神戸山口組の設立から5年が過ぎました。元暴5年条項の例からも5年で歴史の範疇に入るようなので、六代目山口組の成立から六神抗争までをまとめます。

1、意義

 ・愛知県警の捜査関係者は、「司組長の夢とは天下統一と司幕府の創設」であるとする。すなわち、六代目山口組組長・司忍は、ヤクザ社会の平和共存のために、名古屋と愛知県を統一し、山口組の本丸を取り、首都東京へ軍を進めて天下に号令することを目標とした。このために、六代目山口組若頭・髙山清司を中心に、山口組は組織の締め付けと東京への進出に邁進した。しかし、ヤクザが疲弊していく時代に直系組長を締め付けたことから、やがて「百姓一揆」が起こることとなった。

2、司幕府の創設
 
 (1)、六代目山口組の成立

  ①、六代目山口組の成立

   ・平成17年(2005)7月29日、臨時直系組長会が開かれて、司の六代目組長就任と、五代目山口組組長・渡辺芳則の引退が発表された。同年8月27日に、山口組本部で「盃直し」と襲名式が挙行された。



  ②、早急に決められた人事

   ア)、意義

    ・平成9年(1997)11月28日、司は銃刀法違反の共謀共同正犯容疑で逮捕されていた。平成13年(2001)3月に大阪地裁では無罪判決であったが、平成16年(2004)2月の大阪高裁は懲役6年の逆転有罪判決が出た。この上告審についての最高裁の判断が近く出され、有罪となればしばらく服役をしなければならないので、それまでに六代目山口組の基礎を定めておかなければならなかった。襲名式や人事は早急に行われていった。

   イ)、人事

   ①、若頭

    ・六代目山口組の若頭には、近く司が収監されることを想定して、司の腹心である髙山が就任した。髙山は二代目弘道会会長、山口組直参、山口組若頭補佐、山口組若頭と異例のスピード出世を果たした。

   ②、若頭補佐

    ・筆頭若頭補佐に六代目体制確立の功労者である芳菱会総長・瀧澤孝、その他極心連合会会長・橋本弘文、侠友会会長・寺岡修、二代目伊豆組組長・青山千尋、旭導会会長・鈴木一彦の5人が就任した。後に、四代目山健組組長・井上邦雄、正木組組長・正木年男、池田組組長・池田孝志が追加任命された。

   ③、その他

    ・総本部長に二代目宅見組組長・入江禎、最高顧問に岸本組組長・岸本才三と平成17年(2005)9月に山口組入りした四代目国粋会会長・工藤和義、舎弟頭に二代目吉川組・野上哲男、顧問に章友会会長・石田章六、大石組組長・大石誉夫、心腹会会長・尾崎彰春、舎弟に英組組長・英五郎、玉地組組長・玉地健治、川合組組長・川合康允という人事となった。

 (2)、司幕府の構造

  ①、内政

   ア)、際限なき軍役

    ・江戸時代、幕府と藩の主従関係において、幕府が大名の領地を安堵する代わりに大名は軍役を負担した。特に江戸時代初期に幕府は、「際限なき軍役」を大名に課し、城郭・寺院の築造や河川の改修工事を行い、その負担によって大名の力を削いでいった。六代目山口組でも、月会費(幹部クラスは100万円、それ以外の無役の直系組長は80万円)のほかに、慰労金制度(直系組長で引退者で出るたびに、臨時徴収で100万円が課され計1億円が渡されていたが、しだいに5000万円、2000万円と渡される額が下がっていった)、日用雑貨品の強制購入(直系組長が飲料水、シャンプー、石鹸などの日用品を半ば強制的に購入する制度であり、月平均では50万円、最高幹部・幹部・舎弟だと月100万円ほどが支払われた。ただし、六代目山口組側の主張だと月に5万円~20万円ほどにすぎないとする)、その他中元や歳暮さらに司の誕生祝いなどで徴収が行われ、経済力が削がれていった。

   イ)、参勤交代制

    ・江戸時代の参勤交代制も軍役である。幕府が大名の領地を安堵する代わりに、大名は江戸へ来て将軍を警護する役を担った。六代目山口組でも、直系組長達は、山口組本部がある神戸に宿舎を手配し、朝から夕方まで本部に詰めることとなった。

   ウ)、「預かりもの」意識

    ・六代目山口組では、直系の組織やその財産は、山口組の山菱の代紋を使って作られてものなので山口組のものとされた。よって、直系組長は代紋頭から組織を預かり発展させていくべきものとされ、直系組長の任務に堪えない者、執行部に反抗的な者はその座を追われ、若手の有能な者にすげ替えられた。また、たとえ山口組入りする前に自分で建てたものであっても、組事務所は山口組のものであるとされ、借金の担保に入れたり、名義を変えることを禁止し、引退するときは山口組に置いていくものとされた。

  ②、外交

   ・司は山口組によるヤクザ業界の平和共存を目標としており、外に対しては友好関係を結んでいった。その結果、指定暴力団のうち11以上の団体と親戚づきあいをし、友好団体として司や髙山がその団体の後見人となった。また、山口組と交際を結んでいない団体もあるが、そのような団体とも敵対的な関係ではない。

 (3)、反発

  ①、怪文書

   ・髙山の政策を批判する怪文書がメディア等に送付される事件が起こった。その内容は、①麻雀賭博で直系組長達から金を吸い上げている、②引退者の慰労金制度批判、③日用雑貨の強制購入批判、④謹慎処分の名を借りた逮捕監禁の批判であった。

  ②、後藤組の除籍と2008年の大量処分騒動


3、髙山の収監と司の出所

 (1)、髙山の収監

  ①、収監

   ・平成22年(2010)11月、髙山は自由同和会京都府本部会長を恐喝した疑いで、京都府警に逮捕された。平成24年(2012)月、髙山はハンナン株式会社の元会長・浅田満の20億円に次ぐ、保釈金15億円で保釈された。平成25年(2013)3月、京都地裁は髙山に懲役6年の有罪判決を出し、高裁でも判決が変わらなかったことから最高裁へ上告したが、平成26年(2014)年5月に上告を取り下げ服役した。

  ②、原因

   ・六代目山口組淡海一家総長・高山誠賢が自由同和会京都府本部会長からみかじめ料名目で金を脅し取った。髙山は恐喝の現場や金の受け渡し場面には一度として同席しておらず、自由同和会京都府本部会長とは会食であいさつした程度であったが、この恐喝事件の共謀共同正犯で逮捕された。平成23年(2011)4月に組長の司が出所することから、山口組壊滅作戦の一環として今度は若頭の髙山が狙われたものであると思われる。

 (2)、司の出所

  ・平成23年(2011)4月、司は府中刑務所を出所した。直系組長たちは司の復帰によって自らを苦しめてきた諸制度が改善されると思ったが、現状維持のままであった。

4、疲弊するヤクザ

 (1)、暴対法と暴排条例

  ・暴力団対策法や全都道府県によって制定された暴力団排除条例によって、ヤクザと組をやめてから5年以内の元ヤクザは、銀行口座を持つことができず、住宅ローンや自動車ローンなどを組むことができず、携帯電話の契約をすることができず、保険に加入することができず、ゴルフ場やホテルに宿泊することができず、葬祭場や賃貸住宅が借りられず、法律を厳密に適用すれば蕎麦や寿司の出前すら取れないといった、ヤクザには基本的人権が認められていないのではないかといったレベルまで規制が強化された。これにより、ヤクザが家族や知人の名義を借りて契約を締結し、詐欺や偽造私文書等行使罪によって逮捕されるといった事件が頻発するようになった。

 (2)、疲弊するヤクザ

  ①、疲弊するヤクザ

   ・伝統的にヤクザはシノギを見つけるのがうまかったが、①全国に制定された暴力団排除条例や暴対法など法規制の強化、②半グレ集団の出現、③組員の老齢化、④IT化の進展によってなかなか新しい優良なシノギを見つけ出せず、優良なシノギは伝統的な覚せい剤のみとなってしまった。

  ②、山口組の格差社会

   ・山口組でも上層部の一部の者は経済的に裕福であった。例えば、司は年間10億円ほどが集まってきたという。他方、直系組長たちは年間3000万円ほどを山口組本部に納めなければならないが、法規制が厳しく、しのぎがうまくいかずに借金をして上納する者も多かった。また、その下の末端組員はさらに生活が厳しくなっていった。

5、神戸山口組の結成

 (1)、意義

  ①、神戸山口組の結成

   ・平成27年(2015)8月27日、直系組長13人が六代目山口組を離脱して、神戸山口組を結成した。人事は、組長に四代目山健組組長・井上邦雄、若頭に侠道会会長・寺岡修、若頭補佐に二代目黒誠会会長・ 剣政和と織田絆誠、副組長に二代目宅見組組長・入江禎、総本部長に正木組組長・正木年男、本部長に毛利組組長・毛利善長、舎弟頭に池田組組長・池田孝志、舎弟に二代目松下組組長・岡本久男と二代目西脇組組長・宮下和美、顧問に奥浦組組長・奥浦清司、若中に四代目真鍋組組長・池田幸治と雄成会会長・高橋久男と大志会会長・清崎達也という布陣となった。



  ②、中心人物

   ア)、神戸山口組組長・井上邦雄

    ・井上は、大阪戦争中の昭和53年(1978)に松田組西口組の西口善夫組長宅襲撃事件の首謀者として懲役17年を務めた。この功績が渡辺芳則の山口組五代目取りを押し立てたことから、渡辺は井上を寵愛した。井上は出所後とんとん拍子に出世し、平成11年(1999)に四代目健竜会会長に、平成15年(2003)に三代目山健組若頭に、平成17年(2005)に四代目山健組組長・六代目山口組幹部となり、同年すぐに若頭補佐となった。井上は、面倒見がよく、気さくで、いい人であったが、他方で空気を乱さず、調和的で極力争いを避けるタイプなのでここぞというときに決断できない優柔不断なところがあった。分裂の中心人物である。

   cf.井上氏と直接話した竹垣悟氏も、井上氏は親しみやすく男らしい男と評しています。



   イ)、神戸山口組若頭・寺岡修

    ・寺岡は、五代目山口組西脇組から直参へ昇格した。若頭補佐や中国四国ブロック長、大阪北ブロック長を務めたが、脳梗塞を発症したために舎弟となった。人たらしで西日本のヤクザに幅広いパイプを持ち、警察からも「若頭補佐クラスで根性ありそうなのは寺岡修くらいだろう。他の補佐クラスはどうってことない」と評され、髙山からも「寺岡は人たらし、気をつけよ」と警戒されるほどの実力者であった。

   ウ)、神戸山口組副組長・入江禎

    ・入江は、宅見組若頭から平成9年(1997)に二代目を継承して直参に昇格した。組長、若頭に次ぐ山口組ナンバー3の総本部長を務めた実力者であった。六代目山口組の中枢にいたので離脱したのが意外だと思われたが、総本部長時代、多三郎一家事件や後藤忠政騒動で井上が処分される危機を救った過去がある。

    cf.竹垣悟氏によると、入江氏が六代目山口組から離脱した理由は、髙山氏が自由同和会京都府本部会長を恐喝した疑いの訴訟で、入江氏は髙山氏側の証人として出廷したが、その証言に説得力がなかったので、髙山氏が出所してからの報復を恐れたからだとされています。


   エ)、神戸山口組総本部長・正木年男

    ・正木は、五代目山口組舎弟であった中谷利明率いる中谷組出身であり、中谷の引退により地盤を引き継ぐ形で直参となった。実務能力に長け、ヤクザにしては常識人で弁が立つことから、特に広報の分野で活躍した。井上、池田との酒飲み友達であり、井上と並ぶ分裂の首謀者でもあった。

   オ)、神戸山口組舎弟頭・池田孝志

    ・池田は、五代目山口組大石組若頭であったが直参に抜擢され、若頭補佐や中国四国ブロック長まで務めた実力者であった。岡山県下に貸しビルを多数持つ金持ちヤクザであり、義理堅い男っぽいヤクザとして人気があった。五代目山口組組長・渡辺芳則に「井上のこと頼む」と直接言われたことから井上と行動を共にし、井上の愚痴を聞いたり諫めたりするガス抜き役であった。

 (2)、原因

  ①、金の吸い上げ

   ・神戸山口組に移った組長は分裂させる目的を「今回の分裂は年貢の取り立てが厳しい悪代官に対して、直系組長たちが百姓一揆を起こしたのと同じことです」とし、この離脱劇を「百姓一揆」と呼んだ。神戸山口組は、月会費を役付30万円、中堅20万円、若中10万円、中元歳暮を組長に贈ることの禁止、組長の誕生祝やプレゼントは禁止とした。

  ②、山口組総本部移転

   ・神戸山口組側は、司が神戸にある山口組の総本部を弘道会本部がある名古屋に移そうとしていたとする。しかし、六代目山口組側は、司はこのような計画を一回も口に出したことはないと反論する。

  ③、弘道会支配

   ・五代目山口組の時代は、組長の渡辺の出身母体である山健組が贔屓されたが、六代目山口組の時代になると、司の出身母体である弘道会が贔屓された。若頭には髙山、そして平成27年(2015)には、髙山の子分中の子分である三代目弘道会会長・竹内照明が若頭補佐に就任し、六代目、七代目、八代目と山口組の組長は弘道会で承継されていくように思われた。

  ④、舎弟問題

   ・舎弟とは親分の弟であり、親分の子である若中(若衆)よりも上であるが、実質的には執行部を外された名誉職であり、あとは引退するのを待つだけの地位である。よって、ヤクザは舎弟に直ることを嫌がる。神戸山口組に移った主要メンバーは、舎弟に直る事を打診されていたり、実際に舎弟になった者が多かった。例えば井上は、平成25年(2013)頃に若頭補佐を返上して舎弟に直り、山健組から4名ほど直系組長に上げる事を打診されているし、寺岡は平成23年(2011)に若頭補佐から舎弟に、入江は平成25年(2013)に総本部長から舎弟頭に、池田も平成25年(2013)に若頭補佐から舎弟に、正木も平成25年(2013)に本家室長から舎弟に直っている。

 (3)、神戸山口組立ち上げまでの経過

  ①、最初の謀議

   ・井上、正木、池田は飲み友達であり、このグループが最初の謀議を行った。井上と正木を中心として、池田は①最低30団体を参加させる、②入江を参加させる、③山健組を一つにまとめることを条件として参加することを約した。

  ②、寺岡の加入

   ・寺岡は平成23年(2011)に舎弟となり井上が長を務める阪神ブロックに所属替えされると、井上との距離が近くなっていった。寺岡はもともと髙山と近かったが、井上の説得によってグループに加わることとなった。

  ③、入江の加入

   ・六代目山口組の中枢であった入江への説得は、井上、寺岡、剣、池田(真鍋組)があたった。最終的に入江は、若い者の未来のためなら立とうと参加を決意し、井上は最初の5年間は入江の言うとおりにする旨を約した。
  
  ④、メンバー集め

   ・寺岡は奥浦を口説き、奥浦は東生会会長・須之内祥吾と四代目澄田会会長・竹森竜治を口説いた。また、剣は毛利と高橋を口説いた。

  ⑤、決起

   ・平成27年(2015)8月12日、山健組が20団体ほどを連れて六代目山口組を出るという怪文書が流れた。

   ・同年8月21日、分裂をする組の具体名が明らかになった。

   ・同年8月26日、六代目山口組執行部は、井上や入江に「27日に緊急執行部会をやる」と伝えたが、出席しない旨の返信があった。

   ・同年8月27日、神戸山口組が設立された。参加した直参は15人であったが、その後数日で岸本組等が参加を見合わせ13人となった。

 <参考文献>

 『山口組三国志 織田絆誠という男』(溝口敦、講談社、2017)
 『六代目山口組ドキュメント 2005~2007』(溝口敦、講談社、2013)
 「情報戦で劣勢の「六代目山口組」の激白5時間 「カネ、カネ、カネ」だから叛乱は事実か?」(『週刊新潮』2015年10月1日号)
 ニコニコ生放送「【溝口敦に訊く】山口組とは?」