1、松本家の概要

 (1)、松本治一郎

  ・1884年、福岡県那珂郡金平村(現在の福岡市東区馬出)に生まれる。1911年に土建業松本組を設立する。1925年に全国水平社中央委員議長に就任し、1936年には衆議院議員に初当選し3期務めた。戦時中、戦争協力をしたことから終戦後は公職追放をうけた。公職追放が解かれた後は、GHQと密接につながり、特殊慰安施設協会(RAA)の経営陣として巨万の富を手に入れていった。1947年には参議院議員に初当選し、日本社会党左派「平和同志会」の領袖として知られた。カニの横ばい拒否事件をおこしたり、レッドパージで再び公職追放されながらも4期務めた。この間に、初代参院副議長にも就任している。また、部落解放全国委員会が部落解放同盟と改称された時に、最初の執行委員長に就任した。

 (2)、松本英一

  ・1921年、福岡県福岡市に生まれる。福岡県庁職員を経て、戦後は実父の弟で参議院議員であった松本治一郎の秘書となり、さらに松本組にも入社した。生涯妻帯をしなかった松本治一郎は、松本英一を養子にとった。1967年に部落解放同盟中央委員となった後、松本治一郎の逝去をうけて、1968年に社会党から参議院戦に出馬し初当選、以後5期務めた。

 (3)、松本龍

  ①、来歴

   ・1951年、福岡県福岡市に松本英一の長男として生まれた。大学卒業後、父松本英一の秘書となり、1990年に中選挙区時代の福岡一区に社会党公認で初出馬し当選し、以後7期連続で衆議院議員を務め、2010年の菅第1次改造内閣では環境大臣兼内閣府特命担当大臣(防災担当)に就任、2011年3月11日に発生した東日本大震災以降は、内閣府特命担当大臣(防災担当)を務めたが、舌禍事件を起こして退任した。部落解放運動も祖父、父を引き継ぎ参加し、部落解放同盟福岡県連委員長、中央委員会副委員長を務めた。

  ②、松本家の富

   ・2010年の閣僚の資産公開で、松本龍は資産7億6074万円と閣僚の中でもずば抜けて多額の資産を有していた。この資産のほとんどは祖父や父から受け継いだものであり、松本組の筆頭株主であり、またりそな銀行・ロイヤル・日本航空システム・テレビ西日本等の株式、ゴルフ会員権、福岡市内の中心部や福岡空港周辺部の土地建物87件と、貧困=同和のイメージとはかけはなれた富豪ぶりであった。

2、松本組の設立

 (1)、松本組の設立

  ・1911年、福博電気軌道(現在の西日本鉄道)の延伸工事が行われた。この延伸路線の計画地の一部に部落が所有する原野があった。松本治一郎はこの時猛烈な反対運動を行った。この時、福博電気側の代表として交渉にやってきたのが、後に電力の鬼と呼ばれた松永安左ェ門であった。そして、この松本治一郎と松永安左ェ門の交渉後に反対運動は終結した。この後、松本治一郎は福岡市に松本組を設立した。

 (2)、背景

  ・松本組は創業時、鉄道工事や火力発電所の工事を請け負い、利益を上げていった。当時、部落民は仕事がなかった。よって、松永安左ェ門は福博電気の工事や火力発電所建設の工事の土木作業員として部落民を雇うこととし、その口入れ稼業として松本組は設立されたのである。松永安左ェ門と松本治一郎の関係は、松本治一郎が死亡するまで続いた。この松永安左ェ門とのつながりが、松本組が躍進していった一つの原因である。

3、松本組による集団リンチ事件

 (1)、意義

  ・1923年に起こった、鉄道工事をめぐる松尾組と松本組の抗争。松本組組員50人以上が松尾組の松尾幸太郎社長やその親族を集団リンチし、死者1名重傷者3名を出した。この集団リンチ事件に松本治一郎が関与していたのかどうかは謎であるが、「松本組は恐ろしい」という業界内の評判を生み、松本組に逆らえない原因の一つとなった。

   cf.部落解放同盟中央本部編の『松本治一郎伝』では、この年の設立され松本治一郎が初代委員長となった全九州水平社の動きに対する権力側の弾圧であると説明されている。

 (2)、経過

  ①、呼び出し

   ・松本治一郎は、鉄道工事でそれまで対立していた松尾組の松尾に、仲直りしようと旅館に呼び出した。松尾もこれに応じ、子分10人ほどを連れてこの旅館に行った。

  ②、一回目の集団リンチ事件

   ・子分達を外に置いて、旅館に一人で入ってきた松尾に対して、松本組の者数名がいきなりドスで突き刺した。この者達はいったん引き上げたが、再び松本組組員50名ほどが旅館に集結して、松尾を集団リンチした。松尾は病院に担ぎ込まれたが、同日死亡した。

  ③、二回目の集団リンチ事件

   ・翌日、松尾の通夜が松尾の叔父宅で行われた。この場に再び松本組組員50名ほどが殴り込みをかけ、松尾の叔父と甥2名が重傷を負った。

4、松本組の全盛期

 (1)、意義

  ・戦後、松本組は九州電力や西日本鉄道など地元で「七社会」呼ばれる福岡財界と密接な関係を築くようになり、県内最大手のゼネコンとなった。

 (2)、松本組の全盛期

  ・福岡で大型ハコモノ工事や道路工事をする時は、スーパーゼネコンであっても、松本組とジョイントベンチャーを組まなければ仕事が取れなかった。さらに、福岡の建設業界で談合の中心的役割を果たすようになる。

 (3)、空港利権

  ①、飛行場予定地の土地を買いあさる

   ・1944年、旧陸軍が席田(むしろだ)飛行場を建設を計画する。この建設予定地には同和地区がいくつもあった。当時衆議院議員を務め、軍部とも関係があった松本治一郎はこの計画を察知し、飛行場予定地周辺の土地を買いあさった。

  ②、空港利権

   ・戦後、席田飛行場はアメリカ軍により接収されて板付基地となった。1972年にアメリカ軍より返還され福岡空港となった。福岡空港の35%は民有地で、空港側はこの土地の地権者に借地料を毎年払っているが、この大地主が松本家である。2010年度でも約2451万円が空港側から支払われた。

5、松本組の衰退

 (1)、入札情報の公開

  ・最近は公共事業について入札情報の公開が進み、談合がしにくくなった。

 (2)、有力者の死亡

  ・松本組の力の源泉であった、部落解放同盟第四代中央委員長の上杉佐一郎、松本治一郎の養子で松本組社長であり参議院議員を5期務めた松本英一、福岡県会議員の林武彦など有力者が亡くなった。

<参考文献>

 『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)