1、抗争

 第一次青森抗争 昭和59年(1984) 梅家一家vs極東佐藤会

 第二次青森抗争 昭和62年(1987) 梅家一家vs極東佐藤会

2、東北への広域暴力団の進出

 ・もともと北海道や東北は、テキヤ系の組織が多かった。しかし、広域暴力団の北海道東北進出が進み、北海道では昭和60年に初代誠友会が四代目山口組に加入したのをきっかけに、雪崩を打って山口組、稲川会、住吉会へとテキヤ系組織が加入していった。そして、この流れは東北にも及ぼうとしていた。

3、第一次青森抗争

 (1)、きっかけ

  ・青森市に本拠を置く梅家一家の六代目・福井良平と稲川会常任相談役・大山健太郎とは五分兄弟の間柄であった。この縁から梅家一家と稲川会は関係が近くなった。これに対して、本来テキヤ系であるはずの梅家一家が博徒である稲川会に近づいたことから、もはや梅家一家は博徒であるとみなして、五所川原に本拠を置くテキヤ系の極東佐藤会山新組が梅家一家の庭場に進出してきた。

 (2)、弘前市土手町抗争事件

  ・昭和59年(1984)10月に梅家一家と極東佐藤会が土手町で白昼の市街戦を起こした。この後も約一か月にわたって青森、弘前、黒石、五所川原などで報復合戦が行われたことから、市民は暴力団追放運動をおこした。このような運動や警察の取り締まりの強化によって、同年11月に大館市で手打ち式が行われ、表面的には抗争事件に終止符が打たれた。



3、東北神農同志会の結成

 (1)、東北神農同志会の結成

  ・昭和61年(1986)に西海家、東京盛代、源清田、飯島、枡屋、姉ケ崎、極東、花又、松前屋、寄居、会津家、梅家など東北の的屋組織17家が大同団結して「東北神農同志会」が結成された。広域暴力団の東北進出に対して、東北のテキヤ組織が大同団結をしようというのが結成の目的であった。

 (2)、東北神農同志会会則27条

  ①、意義

   ・東北神農同志会結成から2ヶ月後、26ヶ条の同会会則に新たな1条が付け加えられた。会則27条である。

  ②、内容

   ア)、条文

    庭主が稼業違いの名のもとに走った場合は庭は本家帰りとし、本家が同様なる行為をとった場合は、庭は東北神農同志会預かりとする。

   イ)、解説

    ・もし広域博徒組織の傘下になった場合は、庭主としての権利を放棄しなければならないという意味である。

4、第二次青森抗争

 (1)、きっかけ

  ・昭和61年(1986)、梅家一家の福井良平が逝去した。その後跡目継承でもめている時期に、再び梅家の稲川会入りをめぐって抗争が起こった。

 (2)、浅虫温泉事件

  ・昭和62年(1987)、青森ねぶた祭りの前夜祭として、浅虫温泉で花火大会が開かれた。この花火大会の庭主は梅家一家であった。前夜祭で露天商をしていた梅家一家組員3名が、極東関口谷畑二代目佐藤会山新組組員7人と梅家一家湊谷睦会組員2人の計9人の襲撃を受け、2人が死亡1人が重傷を負った。

 (3)、抗争の激化

  ①、抗争の激化

   ・梅家一家と極東佐藤会の抗争は報復合戦を繰り返し泥沼化していった。東北神農同志会の加盟団体のすべてが、極東佐藤会側の応援に駆け付けた。

  ②、文書合戦

   ・梅家一家は極東佐藤会側についた湊谷一門へ絶縁状を出した。これに対して、東北神農同志会は同会規則27条違反として、梅家宗家7代目・塚本龍郎以下トップ7人に絶縁状を出した。梅家一家側はこの絶縁状に対して自分たちの見解を書いた書状を業界に配布した。

 (4)、和解

  ・同年9月22日、東北神農同志会での話し合いの末、梅家一家は稼業違いには入らず、東北神農同志会に留まることで決着がつき、極東佐藤会と「手打ち」ならぬ「和合」の儀式が執り行われた。

5、東北テキヤ組織の広域暴力団入り

 ・この事件以後、郡山の庭主である梅家系組織が稲川会入り、寄居田中宗家連合真会が稲川会入り、福島の寄居田中宗家連合菊心会が住吉連合会入りした。さらに、抗争当事者である梅家一家も結局は稲川会入りし、極東佐藤会もみちのく抗争を経て解散し、有力幹部が山口組の山健組、弘道会、芳菱会などへ加入していった。

<参考文献>

 『極東会大解剖』(実話時代編集部、三和出版、2003)
 『ヤクザ伝』(山平重樹、2000、幻冬舎)
 『山口組抗争史激突山口組VS極東会』(土井泰昭、高橋晴雅、竹書房、2009)