1、意義

 ・昭和62年(1987)2月、山口組と一和会は抗争の「終結」を宣言した。しかし、竹中正久を射殺された竹中組は、山本広への攻撃をやめなかった。この事件は山一抗争の末期、現六代目山口組若頭補佐・安東美樹が山本広宅を襲撃し、その過程で警察官に銃撃をして重傷を負わせてしまった事件である。

2、準備

 (1)、人物

  ・当時の安東美樹は、竹中組内安東会の会長であった。ヤクザにしては珍しく物腰が柔らかく、謹厳なタイプであり、親分である竹中組組長・竹中武に心酔していた。

 (2)、準備

  ①、人員

   ・襲撃グループは、安東を含めて5人であった。竹中組と、竹中武と後藤忠政が仲がよかったことから、後藤組の者も参加した。

  ②、武器

   ・米国製の自動小銃M16や、その先端に差し込み、対戦車戦などに使うてき弾などを準備した。

  ③、訓練

   ・安東はフィリピンに5回ほど渡航し、拳銃や機関銃の射撃訓練を受けた。

  ④、計画

   ・まず安東ともう一人が山本広宅に詰める2人の警官にホールドアップし、スプレーで目つぶしをしたうえ、針金で縛りあげて自由を奪う。その後、屋外に1人だけ残し、4人が山本広宅に乱入し、山本広が家にいればこれを殺し、いなければ女と子どもは屋外に逃がした後に、山本広宅を爆破する、というものであった。

3、事件

 (1)、決行決定

  ・昭和62年(1987)5月13日、安東は山本広が在宅であるという情報を得た。よって、同年5月14日午前2時に決行することになった。

 (2)、逃走

  ・襲撃グループは5人であったが、決行となって1人が逃走してしまった。安東は残り4人で決行することを決定した。

 (3)、誤算

  ・襲撃グループは山本広宅へ自動車で向かった。山本広宅の前にはパトカーが停まっており、この中に警察官がいた。しかし、計画では警察官は2名だと思っていたが、1人警察官が遊びに来ており、パトカー内に警察官は3名いた。安東らは警察官は2名だと思っていたので、パトカーの窓越しに2名の警察官に向かって「手を挙げろ」と自動小銃を向けた時、もう1人の警察官が拳銃に手をかけ反撃しようとした。この時に、安東らは警察官が3名いたことに気が付いた。

 (4)、警察官への発砲

  ・安東は自動小銃やライフル銃など20数発を警察官に発砲し、2週間から5ヶ月の傷を負わせてた。

 (5)、山本広邸へてき弾を撃ち込む

  ・警察官が携帯無線機の非常スイッチを押していたので、応援の警察官が駆け付けるのは時間の問題であった。安東は、急いで自動小銃の先端にてき弾を差し込み、山本広宅へ撃ち込んだ。しかし、山本広宅には警察がネットを張っていたので、てき弾はネットに引っかかって地上に落ち爆発した。さらに、山本広邸の勝手口に消火器爆弾も仕掛けたが、これも発火薬部分だけが燃えたのみであった。

 (6)、茨城へ

  ・安東らはてき弾の爆発によって肩や膝を負傷した。この後、山口組系後藤組組員の支援で茨城県東茨城郡城北町の病院で肩や膝から金属片の摘出手術を受けた後、再び逃走した。

 (7)、逮捕

  ・昭和62年(1987)5月28日、兵庫県警は安東を爆発物取締法違反容疑で指名手配した。後、安東らは逮捕され、安東は懲役20年の刑に服した。

 (8)、影響

  ・安東の山本広邸襲撃事件の一週間後に、一和会本部長・松本勝美が引退と松美会の解散を表明した。

4、見方・評価

 (1)、山口組若頭・渡辺芳則

  ・渡辺は「こんなんは、実に非道なことですわ、往生してます」として、二代目山健組の組内に犯人がいないか調べさせた。そして、犯人に対しては「シャブをうってやったとしか思われへん。判断力がちょっとでもあれば、こんなことせぇへん。プラスになること、一つもあらへんやないの。マイナスばっかりや。やった人間にしたら人から恨まれたうえ、懲役に行かなしゃあない。それも間違いなく最高刑をくらうやろうね」と非難した。

 (2)、竹中組組長・竹中武

  ・竹中武は「この度の一件で世間はとやかく言っている様だが、評価などという問題は通り越しており、ヤクザとしてやられた事をして返すというだけの事。その目的達成の為には、わが命を捨て、手段を選ばずのみである。ただ、この度、犠牲になった三警官の方々には、本当に申し訳ないことをしたと思っている」とマスコミ宛てにコメントを出した。他方、渡辺芳則の「シャブうってやったとしか思われへん。プラスになること、一つもあらへんやないの」という発言には、「これから上に立とうという人間が、組のためを思う若い者の気持ちを買ってやれんでどうするかい。」と激しく反発し、「山口組に迷惑をかけるようやったら、山口組をでてもいい」という意向を漏らし、安東をかばい事件に準ずる姿勢を示した。のちに、渡辺芳則が山口組五代目を継承したときに、竹中武が盃を飲まなかった遠因ともなった。

  cf.なお、渡辺氏を擁護すると、元山口組顧問弁護士の山之内幸夫氏は、渡辺氏はヤクザ的な人(自分のせいで人が死んでもあまり気にしない人、くよくよせずに開き直れる人)ではなく一般人の優しい感覚を持っている人であるとされます。



5、その後の安東美樹
 
 (1)、一心会へ

  ・安東は、竹中組や武組長へ捜査が及ばないように竹中組を脱退し、四代目山口組若頭補佐の一心会会長・桂木正夫の舎弟盃をうけて、一心会へ移籍した。

 (2)、収監中
   
  ・安東は、懲役20年で懲役生活を送っている時も、四代目山口組組長・竹中正久を襲撃した実行犯を殴りかかる騒動を起こした。

 (3)、六代目山口組最高幹部へ

  ①、社会復帰

   ・安東は、平成23年(2011)の出所し、三代目一心会副会長、若頭代行を歴任し、平成26年(2014)に初代柴田会会長・柴田健吾の跡目として、二代目柴田会を襲名し、六代目山口組の直参となった。

  ②、二代目竹中組組長へ
   
   ・平成27年(2015)に安東は六代目山口組の幹部となり、さらに二代目柴田会を二代目竹中組に改称した。

 (4)、古川恵一幹部射殺事件と養子縁組

  ①、古川恵一幹部射殺事件

   ・令和元年(2019)11月、神戸山口組幹部で三代目古川組総裁の古川恵一が、元六代目山口組二代目竹中組組員・朝比奈久徳に自動小銃で射殺された。朝比奈はこの事件の1年前に二代目竹中組を破門されていた。

  ②、養子縁組

   ・令和3年(2021)2月19日、神戸地裁は朝比奈に無期懲役を言い渡した。朝比奈は控訴した。この後朝比奈は安東と養子縁組をし、安東久徳となった。かつて安東も山広邸を襲撃しジギリをかけたが、渡辺に「シャブをうってやったとしか思われへん」と言われ悲しい思いをしたことから、朝比奈(現安東)を支えるために養子縁組をしたと思われる。

6、映像

 (1)、武闘派極道史竹中組組長邸襲撃事件

  ・家にこもる山城剛志(モデルは山本広)とそれを襲撃しようとする安藤英樹(モデルは安東美樹)を中心として、赤坂進射殺事件、脱会強要射殺事件、竹中正久の墓前での竹中組員の射殺事件、中川宣治射殺事件、中野会の砂子川組への誤射事件、加茂田重政の引退など竹中正久射殺事件後の竹中組の返しを描いている作品です。変に美化するのではなく、山城邸襲撃メンバーの1人が途中で逃げ出したことであるとか、張り付け警備の警官が2名だと思っていたのが3名で狼狽するところであるとか、扉を爆弾で爆破して開けようとしたら不発であったところであるとか、敵弾が警察が山城邸に張った防護ネットに跳ね返って逆に撃った側が怪我をするところとか、ちょっと情けない場面がありのままに描いていて、そこが逆にリアル感があります。竹中組組長・竹中武氏は、兄である四代目山口組組長・竹中正久氏の生涯を描いた『荒ぶる獅子』(溝口敦、講談社、1999)の中で、「この本は兄のいいことも悪いことも、恥ずかしい時代のことも含めて、ありのままに記している。誰でも恥ずかしい時代、苦しい時代をくぐり抜けている。それを忘れて、いいこと、ウソばかり書いている本には値打ちがない」という解説を書いていますが、竹中武氏の恥ずかしい所も含めてありのままに描く手法が成功していると思います。

<参考文献>

 『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)