1、スージータウン構想とは?

 (1)、意義

  ①、スージータウン構想とは

   ・崇仁同和協議会(のちの崇仁協議会)の藤井鉄雄委員長らが打ち上げた、日本三大旧同和地区である京都駅前の材木町や塩小路町などの崇仁地区の一大開発計画。オフィスビル、ホテル、国際会議場、デパート、ショッピングセンターなどを誘致して「スージータウン」を作ろうとした。

   ・この当時はバブル経済が始まる時期であり、京都にも東京や大阪の資本が乗り込み地上げの嵐が吹き荒れる一方、京都財界主導での大型プロジェクトも相次ぎ、地価が暴騰していた。京都駅前の崇仁地区の再開発であるスージータウン構想は、このような時代背景の中で格好の利権の対象となった。

  ②、崇仁同和協議会とは

   ア)、ヤクザ時代

    ・藤井鉄雄は、若い頃は暴力団内浜会を率いて懲役15年も送ったヤクザであった。しかし、出所を機に1985年に内浜会を解散した。

   イ)、部落解放運動の世界へ

    ・藤井は内浜会解散直後、全日本同和会の京都府・市連合会副会長で洛南支部長だった高谷泰三と知り合い、洛南副支部長に就任した。

   ウ)、崇仁同和協議会の設立

    ・京都の全日本同和会は、部落解放同盟と大阪国税局との密約ではじまった税務申告フリーパスの特権を利用した巨額脱税請負事件を起こし、世論の非難をうけて分裂に追い込まれた。その中で、藤井は高谷とともに1986年5月8日に崇仁同和協議会を設立した。後に崇仁協議会と改名された。

   エ)、崇仁協議会の活動

    ・藤井委員長は、獄中で部落問題集という本を読んだことによりヤクザの世界に入ったことを反省し、「ヤクザから足を洗い自分の生きる道を自分を拾い育ててくれた七条崇仁地区の差別と貧しさに居る人達の為に一生を捧げて行こうと誓い」、さまざまな活動を行う。実際に老人への入浴サービス、学習塾、夜間保育、英会話教室などが無料で崇仁地区では行われた。

 (2)、スージータウン構想における二つの障害

  ①、意義

   ・スージータウン構想における障害は、①「改良住宅地区」指定の解除と②地上げであった。

  ②、「改良住宅地区」指定の解除

   ・「改良住宅地区」に指定されると民間は不動産を取得しても開発も建築もできなくなるが、これが崇仁地区全体にかけられていた。崇仁同和協議会は「改良住宅地区」指定解除のために、地区指定取り消しのキャンペーンを行い、地区指定取消の住民訴訟も提起された。

  ③、地上げ

   ・崇仁地区を開発するには、まずは地区住民をいったん移動させて更地を確保しなければならなかった。このためには地上げをしなければならず、地上げをするには不動産売買会社と資金が必要となった。

2、崇仁地区の地上げ

 (1)、不動産売買会社と資金

  ①、不動産売買会社と資金の決定

   ・崇仁地区の地上げをするには、不動産売買会社と資金が必要である。この不動産売買会社として藤井は、1986年7月29日に会津小鉄会の顧問弁護士をしていた者が社長であった休眠会社のサンセイハウスを手に入れた。そして、資金の提供は、当時住友不動産や武富士の顧問弁護士をしていた「同和問題に詳しい弁護士」である前田知克弁護士の紹介によって、武井保雄会長の武富士が提供することとなった。

  ②、崇仁地区の地上げ

   ・1986年12月12日、資金を提供する武井会長のファミリー企業「徳武」、地上げを実際に行うサンセイハウスと崇仁同和協議会の三者の間で、材木町と塩小路町の約3300坪、110戸の建物を対象として、徳武が155億を支出して、1987年5月31日までに地上げを完了させるという契約書が交わされた。なお、この地上げ資金155億は太陽神戸銀行京都支店の徳竹代理人である前田知克弁護士名義の口座(前田口座)に融資されて、それが買収資金として提供されることとなった。

   ・これ以後、崇仁地区の家々には立ち退きを迫る男たちが億単位の現金を詰めたアタッシュケースや段ボールをもってやってきて、少しでも難色をすると嫌がらせがされるようになる。

 (2)、延長される地上げ

  ・1987年5月31日の期限がきても地上げは完了しなかった。崇仁協議会とサンセイハウスは買収資金の増額を要求し、1987年12月22日に追加変更契約が締結され、総枠280億5000万円に増額され、買収起源も1988年3月まで延長された。しかし、それでも1988年3月の段階でも約8割の土地しか買収は完了しなかった。

3、武富士と崇仁協議会の対立

 (1)、武富士と前田弁護士の対立

  ・武富士は、1988年夏頃から「前田口座」の金銭管理に疑問を持ち始めた。1989年2月、武富士の藤川渉外部長が前田口座の金の流れの調査をし、武富士と前田弁護士とが対立した。この時は、藤井委員長が仲介に入って、1989年6月に前田弁護士は地上げした土地の権利書を武富士に渡し、武富士は3億円の報酬を前田弁護士に支払うことで話がまとまり、前田弁護士は武富士の顧問弁護士を解任された。

   →前田弁護士は1991年に武富士から、前田口座の金から約50億円を横領したとして告訴されている。

 (2)、武富士と崇仁協議会の対立

  ①、意義

   ・崇仁地区の地上げは、バブル経済のあおりで土地が急騰したことにより予定通りに完成しなかった。そこで、武富士は当初の崇仁地区を再開発して利益を得る計画から、買収した土地を転売して利益を上げる方式に転換した。これにより、武富士にとって崇仁協議会と藤井委員長は邪魔者となった。

  ②、武井会長と藤井委員長の会談

   ・武富士側は、1990年9月上旬に、徳武の取締役会で崇仁協議会との契約解除を決定して通告した。同年12月4日には、武富士の武井会長と崇仁協議会の藤井委員長が武富士本社で会談を行った。これにより、崇仁協議会側は、材木町の土地を担保として外国資本のベクテル社から700億円の融資を受け、それで武富士に融資してもらった280億円は400億円にして返却すること、崇仁地区の開発は崇仁協議会が単独で行うことが決定し、武井会長も同意した。

4、武富士による崇仁協議会への攻撃

 (1)、意義

  ・1990年12月4日の武井会長と藤井委員長の会談後、武井会長は崇仁協議会の藤井委員長やその部下が、崇仁地区で地上げした土地を他に転売してしまうのではないのかと危惧する。武井会長は右翼団体に崇仁協議会への攻撃を指示した。しかし、武富士所有の崇仁地区で銃撃戦が起こり、マスコミの取材が武富士まで来てしまったことから、合法的に行っていることをアピールするために、最初は前田弁護士を、その後は藤井委員長を告訴してマスコミ対策をすることとした。

 (2)、山口組系山健組の攻撃

  ①、山健組の申し入れ

   ・1990年12月4日の武井会長と藤井委員長の会談の直後、藤井委員長は山口組関係者から「武富士の言うとおりにやってほしい。ついてはお会いしたい」と申し入れを受けた。さらに、1990年12月26日には、京都市内のホテルで山健組舎弟の男性と山健組のフロント企業である芙蓉の役員15~16名に取り囲まれて、崇仁地区の地上げから手を引くように迫られた。藤井委員長はこれを断った。

  ②、山健組の攻撃

   ・1990年12月27日、崇仁地区の集会所に銃弾6発が撃ち込まれた。この事件から、山口組と会津小鉄会との抗争も始まった。

   ・1991年1月4日、右翼団体の天祐同志会や大日本至誠会などが崇仁地区に押しかけて、「崇仁協議会は出ていけ」「藤井にだまされるな」と街宣を行った。

   ・1991年1月7日、前記山健組舎弟の男性が代表を務める全国天祐連合会が、京都市役所に乗り込み、「崇仁協議会の活動を放置せずに行政指導を行え」と迫る。

    →このような攻撃は、25日まで続いた。

 (2)、司法を使った攻撃

  ①、藤井委員長の排斥

   ・1991年1月18日、藤井委員長はサンセイハウスの代表取締役から解任された。さらに、藤井委員長が地上げした崇仁地区の土地はすべて武徳に所有権が移された。

  ②、藤井委員長を告訴する

   ア)、藤井委員長を告訴する

    ・1991年1月18日、サンセイハウスが原告となって、藤井委員長は約50億円を横領したとして、損害賠償請求をするとともに、業務上横領で京都府警に刑事告訴をした。しかし、京都府警は藤井委員長を業務上横領で立件することは難しいと判断した。

   イ)、前田弁護士への捜査

    ・京都府警は最初は、前田弁護士が「前田口座」の資金を横領していた疑いについて、重点的に捜査を行っていた。しかし、前田弁護士を起訴するには至らなかった。

     →この前田弁護士への捜査の過程で増井ガレージ事件が判明し、京都府警は藤井委員長を逮捕した。

5、崇仁協議会の武富士への反撃

 ・「崇仁の町づくりを進める会」が「暴力追放住民集会」を開き、ビラなどえ「武富士の責任を問う」と反撃した。さらに同会は、武富士本社と武井会長宅に押しかけて、武富士側が業務妨害で告訴する事件も起こした。

6、山口組と会津小鉄会の抗争

 (1)、きっかけ

  ・1990年、会津小鉄会会長の息子と会津小鉄会系加州会会長が、武富士の武井会長に利権を求めてコンタクトをとろうそした。これに武井会長は驚き、山健組に介入を依頼し、山口組系山健組と会津小鉄会の抗争が始まった。この抗争の過程で、山口組系山健組組員、会津小鉄会系組員が5~6人殺害された。

 (2)、崇仁協議会役員による地上げ資金横領疑惑と失踪事件

  ・1991年夏、崇仁協議会の会計担当者であった高谷泰三が、54億円の地上げ資金横領疑惑と失踪事件が起こった。この横領された地上げ資金は1992年に会津小鉄会の幹部によって山分けされていたことが明らかとなり、崇仁協議会の藤井委員長は会津小鉄会の高山登久太郎会長に抗議文を送った。

   →会津小鉄会側では、藤井委員長を暗殺する計画が練られるが、未遂に終わった。

 (3)、山口組系中野会の京都進出

  ①、高谷泰三元会長を引き入れる

   ・藤井委員長を引き入れることによって京都進出を図ろうとして、山口組系中野会が、1993年春ごろから度々崇仁協議会へ協力する旨を申し出る。藤井委員長はこの申出を断った。しかし、高谷泰三はこの申出を受け入れ、会津小鉄会から中野会の側へと移った。

  ②、武富士の武井会長と会う

   ・中野会は、山健組系の芙蓉の仲介で武井会長に3回ほど会った。つまり、武富士のバックは山健組から中野会に代わったわけである。この後、崇仁協議会への攻撃は山健組から中野会が行うようになった。

 (4)、崇仁協役員射殺事件

  ・1993年4月15日、崇仁協議会役員で、高谷泰三が管理していた三菱銀行口座の約150億円にのぼる使途不明金問題の交渉窓口でもあった潮見旭が、二人の男に射殺される事件が起こった。京都府警は、会津小鉄会系中野会組長と幹部、さらに実行犯として同会組員2人を逮捕したが、後に処分保留で釈放された。この事件は未だに未解決事件となっている。

7、藤井委員長の逮捕

 (1)、藤井委員長の逮捕

  ①、意義

   ・京都府警は、崇仁協事務所を覚せい剤使用容疑で捜索し、事務所から覚せい剤が発見され、さらに藤井委員長の体内からも覚せい剤成分が検出されたとして、1993年4月16日に藤井を逮捕した。さらに、1993年6月4日には藤井委員長が徳武からの地上げ資金のうち3億5000万円の小切手をだまし取った(増井ガレージ事件)として、詐取と私文書偽造容疑で逮捕した。

  ②、増井ガレージ事件とは

   ・増井ガレージとは、崇仁地区の物件の一つであり、地上げの対象となっていた。地上げ資金は「前田口座」から支給され、1989年2月23日に3億5000万円の手付金が保証小切手で藤井委員長に渡された。しかし、増井ガレージの所有者の甥が藤井委員長の幼馴染であったところから売却の意思を確認した所、「もう少し待って」と言われたので、藤井委員長は3億5000万円の保証小切手を1989年2月27日に知人の会社社長に託し、これが前田弁護士に返却された。しかし、京都府警は、藤井委員長は増井ガレージの買収の約束がとれていなかったにもかかわらず、売渡契約書を偽造し、手付金3億5000万円の保証小切手をだまし取って、領収書を偽造したとしたとして逮捕した。

 (2)、なぜ京都府警は藤井委員長を逮捕したのか

  ・崇仁協議会の藤井委員長がいるから、武富士、山口組、会津小鉄会の抗争も激化し、京都の治安が乱されていると京都府警は判断した。よって、まず藤井委員長を逮捕することが最初にあって、武富士が告訴したサンセイハウスの業務上横領では起訴できなかったので、前田弁護士への捜査の過程で判明した増井ガレージ事件における詐欺で立件することとした。

8、崇仁協議会への攻撃

 (1)、三菱銀行出町支店問題

  ・藤井委員長は1994年10月中旬に釈放された。藤井委員長は崇仁協議会を立て直すために、三菱銀行出町支店にあった崇仁協議会の口座に入っていた約150億円の確保に乗り出す。しかし、このお金が、崇仁協議会元幹部の高谷泰三らによって不正に引き出され、横領されていたことが判明した。これ以後、崇仁協議会は三菱銀行への抗議活動を行った。

 (2)、高谷泰三宅発砲事件

  ①、山口組対会津小鉄会

   ・1995年6月14日、会津小鉄会系山浩組の事務所に6発の銃弾が撃ち込まれた。この後京都では6月14日から16日の3日間に、山口組系や会津小鉄会系の組事務所に対する13件もの発砲事件が発生する。

  ②、高谷泰三宅発砲事件

   ・1994年6月16日、崇仁協議会の元幹部である高谷泰三宅の玄関ドアに7発の銃弾が撃ち込まれた。これは、会津小鉄会から山口組系中野会へと移った高谷に対して、会津小鉄会側が行った犯行であると言われている。

 (3)、藤井委員長宅襲撃事件

  ・1994年6月25日、藤井委員長宅の門にガソリンが巻かれて放火される事件が起った。

  ・1994年7月27日、藤井委員長宅に三人組が押し入り、拳銃3発を発砲。1発が崇仁協議会役員である北村耕之助の右太ももを貫通して重傷を負わせる事件が起こった。

    →これらの犯人は、山口組系中野会の組員であった。

 (4)、崇仁協議会役員射殺事件

  ・1994年8月2日、京都市左京区の交差点で崇仁協議会役員で建設会社社長の井尻修平が、オートバイに乗った二人組に銃撃されて、射殺される事件が起こった。井尻は三菱銀行出町支店の崇仁協議会口座問題で、交渉役として走り回っていた人であった。犯人は山口組系中野会の組員であった。

<参考文献>

 『京都と闇社会』(宝島社、2012、一ノ宮美成+湯浅俊彦+グループ・K21)
 『関西に蠢く懲りない面々』(講談社、2004、一ノ宮美成+グループ・K21)