1、出生

 (1)、出生

  ・天保4年(1833)、大坂で水戸の浪人・上田友之進と母ユウの子として生まれた。

 (2)、孤児

  ・仙吉が3歳の時に父が妻子を捨てて家を出てしまった。母ユウと仙吉は父を探して水戸へ向かって旅にでるが、この旅先で母も亡くなり、齢6歳にして天涯孤独となった。

2、悪童時代

 (1)、「子供博打」

  ・仙吉は祖父母の実家で引き取られ、そこで育てられることとなった。しかし、8歳か9歳になると神社の境内で開帳される「子供博打」にはまりだし、10歳ころになると胴元を張るようになった。ここで「子供博打」の頭分であった上坂音吉出会う。

 (2)、殺人

  ・仙吉は17歳の時に、博打仲間の不始末をタネにその親をゆすっていた男を殺してしまった。音吉に付き添われ仙吉は奉行所に出頭し、「大坂所払い」となった。

3、渡世入り

 (1)、江戸へ

  ・渡世入りした仙吉は、江戸へ向かった。江戸では香具師の親分、神田の政五郎一家の所へ草鞋を脱いだ。この時、江戸の大親分辰五郎一家と政五郎一家の喧嘩の仲裁役を買って出て男を上げた。

 (2)、結婚

  ・仙吉は瞽女(ごぜ、女性の盲人芸能者)のおりんと結婚をした。

4、会津小鉄会の結成

 (1)、会津藩へ

  ①、かくれ賭場開帳

   ・江戸から京都へ移った仙吉は、女房を食わしていくために安定収入を求め、名張屋新蔵一家の縄張りであった粟田口で、仲間3人と隠れて賭場を開帳した。しかしこれがすぐに名張屋一家に露見し、夜襲をうけた。この時女房おりんが命を失っている。

  ②、仙吉の返し

   ・仙吉はおりんの敵討ちに名張屋一家に単身で乗り込み、おりんを殺したお神楽源治を斬殺した。

  ③、会津藩との接点

   ・この一部始終を見ていたのが、会津藩邸出入りの中間、人夫、鳶職などの御用達をしていた大垣屋清八であった。大垣屋清八は仙吉の腕と度胸と人情に惚れて仙吉を引き取った。ここに仙吉と会津藩との接点が生まれる。

 (2)、会津小鉄一家の結成

  ①、会津藩邸中間部屋の部屋頭へ

   ・仙吉は岐阜大垣に住んで大垣藩邸御用達で修業をした後、京都に戻って大垣屋清八と親分子分の盃を交わし、当時京都にあった黒谷と百万遍の両会津藩邸の中間部屋の部屋頭となった。

  ②、会津小鉄一家の結成

   ア)、「会津の小鉄」

    ・仙吉は、背一面に「小野の小町」の絵柄と桜吹雪をあしらった刺青を入れ、「長曽根入道虎徹」の長脇差を常に携帯していた。小柄な体格であったことから「小鉄の仙吉」と呼ばれていたが、会津藩中間部屋を取り仕切るようになると「会津の小鉄」と呼ばれるようになった。

   イ)、会津小鉄一家の結成

    ・仙吉の元には、悪ガキ時代の仲間であるいろは楼の幸太郎、旅籠屋の熊五郎、京友禅の常吉が若衆を引き連れてやってきて、盃をもらって子分となった。文久2年(1862)、仙吉が29歳の時に大垣屋清八の許可を得て、代紋は大瓢箪と定めて、「小鉄一家」の看板を掲げた。のちの会津小鉄会の結成である。この時子分は300人ほどいたという。

5、幕末京都での活躍

 (1)、会津軍受け入れ体制整備

  ・幕末の京都は治安が乱れていた。よって文久3年(1863)12月に京都守護職の会津藩藩主・松平容保が1000人の兵を引き連れて京都にのぼった。この1000人の兵を収容するために、会津藩は黒谷、百万遍両藩邸の拡張や宿舎の建設を工期100日そこそこで行った。この時仙吉は会津藩の命令で、工事に必要な人夫、大工、左官などの職人、建設資材から、米、ミソの食料品までを調達し、工事を背後から支えた。

 (2)、新選組への協力

  ①、芹沢鴨の暗殺

   ・文久3年(1863)、新選組の芹沢鴨が暗殺をされた。この暗殺の実行犯が実は仙吉であったのではないかと四代目会津小鉄会会長・髙山登久太郎は推測している。

  ②、池田屋事件

   ・元治元年(1864)、新選組が四条河原町の旅籠屋・池田屋で倒幕の謀議をしている勤皇志士たちを襲撃した。この時、池田屋を遠巻きにして他の勤皇の志士たちの応援を阻んで新選組の仕事をやりやすくしたのが仙吉とその子分たちであったと言われている。

 (3)、蛤御門の戦い

  ・元治元年(1864)、会津藩や薩摩藩を中心とする幕府軍と長州藩との間で戦いが起こった。この時仙吉は、会津藩や薩摩藩兵士の死体や負傷者収容の総指揮をとった。この労により会津藩藩主・松平容保からは感状と恩賞をもらっている。なおこの時、仙吉が助けた薩摩藩の負傷者の中に、明治新政府で警察制度を作ることになる川路利良がいた。川路が作った警察がのちに会津小鉄会を弾圧することになるので、奇妙な縁である。

6、襲撃され大阪へ

 (1)、襲撃をうける

  ・会津藩と共に行動をしていた仙吉は勤皇志士をはじめ敵も多かった。仙吉はで歩くときに子分たち若い衆を付き添わせないこともあって、菊乃屋という貸座敷で丸腰でいたところを何人かの浪士に襲撃され、命はとりとめたが、額や肩、胸元、胸、足など数カ所に大小の傷を負った。この時、右手で白刃を握ったことから、親指と人差し指以外の三本の指がそぎ落ちた。

 (2)、大阪へ

  ・体中傷だらけの仙吉は、生まれ故郷である大阪で療養生活を送った。家はかつての博打仲間である音吉が高津に用意してくれた。この高津の家で芸者・小富との間に男児「卯之松」(後二代目となる)を生んだ。仙吉が大阪で療養中、京都の会津小鉄一家を支えたのが、いろは幸太郎ら小鉄一家四天王、八人衆であった。この頃になると会津小鉄一家は、京都のほか大阪、兵庫、滋賀方面にも舎弟親分をつくり一家の勢力を伸ばしている。

 (3)、賭場荒らしで牢屋へ

  ・当時京都では大名屋敷の中間部屋が、大阪では大阪城勤番の直参旗本が賭場を開いていた。仙吉はこの直参旗本が開いていた賭場に出入りし、旗本の侍や用心棒と渡り合い3人を殺めたことから牢屋送りとなった。京都で仙吉の留守を守っていたいろは幸太郎ら幹部が200両という大金を用意して旗本をなだめ、死罪は免れた。

7、鳥羽伏見の戦い

 (1)、鳥羽伏見の戦いに参戦

  ・慶応4年(1868)、薩摩藩長州藩を中心とする新政府軍と、会津藩を中心とする旧幕府軍との戦いが起こった。仙吉は牢屋から釈放され、会津藩のために総勢500人の荷駄隊を率いて従軍し、食料品の輸送や、負傷兵の収容、傷の手当などを行った。

 (2)、会津藩の敗北

  ・戦いで会津藩は壊滅状態となり、仙吉も子分のいろは幸太郎ら15、6人を残して、残りの荷駄隊隊員全員に功労金を支払い荷駄隊を解散させた。その仙吉に対して会津藩も労をねぎらい任務を解いた。

 (3)、遺体の収容

  ・任務を解かれたが、仙吉は戦死した会津兵の遺体を収容する仕事をやりたいと直訴した。会津藩は仙吉に千両箱を渡し、仙吉はこの金を使って会津藩だけでなく官軍側の戦死者の遺体を収容し、砲弾によって穴があいた道路を補修し、落ちかかった橋の改修工事を敵陣からの妨害などにあいながら命がけで行った。そして、仙吉は自ら会津まで行き、回収して荼毘に付した遺骨を届け「会津藩兵の遺体を全部収容した」ことを報告してお役御免となった。

8、仙吉の明治

 (1)、戦犯

  ・仙吉は遺体の収容作業が終わった後、博徒の親分として鳥羽伏見の戦いに加わり官軍と応戦した戦犯として捕まり連行された。この時裁判にあたったのが、明治新政府で警察制度を作ることになる、当時新政府民政局長官を務めていた川路利良であった。川路は「無罪放免」の判決を出した。

 (2)、妻の死

  ・遺骨を届けた後、仙吉は会津から大阪高津の自宅に帰ったが、妻小富は二人目の子どもを身ごもり、難産で体力を使い果たし死亡していた。次男の辰之助は九州博多の博徒の親分の所に養子に出し、仙吉は長男の卯之松を連れて京都に戻った。

 (3)、結婚

  ・かつて、蛤御門の戦いで孤児となったユカという幼女をいろは幸太郎が救って仙吉のもとに連れて来たことがあった。仙吉はこの子の養育を知り合いの祇園の女将・よねに頼み、養育費として大金を渡した。成長してユカは祇園で芸者をしていたが、京都に戻った仙吉はこのユカと結婚をした。20歳の年の差婚であった。このユカとの間に仙之助が生まれた。

 (4)、絶頂期

  ・この頃の会津小鉄会の縄張りは、京都を中心に滋賀、大阪、神戸へと拡がり、直系の子分は2000人、孫子分まで合わせると12000人という巨大組織となっていた。各地の賭場から仙吉のもとへ1日150円(現在の貨幣価値で5000万円)が上納されていたともいう。明治9年(1876)、京都市左京区北白川吉田町1丁目に仙吉は約2400坪の大豪邸を建造した。

 (5)、教育への投資

  ①、「小鉄学校」

   ・激動の幕末維新期において、孤児が多く発生した。仙吉はこのような子どもたちの収容施設を作った。当時の人はこれを「小鉄学校」と呼んだ。

  ②、同志社大学の建学資金

   ・新島襄の妻八重の実父が会津藩砲術師範であったことから、会津藩と縁の深い仙吉は知り合いであった。この関係で、新島襄が同志社英学校(現同志社大学)を建学するときに、今の金で1億円ほどを提供し、さらに自宅近くに一軒家を買い、同校の学生をここに住まわせて衣食住の面倒をみた。

9、仙吉の死

 (1)、明治の博徒大刈込

  ・明治17年(1884)、賭博犯処分規則制定された。所謂明治の博徒大刈込である。この前後は明治新政府が博徒を大弾圧する時期であり、仙吉も明治16年(1883)に逮捕され、賭博開帳罪と博徒招結罪で重禁錮10ヶ月罰金100円の判決を受けた。

 (2)、仙吉の死

  ・仙吉は10ヶ月の刑期を務めて出所したが、この時別人のように衰え、すぐに京都大学の附属病院へ入院した。明治19年(1886)、死を悟った仙吉は得度をして僧籍に入り、その後死亡した。享年53歳。

 (3)、守られなかった遺言

  ・仙吉の遺言は「ユカ、極道はワシ一代でいい。仙之助、卯之松、堅気になれよ。いろは(幸太郎)よ、頼んだぞ・・・・・」であった。しかし、遺言に反して仙之助は家出をしその行方は永遠に不明のままとなり、卯之松は会津の小鉄の二代目を継いで極道となった。

<参考文献>

 『警鐘PART2』(髙山登久太郎、ぴいぷる社、1993)