人かの若者と一緒に部屋住みの修業をさせた。裕紘は昭和37年(1962)に勃発した甲府抗争にも参戦した。

  ③、井上喜人問題と石井の断指

   ア)、井上破門問題

    ①、横山と児玉の警告

     ・稲川が渡世に入門したときから兄事する横山新次郎が稲川に、井上が稲川に断りなく稲川の名前を使って、総長クラスを集めて賭博を開帳し荒稼ぎをしていること、さらに井上が俺あっての稲川であり鶴政会であると放言していることから、井上を破門するように忠告した。同様に、稲川が「心の親」と慕う児玉誉士夫もまた井上に注意しろと警告をした。稲川は井上の破門を考えるようになった。

    ②、石井の断指

     ・昭和38年、石井は兄弟分である井上の破門に対して、自らの左小指を切断し、破門をせぬように稲川に懇願した。稲川はこれを受け入れ、井上の破門は回避された。

   イ)、井上の引退

    ①、東声会会長・町井久之とのトラブル

     ・石井断指から2ヶ月後、井上は赤坂のナイトクラブで、東声会会長・町井久之とトラブルを起こした。井上は町井への報復を決意し、石井と横浜の山田一家・山田時造に連絡を入れた。

    ②、和解の成立

     ・石井一統と山田一家の混合軍4人が、町井行きつけの銀座のクラブで襲撃することなった。彼らがアジトで町井襲撃の機会をうかがっている間、児玉が稲川と町井に喧嘩の仲裁をする旨を申し出た。稲川は井上が町井を襲撃しようとしていた事すら知らなかったので、すぐに両者の和解が成立した。

    ③、井上の引退

     ・井上の失態に破門の話もあったが、石井が井上を説得して、井上は引退しヤクザ渡世から去った。

  ④、横須賀一家五代目総長襲名

   ア)、政治結社錦政会

    ・昭和38年、稲川聖城は鶴政会を錦政会と改称し、政治結社として届け出た。石井は錦政会の組織委員長に就任した。

   イ)、横須賀一家五代目総長襲名
 
    ・同じく昭和38年に、石井は横須賀のホテルで、盛大な横須賀一家五代目継承式を挙行した。横須賀一家は明治から横須賀を中心に三浦半島に盤石の地盤を築く金筋博徒の名門組織であった。しかし、三代目・稲葉多吉が亡くなって以来数年間、四代目の座は空席であった。そこで、横須賀一家の安浦町の賭場を仕切る木船与重郎ら横須賀一家の長老たちは、石井に四代目の白羽の矢を立てたが、石井は「四」という数字を嫌って、四代目を横須賀一家の鈴木伊之助に継承してもらい、自らは五代目を襲名した。

 (5)、第一次頂上作戦と巽産業の設立

  ①、意義

   ・昭和39年、警察庁は「組織暴力犯罪対策本部」を設置し、暴力団全国一斉取り締まりに乗り出した。「頂上作戦」の始まりである。この結果、広域ヤクザ組織は軒並み解散をし、錦政会も解散をした。

  ②、石井の逮捕

   ・第一次頂上作戦において、現行犯逮捕が原則とされていた博奕が、非現行でも逮捕する方向に変わった。これによって、昭和39年に住吉一家三代目阿部重作へのご祝儀博奕として開催された総長賭博をはじめ、石井も2回逮捕された。

  ③、土建業巽産業設立

   ・出所後石井は、「いつまでも博奕だ、やれみかじめ料だ、カスリだなんて言ってたんでは時代に乗り遅れてしまう。(中略)まずは税金を払えるヤクザにならなきゃな。オレもな、今後は本格的に事業に取り組もうと思っている」として、横須賀に土建業巽産業を設立した。社長は石井、副社長が宮本、専務は北川義雄であった。北川はこの後、石井の事業面での番頭格となった。

 (6)、稲川会理事長へ

  ・昭和39年の総長賭博によって、稲川も賭博開帳図利罪で懲役3年の刑を務めた。昭和47年に出所した稲川は、それまでの稲川組を稲川会と改称し、自ら初代会長となり、理事長には石井を就ける新人事を行った。さらに、富士に稲穂を型どった新しい代紋を使い始め、また稲川会本部事務所を東京都港区六本木に設置した。

 (7)、山口組との関係

  ①、山本健一と兄弟分になる

   ア)、三代目山口組若頭・山本健一との出会い

    ・昭和46年、山本健一は事故死した梶原清晴の後任として、三代目山口組の若頭に就任した。その直後、浅草の神農系山春三代目一門の坂本明の仲立ちで、山本と石井は出会った。

   イ)、兄弟盃

    ・昭和47年、神戸の田岡一雄邸で、石井と山本、それに稲川会専務理事・趙春樹と三代目山口組若頭補佐・益田佳於とがそれぞれ五分兄弟盃を交わした。

  ②、山一抗争

   ア)、長期服役

    ・昭和51年に東京都内の会社社長らを韓国釜山市内のホテルでのバカラ賭博に誘い、帰国後に負けた客たちから厳しい取り立てを行った容疑で、石井は昭和53年に逮捕され、懲役5年の判決が下った。さらにこの直後、中小企業の経営者らを相手に無許可で無尽講を開いたとしても逮捕され、相互銀行法違反として懲役1年の判決が下った。石井は昭和53年から昭和59年の合計6年、長野刑務所で服役した。

   イ)、山一抗争の始まり

    ・石井が服役している最中の昭和56年、三代目山口組組長・田岡一雄が逝去し、後を追うように石井と兄弟分の山本も昭和57年に逝去した。四代目山口組組長候補であった山本の死によって山口組内は、組長代行であった山本広派と若頭であった竹中正久派による争いが勃発し、昭和59年に竹中正久が四代目組長に就任したことによって、山本広派は山口組を脱退して一和会を結成した。両組織は激しく抗争を展開した。

   ウ)、稲川の仲裁

    ・山一抗争をきっかけとして警察のヤクザへの締め付けが厳しくなり、山口組以外のヤクザもシノギに事欠くようになっていた。よって、全国のヤクザ組織の総意という形で、稲川が山一抗争の仲介を担った。両組織は和解のムードとなったが、昭和61年(1986)に起こった、竹中四代目の命日に墓前で、四代目山口組竹中組柴田会の若手組員二人が墓の掃除をしようとしていた所、近くの墓石に隠れていた一和会加茂田組二代目花田組組員に射殺された事件によって、和解ムードは吹き飛んでしまった。

   エ)、石井の仲裁

    ・昭和59年に出所した石井が、出所後の一番最初の大仕事としたのが、山一抗争の解決であった。和解ムードが吹き飛んだあとでも石井が奔走し、四代目山口組側に粘り強く説得にあたった。他方、一和会側への説得は会津小鉄会総長代行・高山登久太郎があたった。昭和62年に四代目山口組側が抗争終結を宣言し、これをうけて一和会側も抗争を終結を受け入れた。

   オ)、一和会の崩壊

    ・昭和63年、一和会会長・山本広宅に消火器爆弾と手投げ弾が投げつけられる事件が起こった。これ以後、加茂田組をはじめ一和会の有力組織が相次いで脱退してゆき、一和会は崩壊をした。

   カ)、稲川裕紘の仲裁

    ・山一抗争を完全終結させるべく、石井と高山、それに稲川会本部長になっていた稲川裕紘が、「一和会解散」「山本広会長引退」の線で動き、平成元年3月に稲川裕紘に付き添われて山口組本部を山本広が謝罪に訪れて、山一抗争は終結した。



 (8)、稲川会二代目会長へ

  ①、二代目会長へ

   ・稲川は田岡の跡目でもめている山口組を見て、自分が元気なうちに跡目を決めておこうと思い、候補者を石井か石井の服役中に理事長職を務めた趙春樹にしぼった。昭和60年に稲川は総裁となり、二代目会長を石井に決めた。その他、会長代行に趙、理事長に長谷川春治、副理事長兼本部長に稲川裕紘という人事になった。

  ②、壮大な継承式

   ・昭和61年、熱海の稲川会本家で、石井の二代目会長承継式が挙行された。この承継式には、日本全国からヤクザ界を代表する親分衆が出席をした。

 (9)、会長職を稲川裕紘に譲る

  ①、脳梗塞で倒れる

   ・平成元年、石井は稲川会の幹部や関係者20人とともにメキシコへ旅行に出かけたときに、脳梗塞で倒れた。平成2年には慶應義塾大学病院で手術をし、無事成功したが、その足で稲川聖城に引退し、跡目は稲川裕紘に譲る旨を伝え同意を得た。

  ②、会長職を譲る

   ・平成2年10月10日、熱海の稲川本家大広間で、稲川会三代目継承式が執り行われ、理事長・稲川裕紘が三代目会長に就任した。石井は事業に専念し、小佐野賢治のような事業家を目指した。

 (10)、最期

  ①、事業の破綻

   ・石井は東急電鉄株の大暴落によって、資金繰りが悪化していった。平成3年には、東京佐川急便の渡辺広康や、川崎定徳の佐藤茂と会い、自らの事業の破綻を前提とした事後処理を話し合った。

  ②、証券スキャンダル

   ・石井の東急電鉄株買い占めに野村・日興両証券の子会社から巨額の融資がなされていたことが発覚し、ここから証券スキャンダルに発展していった。野村・日興両証券は非難を浴び、さらには四大証券と準大手、中堅など各社が大口顧客に損失填補を行い、さらには野村證券の東急株の株価操作も明らかとなった。これによって、野村・日興両証券会社の社長は引責辞任をし、証券界のドンと言われた野村證券元会長田淵節也と日興証券元社長岩崎琢弥の国会での証人喚問にまで至った。

  ③、最期

   ・証券スキャンダルの真っただ中、平成3年4月に石井は再び慶應義塾大学病院へ入院し、9月3日に亡くなった。享年67歳。



2、経済ヤクザ・石井隆匡

 (1)、東京佐川急便社長・渡辺広康との出会い

  ①、出会い

   ・石井は、昭和59年に出所してから4ヶ月後の昭和60年、出所祝いの祝儀金などを資金にして、不動産会社「北祥産業」を設立し、本格的に事業に取り組みだした。この北祥産業の社長に据えたのが花庄伸政であり、この花庄から石井は、もともと北星会会長・岡村吾一の秘書をつとめていた矢車某を紹介された。石井はゴルフ場の経営と海外でのホテル経営をしたい旨を伝えると、矢車某が石井に紹介したのが東京佐川急便社長・渡辺広康であった。

  ②、皇民党事件

   ア)、中曽根の後継者争い

    ・昭和62年、自由民主党総裁であった中曽根康弘の後任をめぐって、安倍晋太郎、宮澤喜一、竹下登が争っていた。そんな中、稲本虎翁総裁率いる日本皇民党が「偉大な政治家竹下登先生の新総理擁立に立ちあがよう」と言ったほめ殺しの街宣を始めた。中曽根の「右翼一つ抑えられなくて総理総裁もないだろう」という発言によって、竹下サイドはなんとしても日本皇民党の街宣をやめさせなければならなくなった。

   イ)、金丸→渡辺→石井→三神

    ・副総理の金丸信は渡辺に日本皇民党の街宣をやめさせるように依頼し、稲本はもともと三代目山口組白神組の幹部から右翼活動家へ転身した者であったので、渡辺はこれを石井に依頼した。石井は古くからいい付き合いをしている四代目会津小鉄会四代目荒虎千本組組長・三神忠が、稲本とは20年来の付き合いであることから、三神に稲本のへの仲介を依頼した。

   ウ)、石井・稲本・三神会談

    ・三神を通して稲本と会った石井は、街宣をやめるように依頼した。その後も三神が粘り強く説得をし、稲本は、竹下が親の田中角栄を裏切り、しかも田中が病気で伏せっている時に、その財産を掠め取って経世会を作ったが許せないと主張し、竹下が反省の意を示すならば街宣をやめてもよいとした。

   エ)、竹下の謝罪

    ・竹下は、目白台の田中角栄邸へ謝罪に出向き、門前で待っていた田中の信頼が厚い参議院議員・長谷川信に「ご迷惑をおかけしました。明後日、総裁選に立候補します。なにとぞ田中先生によろしくお伝えください」と告げた。この姿はマスコミを通じて大きく報じられたが、これ以後日本皇民党の街宣はピタリと止まった。その後竹下は、中曽根から後継指名され、内閣総理大臣に就任した。

 (2)、バブル期の不動産事業

  ・石井は、渡辺本人やその知人のヤクザとのトラブルを解決したり、皇民党事件では渡辺の依頼により皇民党の街宣を辞めさせることに成功したりと、渡辺の信頼を勝ち取っていった。他方渡辺も、石井に佐川急便の集荷場を建設するための用地買収の仲介を依頼したり、資金的なバックとなって4900億円もの債務保証をしたりと石井の事業を支援していった。さらに、バブル期の地価急騰もあって、石井は西新宿で手広く地上げをしたり、茨城の岩間カントリークラブを手始めにゴルフ場建設事業に着手したりと、昭和60年から昭和63年頃はやる事業みな当たっていった。不動産会社「北祥産業」は東京麹町に地上六階建て地下一階の北祥産業ビルを建てるまでとなり、北東開発、佳仙産業、ダイシンとつぎつぎと会社を設立し、一気に事業を拡大していった。

 (3)、投資事業

  ①、はじまり

   ・石井の投資事業への関りは、昭和52年に平和相互銀行創業者小宮山英蔵側近であり、海軍通信学校時代の石井の後輩であった不動産会社社長から、投資家集団・誠備グループの加藤暠(あきら)を紹介されてからであった。

  ②、東急電鉄株の買い占め

   ア)、株の買い占め

    ・平成元年4月、石井は仕立集団「光進」代表小谷光浩の指南で、野村・日興両証券を通じて、東急電鉄株を買い始めた。その資金として、川崎定徳社長佐藤茂名義で発行した岩間カントリークラブの「会員資格保証金預かり証」で、東京佐川急便80億、小谷の企業「ケーエスジー」70億、青木建設50億など、12社1個人から384億を集めつめ、さらには野村證券の子会社野村ファイナンスと、日興証券の子会社日興クレジットからそれぞれ160億円、202億円の融資を受けた。これらの巨額な資金によって、東急電鉄の発行済株式の約3%にあたる3170万株を買い占めた。

   イ)、売り抜けない石井

    ・東急電鉄株は同年11月には最高値をつけ、この段階で売り抜ければ石井は300億以上の利益を得ることが可能であった。しかし、石井は売らなかった。この後東急電鉄株は大暴落し、証券金融からは追加証拠金を求められ、北祥産業をはじめ石井系企業の資金繰りは悪化し、破綻していった。

3、人物像

 (1)、石井は「経済ヤクザ」なのか?

  ・石井をよく知る人は、「石井会長にとって、事業も株も同じ。儲けるとか儲からないということじゃない。勝つか負けるか、根底にあったものは勝ち負け。勝負の発想なんです。」として、石井は「経済ヤクザ」ではなく「根っからの博徒」であるとする。

 (2)、紳士として
  
  ・石井を知る人はみな、石井を紳士然とした実直な人物であったと評する。石井の口癖は「たとえ、合わないと思う人でも広い大きな心を持って人さまと接しなさい。何かあったとしても、相手を『許す』という気持ちがたいせつなんだ。つねに謙虚に何事も控えめに」だったという。

 (3)、信心深さ

  ①、神社仏閣への参拝

   ・石井はどんなに多忙であっても、毎月1日と15日には成田山や身代り不動尊など神社仏閣への参拝を欠かさなかった。

    cf.怒羅権の佐々木さんが石井氏の自宅を訪問されていますが、宗教的な施設が多いですね。


  ②、ポール牧の超能力療法

   ・石井は神秘体験や非科学的な事を信じるタイプであった。よって、病気や怪我を指先で触れるだけで治せるというポール牧の超能力療法を信じ、メキシコで倒れた時はポール牧を呼び寄せた。

 (4)、裏話

  ・懲役太郎さんが、東急電鉄株の買い占めや稲川裕紘三代目との関係について面白い裏話をされています。



4、映像

 (1)、修羅の花道

  ・原作の『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目会長石井隆匡の生涯』に忠実に描かれています。第一話は横須賀一家五代目継承までです。

    石田隆匡(モデルは石井隆匡) 奥田瑛二 青年期は本宮泰風

    宮友廣志(モデルは宮本廣志) 小沢仁志 青年期は倉見誠
   
    押塚儀八郎(モデルは石塚儀八郎) 片岡功

    稲村角二(モデルは稲川角二) 岡崎二朗
   
    田口辰夫(モデルは出口辰夫) 山口祥行

    井山喜人(モデルは井上喜人) 松田優

    稲村雄大(モデルは稲川裕紘) Koji

    森喜一郎(モデルは林喜一郎) 哀川翔

 <参考文献>

 『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目会長石井隆匡の生涯』(山平重樹、2014、幻冬舎)        
 『誰も書かなかったヤクザのタブー』(タケナカシゲル、鹿砦社、2018)
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