、論談同友会

 (1)、意義

  ・代表は正木龍樹。広島出身で、広島グループに入り、そこから出て強烈なカリスマ性を発揮して、論談同友会を総会屋界で最強の集団に育て上げた。

 (2)、背景

  ・論談同友会は、住吉会系大日本興行系であった。その他、住吉会系の組長が実質的なオーナーである青嵐グループや、代表の坂本勲愛が住吉会河内組の幹部である森本企業調査会などと行動を共にした。三菱系を典型とする財界の主流をなす企業の与党総会屋として面倒を見てきた。

 (3)、事件

  ・平成4年(1992)10月、論談同友会幹事、晴嵐グループ幹部、森本企業調査会代表が、イトーヨーカ堂から株主総会が平穏に乗り切る謝礼として2700万円を受け取ったとして逮捕された。イトーヨーカ堂は、昭和61年(1986)から1億数千万円を総会屋グループに供与したとして、創業者の伊藤雅俊社長が辞任した。

  ・平成5年(1993)7月、論談同友会専務理事、晴嵐グループ、森本企業調査会の者らが、キリンビールから総会工作で3300万円を受け取ったとして逮捕された。キリンビールは昭和60年(1985)から総額で約4億円を総会屋グループに渡していたとして、キリンビール会長・本山英世が引責辞任した。

2、小池隆一

 (1)、意義

  ・小池隆一は、新潟で生まれ、地元高校を中退した後飲食店で働いたが、昭和43年頃に上京し、総会屋・小川薫の門下として総会屋稼業をスタートした。昭和52年(1977)に小池が発行する葉書通信『訴える!』で児玉誉士夫を呼び捨てで非難したことから、東声会会長・町井久之に追い込みをかけられ、現代評論社社長・木島力也の元に逃げ込んだ。この事件を小池は逆手にとって、木島や町井との関係を築いて、木島や町井に連なる児玉系の総会屋となっていった。

 (2)、背景

  ・小池の背景は現代評論社社長・木島力也であった。そして、この木島は、「やまと新聞社」会長・西山幸輝、北星会会長・岡村吾一とともに右翼のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫の「児玉門下三羽烏」と呼ばれていた。さらに、木島は東声会会長・町井久之とも親交しており、小池の背景には、児玉、東声会がいたといえる。しかし、児玉は昭和51年(1976)のロッキード事件以後は影響力を弱め、また東声会も町井引退後は勢力が振るわなかったので、小池自体にはそれほど暴力団や右翼の背景があったわけではない。微温的な与党総会屋として企業に尽くしたことと、一度総会屋に融資をしてしまうと、その事が露見することを恐れる企業側の体質によって、長年利益供与を受け続けていた。

 (3)、事件

  ・第一勧業銀行とその系列ノンバンクから総額300億円の金を引き出し、さらに野村證券から4億円の利益供与を受け、この資金で小池は四大証券の株各30万株をはじめ、東証一部上場企業223社の株各1000株以上を保有した。平成9年(1997)に捜査がはじまり、第一勧業銀行11人、野村證券3人、山一證券8人、日興證券4人、大和證券6人の計32人が逮捕され、第一勧業銀行の元会長が自殺するまで追い込まれた。

3、広島グループ

 (1)、意義

  ・代表は小川薫。広島で電気店の息子として生まれた。父は博徒岡組組長・岡敏夫と仲がよく、後に野球賭博をはじめて店を潰している。小川は高校卒業後、三菱レイヨン大竹工場に入社するが退職して、芝浦工大に入学する。しかし、芝浦工大も野球賭博にはまって中退し、親戚の電気屋の手伝いをしていた。その後、昭和39年(1964)に小川企業広告研究所を設立し、東京三洋電機の株主総会で総会屋デビューした。

  ・広島グループは、一時数千人を超える規模となったため世論の批判を招き、昭和56年(1981)の商法改正につながった。その後小川は、総会屋廃業宣言をしたが、平成4年(1992)から「株式市民運動家」と称して再び総会屋業へ復帰した。全盛期は約1000社の一流企業から年間10数億集めていたといわれ、「最後の総会屋」と呼ばれた。

 (2)、背景

  ・小川は、広島出身なので最初は共政会と近かったが、東京に出てきてからは関東の暴力団とも関係を深め、その後は山口組若頭・宅見勝や直系組長の後藤忠政などと交際をした。

 (3)、事件

  ・小川の地元企業「東洋工業」の再建に住友銀行が乗り出した時、再建のガンとなったのが東洋工業のオーナー・松田耕平であった。住友銀行は松田オーナーを勇退させるために小川に依頼。小川は松田オーナーを熱意を持って説得して勇退へと導いた。

  ・昭和46年(1966)、王子製紙の株主総会で、小川グループと既存の総会屋である嶋崎栄治が乱闘を起こした。後日、小川には広島の共政会二代目・服部武会長が、嶋崎には松葉会の菊地徳勝元会長が後見人となって、手打ちを行った。

 (4)、動画

  ・よしむらチャンネルの吉村浩一氏が、広島時代の小川兄弟について貴重な証言をされています。



、児玉グループ

 (1)、意義

  ・児玉栄三郎は、自らをリーダーに10人ほどのグループを率いた。暴力総会屋として有名であり、実子分でさえ事件を起こさせて服役させるほどの強硬ぶりを総会で発揮し、各企業を戦々恐々とさせた野党総会屋であった。田村事務所・田村守や藤野事務所・藤野康一郎などと友好関係を結んだ。

 (2)、背景

  ・児玉は、山口組系仲里組と関係が深かった。後に、仲里組組長・仲里正秋が真鍋組を継承して、真鍋組の二代目組長となったことから、児玉も真鍋組の幹部となった。しかし、平成9年(1997)に山口組本部の命により、児玉は真鍋組から絶縁され、山口組の後ろ盾を失った。

 (3)、事件

  ・昭和62年(1987)、衣料メーカー「ワコール」の文書部長が会社近くの路上で襲撃され負傷した。この事件を指示したとして、児玉は傷害罪で逮捕された。

  ・富士写真フィルム専務・鈴木順太郎が、自宅前で刺殺された。この事件で暴力団員2人が逮捕されたが、その背後関係は不明なままである。一説によると、児玉が指示したともいわれている。

  ・日本光電工業での建物侵入事件

  ・新日鉄でのウィスキーびん投げ事件

  ・東洋信託銀行での議長殴打事件

、その他

 (1)、佃忠行

  ・早大革マル派出身で、理路整然とした弁論を得意とした。山口組系後藤組の系列とされる。

 (2)、日本會民主同盟

  ・代表は坂本将大。山口組系井奥組の現役組員とされる。

 (3)、共論会

  ・会長は松本孝治。山口組系倉本組がバックとされる。

 (4)、中本総合企画

  ・代表は中本貞次。中本は広島に生まれ、もとは協友会グループに属していたが、独立して中本総合企画を設立した。細井栄蔵や斉藤誠といった論客を抱え、総会で最も発言回数の多い先鋭的なグループであり、総会とは別に質問書を送付するなど、活動が活発であった。

 (5)、中村省三事務所

  ・代表は中村省三。中村は山口に生まれた。誠実な人柄から業界内部でも信望が厚く、業界を背負う一人と注目された人物であった。

 (6)、藤野事務所

  ・代表は藤野康一郎。藤野は広島に生まれ立教大学を卒業した。藤野グループというものはないが、東京若手のリーダー格で藤野を中心に緩やかなグループを形成した。味の素で与党総会屋として活躍した。

<参考文献>

 『カネと暴力と五代目山口組』(溝口敦、竹書房、2007)
 『憚りながら』(後藤忠政、宝島社、2010)