1、抗争

 昭和61年(1986)暮れから昭和62年(1987)1月 山口組系伊豆組、稲葉一家vs道仁会

2、藤本組の内紛

 (1)、原因

  ・熊本県人吉市に、藤本組という組織があった。若頭は楮木亨(のち道仁会系古賀一家内楮木組組長)、幹部に中神大海(のちに山口組系稲葉一家中神会会長)がいたが、中神大海の弟・中神強が、酒の席で、日ごろから仲が悪かった若頭・楮木をなじり倒した。

 (2)、中神強刺殺事件

  ・昭和41年(1966)、酒席でなじられた報復として、楮木は中神強を刺殺した。藤本組組長は、自分の若衆同志が揉め事を起こしたことに責任を感じて、引退をした。楮木は、長期服役を余儀なくされた。

3、中神大海襲撃事件

 (1)、山口組系稲葉一家に入った中神大海

  ①、山口組系稲葉一家とは

   ・大分県別府市に本拠を置く山口組系稲葉一家は、昭和50年(1975)に稲葉実が稲葉組として結成した。昭和54年(1979)に稲葉が三代目山口組若中になると、稲葉一家と改称した。

  ②、山口組系稲葉一家に入った中神大海

   ・藤本組解散後、中神大海は、山口組系稲葉一家組長・稲葉実の舎弟となり、熊本県人吉市に稲葉一家内中神組(のちに中神会)を結成した。

 (2)、道仁会系に入った楮木亨

  ①、道仁会とは

   ・福岡県久留米市に本拠を置く道仁会は、昭和46年(1971)に古賀磯次によって結成された。昭和56年(1981)に大牟田の馬場一家との抗争、昭和57年(1982)には久留米で向山一家との抗争、昭和58年(1982)には再び馬場一家と抗争をするなど幾たびも抗争を繰り返し、地域の諸団体を傘下に収めてきた、戦闘意欲の高い組織であった。

  ②、道仁会系に入った楮木亨

   ・昭和61年(1986)、長期服役から出所してきた楮木は、道仁会系古賀一家組長・古賀徹の舎弟となり、熊本県八代市に道仁会系古賀一家内楮木組を結成した。

 (3)、中神大海襲撃事件(道仁会系古賀一家内楮木組→山口組系稲葉一家内中神会)

  ①、原因

   ・楮木は、旧藤本組の縄張りであり自らの故郷でもある人吉市にクラブを開店した。これに対して、もともと人吉市を縄張りとしていた中神大海が激怒した。さらに、山口組系稲葉一家内中神会組長・吉川茂男が、楮木組に移籍したことについても恥をかかされたと思っていた。かつて、弟の中海強が刺殺された経緯もあって、中神大海は、楮木と吉川を殺すと吹聴していた。

  ②、事件

   ・昭和61年(1986)7月29日、中神大海に殺される前にこちらから殺そうと、吉川ら2人が中神大海を銃撃した。中神大海は重傷を負ったが、命はとりとめた。逮捕された吉川らは、楮木の指示はなく単独犯行であると主張した。

  ③、手打ち

   ・古賀一家総長・古賀徹と、稲葉一家代貸・島村国光とが兄弟分であったこともたって、中神大海襲撃事件は、手打ちとなった。

4、中神家vs楮木の喧嘩から山口組vs道仁会の抗争へ

 (1)、楮木亨刺殺事件(山口組系稲葉一家内中神会→道仁会系古賀一家内楮木組)

  ・楮木はまた人吉市に新しい店を出店した。中神大海の息子・中神竜二は、父は重傷を負わされ、叔父は刺殺され楮木に恨みを持っていたところ、この出店をきっかけとして、昭和61年(1986)12月8日、不良仲間と楮木の店に乗り込み、楮木を刺殺した。しかし、これは手打ち破りであった。以後、山口組系稲葉一家と道仁会系古賀一家の抗争は始まった。

 (2)、川井長治襲撃事件(道仁会→山口組系稲葉一家)

  ・昭和61年(1986)12月10日、福岡県飯塚市で、山口組系稲葉一家内川井組組長・川井長治が、道仁会系松尾組組員に襲撃された。この事件により、抗争が道仁会系古賀一家vs山口組系稲葉一家から、道仁会vs山口組系稲葉一家になったことを示している。

 (3)、稲山会幹部射殺事件(道仁会→山口組系稲葉一家)

  ・昭和61年(1986)12月11日、稲葉一家本部に、稲山会会長・山下純二と幹部の男性が詰めていたところ、道仁会系松尾組組員が襲撃し、幹部の男性が射殺された。

 (4)、誠心会組員襲撃事件(山口組系伊豆組→道仁会)

  ①、道仁会の福岡市進出

   ・道仁会の拠点である久留米や大牟田は、炭鉱や土建の失業者が多く、地元経済も冷え込んでいた。よって、シノギを求めて大都市福岡へ進出した。その先兵を担ったのが、道仁会系大中組であった。これに対して、もともと福岡市を縄張りとしていた山口組系伊豆組は警戒をしていた。

  ②、誠心会組員襲撃事件

   ・昭和61年(1986)12月16日、道仁会系大中組内誠心会組員を、山口組系伊豆組が拉致し、道仁会の縄張りである久留米へ帰るように脅し、さらには誠心会の組事務所に乗り込んで、組員を銃撃し重傷を負わせた。この事件は、抗争が道仁会vs山口組となったことを示している。これに対して道仁会も、すぐに伊豆組組員を襲撃した。

5、抗争の激化

 (1)、抗争の激化

  ①、少年誤射事件(道仁会→山口組系伊豆組)

   ・昭和61年(1986)12月18日、抗争を見学するために、福岡市内の伊豆組内伊豆一家の組事務所前を、少年3人がうろついていた。これを同組組員と間違えた道仁会組員が、少年1人を射殺、1人を負傷させた。

  ②、稲葉一家幹部誤射事件(道仁会→山口組系稲葉一家)

   ・同年12月18日、熊本市内の病院に入院していた稲葉一家幹部・山野一郎と間違えて、隣のベットに入院していた男性を見舞いにきた運転手の男性を、道仁会組員が射殺してしまった。

  ③、稲葉一家幹部病院襲撃事件(道仁会→山口組系稲葉一家)

   ・同年12月21日、福岡県大野城市内の病院に入院していた稲葉一家内見城会幹部が、見舞客を装った道仁会系組員によって銃撃され、重傷を負った。組事務所や繁華街は警察の警備が厳しいので、警察が警備しなさそうな場所を狙い、実行犯をアジトに隠れるゲリラ戦法が行われた。

  ④、警察官誤射事件(道仁会→山口組系稲葉一家)

   ・同年12月27日、稲葉一家内島村組事務所前で警戒中の警官を、道仁会組員が銃撃して重傷を負わせた。

 参考)、ヤクザvs警察 熊本県警ヤクザ拷問事件

  ⑤、アルバイト学生誤射事件(道仁会→山口組系伊豆組)

   ・同年12月31日、伊豆組系の露店事務所でアルバイト学生を、道仁会組員が銃撃して負傷させた。

  ⑥、新春の道仁会系事務所襲撃事件(山口組系伊豆組→道仁会)

   ・昭和62年(1987)1月1日、正月早々に伊豆組系組員が道仁会系組事務所に発砲した。

  ⑦、伊豆組組員襲撃事件(道仁会→山口組系伊豆組)

   ・同年1月2日、福岡市内で伊豆組組員が道仁会組員に銃撃され重傷を負った。

  ⑧、その他

   ・その後も、福岡市の道仁会組員の愛人宅への発砲事件、道仁会系組員のの兄の家に発砲し年始客が負傷する事件、道仁会関係者と親しい金融業者宅が発砲されてテレビを見ていた中学2年生が負傷する事件等が起きた。

 (2)、福岡県警の抗争終結工作

  ・福岡県警は、伊豆組組員ら93人を任意同行し、伊豆組組長・伊豆健児に、抗争終結を趣旨とする誓約書に署名をさせた。また、道仁会組員66人も任意同行させ、この時道仁会会長・古賀磯次は名古屋刑務所に服役をしていたので、道仁会の責任者に抗争終結の誓約書の署名をさせた。また、稲葉一家組長・稲葉実も服役中であった。

6、止まらぬ抗争

 (1)、スーパーマーケット内射殺事件(山口組系伊豆組→道仁会)

  ・昭和62年(1987)1月18日、福岡県久留米市の道仁会系松尾組内菊地組組員がスーパーへ買い物に行ったときに、伊豆組系幹部に襲撃されて射殺された。抗争終結を誓約した直後であり、さらに買い物客が多い夕方のスーパー内での犯行ということで、警察や市民に強い衝撃を与えた。警察は抗争終結の誓約は流れたと判断して、組事務所を徹底的に強制捜査した。

 (2)、道仁会本部爆破未遂事件(山口組(?)→道仁会)

  ・同年1月23日、道仁会本部事務所に手りゅう弾が投げ込まれる事件が起こった。道仁会本部事務所に被害はなかったが、手りゅう弾の爆発で飛び散った道路のアスファルトで、隣りの民家などが被害を受けた。

7、抗争の終結

 (1)、道仁会会長・古賀磯次の出所

  ・昭和62年(1987)2月11日、古賀は名古屋刑務所から久留米刑務所へ護送され、そこで警察に抗争終結宣言を出すように説得された。古賀はこれを受け入れた、同年2月12日、久留米刑務所から出所した古賀は、道仁会本部事務所へ行き、組員の前で抗争終結の旨を語った。

 (2)、手打ち式

  ①、抗争終結

   ・同年2月14日、伊豆もあらためて抗争終結の誓約書を各警察に提出し、古賀も同じく抗争終結の誓約書を出した。稲葉一家も終結に賛同し、これにより発砲事件77件、死者9名、重軽傷者16名という被害を残した山道抗争は終結した。

  ②、手打ち式

   ・同年3月3日、北九州市小倉において、仲裁人が工藤会会長・工藤玄治、奔走人が草野一家総長・草野高明と大州会会長・太田州春、九州沖縄のほとんどの親分衆が立会人として列席し、手打ち式が行われた。




<参考文献>

 『山口組vs道仁会』(土井泰昭、竹書房、2009)