1、意義
(1)、竹中正久射殺事件
・昭和60年(1985)1月26日、山一抗争の最中、四代目山口組組長・竹中正久は、愛人が住む大阪府吹田市にある「GSハイム第二江坂」で、ボディーガードをしていた若頭の中山勝正と若衆の南力とともに、一和会山広組のヒットマンの銃撃をうけ、翌日の1月27日に亡くなった。享年51歳。竹中正久は8男5女の兄弟がいたが、このうちヤクザとなったのは、三男正久のほかにも、四男英男、五男正(まさし)、六男修、八男武であった。竹中組は竹中武が継承し、竹中正は竹中組の相談役に収まった。
(2)、竹中組の報復を防ぐ
・警察は竹中組の報復を警戒した。昭和60年(1985)2月1日、竹中武を警察は野球賭博の容疑で逮捕した。竹中武はこの後、1年5ヶ月の間長期勾留され、裁判の結果は無罪であった。警察側が竹中武を社会不在にして報復を防ぐ目的での逮捕であったといえる。他方、竹中正が社会不在となったのが、このハワイ事件であった。
2、経過
(1)、ヒロ佐々木と竹中正の出会い
・竹中正は、マイケル・ジャクソンの日本公演に関心を持っていた。アメリカ連邦麻薬取締局の秘密エージェントでハワイ在住のプロレスラー・ヒロ佐々木は、この竹中正の意向を知り、これを利用しようと考えた。昭和60年(1985)1月13日、竹中正とヒロ佐々木は神戸で会い、ヒロ佐々木がマイケル・ジャクソンの日本公演を請け負うこととなった。この時、ヒロ佐々木はハワイのマフィアであるジョン・リー一家に籍を置いていると自己紹介をした。
(2)、金をつぎ込む竹中正
・竹中正はこれに大いに喜び、ヒロ佐々木へ保証金や謝礼金名目で数億円支払った。また、昭和60年(1985)5月12日、ハワイに飛んで、公演料4億円とするニセの基本契約書まで締結した。さらに、昭和60年(1985)5月24日、竹中正はヒロ佐々木から160万ドル(4億円)を送金するように求められ、この送金が遅れたとしてさらに80万ドル(8000万円)を詐取された。
(3)、武器を見せられる
・昭和60年(1985)1月15日、ヒロ佐々木はワイキキのホテルに竹中正を誘い、米陸軍から借り出した拳銃や機関銃を見せた。山一抗争の最中であったので、竹中正はこれを喜んだが、この姿が隠しビデオで盗撮された。
(4)、ハワイに招かれる
・昭和60年(1985)8月末、「ジョン・リー一家結成二十五周年記念パーティー」の招待状が山口組の主だった幹部あてに送られた。これは大阪空港で局止めになって幹部達の手には届かなかったが、竹中正と四代目織田組組長・織田譲二が引っ掛かり、ハワイへと渡ってしまった。
(5)、逮捕
・竹中正、織田その他一名は、殺された竹中四代目の報復として、一和会会長・山本広らを殺害するために、ハワイで米国の犯罪グループ(実はアメリカ連邦麻薬取締局のオトリ捜査官が扮するマフィア「ジョン・リー一家」)と接触し、「ロケット砲を操作できる男を探してくれ」と頼み、報酬として5万ドルの支払いを申し出たなど、昭和60年(1985)9月、ロケット砲など密輸未遂、麻薬不正取引き、殺人教唆など19件の組織犯罪防止法、麻薬、銃器取締法の各違反、殺人謀議罪の疑いで逮捕され、オアフ刑務所に拘置された。
(6)、裁判
・織田は司法取引をしようとしたが、竹中正は竹中組関係者らしく司法と妥協はしたくないということで、最後まで争った。ヒロ佐々木がハワイではものすごく評判が悪かったこと、日本側から山口組顧問弁護士・山之内幸夫が頻繁にハワイにかけつけたこと、陪審員を買収したことから、竹中正と織田は無罪を獲得し、昭和61年(1986)4月に帰国した。
(6)、裁判
・織田は司法取引をしようとしたが、竹中正は竹中組関係者らしく司法と妥協はしたくないということで、最後まで争った。ヒロ佐々木がハワイではものすごく評判が悪かったこと、日本側から山口組顧問弁護士・山之内幸夫が頻繁にハワイにかけつけたこと、陪審員を買収したことから、竹中正と織田は無罪を獲得し、昭和61年(1986)4月に帰国した。
3、警察の関与
・ヒロ佐々木は兵庫県警に一連の経過を通報していた。その結果、昭和60年(1985)8月末、山本広宅にロケット砲が撃ち込まれても大丈夫なように防御ネットが張られた。
<参考文献>
『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
Youtube動画「HOMIE KEI 竹中組 五兄弟」