1、演歌の誕生
(1)、演歌=演説の歌
・明治に入ると自由民権運動が盛んになりました。人々が集会で演説をします。しかし、小難しい演説をしても聞いてもらえませんし、反政府的な演説だと政府が禁止命令をだしてきます。そこで、演説の歌=演歌が生まれてきました。その代表的な曲が「オッペケペー節」です。
日本最初のラップという評価もあります。最近のフリースタイルは仲間同士でディスり合いますが、新聞記者の経験もある川上音二郎は言論の自由がない時代に明治政府をディスり倒しました。このように演歌というのは、演説のための歌として生まれました。
日本最初のラップという評価もあります。最近のフリースタイルは仲間同士でディスり合いますが、新聞記者の経験もある川上音二郎は言論の自由がない時代に明治政府をディスり倒しました。このように演歌というのは、演説のための歌として生まれました。
(2)、演歌師の登場
①、横浜へ
・のちに極東会の祖となる関口愛治は、13歳の時に長野から家出同然で横浜に出てきました。街中をフラフラしていると、テキヤ・桜井庄之助の一家の者に声をかけられ、厄介になることにしました。しかし、飯を食っていくためには何か仕事をしなければなりません。関口少年は当時流行っていた演歌師を自分の仕事に選びました。
②、演歌師の登場
・演歌師とは、演歌を街中で歌い唄本を売り歩く職業です。最初は政治的な歌を自由民権運動の急進派が歌っていましたが、だんだんアルバイトの苦学生がバイオリン片手に書生姿で歌うようになり、さらに、関口少年のような専業の演歌師も生まれてきました。
「あいたさ見たさにこわさを忘れ暗い夜道をただ一人あいに来たのに」なぜ出てこないのか、私は籠の鳥。このような変化に従って、歌われる曲も政治的な曲から、「籠の鳥」のような男女の色恋を歌う曲に変わっていきました。
③、演歌師が流行歌を作った
・テキヤは全国を旅して歩きますのでネットワークがあります。レコードもない、ネットやテレビどころかラジオすら普及していない時代のメディアは演歌師たちでした。彼らが全国を渡って歌うにつれて、全国的な流行歌が生まれました。それが「船頭小唄」です。
(3)、演歌の誕生
・「船頭小唄」が演歌の始まりという解釈もあります。なお、戦前の演歌にはこぶしがありません。戦後になって、民謡出身の三橋美智也が演歌にこぶしを持ち込んだそうです。
この曲が大ヒットした直後に関東大震災が起きてしまいました。「おれは河原の枯れすすき~」と暗い歌なので、震災が起きたのはこういう暗い歌が流行るせいだとして一時期歌われなくなったそうです。「船頭小唄」は大正時代の枯れすすき。昭和の時代にも枯れすすきがありました。
「昭和枯れすすき」は暗い枯れすすきのネタ曲ですね。なお、演歌師は、ラジオや蓄音器の出現によって衰退していきました。
2、石田一松の系譜
(1)、石田一松
・関口も演歌師としてキャリアを重ねていくうちにテキヤの世界でいい顔になり、やがて演歌師志望者が訪ねてくるようになります。その一人に広島から上京してきた歌好きの苦学生・石田一松という男がいました。石田には「のんき節」というヒット曲があります。アメリカの大統領が変わって景気がよくなるなら毎年選挙をやってくれと「オッペケペー節」のような政治批判をして、「へへ、のんきだねぇ」と笑いに持っていきます。
演歌師の石田はこの曲を歌って全国を回ったら、なんと衆議院選挙に当選してしまいました。日本最初のタレント議員です。
(2)、クレイジーキャッツ
・石田のこの「のんき節」を、「戦後の演歌師」ともいえるクレージーキャッツの植木等が映画「ニッポン無責任野郎」の中で歌詞を変えてカバーしました。日本史上もっとも無責任の大切さを説いた男・植木等。石田の系譜はこのクレイジーキャッツに引き継がれているのではないでしょうか。
3、ヤクザはなぜ演歌が好きなのか
・以上、多少牽強付会かもしれませんが、演歌師・関口愛治を中心としてみた、ヤクザと芸能がずっと近いところにあった時代の話でした。ヤクザはなぜ演歌が好きなのか。さまざまな答えが可能だと思いますが、以上の考察から、そもそも演歌の発生からテキヤは大きくかかわっていました。例えば「船頭小唄」は、作曲は近代歌謡の祖・中山晋平、作詞は野口雨情と豪華なタッグですが、演歌を普及させた演歌師たちにはテキヤが多くいました。ヤクザと芸能人との関係が問われることがよくありますが、そもそもかつては芸能者自体がヤクザでした。
4、補足
・上岡龍太郎さんがヤクザと芸人は一緒という話をされています。できるだけ楽したい、みんなと一緒のことはしたくない、チヤホヤしてほしい、お金はいっぱい欲しいという人間の中で、腕が達者な人はヤクザになり、口が達者な人は芸人になる。歌がうまい人は歌手になるとも言えそうですね。
<参考文献>
『極東会大解剖』(実話時代編集部、三和出版、2003)
「大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜」
「大瀧詠一の日本ポップス伝2第一夜」
「大瀧詠一の日本ポップス伝2第四夜」
「大瀧詠一の日本ポップス伝2第五夜」
・以上、多少牽強付会かもしれませんが、演歌師・関口愛治を中心としてみた、ヤクザと芸能がずっと近いところにあった時代の話でした。ヤクザはなぜ演歌が好きなのか。さまざまな答えが可能だと思いますが、以上の考察から、そもそも演歌の発生からテキヤは大きくかかわっていました。例えば「船頭小唄」は、作曲は近代歌謡の祖・中山晋平、作詞は野口雨情と豪華なタッグですが、演歌を普及させた演歌師たちにはテキヤが多くいました。ヤクザと芸能人との関係が問われることがよくありますが、そもそもかつては芸能者自体がヤクザでした。
4、補足
・上岡龍太郎さんがヤクザと芸人は一緒という話をされています。できるだけ楽したい、みんなと一緒のことはしたくない、チヤホヤしてほしい、お金はいっぱい欲しいという人間の中で、腕が達者な人はヤクザになり、口が達者な人は芸人になる。歌がうまい人は歌手になるとも言えそうですね。
<参考文献>
『極東会大解剖』(実話時代編集部、三和出版、2003)
「大瀧詠一の日本ポップス伝第二夜」
「大瀧詠一の日本ポップス伝2第一夜」
「大瀧詠一の日本ポップス伝2第四夜」
「大瀧詠一の日本ポップス伝2第五夜」