1、出生
・山本広は、大正14年(1925)に兵庫県淡路島で、出口千代吉の三男として生まれた。出口家は半漁半農で貧しかったので、二歳の時に姉の嫁ぎ先の山本家に養子に出された。山本家は経済的にも恵まれていたので、何不自由なく育ち、中学校卒業後は三菱電機の工員になった。ヤクザになる者は、たとえ就職をしても遅刻欠勤などトラブルを起こす場合が多いが、山本は勤務ぶりも真面目であったという。
2、戦争
・戦争がはじまると、山本も昭和17年(1942)に志願して徴兵検査を受け、呉の海兵団に入団し、南方戦線で戦った。
3、土建業白石組へ
(1)、土建業白石組へ
・復員した山本は淡路島に戻り漁や畑を手伝っていたが、知人の紹介で尼崎市にあった土建業白石組の若衆となった。白石組の白石幸吉は三代目山口組組長・田岡一雄と舎弟の関係であり、土建業を営む田岡の企業舎弟のような存在であった。山本は、ヤクザではなく土建業白石組の社員として、真面目に肉体労働に従事した。
(2)、上栄運輸の監査役へ
・昭和25年(1950)に朝鮮戦争が勃発した。兵站基地となった神戸港には特需物資が急増した。これに対応して、港湾荷役会社が次々と設立されたいった。白石も昭和27、28年頃に上栄運輸という会社を設立し、監査役に山本を抜擢した。山本は荒くれものが多い港湾労務者をよく束ね、能吏ぶりを発揮した。
4、ヤクザになる
(1)、渡世入り
・白石は事業家に専念することを望んだ。しかし、神戸港で港湾荷役の仕事を続けるためには、山口組との関係を断つわけにはいかなかった。よって、白石は山本を田岡の若衆に差し出し、能吏を欲していた田岡も山本を受け入れた。山本は、ヤクザしか行き場なくてヤクザになったタイプではなく、有能な企業の役員が白石組と三代目山口組をつなぐパイプ役として渡世入りした形になる。
(2)、山広組の結成
・白石の名代であり、また真面目な能吏タイプの山本は、異例のスピードで出世した。若衆となった翌年には若頭補佐となり、昭和34、5年頃には、田岡の許可を得て、山広組を結成した。資金的なバックは白石がついていたので、山広組は資金が豊富であり、組織はすぐに拡張していった。
5、山口組の最高幹部へ
(1)、地道行雄の重用
・当時の三代目山口組の若頭は、地道行雄であった。地道も、能吏タイプの山本を重用し、実務面では大いに地道を補佐した。また、山口組の全国進出においては、大阪戦争や夜桜銀次殺害事件でそれなりの功績もあげ、明友会事件の時は懲役2年の実刑判決も受けている。
(2)、梶原清晴の重用
・警察の頂上作戦によって、地道は失脚をした。その後に若頭となったのが、梶原清晴であった。梶原時代においても山本は重用され続けた。
(3)、田岡の裁定によって若頭を逃す
・昭和46年(1971)に、梶原は事故死した。後任の若頭をだれにするのかについて、互選をすることになった。結果は、山本広4票、山本健一2票で山本広の勝ちであったが、田岡の裁定によって、山本健一が若頭となることになった。
6、田岡一雄と山本健一の死
(1)、田岡一雄の死
・昭和56年(1981)7月23日、田岡は、関西労災病院で死亡した。享年68歳。
(2)、集団指導体制
・田岡の死後、四代目組長は若頭であった山本健一が予定されていた。しかし、山本健一は大阪刑務所に収監中であったことから、山口組は、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝橋正夫、益田芳夫、加茂田重政の8人の若頭補佐の合議によって運営されていた。
(3)、山本健一の死
・昭和57年(1982)2月、山本健一は持病の肝硬変を悪化させて、刑の執行停止を受けて民間病院に身柄が移され後に急死した。四代目に内定していた山本健一が田岡の後を追って急逝したことから、山口組内はにわかに混乱をした。
(4)、山本広派vs竹中正久派
①、山本広組長代行-竹中正久若頭体制
・昭和57年(1982)6月、暫定的措置として山本広が組長代行、竹中正久が若頭となった。
②、山本広「四代目組長」成立
・この頃、兵庫県警が田岡の未亡人フミ子を「三代目姐」として、山口組の影の組長とした。これに対して、フミ子が暴力団視されたのは、四代目組長が長く決まらないからだとして、田岡の舎弟達が山本広にはやく組長となることを説得した。山本広もこれに応じて、昭和57年(1982)9月に選挙を行うことまで決定した。
③、竹中正久派の反発
・山本広の四代目組長就任が決定的になるにつれて、当時神戸地検に勾留中であった竹中正久の留守を狙って選挙を強行するものであるとして、竹中正久派が猛反発をした。こうして、山本広「四代目組長」を選出するための選挙は流れてしまった。
7、四代目山口組と成立と一和会の設立
(1)、四代目山口組の成立
・昭和59年(1984)6月5日、田岡一雄の未亡人フミ子は、定例幹部会で、田岡は四代目組長・山本健一ー若頭・竹中正久を考えていたので、山本健一が亡くなった以上は竹中正久が組長になるべきであるとして、竹中正久を四代目組長に指名した。竹中正久はすぐに就任を承諾する挨拶をした。昭和59年(1984)7月10日、徳島県鳴門のホテルで、竹中正久の襲名式が行われた。
(2)、一和会の設立
・昭和57年(1984)6月5日、竹中四代目が決定したのと同時に、山本広派は松美会事務所に集まって「竹中正久若頭の四代目就任反対」を決議した。その後、山本広、小田秀臣、加茂田重政、溝橋正夫、佐々木道雄、松本勝美が連なって、在阪のマスコミ各社を呼び記者会見を開いた。昭和57年(1984)6月13日、山本広派は山口組の名も代紋も捨て去って山口組を脱退した。そして、従前通り親子盃や兄弟盃を飲み分けて擬制血縁組織を形成した竹中四代目に対して、各組長が同志的に平等に付き合う定例的な会合を持つ組織、同様の実力者による連合組織として、山本を会長に据えて「一和会」を結成した。
8、山一抗争
(1)、山一抗争の勃発
・四代目山口組と一和会は、山一抗争に突入した。
(2)、竹中正久射殺事件
①、意義
・昭和60年(1985)1月26日、竹中は、愛人が住むマンションで、ボディーガードをしていた若頭の中山勝正と若衆の南力とともに、一和会山広組のヒットマンの銃撃をうけ、翌日の1月27日に亡くなった。四代目を襲名してからわずか半年と16日後であった。享年51歳。
②、一和会側の対応
ア)、行方をくらませた山本広
・四代目山口組はすぐに、「今年の事始めは信賞必罰を旨とする」として、一和会への報復に動いた。しかし、敵の大将を討ったにもかかわらず山本は、昭和60年(1985)4月14日の一和会定例会に顔を見せるまで、約80日間一部の幹部にのみ電話番号を教えて連絡を取るのみで、行方をくらませた。
イ)、見捨てられた後藤栄治
・竹中正久襲撃の指揮を執ったのは一和会山広組同心会会長・長野修一であったが、長野に指示をしたのが山広組若頭・後藤栄治であった。指名手配を受け、さらに山口組からも追われる身となった後藤は、山本広にも、二代目山広組会長・東健二にも連絡がつかず、一和会総本部に電話をしても相手にされず、一和会の最高幹部に連絡をしても面倒見切れないと断られてしまい、さらには、後藤組若頭・吉田清澄を四代目山口組弘道会の組員に拉致され追い込まれた。結局後藤は、警察に後藤組の解散届を出し、山口組総本部には詫び状を郵送して、後藤組を解散し自らも含めた後藤組組員全員がカタギとなる旨を伝えた。山本は、戦果をあげた子分達を見捨てる形となってしまった。
(3)、終結
・その後の四代目山口組の猛攻によって劣勢に立たされた一和会は、昭和63年(1988)10月の段階で、山本広、副幹事長・東健ニ、常任幹事・村上幸ニなど30人から50人ほどまでに組員数が落ち込んだ(警察発表では200人であった)。平成元年(1989)3月30日、山本は稲川会本部長・稲川裕紘ら稲川会の幹部達付き添いのもとで山口組本家を訪ね、中西一男や渡辺芳則など山口組執行部に対して竹中らを殺害したことを謝罪し、自らの引退と一和会の解散を伝えた。これで約4年、双方で死者25人、重軽傷者66人、逮捕者は400人を超えた山一抗争が終結となった。
9、晩年
(1)、居所不明
・山一抗争終結後の山本は、居所不明であった。神戸市の自宅に住んでいたとも、神戸を離れて京都周辺にいたとも、山梨県の日蓮宗総本山久遠寺で作務衣姿で庭掃除をしていたとも言われる。また一説によると、竹中組の追手から逃れるため、山口組から5000万円をもらい、山口組や稲川会の支援をうけて各地を転々としていたともいう。
(2)、逝去
・山本は、引退間もない頃から病魔に侵されていた。そして、平成5年(1993)8月27日、神戸市内の病院で亡くなった。享年68歳。最期は「懲役から帰ってくる者たちのことが心配や。誰がどのように出迎えてやるのか、そのことだけが気がかりや」と何度も繰り返していたという。
(3)、葬儀
・山本の遺言で、葬儀は質素に行われた。通夜には元一和会関係者20人ほどが集まったが、葬儀の参列者は親族や知人など78人で、元一和会幹部や山口組関係者の姿はなかった。
10、山本広評
(1)、四代目山口組舎弟『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)
「山広は策を弄しすぎる。ヤクザ社会のトラブルを、前々から金銭で解決しようとする傾きがあった。ま、その方が無難な途ではあるけど、四代目としてはどうかな。こういう山広を四代目にしようと担いだ連中は、山広が組長になれば自分たちが便利だからで、トップとしての評価からじゃない。その点、竹中さんには先代の田岡親分と似てるところがあった。田岡親分も若いころ博奕がすきだったけど、竹中さんも博奕一本にかけていた。妙な事件には手を出さなかった。物ごとの処理、解決にあたっても、田岡親分と考えが似ている。結論が早い。ズボラに見えて神経が細かい。人情に篤く組員の面倒見がいい。ひまがあれば、偉い親分にもかかわらず、服役中の若い衆に面会にいく。なかなかできないまねだ。口でいうのは簡単だが。」
(2)、懲役太郎
・懲役太郎さんの山本広評も面白いです。簡単に言えば、現在では山広さんのようなヤクザの方が活躍しているし、時代が早すぎたということです。
(3)、鈴木智彦(『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019))
・懲役太郎さんの山本広評も面白いです。簡単に言えば、現在では山広さんのようなヤクザの方が活躍しているし、時代が早すぎたということです。
(3)、鈴木智彦(『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019))
・鈴木氏の山本広評も懲役太郎さんと同じで、平時の能吏であるが乱世の大将タイプではなかった、山口組のリーダーになるには時代が早すぎた、というものです。「もしいまのような平和共存路線のなかで組織のトップになっていたら、山広は稀有な親分と呼ばれていたかもしれなかった。他組織と密接に付き合い、良好な関係のなかで組織を維持していったはずだ。共同体のリーダーが内部評価によって公平感と安住感を乱さないというなら山広は誰よりもその資質を持っている。こういった状況では意思決定の迅速さや命令の徹底など強さの要素はなにもいらない。平時なら山広ですべてうまくいった。山広に親分の器がないというなら、彼より遥かにひどい親分はたくさんいる。かえすがえすも山広は、時流と自分の才能を読み間違えたとしか言えない。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。必要以上に山広を非難するのはあまりにも不当なのだ」。
(4)、山之内幸夫
・山之内氏は、竹中正久襲撃事件に若頭、そして四代目組長になる機会を二回も反故にされた山広さんの「ヤクザ山本広」としての意地を指摘します。よくヤクザに穏健派はいないといわれますが、ヤクザとしては穏健派であっても、一般人と比較すればヤクザはみな武闘派です。
<参考文献>
『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019)
『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)
『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
『ヤクザの死に様』(山平重樹、幻冬舎、2006)
(4)、山之内幸夫
・山之内氏は、竹中正久襲撃事件に若頭、そして四代目組長になる機会を二回も反故にされた山広さんの「ヤクザ山本広」としての意地を指摘します。よくヤクザに穏健派はいないといわれますが、ヤクザとしては穏健派であっても、一般人と比較すればヤクザはみな武闘派です。
<参考文献>
『昭和のヤバいヤクザ』(鈴木智彦、講談社、2019)
『撃滅 山口組VS一和会』(溝口敦、講談社、2000)
『ドキュメント五代目山口組』(溝口敦、講談社、2002)
『ヤクザの死に様』(山平重樹、幻冬舎、2006)