1、意義

 ・元一和会幹事長・佐々木道雄氏が、どのように大相撲とかかわってきたのかについて具体的に書かれている『相撲界の虚像と実像』という興味深い本があります。昭和の時代、ヤクザは大相撲とどのような関係を結んでいたのかについてまとめます。

2、佐々木と大相撲との接点 

 (1)、出生

  ・佐々木は昭和6年(1931)に奄美大島で生まれた。小学1年生の時に家庭の事情で神戸の小学校へ転校した。この小学校には、同じく奄美大島から神戸へ密航していた佐々木氏の2歳年上の親戚・米川文敏(のちの横綱三代目朝潮)もいた。小学校4年生から相撲部へ入り学校代表となり、6年生の時にはキャプテンにもなった。

 (2)、ヤクザになる

  ・小学校を卒業してから久里浜(横須賀市)の海軍対潜学校(通信)に志願して入学した。海軍は相撲の盛んな場所で、土俵の丸い線なしで相手を投げるか倒すかまでとことんやる海軍相撲をやり、分隊の代表選手になった。終戦後は神戸でヤクザになった。

 (3)、大相撲との接点

  ・佐々木の大相撲との接点は、米川による。米川は昭和23年(1948)に高砂部屋入りした。佐々木は高砂部屋の大阪の合宿所へちょくちょく訪れていた。そうしているうちに高砂親方(元横綱前田山)に、「米川の親戚の子で相撲好きの青年」と目をかけてもらえるようになった。佐々木と気が合ったのは、この高砂親方(元横綱前田山)と宮城野親方(元横綱吉葉山)であった。よって、大相撲界との社交もこの高砂一門(高砂部屋と九重部屋)や宮城野部屋系であった。

3、佐々木と相撲関係者の社交

 (1)、冠婚葬祭や式典への出席

  ・佐々木は数々の力士の結婚式、断髪式、葬式に出席し、昭和47年(1967)神戸に自宅を新築しその披露の祝宴を張った時は、多数の相撲界の関係者がこの祝宴に駆け付けた。

 (2)、審判部屋や力士控室への自由な出入り

  ・佐々木は蔵前でも大阪でも名古屋でも場所中に審判部屋や力士の控室に自由に出入りしていた。新弟子が持ってくる座布団にアグラをかき、お茶を飲んで親方衆と将棋を指したり雑談をしていたという。

 (3)、引退興行の切符を買う

  ・ある力士が引退をするときに引退興行の切符の売れ行きが芳しくなかった。佐々木は頼まれてその切符を100万円分購入してあげた。

 (4)、地方巡業への支援

  ①、意義

   ・かつて年二場所、三場所で各部屋別に巡業を行っていた時代、全体の6割程度はヤクザ関係者によって巡業が取り仕切られていた。年六場所制で合同巡業になるにつれて、ヤクザ関係者が巡業にかかわる回数も減ってきたが、やはり地方巡業については、日本相撲協会が興行の世界に通じているヤクザ関係者に頼らざるを得ない構造はなくならなかった。佐々木は地方巡業をやめなければヤクザとの関係は絶てないとする。

  ②、勧進元となる

   ・昭和49年(1974)に大阪府和泉市で行われた大相撲の興行は、勧進元が佐々木や佐々木の舎弟分であった。その後、警察の目も厳しくなってきたことから、巡業の勧進元にヤクザ関係者が名を連ねることはなくなり、〇〇商店連合とか〇〇福祉協会などが勧進元となるようになった。

  ③、地方巡業を支える

   ・勧進元にまではならなくても、巡業日程の根回し、切符の販売、巡業先での関取たちの酒や女の接待、部屋へのチャンコ材料の差し入れ、力士たちが各地の夜の街でひき起こす喧嘩をめぐるトラブルの解決など興行の世界に通じているヤクザが地方巡業を支える事は多かった。

4、相撲界内部のトラブルの解決

 (1)、年寄株の用立て

  ・佐々木は、「私が直接に年寄株の売買にかかわり、なんとかうまくまとめた例もある」とする。その具体例が元関脇高見山の「東関」年寄株入手である。昭和39年(1964)に高見山が高砂部屋入りしたときから佐々木は高見山をかわいがっていた。高見山が「東関」年寄株を入手するとき、当時の東関株は先代宮城野親方(元小結広川)の未亡人が所有し、大昇(元前頭筆頭、現春日山)が管理し、朝登が借りていたが、最終的には青葉城に譲る約束になっていた。ここに佐々木が介入してこの約束を白紙に戻させ、高見山に行くように裏工作をした。このこといついて今でも後味の悪い思いをしたとする。

 (2)、相撲部屋の承継に関するトラブル

  ①、高砂部屋

   ア)、高砂部屋の跡目騒動

    ・相撲部屋の後継問題は、所属力士とその看板を引き継ぐ相撲部屋の相続と、先代親方の土地や建物など個人的な遺産の相続が同時に発生するのでもめやすい。昭和46年(1971)に高砂親方(元横綱前田山)が亡くなった。この時、振分親方(元横綱三代目朝潮太郎)と佐ノ山親方(元小結国登)がその後継を争った。この時佐々木が介入し、振分親方(元横綱三代目朝潮太郎)が1億3000万円で高砂部屋を買い取り、5代目高砂親方となり、高砂部屋を継承した。

   イ)、高砂部屋の新後援会長騒動

    ・昭和46年(1971)の高砂親方(元横綱前田山)の死に際して、部屋の親方も新しくなったのだから、部屋の後援会長も新しくすべきではないかという議論が巻き起こった。この時も佐々木氏が介入して、親方が変わっても後援会長は先代高砂親方(元横綱前田山)時代のまま変わらないこととなった。

  ②、宮城野部屋

   ア)、元関脇陸奥嵐の離婚問題

    ・宮城野親方(元横綱吉葉山)は、宮城野部屋の後継者に元関脇陸奥嵐を予定し、元関脇陸奥嵐を自らの養女と結婚させていた。しかし、元関脇陸奥嵐は他に女を作っていて、①親方の養女とは離婚したい、②宮城野部屋を継げなくなるので年寄株を手に入れたい、③これらを受け入れるように宮城野親方(元横綱吉葉山)を説得してほしと佐々木に依頼してきた。佐々木は最初は元関脇陸奥嵐に離婚をせずに心を入れ替えて部屋を継承するように説得したが、どうしても元関脇陸奥嵐が受け入れないので、離婚届にハンコを捺すように宮城野親方(元横綱吉葉山)らを説得した。

   イ)、宮城野部屋の承継

    ・元関脇陸奥嵐は年寄安治川を手に入れたが、宮城野親方(元横綱吉葉山)に部屋から出ていくように言われたので、安治川(元関脇陸奥嵐)は友綱部屋へと移った。昭和52年(1977)宮城野親方(元横綱吉葉山)は死亡した。宮城野部屋は元小結広川が継承した。

5、大相撲と外部勢力とのトラブル解決

 (1)、お詫びの念書奪還事件

  ①、大相撲の黒い交際事件

   ア)、大関大麒麟

    ・昭和46年(1971)11月9日、大関大麒麟が恐喝容疑で未決勾留中の暴力団員を友情訪問した。これが問題となり、監督官庁である文部省の体育局スポーツ課長から日本相撲協会(武蔵川理事長)に警告が入り、日本相撲協会が大関大麒麟を「直接注意」の処分をした。文部省から警告をうけるのは日本相撲協会はじまって以来のことであるので、日本相撲協会は狼狽した。

   イ)、横綱北の富士

    ・九州場所前に福岡西署へ表敬訪問をすることは恒例となっていた。時の横綱であり、力士会会長でもあった北の富士もこの例にならって昭和46年(1971)の九州場所前の10月30日に、福岡西署へ表敬訪問をした。しかしこの時横綱北の富士とともに警察署へ行ったのが、有力なタニマチである右翼関係者の吉永正元であった。これにより横綱北の富士は日本相撲協会から「戒告」処分を受けるという憂き目にあった。

  ②、右翼関係者の懸賞を無断で降ろした

   ア)、吉永正元とは

    ・吉永は福岡の右翼団体「福青会」の総裁であり、報道によると伊豆組の準構成員であった。ちょっとした地元の名士でもあり、父は元市議会議員、自身はタクシー会社の社長で福岡の数大学の応援団の有力後援者にもなっていた。その吉永が昭和46年(1971)に、時の総理・佐藤栄作の沖縄返還の対米姿勢が軟弱すぎるとして、首相官邸に「佐藤総理、あなたはこのピストルで自害せよ」とピストルと実弾、さらに短刀を送りつける事件を起こし、同年9月に銃刀法違反で逮捕されていた。

     cf.後日吉永は、「自分の電話が盗聴されている」と錯覚し電電公社に苦情を入れ、対応に訪れた局員4人と電話局長2人を木刀で滅多打ちにして監禁し、後に警察官数百人とにらみ合い、最後は自宅のプロパンガスに火をつけて爆発させ、家ともろとも自らの命を絶った。

   イ)、無断で懸賞を降ろす

    ・吉永は大の相撲好きであり、同年11月の福岡場所にも懸賞をかけていた。しかし、日本相撲協会はこの「大相撲の黒い交際事件」の余波で、吉永に断りを入れることなく懸賞金の返金もせずに勝手に懸賞を降ろしてしまった。これに吉永が激昂した。吉永に攻められた日本相撲協会は、吉永の怒りを鎮めるために「念書」の形で詫び状を渡した。

  ③、「お詫びの念書」の奪還依頼

   ・日本相撲協会は詫び状を吉永に渡したものの、今度はこの詫び状を使って吉永が日本相撲協会に無理難題を突き付けてこないか、この詫び状が世間に公表されないかといったことを危惧した。よって、この詫び状を回収してほしいと日本相撲協会は宮城野親方(元横綱吉葉山)を通して佐々木に依頼してきた。

  ④、「お詫びの念書」の奪還

   ・佐々木は吉永に電話をかけ、数時間の話し合いの上でこの「お詫び念書」を取り戻した。この念書はすぐさま日本相撲協会の使いである春日野(元横綱栃錦)理事へと渡された。

  ⑤、日本相撲協会からの謝礼

   ・佐々木は日本相撲協会から120万から130万ほどのダイヤ入りのタイピンとカフスボタンのセットを謝礼の品としてもらい、さらに武蔵川(元横綱三重ノ海)理事長から直々に東京浜町の料亭でお礼の挨拶を受けた。

 (2)ヤクザとの喧嘩の仲裁

  ①、意義

   ・力士はしばしば夜の街で地元のヤクザと喧嘩をするトラブルを起こした。このような時には佐々木の元に「オヤジさん。またやってしまった。助けて下さい」と電話がかかってきて、佐々木が相手方のヤクザと話をつけるということがしばしば起った。

  ②、具体例 

   ・昭和40年代の前半の大阪場所中、時津風部屋の有望力士がミナミで酒を飲み、酔った勢いで長谷組(長谷一雄組長)幹部の車を蹴飛ばした。これに激怒した長谷組幹部ら数人は、「チョンマゲを切れ」と時津風部屋へ乗り込んだ。時津風親方(元横綱双葉山)に依頼されて佐々木が間に入り、このトラブルは解決された。

6、佐々木の排斥

 (1)、佐々木道雄とは

  ①、意義

   ・日本相撲協会はこの後佐々木氏を排斥しますが、佐々木氏がどのような人物であったのかも考察しておかなければならないでしょう。佐々木氏といえば、昭和50年(1975)から昭和53年(1978)に起った大阪戦争にかかわった事と、山口組を代表的する総会屋であった事であります。

  ②、大阪戦争


  ③、総会屋佐々木道雄

   ア)、自宅新築に際しての事件

    ・昭和47年(1967)、佐々木は自宅を新築した。この時佐々木が相撲関係者を呼んで盛大な祝宴を張ったことは前記したが、この際に、大手企業100社に1個1万円程度の置時計を送り付けて、企業との因縁を結んだ。直後、これを報道した読売新聞大阪社会部を、佐々木組組員が「佐々木組は総会屋でない」と殴り込みをかける事件につながった。

   イ)、長谷川工務店事件

    ・昭和46年(1966)、長谷川工務店の株式5万500株を取得した佐々木道雄は、名義書換え停止の前日になって、5万株を自己名義に、500株を子分50人名義に書き換えるように長谷川工務店に迫った。さらに、同社の幹事証券会社である大和証券本社広報部長を抱き込んでこの部長を長谷川工務店社長に訪問させ、「佐々木は山口組だ。株主総会で何をするかわからない」と恐怖心を植え付け、5万株を850万で買い取らせたほか現金2000万円を脅し取った。

   ウ)、その他

    ・その他佐々木は、富士銀行恐喝事件、大阪にある大手繊維メーカー恐喝事件、大洋ホエールズの横浜移転問題にも名前を出している。

 (2)、佐々木を嫌う大相撲関係者

  ①、横綱大鵬

   ・佐々木はよく5~10人の関取衆を連れて銀座、栄町(名古屋)、ミナミ、キタ新地、中洲、三の宮と夜の街を飲み歩いていた。昭和30年代終わり頃、後に大関前の山となる20歳直前であった幕下の清水を連れて夜の街を飲み歩き、横綱大鵬の親戚が経営する寿司屋に入った時、大鵬は清水に「キミ、何時かわかっているのかね」と、また佐々木にも「佐々木さん。こんな時間まで引っ張っては、若い相撲取りの明日のためにはなりませんよ」と𠮟りつけた。佐々木はこれはその通りと受け入れ、後に清水が大関となったことを喜んだ。

  ②、三保ヶ関親方(元大関増位山)

   ・佐々木が昭和57年(1982)に排斥される4年ほど前、三保ヶ関(元大関増位山)親方が「佐々木さん。もう(力士達とは)つき合いせんで下さい。迷惑します」と言われた。これに対しては佐々木は、三保ヶ関親方(元大関増位山)も姫路の湊組組長・湊芳治の世話になっていただろう、義理は欠かない方がいいと反発した。

 (3)、佐々木の排斥

  ・昭和57年(1982)9月30日、横綱千代の富士の結婚披露宴がホテル・ニーオータニで、相撲関係者をはじめ政財界の名士、芸能界など各方面から約3000人を集めて盛大に行われた。またこの結婚披露宴には、組関係者と分かる人間がたくさん呼ばれていた。その中の一人に佐々木もいた。日本相撲協会は、佐々木との付き合いから横綱千代の富士が所属する九重部屋の九重親方(元横綱北の富士)を降格と謹慎とする処分を下した。これによって佐々木は日本相撲協会から「絶縁」を突き付けられた。

 (4)、その後

  ・日本相撲協会から排斥された後も、佐々木はご祝儀をくれるからか、なお親方衆からは番付表や千秋楽の通知が送られ続けたという。佐々木は「春日野理事長が公言してはばからない「極道との縁切り」は、実は相撲界のタテ前で、ホンネは「お好きにどうぞ・・・・・」と、半ば放任。旧態依然としての体質の変わっていない」とする。

<参考文献>

 『相撲界の虚像と実像』(佐々木道雄、ジャパンネットワーク、1983)
 『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)