1、意義
・住吉一家はもともと博徒であったが、阿部重作の時代に東京埋め立て工事への労働者派遣や、東京湾の港湾荷役などの人材派遣業の足場を築いていった。山口組が神戸港の港湾荷役から生まれたように、住吉一家も東京湾の港湾の仕事から大きくなっていった組織である。また、浅草妙清寺事件を契機として現在の住吉会につながる「港会」が結成されていった。
2、阿部重作とは
(1)、渡世入り
・明治28年(1895)に新潟で生まれた。大正7年(1918)頃、横浜で沖仲士をした後に東京へ行き、生井一家系の武部申策の流れをくむ住吉一家の客分であった高木康太の盃をうけて渡世入りし、長く代貸をしていた。
(2)、労働供給業
・東京湾の埋め立ては江戸時代から断続的に行われているが、高木はこの東京湾埋め立て工事へ労働者を派遣するために、芝浦に労働供給業「高木組」を設立し、さらに開港すると港湾荷役業へも進出した。戦後は事業へ専念するために阿部に自組織を譲ってヤクザは引退した。阿部も泉海陸作業会社を経営し、この阿部によって、住吉一家は東京湾の港湾の仕事に強固な足場を築くことができた。
3、住吉一家を継承する
(1)、住吉一家を継承する
・高木を媒介として阿部と住吉一家との間に関係がうまれた。住吉一家二代目・倉持直吉は阿部を気に入り、昭和23年(1948)に阿部は住吉一家の三代目を継承した。
(2)、人材
・阿部のもとには、中盆の名人といわれた高橋浅太郎、ヤクザのなかのヤクザと言われた向後平、近代ヤクザの走りといわれて銀座警察の異名をとった浦上信之など、多彩な人材が集まった。
(3)、解散指定
・昭和25年(1950)、住吉一家の浦上信之一派にGHQから団体等規制令による解散指定が下る。浦上の後、高橋輝男が銀座の顔となっていった。
4、港会の結成
(1)、浅草妙清寺事件
・昭和31年(1956)、浅草妙清寺で行われた告別式の席上で、住吉一家の幹部である向後平と高橋輝男が激しい銃撃戦を行い、両者が死亡した。阿部も静止しようとして全治一か月の怪我を負っている。
参考)、ヤクザ抗争史 浅草妙清寺事件
(2)、港会の結成
・この浅草妙清寺事件によって住吉一家は内部対立の火種を残し、また警察からも執拗な検挙取締りをうけたことから、この事件を教訓として阿部は組織再編に乗り出し、友誼団体との団結をはかるべく、関東の博徒、テキヤ、愚連隊など28団体を集結して、昭和33年(1958)に「港会」を結成した。会長には阿部の代貸である高橋浅太郎系の青田富太郎が就任した。
(3)、安保闘争に参加
・昭和35年(1960)の60年安保闘争の際には、右翼の児玉誉士夫の呼びかけに応じて、稲川組組長・稲川裕芳とともにヤクザ陣営のリーダーとなった。
5、隠退
(1)、渡世の隠退
・昭和37年(1962)、阿部は住吉一家総長の座を上萬一家の貸元であった磧上(せきがみ)義光に譲り、自身は事業一本に転じた。
(2)、総長賭博
・昭和39年(1964)、阿部の老後の資金づくりのために、稲川会総長・稲川角二は、箱根で総長賭博を開帳した。これは壮大なもので、一晩に約5億5000万円の賭金が動いたとされる。しかし、この直後に阿部は亡くなった。享年69歳。
<参考文献>
『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)
・住吉一家はもともと博徒であったが、阿部重作の時代に東京埋め立て工事への労働者派遣や、東京湾の港湾荷役などの人材派遣業の足場を築いていった。山口組が神戸港の港湾荷役から生まれたように、住吉一家も東京湾の港湾の仕事から大きくなっていった組織である。また、浅草妙清寺事件を契機として現在の住吉会につながる「港会」が結成されていった。
2、阿部重作とは
(1)、渡世入り
・明治28年(1895)に新潟で生まれた。大正7年(1918)頃、横浜で沖仲士をした後に東京へ行き、生井一家系の武部申策の流れをくむ住吉一家の客分であった高木康太の盃をうけて渡世入りし、長く代貸をしていた。
(2)、労働供給業
・東京湾の埋め立ては江戸時代から断続的に行われているが、高木はこの東京湾埋め立て工事へ労働者を派遣するために、芝浦に労働供給業「高木組」を設立し、さらに開港すると港湾荷役業へも進出した。戦後は事業へ専念するために阿部に自組織を譲ってヤクザは引退した。阿部も泉海陸作業会社を経営し、この阿部によって、住吉一家は東京湾の港湾の仕事に強固な足場を築くことができた。
3、住吉一家を継承する
(1)、住吉一家を継承する
・高木を媒介として阿部と住吉一家との間に関係がうまれた。住吉一家二代目・倉持直吉は阿部を気に入り、昭和23年(1948)に阿部は住吉一家の三代目を継承した。
(2)、人材
・阿部のもとには、中盆の名人といわれた高橋浅太郎、ヤクザのなかのヤクザと言われた向後平、近代ヤクザの走りといわれて銀座警察の異名をとった浦上信之など、多彩な人材が集まった。
(3)、解散指定
・昭和25年(1950)、住吉一家の浦上信之一派にGHQから団体等規制令による解散指定が下る。浦上の後、高橋輝男が銀座の顔となっていった。
4、港会の結成
(1)、浅草妙清寺事件
・昭和31年(1956)、浅草妙清寺で行われた告別式の席上で、住吉一家の幹部である向後平と高橋輝男が激しい銃撃戦を行い、両者が死亡した。阿部も静止しようとして全治一か月の怪我を負っている。
参考)、ヤクザ抗争史 浅草妙清寺事件
(2)、港会の結成
・この浅草妙清寺事件によって住吉一家は内部対立の火種を残し、また警察からも執拗な検挙取締りをうけたことから、この事件を教訓として阿部は組織再編に乗り出し、友誼団体との団結をはかるべく、関東の博徒、テキヤ、愚連隊など28団体を集結して、昭和33年(1958)に「港会」を結成した。会長には阿部の代貸である高橋浅太郎系の青田富太郎が就任した。
(3)、安保闘争に参加
・昭和35年(1960)の60年安保闘争の際には、右翼の児玉誉士夫の呼びかけに応じて、稲川組組長・稲川裕芳とともにヤクザ陣営のリーダーとなった。
5、隠退
(1)、渡世の隠退
・昭和37年(1962)、阿部は住吉一家総長の座を上萬一家の貸元であった磧上(せきがみ)義光に譲り、自身は事業一本に転じた。
(2)、総長賭博
・昭和39年(1964)、阿部の老後の資金づくりのために、稲川会総長・稲川角二は、箱根で総長賭博を開帳した。これは壮大なもので、一晩に約5億5000万円の賭金が動いたとされる。しかし、この直後に阿部は亡くなった。享年69歳。
<参考文献>
『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)