作家の故野坂昭如さんが「朝まで生テレビ! 激論!暴力団はなぜなくならないか」(1992年2月28日放送)の中で「制服が好きなのは警察になって、そうじゃないとヤクザになる」とおっしゃっていたように、かつて警官になるのとヤクザになるのは同じような社会階層でした。今回は、『浜松一力一家始末記』(山平重樹、エスエル出版会、1988)より、熊本県警がヤクザを拷問した事件をまとめます。
参考)、「朝まで生テレビ! 激論!暴力団はなぜなくならないか」のメモ 警察とヤクザは根は一緒
参考)、「朝まで生テレビ! 激論!暴力団はなぜなくならないか」のメモ 警察とヤクザは根は一緒
1、事件
熊本県警vs道仁会
2、経過
(1)、山道抗争中の警官誤射事件
・昭和61年(1986)暮れ頃から、三代目山口組伊豆組、同稲葉一家と道仁会との間で抗争が勃発した。この中で、同年12月27日、稲葉一家島村組事務所前で警戒中の熊本県警の警部補を、道仁会組員が誤って銃撃して重傷を負わせた。この事件に熊本県警が激怒した。
参考)、ヤクザ抗争史 山道抗争
参考)、ヤクザ抗争史 山道抗争
(2)、熊本県警ヤクザ拷問事件
①、拳銃を突き付けた任意同行
・熊本県警は、抗争の指揮をとっていた道仁会古賀一家のナンバー2である杉本生司を、まだ逮捕状が出ていなかったので任意同行という形で、所轄の玉名署へ連れて行った。この時玉名署員は、杉本に拳銃を突き付けて「キサマ、殺してやるゾ」と脅したという。
②、杉本への拷問
・熊本県警は、玉名署、熊本北署、東署、南署、荒尾署がチームワークをとり、杉本を背中が壁のコンクリートの床の上に正座させ、靴先で蹴ったり、殴ったりと暴行を繰り返し、三時間半にわたって拷問をした。
③、笠原舎弟頭への拷問
・熊本県警はさらに、道仁会古賀一家の笠原舎弟頭へも拷問を加え、殴られて両眼をつぶされた笠原は手術をして失明を食い止めた。
④、森川補佐への拷問
・玉名署は、道仁会古賀一家の森川補佐が否認をし続けていることが気にくわないとして、田原坂へ連れていき、田原坂前公園前の広い駐車場で、見張りを立たせた上で、口中に拳銃を突っ込み、暴行を加え、倒れると向う脛を警棒で乱打し、約2時間半にわたって拷問を加えた。
④、森川補佐への拷問
・玉名署は、道仁会古賀一家の森川補佐が否認をし続けていることが気にくわないとして、田原坂へ連れていき、田原坂前公園前の広い駐車場で、見張りを立たせた上で、口中に拳銃を突っ込み、暴行を加え、倒れると向う脛を警棒で乱打し、約2時間半にわたって拷問を加えた。
3、結果
(1)、史上初ヤクザが警察を訴える
・拷問の報を聞いた道仁会会長・古賀磯次は激怒した。よって、昭和62年(1987)年6月25日、道仁会は史上初めて熊本県警を告訴した。さらに、警察署間で連携をとっての計画的、組織的な暴行は県警本部長しかできないということで、県警本部長も告訴した。
(2)、辞任
・熊本県警は、定期移動という形で県警本部長が退き、拷問が暴露された玉名署長も辞任をした。
4、補足 大阪府警
(1)、六代目山口組二代目弘道会浜健組→大阪府警
・平成19年(2007)、六代目山口組二代目弘道会浜健組事務所へ大阪府警が家宅捜索をした際に、警官が留守をしていた組員3人に対して、「開けんかい、われー、なめとんか、コラ!」と怒鳴りながらドアを開けさせた上、胸ぐらをつかんで外へ引きずりだし、組員らが路上に引き倒されてうずくまったところ、「大げさにすんな、ボケー!」と、胸や脚なども蹴り、それぞれ組員に1から2週間の怪我を負わせた。さらに、組員の1人が応接間に連れ戻されると既に部屋にいた警官に尻をけられ、正座をさせられた。これに対して浜健組は、大阪府に対して300万円の損害賠償を求める民事訴訟を提起した。
(2)、神戸山口組四代目山健組→大阪府警
・平成27年(2015)、六代目山口組から神戸山口組が分裂をした。平成28年(2016)12月16日、神戸山口組四代目山健組本部を大阪府警が家宅捜索しようとしたところ、山健組組員がドアを開けるのが数分遅れたということで、警官が組事務所の防弾ガラスをバールで叩き割ろうとしたり、組員に殴る蹴るの暴行を加える事件が起こった。これに対して山健組は、特別公務員暴行陵虐罪で刑事告訴をした。
(3)、大阪府警の家宅捜索
・九州や大阪などアウトローが荒っぽい地域では、警察も荒っぽくなるようです。山口組側で対応しているのは、大原組組長の故大原宏延氏でしょうか。
続いて、令和元年(2019)に解散をした極心連合会。
続いて、六代目山口組三代目弘道会福島連合。大阪府警、北海道へ行くです。
六代目山口組の総本部と神戸山口組の本家がある兵庫県警ですが、警察もヤクザも慣れきっていて粛々と進めています。
栃木県警の家宅捜索は、大阪府警と同じ警察とは思えないくらい丁寧です。
比較してみると、大阪府警が煽るから無用なトラブルが起こってるのかもしれませんね。
実は私の父は当時玉名署で刑事課長をしており、いわゆる現場指揮官でした。
この事件が起きるまではニュースや新聞でも父が組事務所の看板を取り外すシーンが良く流され、誇らしい気持ちになったものでした。
しかしこの事件で新聞にも父の名前は当然載り、警察を辞めるまでは行かないにしても交通課へと飛ばされることになりました。
その後父は出世街道から外れていましたが、50半ばで警視の試験を受けて見事合格。
最後は副署長となり勇退しました。
勇退後天下り先で一年も経たずに亡くなりましが…(^-^;
享年61歳でした。