1、小西邦彦とは

 (1)、ヤクザになる

  ・1933年、大阪府高槻市内の旧同和地区に生まれる。地元中学校卒業後、行商をしたり京都で不良をした後に、10代で金田三俊組長の金田組に入る。金田組の組事務所はこの頃大阪市西淀川区の飛鳥地区にあり、小西も飛鳥地区に移り住んだ。

 (2)、部落解放運動へ

  ①、部落解放運動へ

   ・ヤクザ時代の小西は、窃盗や恐喝などを繰り返していたが、金にならないヤクザではなく金儲けがしやすい部落解放運動の道へと進み、1967年に部落解放同盟飛鳥支部長となった。ただし、支部長就任後も3年間は金田組組員であり、またヤクザを辞めた後もずっとヤクザとの関係は続いた。

  ②、飛鳥会とは
 
   ア)、飛鳥会とは

    ・飛鳥会はもともとは同和浴場「パール温泉」を運営していた社団法人飛鳥会である。1967年に部落解放同盟飛鳥支部長に就任した小西は、1969年に施行された同和対策特別措置法に基づく同和対策事業の恩恵を受けるために、社団法人飛鳥会を解散して収益事業を行える財団法人として1971年に設立したのが、財団法人飛鳥会である。小西は設立時から理事(のちには理事長)に就任している。

   イ)、飛鳥会の事業

    ・飛鳥地区内での同和浴場パール温泉と飛鳥温泉の経営

    ・大阪駅前ビルの「サウナあすか」と喫茶店の経営

    ・飛鳥人権文化センター内での喫茶店の経営
  
    ・万博公園で売店の経営

    ・北新地で飲食店が入ったテナントビルの経営

    ・西中島駐車場の経営

 (3)、小西家の富

  ①、家

   ・小西とその長男の居住地は、飛鳥地区の同和住宅ということになっているが、実際にはそこに住んでおらず、奈良市内の高級住宅地に妻名義と長男名義で豪邸所有し、そこに住んでいた。

  ②、車

   ・小西は高級外車リンカーンを運転手付きで乗り回していた。

   ・長女や長男にも数百万から千数百万の高級外車をプレゼントしていた。

  ③、その他の資産
 
   ・500万円かけて自分の棺桶を作った。

   ・妻と長女にクレジットカードを渡し、宝石やブランド品を買いあさっていた。

  ④、豪遊

   ・毎月数十万から百数十万も高級クラブで豪遊していた。

   ・毎月数十万から数百万以上も百貨店で物品を購入していた。

   ・愛人に1000万円もする宝石をプレゼントしていた。

2、なぜ小西邦彦は力を持てたのか

 (1)、同和対策事業の時代

  ・1969年に同和対策特別措置法が施行され、莫大な同和対策事業費が同和地区に投入されていた時代であった。さらに、「同和」と名がつけばどんな無理難題でも通った時代でもあった。

 (2)、小西邦彦のスポンサー三和銀行

  ①、意義

   ・小西の力の背景として、小西が貯金箱として自由に使える三和銀行の存在があった。

  ②、三和銀行と小西の出会い

   ・三和銀行は大阪府、大阪市の公金取扱い銀行となることが悲願であった。1975年、大阪府立柴島高校が設立されたときに、小西が大阪府に働きかけて、三和銀行淡路支店を同校の公金取扱い銀行にすることに成功した。三和銀行は小西に感謝し、本店業務部長で後に頭取になる人物が小西の所に直接お礼をしに訪れ、この時に飛鳥会事務所へ三和銀行の法人課長を派遣することも決定された。

  ③、蜜月関係

   ア)、三和銀行が小西のためにやったこと

    ・三和銀行は1970年代から30年間に渡って歴代の法人課長を飛鳥会事務所に常駐させて、小西および飛鳥会の経理の一切を行っていた。また、元法人課長の中には三和銀行退職後に飛鳥会の理事として天下りし、小西の金庫番を務めた者もいた。

   イ)、小西が三和銀行のためにやったこと

    ・1978年、小西は三和銀行淡路支店の用地買収に力を貸した。

    ・1990年、三和銀行の運転手が石切神社管長の二男を運転中に不手際で水死させてしまう事件が起こった。石切神社は三和銀行に取引停止を通告した。氏子もこれにならうと恐れた三和銀行は、小西に和解斡旋を依頼し、小西が間に入ることによって円満に解決した。
 
    ・1991年、大阪府同和建設協会の岸正見会長が、大阪府副知事を介して三和銀行に融資の申出をしてきた。三和銀行は、小西に依頼して岸会長への融資を断ることに成功した。

 (3)、小西邦彦とヤクザ

  ①、意義

   ・小西は、元ヤクザであり、またヤクザとの交際も幅広く、ヤクザの暴力が力の源泉の一つであった。

  ②、金田組

   ア)、金田組とのかかわり

    ・金田三俊組長率いる金田組は、山口組直系のヤクザである。小西は、金田組の幹部であり、部落解放同盟飛鳥支部長になれたのも、金田組長の力によるものであった。後に金田組を脱退するが、金田組長は資金源が豊富な小西を手放したくなく、金田組を辞めた後も山口組の資金源としてヤクザと関わりを持ち続けた。

   イ)、逸話

    ・小西は、金田組を辞める時に小指を落としたという逸話がある。しかし実際には、小西が金田組長に黙って大阪駅前ビルに飛鳥会経営のサウナを開店させ、その披露パーティーに組長を招かなかったことが後でばれて、指を詰めたものであった。

  ②、山一抗争

   ・1985年、山口組の竹中正久四代目組長は吹田市内の愛人が住むマンションで山広組系組員に射殺されるが、このマンションの名義人は小西であった。竹中四代目に取り入っていた金田組長の命によって小西がこのマンションを借りたと言われている。

   ・山口組系黒誠会の幹部が、竹中四代目が射殺に対する報復を一和会に対して行おうとしていたが、この幹部は小西が実質的に管理していた飛鳥地区の人権住宅に潜伏していた。

  ③、生島久次元組長射殺事件

   ・1996年、不動産会社を経営し巨額の闇資金を運用していた元ヤクザであった生島久次元組長が、大阪駅前ビルの路上で射殺された。この生島元組長と小西は親戚付き合いをしていた。例えば、生島元組長のために、大阪ミナミの立体駐車場を担保として、三和銀行系クレジット会社と京セラ系クレジット会社から小西が運営する「ともしび福祉会」名義に約50億円の転貸融資をしていた。

  ④、宅見勝若頭射殺事件

   ・1997年、山口組系中野会組員によって山口組の宅見勝若頭が射殺された。この後、小西の飛鳥会事務所へも銃弾が撃ち込まれた。この理由は、小西が所属していた金田組は金田組長の死去によって解散し、金田組員は中野会へと移った。さらに、小西と親戚付き合いをしていた生島元組長も中野会の中野太郎会長と盃を交わす寸前と言われるほどの間柄であった。中野会組員が小西の飛鳥会事務所に出入りしていたこともあって、小西も狙われたのであった。

  ⑤、天野組

   ・小西は中野会に近く狙われたことから、宅見勝組長の元側近であった天野組の天野洋志穂組長に近づき、用心棒とした。天野組長は、大阪市内の不動産会社社長と共同で、大阪市四条畷市内の霊園開発予定地を5億円で落札し、この土地を山口組若頭補佐であった山口組系極心連合会の橋本弘文会長へ約8億5000万円で転売する計画を立てた。この後、天野組長はこの不動産会社社長を脅したということで強要未遂容疑で逮捕されたが、この土地代5億円は小西が天野組長に融資したものであった。

 (4)、小西邦彦と部落解放同盟

  ①、意義

   ・小西は1967年から部落解放同盟飛鳥支部長を40年以上に渡ってつとめてきた。この「部落解放同盟支部長」という肩書が、同和対策事業を進める行政と交渉するときに大きな力を持った。

  ②、部落解放同盟大阪府連とのかかわり

   ・部落解放同盟大阪府連は、1970年に大阪府連行動隊を結成した。これは、同和対策事業を独占するために反対者を暴力で排除することを目的として結成されたものであり、羽曳野市役所の占拠・包囲・市長の監禁や、日本共産党の演説会出席者を乗せたバスへの襲撃事件など、過激な行動を繰り返した。そして、この隊長が当時酒梅組の準構成員であった岡田繁次であり、副隊長がまだ金田組の構成員であった小西であった。

  ③、部落解放同盟の反応

   ・2006年に西中島駐車場事件で逮捕された後、部落解放同盟大阪府連は小西を、部落解放同盟の肩書を利用して私利私欲を満足させる「エセ同和」行為と非難をし、部落解放同盟は関係なく小西個人の問題であるとした。

 (5)、小西邦彦と大阪市役所

  ①、意義

   ・大阪市が行う事業についてトラブルが発生したり、大阪市が部落解放同盟との間でトラブルが発生すると、小西が仲介して解決をしてくれた。よって、大阪市の側でも小西に便益を図るようになっていった。

  ②、具体例

   ・1982年~1983年頃、柴島浄水場の工事に際して、部落解放同盟南方支部が協力金名目で金銭を要求し、工事を差し止めた時に、小西が仲介をして、大阪市、大手ゼネコン、部落解放同盟南方支部の話し合いで解決をした。

   ・大阪市道路公社が上六地下駐車場を作った時に、地元駐車場業者が反対をして工事がストップしたが、小西が駐車場経営者を説得して工事が再開をした。

   ・大阪市内12の解放同盟支部において、市職員と部落解放同盟の間にトラブルが起こると、大阪市は小西に依頼し、小西は円満解決にもっていった。

<参考文献>

 『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)