1、来歴

 (1)出生

  ・大正13年(1924)、石井は姉1人、弟3人の五人兄弟の長男として生まれた。実家は、蕎麦屋「朝日庵」を経営していた。子どもの頃から賢く、旧制鎌倉中学(現・鎌倉学園高等部)へ入学するが、三年生の時に修学旅行先で喧嘩をし、相手に怪我を負わせてしまったことから退学処分をうけ、不良の世界へ足を踏み入れた。

 (2)、戦時中

  ①、横須賀海軍工廠へ

   ・石井は戦時中、横須賀海軍工廠の造船部設計重量係という、艦船部品のトン数を計ったりする業務をしていた部署で働いた。なお、後に石井と五分の兄弟盃を交わすことになる三代目山口組若頭・山本健一も、この当時横須賀海軍工廠の航海実験部で働いてたという。

  ②、人間魚雷「回天」隊

   ・石井は横須賀海軍通信学校へ入学し、同期トップクラスの成績で、昭和20年(1945)、八丈島の人間魚雷「回天」隊の通信兵となり、同基地で終戦を迎えた。

 (3)、愚連隊時代

  ①、石井グループの結成

   ・横須賀に復員した石井は、戦時中に横須賀の不良少年の中ではカリスマ的存在であった田島軍司から紹介された宮本廣志とともに、愚連隊石井グループを結成した。

  ②、末永グループとの喧嘩

   ア)、喧嘩の勃発

    ・横須賀のダンスホールで宮本と、愚連隊末永グループのリーダーである末永孝大がの仲が不穏となった。仲裁者によって喧嘩は避けられたが、末永グループは宮本宅を急襲し、寝ていた7人が重軽傷を負った。

   イ)、石井グループの勝利

    ・末永は、石井に喧嘩の仲裁を依頼し、他方で横須賀のヤクザである石塚組組長・石塚義八郎の盃も受けた。さらに、末永のアジトへ石井グループの広崎浄吉が殴り込みに行くと、末永は広崎を人質にとって、宮本へ一人で人質を引き取りにくるように連絡してきた。この行為が石塚の逆鱗に触れ、末永は破門・横須賀所払いとなった。

  ③、ヤクザになる

   ・横須賀港の港湾荷役の仕事を一手に担ってたのは、横浜四親分の一人である笹田照一(双愛会の始祖)系の会社である相模船舶であり、石塚はその下請けとしてもっぱら沖荷役を請け負っていた。石井はこの石塚から盃をもらうことによって、渡世入りした。石塚は石井に全幅の信頼を寄せ、代貸の地位を与えた。石塚組の主力は石井グループであった。

 (4)、稲川一門へ

  ①、終戦後の横須賀

   ・終戦後の横須賀には、博徒では横須賀一家や大島一家、テキヤでは浅草の新門辰五郎の流れをくむ新門一家や羽田一家などが存在していたが、宮本や広崎のほかに、角田吉男、伊藤大太郎、稲沢和男、桜井盛也、村田忠、大瀬健一といった錚々たるメンバーが集う石井隆匡一派が、最大勢力となっていた

  ②、石塚の引退と稲川一門へ

   ア)、稲川一門へ

    ・昭和30年、石塚はヤクザを引退した。石塚は石井に、一本独鈷で行っても他の組へ行っても自由にしてよいと言い、これを受けて、かねてから誘われていた横浜愚連隊四天王の一人であり稲川聖城の若い衆であった井上喜人と五分の兄弟分の縁を結び、稲川聖城の若い衆となった。

   イ)、稲川の息子裕紘を預かる

    ・稲川は、横浜、小田原、川崎を次々と勢力下に入れ、昭和34年には東京に稲川興業の看板を掲げ、同年に鶴政会を結成した。この頃石井は、稲川の依頼によって、稲川の息子である裕紘を横須賀の自宅で預かり、何人かの若者と一緒に部屋住みの修業をさせた。裕紘は昭和37年(1962)に勃発した甲府抗争にも参戦した。

  ③、井上喜人問題と石井の断指

   ア)、井上破門問題

    ①、横山と児玉の警告

     ・稲川が渡世に入門したときから兄事する横山新次郎が稲川に、井上が稲川に断りなく稲川の名前を使って、総長クラスを集めて賭博を開帳し荒稼ぎをしていること、さらに井上が俺あっての稲川であり鶴政会であると放言していることから、井上を破門するように忠告した。同様に、稲川が「心の親」と慕う児玉誉士夫もまた井上に注意しろと警告をした。稲川は井上の破門を考えるようになった。

    ②、石井の断指

     ・昭和38年、石井は兄弟分である井上の破門に対して、自らの左小指を切断し、破門をせぬように稲川に懇願した。稲川はこれを受け入れ、井上の破門は回避された。

   イ)、井上の引退

    ①、東声会会長・町井久之とのトラブル

     ・石井断指から2ヶ月後、井上は赤坂のナイトクラブで、東声会会長・町井久之とトラブルを起こした。井上は町井への報復を決意し、石井と横浜の山田一家・山田時造に連絡を入れた。

    ②、和解の成立

     ・石井一統と山田一家の混合軍4人が、町井行きつけの銀座のクラブで襲撃することなった。彼らがアジトで町井襲撃の機会をうかがっている間、児玉が稲川と町井に喧嘩の仲裁をする旨を申し出た。稲川は井上が町井を襲撃しようとしていた事すら知らなかったので、すぐに両者の和解が成立した。

    ③、井上の引退

     ・井上の失態に破門の話もあったが、石井が井上を説得して、井上は引退しヤクザ渡世から去った。

  ④、横須賀一家五代目総長襲名

   ア)、政治結社錦政会

    ・昭和38年、稲川聖城は鶴政会を錦政会と改称し、政治結社として届け出た。石井は錦政会の組織委員長に就任した。

   イ)、横須賀一家五代目総長襲名
 
    ・同じく昭和38年に、石井は横須賀のホテルで、盛大な横須賀一家五代目継承式を挙行した。横須賀一家は明治から横須賀を中心に三浦半島に盤石の地盤を築く金筋博徒の名門組織であった。しかし、三代目・稲葉多吉が亡くなって以来数年間、四代目の座は空席であった。そこで、横須賀一家の安浦町の賭場を仕切る木船与重郎ら横須賀一家の長老たちは、石井に四代目の白羽の矢を立てたが、石井は「四」という数字を嫌って、四代目を横須賀一家の鈴木伊之助に継承してもらい、自らは五代目を襲名した。

 (5)、第一次頂上作戦と巽産業の設立

  ①、意義

   ・昭和39年、警察庁は「組織暴力犯罪対策本部」を設置し、暴力団全国一斉取り締まりに乗り出した。「頂上作戦」の始まりである。この結果、広域ヤクザ組織は軒並み解散をし、錦政会も解散をした。

  ②、石井の逮捕

   ・第一次頂上作戦において、現行犯逮捕が原則とされていた博奕が、非現行でも逮捕する方向に変わった。これによって、昭和39年に住吉一家三代目阿部重作へのご祝儀博奕として開催された総長賭博をはじめ、石井も2回逮捕された。

  ③、土建業巽産業設立

   ・出所後石井は、「いつまでも博奕だ、やれみかじめ料だ、カスリだなんて言ってたんでは時代に乗り遅れてしまう。(中略)まずは税金を払えるヤクザにならなきゃな。オレもな、今後は本格的に事業に取り組もうと思っている」として、横須賀に土建業巽産業を設立した。社長は石井、副社長が宮本、専務は北川義雄であった。北川はこの後、石井の事業面での番頭格となった。

 (6)、稲川会理事長へ

  ・昭和39年の総長賭博によって、稲川も賭博開帳図利罪で懲役3年の刑を務めた。昭和47年に出所した稲川は、それまでの稲川組を稲川会と改称し、自ら初代会長となり、理事長には石井を就ける新人事を行った。さらに、富士に稲穂を型どった新しい代紋を使い始め、また稲川会本部事務所を東京都港区六本木に設置した。

 (7)、山口組との関係

  ①、山本健一と兄弟分になる

   ア)、三代目山口組若頭・山本健一との出会い

    ・昭和46年、山本健一は事故死した梶原清晴の後任として、三代目山口組の若頭に就任した。その直後、浅草の神農系山春三代目一門の坂本明の仲立ちで、山本と石井は出会った。

   イ)、兄弟盃

    ・昭和47年、神戸の田岡一雄邸で、石井と山本、それに稲川会専務理事・趙春樹と三代目山口組若頭補佐・益田佳於とがそれぞれ五分兄弟盃を交わした。

  ②、山一抗争

   ア)、長期服役

    ・昭和51年に東京都内の会社社長らを韓国釜山市内のホテルでのバカラ賭博に誘い、帰国後に負けた客たちから厳しい取り立てを行った容疑で、石井は昭和53年に逮捕され、懲役5年の判決が下った。さらにこの直後、中小企業の経営者らを相手に無許可で無尽講を開いたとしても逮捕され、相互銀行法違反として懲役1年の判決が下った。石井は昭和53年から昭和59年の合計6年、長野刑務所で服役した。

   イ)、山一抗争の始まり

    ・石井が服役している最中の昭和56年、三代目山口組組長・田岡一雄が逝去し、後を追うように石井と兄弟分の山本も昭和57年に逝去した。四代目山口組組長候補であった山本の死によって山口組内は、組長代行であった山本広派と若頭であった竹中正久派による争いが勃発し、昭和59年に竹中正久が四代目組長に就任したことによって、山本広派は山口組を脱退して一和会を結成した。両組織は激しく抗争を展開した。

   ウ)、稲川の仲裁

    ・山一抗争をきっかけとして警察のヤクザへの締め付けが厳しくなり、山口組以外のヤクザもシノギに事欠くようになっていた。よって、全国のヤクザ組織の総意という形で、稲川が山一抗争の仲介を担った。両組織は和解のムードとなったが、昭和61年(1986)に起こった、竹中四代目の命日に墓前で、四代目山口組竹中組柴田会の若手組員二人が墓の掃除をしようとしていた所、近くの墓石に隠れていた一和会加茂田組二代目花田組組員に射殺された事件によって、和解ムードは吹き飛んでしまった。

   エ)、石井の仲裁

    ・昭和59年に出所した石井が、出所後の一番最初の大仕事としたのが、山一抗争の解決であった。和解ムードが吹き飛んだあとでも石井が奔走し、四代目山口組側に粘り強く説得にあたった。他方、一和会側への説得は会津小鉄会総長代行・高山登久太郎があたった。昭和62年に四代目山口組側が抗争終結を宣言し、これをうけて一和会側も抗争を終結を受け入れた。

   オ)、一和会の崩壊

    ・昭和63年、一和会会長・山本広宅に消火器爆弾と手投げ弾が投げつけられる事件が起こった。これ以後、加茂田組をはじめ一和会の有力組織が相次いで脱退してゆき、一和会は崩壊をした。

   カ)、稲川裕紘の仲裁

    ・山一抗争を完全終結させるべく、石井と高山、それに稲川会本部長になっていた稲川裕紘が、「一和会解散」「山本広会長引退」の線で動き、平成元年3月に稲川裕紘に付き添われて山口組本部を山本広が謝罪に訪れて、山一抗争は終結した。



 (8)、稲川会二代目会長へ

  ①、二代目会長へ

   ・稲川は田岡の跡目でもめている山口組を見て、自分が元気なうちに跡目を決めておこうと思い、候補者を石井か石井の服役中に理事長職を務めた趙春樹にしぼった。昭和60年に稲川は総裁となり、二代目会長を石井に決めた。その他、会長代行に趙、理事長に長谷川春治、副理事長兼本部長に稲川裕紘という人事になった。

  ②、壮大な継承式

   ・昭和61年、熱海の稲川会本家で、石井の二代目会長承継式が挙行された。この承継式には、日本全国からヤクザ界を代表する親分衆が出席をした。

 (9)、会長職を稲川裕紘に譲る

  ①、脳梗塞で倒れる

   ・平成元年、石井は稲川会の幹部や関係者20人とともにメキシコへ旅行に出かけたときに、脳梗塞で倒れた。平成2年には慶應義塾大学病院で手術をし、無事成功したが、その足で稲川聖城に引退し、跡目は稲川裕紘に譲る旨を伝え同意を得た。

  ②、会長職を譲る

   ・平成2年10月10日、熱海の稲川本家大広間で、稲川会三代目継承式が執り行われ、理事長・稲川裕紘が三代目会長に就任した。石井は事業に専念し、小佐野賢治のような事業家を目指した。

 (10)、最期

  ①、事業の破綻

   ・石井は東急電鉄株の大暴落によって、資金繰りが悪化していった。平成3年には、東京佐川急便の渡辺広康や、川崎定徳の佐藤茂と会い、自らの事業の破綻を前提とした事後処理を話し合った。

  ②、証券スキャンダル

   ・石井の東急電鉄株買い占めに野村・日興両証券の子会社から巨額の融資がなされていたことが発覚し、ここから証券スキャンダルに発展していった。野村・日興両証券は非難を浴び、さらには四大証券と準大手、中堅など各社が大口顧客に損失填補を行い、さらには野村證券の東急株の株価操作も明らかとなった。これによって、野村・日興両証券会社の社長は引責辞任をし、証券界のドンと言われた野村證券元会長田淵節也と日興証券元社長岩崎琢弥の国会での証人喚問にまで至った。

  ③、最期

   ・証券スキャンダルの真っただ中、平成3年4月に石井は再び慶應義塾大学病院へ入院し、9月3日に亡くなった。享年67歳。



2、経済ヤクザ・石井隆匡

 (1)、東京佐川急便社長・渡辺広康との出会い

  ①、出会い

   ・石井は、昭和59年に出所してから4ヶ月後の昭和60年、出所祝いの祝儀金などを資金にして、不動産会社「北祥産業」を設立し、本格的に事業に取り組みだした。この北祥産業の社長に据えたのが花庄伸政であり、この花庄から石井は、もともと北星会会長・岡村吾一の秘書をつとめていた矢車某を紹介された。石井はゴルフ場の経営と海外でのホテル経営をしたい旨を伝えると、矢車某が石井に紹介したのが東京佐川急便社長・渡辺広康であった。

  ②、皇民党事件

   ア)、中曽根の後継者争い

    ・昭和62年、自由民主党総裁であった中曽根康弘の後任をめぐって、安倍晋太郎、宮澤喜一、竹下登が争っていた。そんな中、稲本虎翁総裁率いる日本皇民党が「偉大な政治家竹下登先生の新総理擁立に立ちあがよう」と言ったほめ殺しの街宣を始めた。中曽根の「右翼一つ抑えられなくて総理総裁もないだろう」という発言によって、竹下サイドはなんとしても日本皇民党の街宣をやめさせなければならなくなった。

   イ)、金丸→渡辺→石井→三神

    ・副総理の金丸信は渡辺に日本皇民党の街宣をやめさせるように依頼し、稲本はもともと三代目山口組白神組の幹部から右翼活動家へ転身した者であったので、渡辺はこれを石井に依頼した。石井は古くからいい付き合いをしている四代目会津小鉄会四代目荒虎千本組組長・三神忠が、稲本とは20年来の付き合いであることから、三神に稲本のへの仲介を依頼した。

   ウ)、石井・稲本・三神会談

    ・三神を通して稲本と会った石井は、街宣をやめるように依頼した。その後も三神が粘り強く説得をし、稲本は、竹下が親の田中角栄を裏切り、しかも田中が病気で伏せっている時に、その財産を掠め取って経世会を作ったが許せないと主張し、竹下が反省の意を示すならば街宣をやめてもよいとした。

   エ)、竹下の謝罪

    ・竹下は、目白台の田中角栄邸へ謝罪に出向き、門前で待っていた田中の信頼が厚い参議院議員・長谷川信に「ご迷惑をおかけしました。明後日、総裁選に立候補します。なにとぞ田中先生によろしくお伝えください」と告げた。この姿はマスコミを通じて大きく報じられたが、これ以後日本皇民党の街宣はピタリと止まった。その後竹下は、中曽根から後継指名され、内閣総理大臣に就任した。

 (2)、バブル期の不動産事業

  ・石井は、渡辺本人やその知人のヤクザとのトラブルを解決したり、皇民党事件では渡辺の依頼により皇民党の街宣を辞めさせることに成功したりと、渡辺の信頼を勝ち取っていった。他方渡辺も、石井に佐川急便の集荷場を建設するための用地買収の仲介を依頼したり、資金的なバックとなって4900億円もの債務保証をしたりと石井の事業を支援していった。さらに、バブル期の地価急騰もあって、石井は西新宿で手広く地上げをしたり、茨城の岩間カントリークラブを手始めにゴルフ場建設事業に着手したりと、昭和60年から昭和63年頃はやる事業みな当たっていった。不動産会社「北祥産業」は東京麹町に地上六階建て地下一階の北祥産業ビルを建てるまでとなり、北東開発、佳仙産業、ダイシンとつぎつぎと会社を設立し、一気に事業を拡大していった。

 (3)、投資事業

  ①、はじまり

   ・石井の投資事業への関りは、昭和52年に平和相互銀行創業者小宮山英蔵側近であり、海軍通信学校時代の石井の後輩であった不動産会社社長から、投資家集団・誠備グループの加藤暠(あきら)を紹介されてからであった。

  ②、東急電鉄株の買い占め

   ア)、株の買い占め

    ・平成元年4月、石井は仕立集団「光進」代表小谷光浩の指南で、野村・日興両証券を通じて、東急電鉄株を買い始めた。その資金として、川崎定徳社長佐藤茂名義で発行した岩間カントリークラブの「会員資格保証金預かり証」で、東京佐川急便80億、小谷の企業「ケーエスジー」70億、青木建設50億など、12社1個人から384億を集めつめ、さらには野村證券の子会社野村ファイナンスと、日興証券の子会社日興クレジットからそれぞれ160億円、202億円の融資を受けた。これらの巨額な資金によって、東急電鉄の発行済株式の約3%にあたる3170万株を買い占めた。

   イ)、売り抜けない石井

    ・東急電鉄株は同年11月には最高値をつけ、この段階で売り抜ければ石井は300億以上の利益を得ることが可能であった。しかし、石井は売らなかった。この後東急電鉄株は大暴落し、証券金融からは追加証拠金を求められ、北祥産業をはじめ石井系企業の資金繰りは悪化し、破綻していった。

3、人物像

 (1)、石井は「経済ヤクザ」なのか?

  ・石井をよく知る人は、「石井会長にとって、事業も株も同じ。儲けるとか儲からないということじゃない。勝つか負けるか、根底にあったものは勝ち負け。勝負の発想なんです。」として、石井は「経済ヤクザ」ではなく「根っからの博徒」であるとする。

 (2)、紳士として
  
  ・石井を知る人はみな、石井を紳士然とした実直な人物であったと評する。石井の口癖は「たとえ、合わないと思う人でも広い大きな心を持って人さまと接しなさい。何かあったとしても、相手を『許す』という気持ちがたいせつなんだ。つねに謙虚に何事も控えめに」だったという。

 (3)、信心深さ

  ①、神社仏閣への参拝

   ・石井はどんなに多忙であっても、毎月1日と15日には成田山や身代り不動尊など神社仏閣への参拝を欠かさなかった。

    cf.怒羅権の佐々木さんが石井氏の自宅を訪問されていますが、宗教的な施設が多いですね。


  ②、ポール牧の超能力療法

   ・石井は神秘体験や非科学的な事を信じるタイプであった。よって、病気や怪我を指先で触れるだけで治せるというポール牧の超能力療法を信じ、メキシコで倒れた時はポール牧を呼び寄せた。

 (4)、裏話

  ・懲役太郎さんが、東急電鉄株の買い占めや稲川裕紘三代目との関係について面白い裏話をされています。



4、映像

 (1)、修羅の花道

  ・原作の『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目会長石井隆匡の生涯』に忠実に描かれています。第一話は横須賀一家五代目継承までです。

    石田隆匡(モデルは石井隆匡) 奥田瑛二 青年期は本宮泰風

    宮友廣志(モデルは宮本廣志) 小沢仁志 青年期は倉見誠
   
    押塚儀八郎(モデルは石塚儀八郎) 片岡功

    稲村角二(モデルは稲川角二) 岡崎二朗
   
    田口辰夫(モデルは出口辰夫) 山口祥行

    井山喜人(モデルは井上喜人) 松田優

    稲村雄大(モデルは稲川裕紘) Koji

    森喜一郎(モデルは林喜一郎) 哀川翔

 <参考文献>

 『最強の経済ヤクザと呼ばれた男 稲川会二代目会長石井隆匡の生涯』(山平重樹、2014、幻冬舎)        
 『誰も書かなかったヤクザのタブー』(タケナカシゲル、鹿砦社、2018)