今回は、浜松一力一家組事務所撤去活動をまとめます。原告団=警察=マスコミ史観で書かれた歴史叙述はたくさんあるので、一力一家史観でまとめます。

1、事件

  浜松中央署、浜松市、海老塚町自治会(のちに自治会執行部と原告団に分裂)vs四代目山口組国領屋一力一家、「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」

2、経過

 (1)、「ブラックビル」の建設

  ①、海老塚と一力一家との関係

   ・国領屋一家は、安政時代の国領屋亀吉を初代とする名門博徒組織である。四代目山口組国領屋一力一家は江戸時代から静岡県浜松市海老塚を費場所(縄張り)としており、五代目の大川治郎七親分の時代から組事務所をこの地に置いていた。その後組事務所は浜松市鴨江へ移ったが、当時副長をしていた青野哲也は青野組事務所を海老塚に置き、自らも海老塚に住んでいた。よって、一力一家の組員と海老塚の地域社会の住民は親しい関係を築いており、浜松名物の凧揚げ祭りのときなどは、一力一家の組員が率先して活躍し、住民は一力一家の事務所で酒を飲みかわすといったことも行われていた。

  ②、「ブラックビル」の建設

   ・昭和59年(1984)、青野は一力一家の七代目を継承した。そして昭和60年(1985)に、組員から海老塚の土地を買い取り、一力一家の本部事務所兼青野の自宅として、六階建てのビルを建設した。このビルは黒っぽいことから、住民運動を行っている住民によって「ブラックビル」と命名された。

 (2)、住民運動のはじまり

  ①、きっかけ

   ・浜松中央署が浜松市市民生活課に暴力団が海老塚に本部事務所を構える動きがある旨を伝え、さらに浜松市から海老塚町自治会に対策を立てた方がよいという指導が入った。これにより、「ブラックビル」完成前の昭和60年(1985)3月に、警察、市役所、自治会の三者会談がもたれ、同年4月には自治会主催の懇談会も開かれた。

  ②、「暴力追放推進モデル地区」へ

   ・海老塚は「暴力追放推進モデル地区」に指定され、昭和60年(1985)6月2日、浜松市市長・栗原勝や浜松中央署署長・熊岡久雄の出席のもとで、伝達式と住民大会が開催された。その後も、自治会、市、警察の三者代表が「進出断念」を求める要望書を一力一家に提出したり、暴力追放一周年の総決起大会が開催され、「暴力追放」の横断幕のもとで海老塚町内をバレードしたりする活動が行われた。

 (3)、住民運動の激化

  ①、自宅から本部事務所へ

   ・昭和61年(1986)8月18日、青野の自宅として使われていた「ブラックビル」に、一力一家の本部事務所としても使用するための引っ越しが始まった。これを契機として、住民運動が激しくなっていった。

  ②、住民運動の激化

   ア)、「ブラックビル」の監視

    ・住民たちはテント小屋を建て、やがては浜松市が建設費用を出して二階建てのプレハブ小屋を建て、24時間体制で「ブラックビル」を監視し、組員の動向を分刻みで記した監視日誌を作った。この監視役には、浜松市職員235名も参加し、監視小屋の一階には警察官が常駐してガードをした。さらに夜には、工事用の500ワットの投光器5基で「ブラックビル」を照らしたので、「ブラックビル」は深夜でも昼間のような明るさとなった。

   イ)、レター作戦・電話作戦

    ・浜松市役所職員が1000枚近いはがきを住民に配り、海老塚町民に青野へのメッセージを書かせ、それを「ブラックビル」に宛てて郵送した。このはがきは、「早く出て行けよ。アンタどういう神経してるの?」「一力一家の好きな物はどれか?番号に赤丸をつけよ。①シャブ②バクチ③取り立て④売春。お前らは社会のクズだ」といった誹謗中傷をするものや、死体の絵や藁人形を描いたものがあった。さらに浜松市は、「ブラックビル」に可能な限り電話をするように指示し、深夜に「ビルを爆破してやる」といった類の脅迫電話や無言電話が際限なくかかってくるようになった。

   ウ)、周辺者への攻撃

    ・海老原町内やさらには他の商店街も、一力一家関係者には食料品や日用品を一切売らない不買運動を行った。よって、組員は遠くの店まで買いに行く羽目となった。さらに、自治会が清掃会社に圧力をかけ、一力一家事務所のゴミ出しを妨害した。

    ・ビルを建てた工務店経営者も攻撃の対象となった。工務店経営者は最初は商事会社のビルと説明したが、後に一力一家のビルだとわかり嘘をついたということから、住民から何度もつるし上げを受け、さらには「お前の子どもを学校に行かせなくしてやる」等の脅迫までされるに至った。

   エ)、警察の援助

    ・静岡県警はジェットヘリを飛ばして、「一力一家追放まで頑張ってください」とマイクで応援したり、静岡県警本部長が直接住民を激励したり、一力一家組員を小さな罪でも次々と逮捕してはいかなる嫌疑でも家宅捜索をかけていった。一力一家は組の約3分の1にあたる40数名が検挙された(刑務所まで行ったのは2~3名であったので強引な検挙であった)。

   オ)、嫌がらせ

    ・住民は「ブラックビル」の換気扇の窓口から金属音をビル内に放出して騒音で攻撃をしたり、排水口に泥を詰めて床中を水浸しにしたり、勝手にタクシーや救急車を呼だりと嫌がらせをした。

 (4)、一力一家の提訴

  ①、市長あての抗議文

   ・一力一家は「カタギには手を出してはならない」の方針であったが、住民運動のエスカレートから青野は東京の弁護士に相談をした。そこでまずは、浜松市長宛てに抗議文を出したが、市長からは何の返信もなかった。

  ②、提訴

   ・市長への抗議文が黙殺されたことから、昭和61年(1986)11月5日、青野は追放運動で精神的な苦痛を受けたとして住民の代表らを相手取り、1000万円の慰謝料を求める訴訟を提起した。

 (5)、牙をむいた一力一家

  ・過激化する住民運動に対して、一力一家がとうとう牙をむいた。昭和62年(1987)6月20日朝、住民運動のリーダーの一人であり、浜松市長から委嘱されている暴力追放推進委員の男性宅のガラスが金属バットで叩き割られた。さらに同日午後、住民側の弁護団長である弁護士が刃物で刺傷され、全治三週間の重傷を負った。犯人は、一力一家早川組幹部であり、すぐに青野の手紙を持参の上で、弁護士に付き添われて、浜松中央署へ出頭した。この事件以後、マスコミや世論の一力一家へのバッシングが激しくなっていき、また弁護士が襲撃されたことから、弁護士会も住民側を応援し始めた。

 (6)、長老弁護士の仲裁

  ①、仲裁

   ・暴力沙汰まで起こった騒動に対して、浜松市の最古参弁護士が仲裁案を示した。この案は、一力一家と自治会が住民運動や訴訟ではなく話し合いで丸く収めようというものであった。

  ②、影響

   ・この仲裁案は、運動の分裂を招いた。すなわち、自治会長を中心とする話し合い重視の穏健派(自治会執行部)と、暴力追放推進委員の男性率いるあくまでも対決を貫こうとする強硬派(原告団)である。この後、自治会長は青野と実際にあって話し合いを進め、他方原告団は一力一家への提訴の準備を進めていった。

 (7)、住民運動の分裂

  ①、穏健派(自治会執行部)の話し合い

   ・穏健派(自治会執行部)の青野との話し合いは和解まで成立し、青野は200万円かけてビルの外壁を白く塗り替え、山口組の代紋や一力一家の文字看板を外し、先に起こした訴訟の取り下げをした。

  ②、強硬派(原告団)の逆提訴

   ・昭和62年(1987)8月10日、強硬派と住民側弁護団は、住民の人格権を基礎に、不安なく暮らす権利、抗争事件発生の際に生命、身体の危険を受けない権利を主張して、一力一家の青野に対し、ビルの事務所使用差し止めを求める仮処分を静岡地裁浜松支部に申請した。同年10月9日、原告側の言い分がほぼ全面的に認められ、一力一家は建物内で定例会を開いたり、構成員を集合させるなどして、建物を組事務所として使用してはならないとの決定が下された。さらに、ビルにのべ1日7人以上の組員が出入りした場合に、1日につき100万円の支払いを命じるという間接強制も認められた。青野は東京高裁に抗告をしたが、東京高裁は地裁決定は正当であるとして、抗告を棄却した。

 (8)、青野への逮捕状

  ①、青野への逮捕状

   ・警察庁は一力一家を追い詰めるべく、関係府県警に一力一家関係者の徹底調査を指示した。これを受けて、昭和63年(1988)1月28日、大阪府警は、青野ら2人が一和会会長・山本広および一和会幹部を射殺する目的で組員を集め拳銃を渡した疑いで逮捕状をとり、指名手配へと踏み切った。

  ②、背景

   ・この事件は、昭和59年(1984)9月に、一力一家の若手組員が大阪府警に無銭飲食で逮捕された際に供述したものであった。大阪府警が捜査に乗り出したが、結局ガセネタであることが判明した。しかし、それを警察庁の号令に合わせて引っ張り出してきものであった。これは、青野を留置所につなぎとめようという意図からきたものである。

 (9)、一力一家の暴発

  ・追い詰められた一力一家は、原告団関係者へ暴力をむき出しにした。昭和63年(1988)1月2日、原告団のリーダーであるタクシー運転手が、客を装った一力一家組員から刃物で首を切られ、1ヶ月の重傷を負った。さらに、浜松市役所暴追担当課長宅放火未遂事件なども起こった。

 (10)、「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」の結成

  ・原告団側は100人近い弁護士がいたのに対して、青野の訴訟代理人は、竹下甫弁護士一人であった。のちに、山之内幸夫弁護士が加わるが、さらに遠藤誠と西垣内堅佑両弁護士が加わった。また、右翼活動家の野村秋介を中心として「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」が結成され、会長は遠藤誠弁護士が就任した。

 (11)、和解の成立

  ①、和解の成立

   ・原告団側は話し合いに応じなかったが、青野の兄弟分であり四代目山口組国領屋下垂一家総長・滝沢孝が水面下で話し合いを呼び掛けていた。ついに原告団側はこの呼びかけに応じて、昭和63年(1988)2月14日、原告団と一力一家との第一回目の会合が持たれた。この会合は交渉決裂に終わったが、同年2月18日に二回目の会合がもたれ、翌19日の約9時間に及んだ三回目の会合を経て和解が成立した。

  ②、和解内容

   ・和解内容は11項目となった。主な内容としては、

    ア)、海老塚のビルは、一力一家の組事務所として使用してはならず、青野の居住以外の目的で使用してはならない。

    イ)、違反した場合は、一力一家は原告側に対して1日につき金100万円を支払う。

    ウ)、一力一家は和解成立後、原告らに一切の加害行為を行わないことを確約する。

    エ)、原告らは、和解成立後3日以内に一力一家の退去を要求する看板を撤去し、一力一家の組事務所の撤去を確認した後3日以内に監視活動を停止する。

    というもので、一力一家側が大幅に譲歩をし、原告団の主張が大幅に認められたものとなった。

 (12)、その後

  ①、一力一家の仮事務所

   ・海老塚に事務所をおけない一力一家は、海老塚のビルからわずか300mしか離れていない上浅田地区のマンションの一室に仮事務所を設置した。

  ②、収まらない地域社会の分断

   ・海老塚の住民は、穏健派の自治会執行部と強硬派の原告団に分裂した。一力一家との和解は、強硬派の原告団との間で成立したものであるので、一力一家の側では自治会執行部に謝罪に行った。この時に、自治会執行部と原告団はお互い仲良くやるように、一力一家の側で仲を取り持ったという。しかし両者の溝は埋まらず、浜松祭りの際に青野の婦人が自治会会計担当者に寄付金として3万円とおつまみを届けたが、これを受け取った自治会執行部に対して、海老塚を明るくする会(旧原告団)の側が反発し、自治会執行部の退陣を求めて、自治会費不払いなどの行動へと出た。

  ③、一力一家の報復か

   ・平成3年(1991)3月12日、静岡県浜松市海老塚で、海老塚を明るくする会(旧原告団)のリーダーが、何者かによって顔面を刃物で切られ、30数針の重傷を負わせられた。

3、まとめ

 (1)、暴力追放運動

  ①、総論

   ・一力一家は、江戸時代からの地元密着の地場ヤクザで、ヤクザとしてはおとなしい組であった。しかし、警察によって暴力追放キャンペーンが始まり、住民運動は過激化していった。ヤクザは学がなく、言葉がないので、その対抗の手段は暴力であった。これに対して、弁護士や住民運動のリーダーをヤクザが襲撃したことから、弁護士会が動き、さらにマスコミも危険な一力一家とそれに対抗する住民運動という文脈で報道されるようになった。しかし実際は、正義の原告団=警察=マスコミと悪のヤクザといった単純な構図ではなかった。

  ②、官製運動

   ・暴力追放運動を住民に始めるように言ったのは警察であった。その後も警察が運動を背後から指揮し、ある住民は「警察官のジュラルミンの盾があって、その前に市民が立たされているだけ」の運動と称した。山平重樹はこの運動を、「警察権力と浜松市当局がプログラムを書き、それが一部の住民の思惑(次期の市長、あるいは自治会長といった座への野心があり、そのための点数稼ぎ)とうまく重なり、さらにマスコミが乗っかって行われてきたもの」としている。

  ③、地域社会の分断

   ・暴力追放運動によって、海老塚地区は、一力一家と和解したい自治会執行部、一力一家との徹底対決を堅持する原告団、ともかく平和を望む一般住民との分断された。マスコミは、原告団と警察が推進する暴力追放キャンペーンを正義として報道したが、昼夜二交代で合計400人の警察官が張り付き、ひっきりなしに巡回や職務質問をするので、商店街に人が寄り付かなくなってしまい、海老塚の住民はたいていが平和を望んだ。海老塚地区の人口は約4000人であったが、原告団側に最後まで組した住人は約50人ほどにすぎなかった。

  ④、「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」の結成

   ・ヤクザという社会の一般的な価値観を共有しない、国家権力とは別に独自の暴力を持つ異質な存在を、国家権力の側が住民運動を指導して社会から排除していくというやり方に、社会運動の活動家、新左翼系の弁護士、一部のメディア関係者が危惧感を持ったのが、「一力一家と住民問題をマスコミで考える会」の結成の位置づけられる。

 (2)、法律

  ①、人格権

   ・原告団の弁護士は、「一力一家追放訴訟は、暴力団が自ら所有する本拠(事務所)の周辺に居住する住民が人格権を根拠として司法手続により暴力団をその本拠(事務所)から追放した日本で初めての事例である。(中略)この裁判の中で確認された「人格権」法理の有用性と手法としての「保全処分」の絶大な効果は、その後の暴力団事務所追放運動に大きな武器と影響を与えた」と評価する。

  ②、財産権

   ・個人が所有している土地建物を、彼がヤクザだからという理由で組事務所としての使用が禁止できるという判断を静岡地裁浜松支部を行った。すなわち、人格権を「何人にも生命、身体、財産権等を侵されることなく平穏な生活を営む自由ないし権利があり、この権利は物権の場合と同様に排他性を有する」とする。そして、「人格権は人間の尊厳を守るための基本的な保護法益であり、受忍限度を超えて違法に侵害されたり、その恐れがある場合には、被害者は加害者に対し行為の差し止めや原因の除去を請求できる」とし、「一力一家は犯罪行為を頻発した実態に徹しており、これを改善することは困難で、現状のまま住民と共存することはできない。同ビルを組事務所として公然と使用する限り、住民はいついかなる危害を加えられるかもしれない危険や不安に脅かされることになる。人格権が受忍限度を超えて侵害され、危険や不安を早急に取り除く必要に迫られている」とした。

   ・西垣内堅佑弁護士は、そもそも訴訟を提起する以前の段階で、他の組や山口組内の一力一家以外の組の暴力事件については資料がたくさん集めてあるが、一力一家の暴力事件については具体的には明らかにされていない。訴え提起後に弁護士刺傷事件が起きたが、訴え提起以前の段階でそもそも住民に「いついかなる危害を加えられるかもしれない危険や不安」があったと言えるのかは疑問であるとする。

  ③、結社の自由

   ・憲法第二十一条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と規定する。遠藤誠弁護士は、ビルにのべ1日7人以上の組員が出入りした場合に、1日につき100万円の支払いを命じるという静岡地裁浜松支部が行った間接強制は、結社である以上、一日に多数が出たり入ったりすることは当然である。また、一力一家の事務所は現在はこのビルしかないので、その事務所を結社として使ってはいけないということは、事実上の結社の自由の否定であるとする。

  ④、公共の福祉

   ・財産権や結社の自由といった基本的人権も公共の福祉の制限に服する。よって、確かに一力一家自体はおとなしい組でも、一力一家は山口組の組織であり、当時は山一抗争で山口組は一和会と抗争をしていたので、住民が山口組系組織の組事務所が近隣にあれば、危機感や不安感を持つのも理由がありといえ、ある程度の財産権の制限をうけるのはしょうがないと思われる。また、結社の自由も、例えば、犯罪を行うことを目的とする結社は許されないといった制約がある。

 (3)、社会から排除された人間はどこへ行けばいいのか

  ①、意義  

   ・暴力追放運動は、暴対法や暴排条例によって管理された形で行うことが可能となった。しかし、山平重樹が指摘する、「「異なったもの、問題のあるものを排除する」という論理である。ではこの排除された人間たちはいったいどこへいったらいいのか?こうして学校から排除され、社会からも排除された者同士が、互いにより集まって肌をぬくめ合う世界をつくるというのも、自然ななりゆきであろう。そしてできた集団がヤクザであるという一面も否定できない事実である」という問題は現代においても解決されていない。

  ②、ヤクザをやめた人の受け皿は宗教

   ・怒羅権の佐々木秀夫さんのチャンネルに出演された進藤龍也さんによると、ヤクザをやめた人の受け皿は宗教団体だそうです。


 <参考文献>

 『浜松一力一家始末記』(山平重樹、エスエル出版会、1988)
 「いま振り返る「一力一家追放訴訟ー人格権法理形成の端緒ー」(『民暴事件の実態と対策』(民事法研究会、2000))