1、意義
・西口茂男の時代は、住吉会が連合体から組織へと変わっていく時代であった。住吉連合(会)には、堀政夫の人格を慕って全国のさまざまな博徒やテキヤ組織が集結していった。しかし、堀が亡くなったことによって、人間関係ではなく盃を交わすことによって制度による組織を構築する必要が生じた。これを反映して名称も「住吉連合会」から「住吉会」となっている。他方、西口の時代はバブル崩壊や暴対法の施行など、ヤクザが衰退していく時代のはじまりでもあった。
2、西口茂男とは
(1)、渡世入り
・昭和4年(1929)に生まれる。住吉一家向後初代・向後平のもとで渡世入りし、博徒の修行に励んだ。そして、二十代の若さで部屋住みの責任者となっている。
(2)、出世
・昭和31年(1956)に浅草妙清寺事件が起こり向後が亡くなると、住吉一家向後二代目を継承した。また、住吉一家においても、早くから幹部に登用され、理事長などの要職を担った。さらに、住吉連合会においても、会長まで上り詰めた。また、「バクチの天才」としても有名であった。
3、住吉会の会長へ
(1)、住吉会の会長へ
①、意義
・平成3年(1991)に「住吉連合会」が発展的に解消して「住吉会」が立ち上げられ、住吉連合会会長である西口が住吉会の会長となった。さらに、住吉連合会総裁・堀政夫の逝去により空席となっていた住吉一家六代目も、西口が合わせて承継した。
②、直系制度の確立
・住吉連合会は、堀の人徳に惹きつけられた全国の博徒テキヤ組織の寄り合い所帯的な色合いが濃かった。しかし、堀が亡くなったので西口は、最高幹部及び各一家の当代や一部ナンバー2クラスとの間で親子盃を交わし、直系制度を確立した。
③、「副理事長」の新設
・平成4年(1992)、「会長ー副会長ー常任相談役ー相談役ー専任評議員ー常任評議員ー評議員ー代議員」の副会長の下に「副理事長」というポストを新設し、若手実力派組長117人を選出した。これは、住吉会傘下組織の急増により、常任相談役に就く者が約600人ほどになってしまったので、常任相談役の中で実力がある者を副理事長としたものである。
(2)、指定暴力団になる
・平成4年(1992)、住吉会は山口組や稲川会とともに暴対法に基づく指定暴力団第一号となった。西口の口癖は「ヤクザの基本を忘れちゃ困る」であり、暴対法制定時も「ヤクザの基本を守って、常識を踏みはずさない限り、何も気にすることはないんだから、それほど神経をとがらせるな。それより、いまこそわれわれが襟を正す時期にきてるんだ」と語った。
(3)、「平和共存・内政不干渉」路線の継承
①、親戚関係の構築
・西口は、堀の「平和共存・内政不干渉」路線を継承し、平成4年(1992)には稲川会と、翌平成5年(1993)には国粋会と親戚となり、さらに平成5年(1993)に西口は、稲川会会長・稲川裕紘と国粋会会長・工藤和義との兄・舎弟盃の取持人を務めた。
②、相次ぐ加入
・平成3年(1991)には、西海家総連合会、東京盛代錦戸連合会、東京盛代盛永会が、翌平成4年(1992)には、義人党が解散して武蔵屋一家として住吉会へ加入した。
4、住吉会の総裁へ
(1)、意義
・平成10年(1998)、西口は住吉一家六代目のまま、住吉会会長を住吉一家小林会二代目会長・福田晴瞭(はれあき)に譲り、平成14年(2002)に住吉会の総裁となった。平成17年(2005)には、住吉一家総長の座も福田に譲った。
(2)、アメリカから経済制裁対象に指定される
・平成23年(2011)、オバマ政権はヤクザを国際的に活動する犯罪組織と認定し、翌平成24年(2012)には、山口組に続いて住吉会と西口、福田を経済制裁の対象に指定した。これにより、アメリカの資産が凍結され、アメリカの企業や個人と取引をすることが禁じられた。
5、逝去
・平成29年(2017)、逝去。享年88歳。
<参考文献>
『住吉会総覧』(竹書房、2007)
『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002、筑摩書房)